忸怩たるループ 2002年12月
もどる


嘘によってしか伝わらない真実があることに、嘘をついてでも超えたい距離があることに、嘘をつかないと超えられない距離があることに。私たちは すごく弱い。

 というのは内田樹氏のサイトの『鉄道員』評(「おとぼけ映画批評」の5にあります)にある言葉で、つまり、まあ、そういうことだよ。と先月の日記のいくつかは総括しうると思う。
 もちろん、『フロレアール』のラストみたく、「すべてはフィクションなんだよ」と言ってしまうこともできる。この場合気になるのは、メルンがいなきゃそんな言葉には何の意味もないってことなんだ。もちろん、メルンには僕の言ってることなんてわかりゃしないと思う。でも彼女は真面目に聞いてくれるのだし、それで必要にして十分であると急いで付け加えておかなくてはならないが。
 上記の引用文は「〜あること」という表現になっていることが僕の気に入らぬ。「嘘をついてでも超えたい距離があることに」ではなく「嘘をついてでも超えようとする(のを見る)ことに」私たちはすごく弱い、というのが正確なところだろう。



(Monday, 23-Dec-2002)

 法月綸太郎『密閉教室』は、私の最も好きな小説のひとつだ。ううん、好き、なんて言葉じゃ片付かない。たしかに僕は秋山古橋も好き。でもノリヅキには惚れている。そこにこの世の真実のすべてがある気さえして、それは「世界」という言葉と同義でさえある。年がら年 中そんなふうに思うわけではないけれど。
「ア・デイ・イン・ザ・スクール・ライフ」という言葉にはそれくらいのニュアンスが付随していても不思議じゃない、そうではないか? ハラダウダル氏のサイトの法月評ではないが。

 ノーカット版密閉教室。衝撃の新青春エンタ! とか思わず叫びそうになりましたことよ。なるほど佐藤友哉『フリッカー式』の推薦文も書くわけだ。戯言遣いのいる場所は十年前に通過している! とかなんとか。 ウェブ上で「このままでもメフィスト賞とれる」という評がありましたが、半分くらいは頷けます。
 まあノーカット版というか要するに草稿で、たしかにこの七百枚を五百枚に削ったのは正しい。改稿はほぼ全面に及んでます。改稿前はあたかも『久遠の絆』のような酷い代物が大半なのですが(もちろん、「これを削るなんて!」という部分もある。トリックに対するスタンスが致命的に変わっている感すらある)、三割削るとえらく鮮烈な代物になるものです。もし僕がモノ書き志望だったら参考にすると思います。本当にちょっとした情景描写だの場面切り替えだのの機微が見違える代物になってますし。

 密閉教室について(ノーカット版じゃなくてもいいんだけど)、「ネタとマジが未分化」(転叫院さんのところで見かけた言い回しなのですが)という単語が当てはまる気が唐突にしたのだがどうか。作品自体というよりは、主人公が巻き込まれた/参入した状況について。
 殺人事件の手がかりは、合理と非合理、意識的な行為の結果と無意識のそれ、真面目な談話と冗談や地口、まったくの迷信と実際的な必要性、それらすべてに等価に含まれている。これが主人公の得る第一の認識だ。合理性や必然性にばかりとらわれてもだめだし、非合理な部分だけ拾ってもむろんだめだ。主人公によれば、必要なのは責任の意識であり、事件に巻き込まれることである。そうなれば、どんな要素もおろそかにはできなくなる。あらゆる要素を等価に見ることができるし、それらをだから自由に(つまり合理性といった先入見とは独立して)つなぎあわせることができる。つまり、ネタとマジを等価に扱うこと。すべてを一旦、マジでもあればネタでもありうるものとみなし、そのあいだに必要な連関を見出すことである。これは倫理的な決断によって突破口をひらこうとしたのだといっていい。
 このことは結局、すべてに対して(一旦は)マジに対処する、ということでもある。その上で「自由に」選択し判断する。
 だが、当人の意識としてマジであることと、実際にマジであることは別である。狡猾に秩序をぬって歩いているときにも人は自由な意志によって革命思想を信奉しうるのである。わかりやすくいえば、意識的にはマジだが無意識的には欺瞞的だった、ということになる。無意識といってもいいし「構造」や「現実」といってもいい。ともあれ、自分はマジだと思うことと実際にマジであることには断絶がある。
 ア・デイ・イン・ザ・スクール・ライフ。高校生の一日には、それくらいのことはあって当り前なのだ。

 吉沢の印象がずいぶん違ってました。口調もかなり違う。個人的には新書/文庫版のほうが萌えます。ノーカット版はいささか「いかにも」感が強い。さんざん改稿した後のほうが、作為を感じさせない、というのは考えてみれば奇妙な話かもしれませんが、考えなければよくある話です。


 言い忘れてましたが、これはラブレターであることがこのたび判明いたしました。原稿用紙七百枚分のラブレター!


"ア・デイ・イン・ザ・スクール・ライフ"
(Sunday, 22-Dec-2002)

 美術館の常設展で奈良原一高「王国」がやってる、というタレコミを受けたので(一月ほど前に)、行ってきた。
 伝統工芸店もあった。キモノとか見てもサッパリなので、頭の中で萌えキャラに着せて遊んでました。和服が似合いそうなヤツらというと、遠野さんとか佐祐理さんですかね。遠野さんはどれも問題ナシなのですが(あのマイペースぶりは服のせいでどうこうなるとは思えぬ)、佐祐理さんに似合う和服はというと困る。地味なのだろうが華やかなのだろうが爽やかな明るい感じのだろうが似合うこた似合うだろうが、どれ着せても見てて不安になる。地味な落ち着いた感じのやつは、なんだかやるせない気がする。明るい色調のは、そのままどっかに消えてしまいそうで困る。そんなわけで、彼女にはとびきり変なの(いや、妙に現代的な柄ってだけですが)を着せることに決定。着てるあんたが困りなさい。いやそういう人間失格な妄想でも呼び出さないとどう鑑賞していいのかわからんのよこれが。萌えって便利ですね。

 奈良原一高は二回目で、前は「人間の土地」を見に行った。言い忘れたが、写真展だ。「人間の土地」は軍艦島と桜島(例の噴火後)の、人工と自然の二つの条件により極限といえる土地に生きる人間の姿を写した、とまあそういうやつだ。軍艦島は萌えです。奈良原氏の写真は、見たものをそのまま
伝える、という以上の作為を感じさせない。構図だの画面だのはそのためにある。妙味はあるがわかりやすい。まