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11/30

 She is an Angel(no!)  She is a Devil
 AH AH あなたにとっては
 甘い罠をかけるひと (愛はブーメラン)

■「ごはんとかできます」
 うっ……うおおおおお超萌えー!
 写真とろうとしたら恐くて目エつぶりやがんのよ。たまらんね。
 「ぴたテン」2巻買った。ああ、男って紫亜さんみたいなの好きよね。イカニモって感じ。
 世間知らずの未亡人(病弱)ですかあなたは。年上のひとではあるし。エプロンが。正確にはエプロン付ける動作って来るものが。萌え。

 コタロー君は美紗さん以外の女と仲良くしちゃだめえ。胸が痛む。

11/29

 今日はブックオフでおかいものをしました。買ったもの。

 THE END OF EVANGELIONサントラ
 中原中也詩集(角川文庫)
 高村光太郎詩集(岩波文庫)
 パンセ(新潮文庫)
 共同幻想論(角川文庫)
 ブレンターノ「天才と悪」(岩波文庫)  残酷な天使のように(JUNE編集部)

 そして、
■「ぴたテン」1巻
 読んじゃったっス。てひひひー。意外と胸あるんっスね。どこ見てますか。ぱんちゅ。<義務的な反応
 今までなんとなく手を出してなかったのだが、15ページくらい立ち読みしてたら耐えられなくなって。
 コマ割りのタイミングがツボにはまってる。気がついたらフッと間合いに入られてヤバめの一撃が入れられてる感じ?

 あと今日の買い物ではないけど、 ■まいんどりーむ
 ぼくが行ってしまって君は大丈夫なの。夢の中の少女にそう訊く。あんたみたいな弱虫はまたすぐに夢の中に逃げ帰ってくるに決まってる、だから平気。現実でいっぱい嫌な目にあってさっさとここに逃げてきなさい。そんな風に彼女は送り出してくれる。それだけで泣けるし充分であったりする。
 記憶に頼って書いてるので言い回しとか違うと思うけど。

11/20

■HAPPY WORLD!/ちょびっツ
 「体壊したら元も子もないのよ」「体なんかいらない。あたしは誇りがほしい」
 かっこいいなあ日下部さん。

 HAPPY WORLD! ってのはまあ「カケル」の反動であるにしろ竹下堅次郎先生のやりたいことが出てる気がする。これはつまり、あのへんの欲望というか願望(個人的には後者の方が業が深いと思うがどうか)がカラダでわかってる、ということですが。あと俺は「世紀末心中」とかいうわりと絶望的にダメな短編が好きなのですがどうでもいいですか。

 こういうとき比較として考えているのはCLAMPだったりしますが。いや狙われるのは嫌いじゃないけど「そこはわかってない」と言いたくなるときあるでしょ。ちょびっツ。いや、ちぃは悪くないんだけど。
 で先週まではわりと義務のように反応してたんですが。なんか今週は来ました。カミブクロ。店長さんからもらったカミブクロ。

 自分が言ってることわかってないよなこいつ。というか「自分が言っていることを理解する」とか「思った/考えたことを話す」という発想あんのか。自分が何かを言っている、ということさえもしかしたらわかってないかもしれない。
 まあ僕自身にしろ、自分が何言ってるのかなんて知ったこっちゃねえんですが。およそ人はたまたま喋って/書いてしまっているだけであり、しゃべった後でそれを自ら聞いてのち、「意味」や「意図」に回収するのだから。「思ったことを言う」「考えたことを書く」という行為はそもそも存在しない。それは事後的な仮構にすぎない。とかなんとか。
 ただ語るという行為には人の精神を平衡状態に導く作用がある(河合隼雄「ユング心理学入門」の最初のへんにそんな話が)。語っている内容はそれと関係がない。内容は何ももたらさない。そもそも何でもいいのだ。聞くという行為もまた。

 わかりやすく言うと、ちぃは何しゃべってもかわいいです。

 CLAMPについてはMK2さんの日記20000410は必読。

 無垢というのは、自分が何かを言ったりしたりしているということそのものを、ひいては自分が存在しているということを知らない、ということに尽きる。そこから先は罪。なんつってな。
 これから大変だろうが、頑張れ。

11/18

■顔のない月(体験版)
 コンプティーク買ったので。とりあえず開始3行で吐きそうに。ひどい文だ。日本語になってねえ。ああ、そんなにユカイな表現を連発するんじゃない。笑い死にしそうだ。久遠の絆に匹敵しよう。「当の本人よ……」うわああああ。
 どこかで「D」と同じ人って聞いた気がするが。ここで「本当に日本人なのでしょうか」って書かれてた。僕は久遠の絆やって本当に日本人かと疑ったことがあります。

 館山緑なんて人もいましたねえ。

 だが始末に終えないことに面白いんでやがんの。なんか悔しい。途中でやめられない。眼鏡のメイドさん(胸)がかわいくでどうしましょうとか。憎まれ口たたくあの子がかわいくてどうしましょうとか。で男の子がいちばんかわいいのな。

 しかし重い。しばらくプレイしてると切り替わるのに1分以上かかるようになる。メッセージが。

11/17

■化石の歌
 セーリーユーーーーーッ!!!
 やはりセリユでしょう、人として。ここに座って、話をしないか。ホントの自分とか真の記憶とか壮大な世界の真相とやらは今は忘れて。YE NOT GUILTY.

 お話は誉められた出来なのですが(変な日本語だな)なんか俺の嫌いな発想が目白押しで困った。「夢の内部=嘘」、「外部の現実=真」って図式とか。虚偽の記憶/真の過去という区別が厳然として存在することとか。そして断片はただ全体に奉仕するために存在するのみだ。内部と外部の標識は見出され、すべては有機的かつ連続的かつ全体的に整序される。
 勝手に謎解きを期待し勝手に失望し作品の評価を下げてみたりする連中にはこういうのもいいかもしれないが。
 いちいち「矯烙の館」のセリフが頭に浮かんで困った。「それを本当の記憶だと信じるべき理由はない」「この真相もまた根も葉もないデタラメかもしれない(今までと同じように)」云々。

 「外の世界」へ出る話としては劇場版ウテナがあるが、こちらは外に出るための動機は夢の内部においてすでに存在し、「外の世界」はなにより内部における不全感によって要請されるわけです。どこか外部に「真」を想定しそれに基いて今いる場所を「虚偽」と判定するのではなく、なによりもまずここから脱け出したいのでなければならない。動機は今いる場所に求められる。ようするに姫宮を連れ出したい。
 「フロレアール」のジャン・ロタールは、「外部」とはただ自意識の所産にすぎないといった。彼はここではないどこか(外部)に「真」が存在するという考えを斥けた。必要なのは夢から覚めることではなく、この夢を先ず引き受けることにほかならぬ。かかる視点からはシオングローブの存在や「真の過去」こそがミハイルシステムの内部の夢ないし妄想にほかならないだろう。

 化石についちゃあ、主人公が「真」を認識しただけで「外」に出ちまったりするのがとにかく気に入らない。いかなる真理もそれを支える情熱を必要としよう。約束云々ではどうも弱い。シオンの側の動機は充分なので作品としての欠点とは思わない。シオンいいやつだし。

 目の前(内部)のなにものかがたえがたく許しがたいと感じられるときにだけ、外部の「真」が要請される。何か「真」を知っていることに基いて目の前のものを「偽」と判定するのではなく、「偽」を意識したときに、そうではないありかたとして「真」が召喚される。「外の世界へ!」と、外を見たこともないにもかかわらず言いうるとすれば、そう考えるほかない。

 あーそれと男女の性愛の特権視とか種の保存とかそのへんも。なんか知らんが嫌いだ。

 今日のリンクはこれこれ。いちいち持ち出すかね。あ、永井均の「性現象論」書評が消されてる。

 どうも頭の中で組み立てただけな感じだし。手が見えすぎる。結局それが大きいかな。上のはどうも作品が前提している常識への苛立ちだし。

11/13

 われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが「石版をもってこい!」という命令をたびたび下すのを聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言葉では何か「建材」といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない……。(ウィトゲンシュタイン「哲学探求」藤本隆志訳)
 ちぃ。
 たとえば指差して名前を教えるという方法がある。がテキはその語(名前)を、なにか「指差す」という動作に相当するらしい、と理解するかもしれない。あるいは「指差す」という行為に付随すべき単なる音声の一種(鳴き声とか、礼儀とか)として。「理解する」といった内的過程が存在するかというと疑わしい。おそらく、盲目的な模倣と修正を行っているだけであろう。ともあれある特定の対象には特定の音声系列が対応する、ということは学習しえたらしい。かつて世界はすべて「ちぃ」というただ一つの分節しか許されなかったが、いまや覚えた音声系列の数だけ世界は分節化している。もちろんここで、「意識」という項は世界の分節=認識にいささかも関与する必要はない。そんなものはなくてもすべては可能だ。
 言葉を覚え出したりするとちょっと淋しい気がするのですが。あのままでよかったのに。

■因果
 といえば覚悟のススメ。ようするにカウンター。自分のしたことが倍(どころではない)威力でかえってくる。そんな結果を招くことは予測不能であり、不当に重いのである。これはほとんどスタイナーの「悲劇」の定義だ。「神々と人間の貸借勘定は、合わないものなのだ」(スタイナー「悲劇の死」)。

 やる前よりやった後の方がよくわかる。とすれば人間は、永遠に不十分な認識のまま行動せざるをえない。単純な引き算だ。認識は必ず遅れる。「遅れ」こそが認識をもたらす。「わかったときは、いつも遅すぎる」(ジャイアントロボTHE ANIMATION)。こいつは「わかる」ということの定義にふくまれると俺は思う。福田恆存がそんなこと書いてた気がするんだよもん。「遅れ」は柄谷行人を適当にめくってたら出てきた。

 日本において「因果」といえば「前世」であり自分たちの手が届かないところでの決定である。そうなってはじめて「そのような前世の因縁でもあったのだろうか」と口にされる。もう手遅れでどうしようもない。あるいはどうにかするとかいう発想がない。
 人間の感情は度を越すと現実の環境の側から説明しづらくなるので、この世の外の原因を持ち出すわけだ。現代では「前世」のかわりに「性格」という言葉を使うのが流行りだが、事情はさして変わらない。宿命と呼ぼうが性格と呼ぼうが同じことだ、と小林秀雄もいっている(違ったかもしれない)。

 「親の因果が子に報い」という用法には、「なぜこの子がこんな目に」という不当の意識と諦観のないまぜな嘆きがかんじられる。日常的には「因果」とはむしろ「不条理」のことだといっていいかもしれない。ものごとには原因があるとしても、ある結果には任意の原因が可能であり、ある原因からは任意の結果が生じうるという前提に立つ。ここにはたとえば法則性(の認識可能性)の立ち入る余地はない。それは不可知であり、手の届かぬものなのだ。

 因果は「ある」・世界には客観的な因果関係が存在する。だが人間には(遅れてしか)認識できず、納得もできない。つまるところ、因果律というアイデアそのものは残しておいてやるが、実践的には認めない(知ったこっちゃない)態度。

 麻枝准は日本的といえばそうですね。

 日本における悲劇(というかギリシア悲劇とシェイクスピア)の受容においては、源氏とか近松とかそのへんのまあ日本的な心性というか土壌みたいなものも考えておかなくてはならないので、たとえば僕が10/26みたいなことを書いた場合、「日本的な受容」という回路に触れずに済ませてるのはほんとうは反則。ソフォクレスもシェイクスピアもお涙頂戴劇のように読んでしまう僕にあんなことを書く資格はないので。言っても詮無いことですけど。「悲劇」なんてたぶんわかっていない。
 西欧における因果性をめぐる議論には手を出すとひどいめにあいそうな気が。

 いつものように を見たくらい。基本的な議論としてはこれ。「一般人はあまり深入りする必要はないと思う。」

■自由意志
">ホッブズでしたか。出直して来るべきか自分。

11/11

 ONEを「日常」や「絆」の大切さを謳いあげた作品として読んでしまう人々を目にするにつけ、ずうっと違和感が消えなかった。これはAIRでも事情は似たり寄ったりな面はあるが。
 と書いた。この文は誤解を招いていると思う。AIRの場合は「日常」ではなくたとえば「家族」という項をめぐって「事情が同じ」なのである。というのはAIRは日常の大切さを謳った作品とはあまり読まれておらぬから、そういう言及を行う気は起きないので。ある種の人はたしかにそれを求めざるを得ない、だがそれは単に人間の精神を強いる不可避の現実であるというだけの話で、そうせざるをえないとかそうしてしまうとかいった以上の意味はない。それが素晴らしいなんてことは必ずしも読み取る必要はなかろう。読み取ってもいいけど。

 遠野さんとみちるの駅前は、僕には「楽園」という言葉がしっくりくる。駅前楽園同好会。あまり「日常」という気はしない。

11/10

 「きっと三三九度の頃には寝てるんだよ。」という情景を思い浮かべて一日中ニヤついてました。不気味に。おかげでバイト中ずっと楽だったっス。感謝。

11/9

■和やかな眼
 ああ、いいですねえそれ。何も見てない眼でみつめて。瑠璃子さんとか。瞳孔同好会ってまだあんのかね。

 何も見ていない眼というがむろんモノは見えているわけです(たいていは)。瑠璃子さんにしろセリオにしろ。では正確には何を「見ていない」のか? 俺を見ていないわけではない(だって見ててくれるんだもの)、見ていないのは俺の、性格だとか心理だとか人格だとか、そうしたものだろう。もちろん僕も他人のそうしたものに興味はない。

11/8

 ぼくは成長しましたよ。もはや誰もぼくがここに「いる」ことを止めることはできないのです。(究極超人あ〜る)

■引用日記 AIR話なので注意

エロゲーを求める層のなかに、潜在的に「ONE」や「Kanon」のような、人間との断絶とか、それからの帰還とかそういうテーマに反応する層がいた。あれらの作品に極端に「恋愛」の要素が薄いというのは、たぶんあちこちで言われてることなんでしょうけど、というのも、あの2作品で見れるのは恋愛以前の人間との断絶なんであって、いってみれば「人間を人間と認識するのになにが必要なのか」っていう絶望的な問いかけだったような気がするんですよ。(MK2さん、AIR掲示板での発言)

 MK2さんのは日記10/7も参照。

この自分勝手に環を巡る人間たちの間に、どんな愛情があったというのだろう。往人は勝手に出ていって、勝手に戻ってきて、勝手に烏になった。観鈴は自分の決めたゴールに消えていった。「もう一度だけがんばろうと決めたこの夏やすみ」の中へ。晴子は観鈴を置いて出ていったし、自分勝手に母であることを確認した。いや、そもそも、自分勝手である以外にどうやって確認するというのか。(夏町銅貨さん"farewell")

 下はうちの掲示板より。

例えば、僕はONEが好きで長森が好きでみさき先輩が嫌いなわけなんですけど、 この「ONEが好き」と「長森が好き」と「みさき先輩が嫌い」ってのは、 結局同じこと言ってるだけかもしれない。 いや、もしかしたら、 「ONEが好き」っていうのと「ONEが嫌い」っていうのも同じこと 言ってるだけかもしれない。

多分、好き/嫌いっていうのはその程度のものでしょう。 酒席の馬鹿話程度。況や、社会性の獲得なんてとてもとても。 (それがあたかも「何かある」ように見せてしまうのが凄く嫌なんですが)

もう自分でも好きだか嫌いだかわかんなくなっちゃって、 語る言葉なんかぜーんぶ対象に吸収されちまって、 それでも何か言わなきゃならない、言いたいことがある、ってんで 書いてみても自分でも訳わかんないところ通過してるから 支離滅裂でムチャクチャで何言いたいんだかわかんなくって、 そういう次元まで降りて、初めて言葉って社会性を獲得できる (可能性を得られる)のではないでしょうか。

それ以外の言葉なんて、ただの無駄だ。インチキだ。


 僕としては何も付け加えることがない。そんな一日。

11/7

 そして、忸怩たるループ。(矯烙の館)

■昨日の件
 昨年の日記の9/119/410/8にリンクはっときます。補足になってるかどうかわかりませんが。
 すべて読むに耐えないが、これ以上マシに書ける気もしない。もちろん上の日記は昨日とは文脈ちがうのでズレてる部分ありますよ。

 ひょっとして秋になるたび似たようなこと考えますか俺。

 ああ、ムリして読まなくてもいいんだってば。ま、止めないけど。


 主人公が前向きかどうか、じゃなくて、なぜ/いかにして/どのように前向きだったり後ろ向きだったりするのか、ということが重要なわけで。何が重要なのか知りませんが。

 僕は基本的に誰かが(つまりギャルゲーのヒロインが、ですが)無理して笑ってるのを見るは好きじゃないけど、時として、そうやって笑ってみせる意志を尊重したくなったりもする。あんまり好きじゃないのはかわらないし居心地がいいわけでもないけど、たまらなく愛しくなる。
 そんなときにはもう「無理して笑う」ということそれ自体に対しては、いいともわるいとも言えなくなってる。

 Kanonの栞シナリオの最後のへんに「女の子なんだから弱くていいんだ」みたいなセリフがあったかと思うけど、これは「女の子は弱くてしかるべき」という思想ではなく「君はもう安心して泣いていいんだ」ということでしょ?
 だから作家なり祐一なりの男女観を批判するのはちょっと違うんじゃないかとか。
 批判してかまわない場合もありますが。

 ケースバイケースって以上のことを言ってるわけでもないと思うんだけど。一般論めいた物言いしちまったことを後悔してる。わりと。

■肯定と否定
 価値判断による肯定/否定、感情判断による好き/嫌い、感覚的な親和/違和、理解/理解不能、共感/共感不能。これらの前者と後者は任意の組み合わせが可能です。「馴染みすぎて気持ち悪い」とか。「正しいが気に食わん」とかね。
 「わかる気がする」「わからないようでわかる」「理屈としてはわかるが納得いかない」「理解も肯定もできないが共感はできる」「理解できないが認めたいと思う」「ちっとも素晴らしいとは思えないのに感動してしまった」「泣けたけどなんか嫌」「この違和感がたまらなく好き」等々。「理解も共感も納得もできないし好きになれない」ってのは例外的な事態とさえいえる。
 またこれらは必ずしも二項へと収斂するものではなく、たとえば「好き」と「嫌い」のあいだには広大な土地がひろがっています。「自分の気持ちがわからない」とか。たいていは「好き」に落ち着くけど。
 どうしようもなく牽引されるけど吐くほど嫌いとか。ものすごく好きな気もすれば、何だかどうでもいいような気もするとか。
 自分の中の或る感覚について、それを「好き」と呼ぼうが「嫌い」と呼ぼうが、どうでもかわりはない気がするとか。

 いきなりですが平山さんには「いちょうの舞う頃」感想の「これは欠点には違いないのですが、納得できる変な欠点です」で惚れた気がする。

 理想(ロマン)主義と現実主義のあいだには、「わかっているけど、ついあこがれてしまう」という状態もある。
 あえて述べるなら、人間がきちんと現実見れないってのはすでにしてひとつの確固たる「現実」であり「現実を見ろ」ってのは、理屈としてはそうすべきだとしてもだれにもできない「不可能な理想」なわけですが。現実見ましょう。

「うん、闘争だね」「そうそう。組織組織」

 カン違いしてるかにゃー俺。

■自由意思
 自分自身の全感覚全思考に対し(それこそ「心」に対して)それでも否といえるのが意識の特権であったりもするので。サルトル。絶対的自由。人間は「存在」ではなく「無」である、と言い切ったのはかっこいいですな。読んでねえけど。

 サルトルかスピノザかってのはその日の虫の居所に尽きる。というと再びスピノザに戻るわけですが。

 永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』あたりに「自由/不自由」という言葉ではどうがんばっても結局「思い通りにいく/いかない」ということしか意味することはできず、いわゆる自由意思に関する議論は意味を欠いた記号の羅列にすぎないとか、まあそんな分析哲学だか論理実証主義みたいなことが書いてあってね。書いてあったような気がします。
 ずいぶんと意味内容を書いたでたらめな記号の羅列に見えているんだろうな、という気はするよ。昨日の話とか。
 わかっていることとわかっていないことは同じことなんだけどね。

11/6


 今日はこれへの反応気味に。
 僕としては、のりぽんさんの言ってることには一言も反論はないのですが。むしろ同意。
 たぶん僕の書き方がわかりにくいせい。なんか無駄にややこしい問題つくってる気がするし。

 僕はそもそも日常とかそれ自体の価値を問わない、というのがあって。僕にとって重要なのは、それが大切に「思える」「感じられる」というオモイないし事態であって、日常なら日常それ自体が(客観的に)「大切である」か否か、ではありません。知ったことではない。大事なのは「大切さ」ではなく「大切に思うこと」です。例えるなら、ここにあなたがいないのがさびしいのじゃなくて、ここにあなたがいないと思うことがさびしい、という区別。
 日常が大切だとか大切じゃないとか、そういう議論にそもそも違和感があるわけで。

 いいたいことは以上です。

■定義
 僕なりにギャルゲーを定義するなら「欲望の王国」だ。ただ女の子に名前を呼んでもらいたいがために「呼びかけ君」というシロモノが登場してしまう、そのくらい欲望に忠実なメディアである。
 ギャルゲーに特有の可能性があるとすればそこだ。規範も道徳も倫理も美意識も誇りも強さも可能性を制限するという意味で悪である。もちろん「感動系」や「癒し」が何らかの「規範」になってしまうのにも僕は不快だ。

あほか
 ってニュアンスはやっぱ伝わりにくいのかなあ。いや俺が書いたわけじゃないけど。なんというか愛しさとか悲しさとか切なさとかやるせなさで泣きながら顔ぐしゃぐしゃにしつつ言ってる感じで。僕の場合。読みながら泣いてたし。
 もちろん僕にも、いきなりそんなことを言える才能はありません。書いた本人もそう言うかも(なれなれしい)。

■日常とか
 まあ、変身ヒーロー物においてすでに守られるべき正義は「ふつうの日常」であり、そのために悪役が必要だったわけで。そんな問題機制にONEが投げ入れられるのがまあ嫌だったってのがホンネなんですが。あと、どうもそういう問題として語るとなんか語り切れないモヤモヤが残る。
 はっきりいって自分がかわいいので、既にある図式に自分の感動をやすやすと売り渡す気になれない。

 実のところ、リアルなのは「日常はべつに大切でもなんでもない」ではなく「日常は大切だ」の方なのです。後者はじっさいに実感され、体験されますが、前者はたかだか小賢しい「反省」によって間接的に見出されるにすぎません。言い過ぎですか。

 人間には何かを思ったり思わなかったりする自由はありません。たとえ傍から見て「勝手な思い込み」であっても、当人は決して「勝手に」何かを思い込んだり思い込まなかったりすることができたわけではありません。フィクションが何か真理を直接に「語る」のではなく、ただ「描く」ものであるなら、勝手な思い込みにみえるものを力いっぱい描いていようが、欠点でもなきゃ批判されるべき点でもなく、単にリアルなだけです。フィクションが人間の「正しい姿」を直接に提出すべきだとは思わない。正しいものにしか感動してはいけない、などと言ってもなんつーかどうしようもないし。

 作品が描き出している「日常の大切さ」とは、あくまで「ある人(たち)にとって大切に感じられること」そして「受け手にとって眩しく感じられること」であって、「日常の価値」(の主張)などといった偉そうな代物ではありません。
 「絆だとか日常の幸せだとかで読んでしまうこと」がいけないわけじゃなくて。作品はただそれを切ないまでに「感じさせる」ものであって、何らかの価値を「主張」しているわけではない。フィクションとアジビラは違う、といいたいだけです。またちがった風に語られるべきです。どう読むかは勝手としても。
 実際のところは、大切な日常もあれば呪わしい日常もある、というだけのことですから。それぞれのひと(キャラ)の感じ方(文脈)から離れた「日常それ自体」についての一般論になっちまうのが、僕は厭なのです。というか、そんな議論がなんで成立するのかわからない。

 ぼくにとっては、人間の感じ方というのは、少なくともフィクションにおいては、肯定したり否定したりする対象ではないのです。あえて述べるなら全肯定ですが、心情を批判するのも、ことさらに「価値」として主張するのも、ともに違和感のある態度です。

 ぼくの現在のフィクション観は「好き好き大好き!」(13cm)に感動したことからはじまっています。みんな意識しといてください。常に。お願いだから。

 どうやっても正当化することも美化することもできない感情をそれでも肯定するために(ほんとうは、肯定とか否定とかいう言葉をつかわずに語るために)、というのが僕がここでこんなものを書いている、動機といえば動機です。少なくともそのひとつだと思う。

 もう一度書いておくか。恥ずかしいなあもう。

「感ずる心は、自然と、しのびぬところよりいづる物なれば、わが心ながら、わが心にもまかせぬ物にて、悪しく邪なる事にても、感ずる事ある也、是は悪しき事なれば、感ずまじとは思ひても、自然としのびぬ所より感ずる也」(本居宣長「紫文要領」)

 たとえば、他者の独立した人格を認めた上で対等の立場で愛しあう、というのが現代の「正しい」恋愛ですね。「依存」や「自己愛」や「ストーカー」は駄目。マルチはご主人様って言っちゃ駄目。ロボットには心がなきゃ駄目。でなきゃ「本当の愛じゃない」。それらはおしなべて「悪しく邪なる事」ですナ。しかしそういうものにも人は心を動かされる。現にそうなっちまうし。心の動きそれ自体には、いいとか悪いとか言ってもはじまらぬ。

 僕には「どうすべき」とか「どうあるべき」といった発想はありません。可能な限り、自らに禁じているつもりです。人間を苦しめるような「正しさ」なんてクソクラエです。もちろん人は同時に、いやおうなしに「真」「善」「美」を求めるように本性上強いられているのですけど。「すべき」と「したい」は分けようと思ったって分けられないんだけど。それはひとつの呪いでさえあると思う。

 ホンネをいえばね、自分の意志で何か「正しさ」を求めていると信じている人はただのばかものだ。正しさを求める行為に何か意義や価値が(つまり正しさが)あると僕は信じません。「正しいものは正しい」というトートロジー以上のものではありません。
 「世の中がこうなったら俺が嫌だ」っていうのはありますけど。少しは。多分。あと、苦しんでほしくない人ってあんま多くないや。よく考えると。

■ここにいてもいい
 あなたはどうしたってわたしには存在するとしかいえないし、認めるとか、認めないとか、そういうことじゃないとおもう。わたしはそんなこと、もう選べない。「いてほしい」とは思うけど、「いてもいい」とかそんな風には思わない。
 ギャルゲーヒロインの心情を僕なりに想像(というか願望)するとそんな感じ。「ここにいてもいい」とかそういう風にどうも言ってる気はしない。
 「「ここにいてもいい」って言ってくれてありがとう」なんて言ったら「わたしそんなに偉そうなこと言ってない」って否定されそうじゃないですか。長森とか。「よくわからないよ」ってぜってー言う。むしろイッテクレ。

 ONEに関しては、そもそも消えるの消えないのって話なんだから、そのまま受け取ればいいものを、なんで「いてもいい」っていう問題に読み替えられるかなあ、と思うんだけど。

11/5

■Good luck
 「化石の歌」中。人としてはやはりセリユ萌え〜なのだがそれはそれとしてカルムの「Good luck」(やわらかな声)にめろめろだったりする。

 今のところは、普通のかっこいいフィクションのような予感。普通ってのはつまり、断片は全体に奉仕するために存在し謎解きが当然のようになされるであろう、という意味で。
 普通じゃないものってのはたとえば「矯烙の館」みたいなやつのことです。断片が全体を志向せず断片のまま、ただ「虚空に溶け込み、忘れ去られてゆく」。あれはあれで美しいと思うのだが。世界には謎なんてない。見たままがすべてだ。解ったところで大したものがあるわけじゃないし、そう信じるべき理由はない。
 要するに謎解きには興味がないままやってるわけで。キャラというキャラがどいつもこいつも「実は……」って言い出しそうでちょっと困ってる。まあ萌える分にはどっちでもいいんだが。でもカルムの「正体」とかあったらいやだなあ。オープニング見ると何かありそうなんだけど。

 セリユ。言葉もしゃべれなければ感情もない、YESとNOしか反応できない人形。もちろんセーレスのヒソミにならいYESは「コクン」でNOは「ふるふる」だ。萌え殺す気か。ちなみにもともと名前はなくて、主人公が勝手に呼んでるだけ。きっと固有名は人格への第一歩とかそんな展開になるに違いない。ネーミングの由来は「真面目さん」とかそんなので、つまりセリオ。
 マリー。何されても絶対に拒否抵抗しない。ヒヒじじいにセクハラされても無表情。クレア=バートンをおかあさんっぽくしたような感じ。
 カルム。失われた技術によるすごいコンピュータ内のプログラム人格。というか人格様インターフェイス。時折えらく人間くさいのだが、それはたとえば天気予報が「過去の似たような天気図」をもとに行われるように、その膨大な記憶から「過去の似たような人間の表情とか言動」を検索し対応した反応をしているだけらしい。つまり紛うかたなきいいやつである。のだが主人公はゴフマン、じゃなかったご不満のようだ。わからぬ。
 ヴェールカ。イカニモな館の女主人。頽廃的な趣味で日を送りつつも誇りもあれば志もある、といった。
 アメリア。一見いぢわるだがおそらくはただのいいやつ。モップ掛けするときたまに「んしょ」って声をかけたり。

 ゲームの感触としては、「雑音領域」とかそのへんの正常進化型といった感じかのう。良くも悪くもオールドタイプ。

 鬼畜人タムー(シナリオ担当の一人)ってピュアメールでも見かけたなあ。というか螺旋回廊とピュアメに同じ人がかかわってるってのは何かできすぎだ。

11/4

■AIR
 佳乃シナリオ2周目終了。
 「自分の中にあるおはなしの世界に自覚的な人間のおはなしだった。」(夏町さん)とか「ああ、この人、だめな人だわー」(MK2さん)ってなフレーズに寄り添われながらやるとかなりいい感じなんですが、どうも決定的に反発しちまう部分がやはりあって。

 「肉親を失った者にかける言葉など存在しないのだ。」ってのが、だめなんです俺。肉親かそうでないかなんて関係ないだろ。
 「この子は、わたくしのいのちです」とか「わが子を殺す母が、どこにおりましょう」ってのはもう全力で「ケッ!」って感じで。あんた自分で殺そうとしといてなんやそれ、ってのもむろんあるけど。まあ白穂さん的には言っておかしくないセリフなんだけどそりゃ。個人的にダメなんです。
 なんてのかな、モードが違う。麻枝モードのアタマにはちとつらい。
 往人母の「「こんなわたしでも、家族だと思ってくれるなら…わたしはあなたを連れてゆくことができる」って態度とまるで正反対じゃないすか。郁未の母が特製クリームシチューを飽きるほど食べさせたりとか、そういう態度と正反対じゃないですか。もちろん晴子さんがそれを模倣するあまり痛々しいというか単にイタい状態に陥ってしまってるそんな場所に最初からいやがるじゃないですか。郁未さんがわざわざ宗教団体に潜入してえらい目にあってようやくたどりついたちっぽけな真理を最初から備えてる。当り前のようなツラして。実際当り前なんだけど。
 そういう話はお茶の間で見るTVドラマかなんかでやってろ。あとアリスソフトとか「痕」とかそのへんのでやってろ。こっちくんな。MK2さんの影響受け過ぎですか俺。

 そのくせ佳乃の母の「あなたには羽根はないから……」「辛くても空へは来られないから……」「そこで幸せに、おなりなさい」ってのはすごく好きだったりする。
 あと聖さんの……ひっじりさーん! うわああああーん! 説明不要か。

 誰か分析してください。

11/3

■匂い
 ああ、遠野さんはいいにおいしそうですねえ。

 風が観鈴の匂いを運んできたりとか、そういう描写はわりと来るものがあります。あとベッドの(略)

 Kanonのどっかに、すれちがったあと「ふわりと佐祐理さんのいい匂いが残る」なんてさらっと書かれているシーンがあって(久瀬と談判に行くとき)、えらく印象に残ってます。ふわりと。
 しかも「いい匂い」ときたもんだ。こいつあ参った。

 舞の匂いは常に洗濯物と石鹸のそれ。信じられないなら、匂い、嗅いでみる? うわあ。
 WAのはるかも石鹸系ですな。

 モノ考えたくねえとかそういうことなんですが。安心できるにおいに近づき危険なそれからは身を遠ざける。それだけでやっていけるならそうしたい。カラスみたいに。

 むろんそうしたいっつったってどうもならんわけだけど。望むと望まざるとにかかわらず、人はいろんなことを感じてしまったり考えてしまったりするわけですけれど。それをどうにかできるとは思いませんけど。

 椎名繭のシンプルさには憧れますね。匂いで浩平を同定しますよ、あいつは。

11/2

 ■少女革命ウテナ、竜が飛ばない日曜日
  自分が「現実」だと思っているものがほんとうに「外の世界」だと思う? 現実の社会システムに従っているあなたこそ、「決闘」して「薔薇の花嫁」というステイタスを争っているあの学園世界の内部に閉じ込められているのだ、と、そう考えたことはない? あなたが現実世界の諸価値だと信じているものが、もしかして「竜に食べられるのが名誉」みたいな発想じゃないかと、そう考えてみたことはない?
 フィクションが現実逃避だと言っているあなたは、人間の精神(といってわるければ性質)というもうひとつの現実から逃避して、現実(の価値観)とやらに閉じこもっているのだ。
 生きるための必要は単に必要というにすぎず、無前提に価値や意義であるわけではない。

 なんでこの程度のこと顔真っ赤にして言ってますかこの人。

11/1

 わたしやさしい。悪魔のようにやさしいってみんないってる。ゆきとくんとかゆきとくんとかゆきとくんとか。(終ノ空)

 やだなあボクはいつだって優しいですよ。普段は怠けてるだけで。それは優しくないっていうんじゃないのか。

 お里を見透かしてるってほどのことはないと思います。ユングにはかなり疎いし。河合隼雄に「おはなし おはなし」というエッセイ集があるのを知ったのがつい昨日。なんか物語とかそういうタイトルの本をいっぱい出してる人だなーという程度の認識はありましたが。

 というか、あってるのかねこれ。
 そんなわけで『カウンセリングを語る』読んだり。他人の故郷を探ろうなんて俗物根性だけど、もうやっちゃったんだ。どうする?
 フロイトの英訳に関する問題点から読み始めるあたりが僕のお里なんですが。多分。
 精神分析っぽいものって読まなくなって久しいけど。そろそろ触れてみるか?

 僕が夏町さんにシンパシイを感じるのは「望むと望まざるとにかかわらず」という部分。

お話がなければ「ひと息の呼吸もすることはできない」んじゃない。お話とは吐く息のように生まれざるを得ないものだから、それを止めることはすなわち死ということ。

あるいは、雫や楽や焔に「やり残した仕事」をすることも。時計のときに「いちいち大げさ」と評した焔は正しくて、いちいち内からもたらされる強制を意識しながらやり終えてゆかなくてはならないお話が幽にはたくさんある。

空想というのは幾らでも自分の好きなようにできるもんで、観鈴のように手を広げれば、飛んだつもりにもなれる。だけど、おはなしというのは制御不可能で、自分に都合の悪いものだって生まれてきて、消せない

おはなし、っていうのは失敗する方向によく働く。なんか死ぬほど大切なテストの前日に、旅に出たくてたまらなくなるとか。逃避というよりもむしろ狂い。それで旅に出てみたら得るものがあって、なんかそのまま上手く行ったりもする。行かなかったりもする。


 違う部分といえばやはり「お話」とか「物語」とかいった名辞にあまり感ずるところがない点か。
 あほか、ってのにはすごくシンパシイあるんですが。

 たしかにそれは夢とかロマンではなく目標でもなくするとかやるとかさしせまったものなんだけど、因果じゃなくて今この瞬間の自分と共に生成するものなんだけど、それを何と呼ぶかってのはミルクセーキには興味がない。
 つねに/すでにその中にいるがゆえにそれを呼吸せざるをえないし、避けることもできない。「それ」の空隙は、真空が周囲の大気を吸引するように瞬く間に手当たり次第の何者かで埋められる(笠井潔風)。荒ぶる何者かというよりは単なる無方向。
 「それ」は内側に生まれるものというより、どこともしれぬ外部からふいにとりつくもので僕にはあるらしい。まるで後ろから刺されるように。恋はいつも唐突だ。内だの外だのと述べ立てることに重要性は僕は感じませんが。

 上手く行ったりもする。行かなかったりもする。価値や目的論を語らない思考は僕には心地良い。もうひとつ気に入っているのはそのへんでして。

 以下、愚痴。

 ONEを「日常」や「絆」の大切さを謳いあげた作品として読んでしまう人々を目にするにつけ、ずうっと違和感が消えなかった。これはAIRでも事情は似たり寄ったりな面はあるが。あほか、ってのはなんていうか良すぎる。あまりに正しい。

 たとえば「絆」ってのは「軛」と意味はおなじだ。どうしようもなく縛り付けられる。それは求められるべきものではなくて、どうしようもなく求めてしまうものだ。また、望むと望まざるとにかかわらず気が付いたらあってしまうものだ。  日常の大切さを何かの価値としなければいけない理由はない。永遠の世界に行っていけないどんな理由もない。ただ、最初からいなかったことになるだけで、すべての問題は解消する。一年も他人を孤立した認識に追い込んでおくほどの価値が自分にあるわけじゃない。自分の価値を認めてもらえてるわけでもない。しいていえば自分が「いる」ことを(「いてもいい」ことではなく)認めてもらえてるのかもしれないけど、たぶん認めるだの認めないだのといった余地はすでに失われているはずだ。
 絆を求めてしまう自分はどうしようもなくて、望めば生まれるというものでもなく、望むと望まざるとにかかわらず絆は生まれてしまう。そうなってしまえばもう彼女は忘れることもできないし、浩平の帰還があるとすれば、「絆があれば帰って来れる」なんてのはもう重力があればものは落っこちるみたいなものだ。そこには力学だけがある。
 作品はただ描写するだけで何も主張しない(というか、形式上は何も主張できない)。作家がどんなに主張したくても「この人々はこのようでありました」という以上のことをお話は伝えはしない。「こうだ」とも「こうすべき」とも語っていない。ある人はそのように生きさまざまな人間関係の力学がはたらいた、というだけのことである。「こう生きた」が「こう生きよ」にすりかえられるのは偉人の伝記だけでたくさん。
 たとえば『猫の地球儀』は「夢は他人に迷惑をかけるものだ」と主張してるわけでもなく(強いられた認識として「語って」はいるけれど)、また「変でもいいじゃん」でもなく、いいも悪いもなく(よかったり悪かったりしながら)「そうあってしまう」という事態だけを描いているのだと思う。

 「日常の大切さ」を打ち出すという見地からは、何も永遠の世界なんか持ち出さなくても、いずれ終わるなんて自明のことを強調しなくてもそのままで楽しい日常(「いちょうの舞う頃」とか)の方が作品思想としては優れていると考える。ONEなんて、悪役がいなければ正義が主張できないといった勧善懲悪レベルの代物だ。
 ふたつほど留保が要る。ひとつには、日常と永遠を二項対立の敵対図式ととらえる限りは。もうひとつは人が「永遠の世界」みたいなものを心持ちひとつでつねに回避できるとすれば。
 結論からいえば、日常を日常のままにそれ自体として肯定できるほうがいい、なんてのは「プラス思考のすすめ」みたいなもんだ。そりゃ、そのほうがいいに決まってる。

 日常は大切なんじゃない。ただ、どうしようもなく大切に思えてしまうときがあるだけだ。そう思ってしまったときはすでに「永遠」に片足突っ込んでる。

 やっとたどりつけるのは、あほか、という程度の、そんなものでしかない。世の中、人の生き死にだぁ前世だぁ想い出だぁ自己存在の消滅だぁなんて持ち出さないと幸せ語れないと思ってる勘違いが多いからね。然り。日常を日常のままに幸せに生きられるなら、永遠の世界なんて持ち出す必要はない。だが「その程度のもの」に辿り着くために大騒ぎするのも人間の現実ではないか。
 幾原邦彦は「世界の果て」というのはたかだかありきたりの「現実」とかその程度のものなんだ、とどこかで言っていたように思う。「アドゥレッセンス黙示録」の「外の世界」もたぶんそんな程度のものだろう。革命だの黙示録だのなんて大仰なタイトルであるにもかかわらず。
 幽のやることがいちいち大げさなように。

 一方では、じきに世界が終わるとしても「でも、二人だから、なんとかなると思う」って言えたりもする。にせEDENの「終末」レビュー読んでたらまたやりたくなっちゃったよ。


先月分

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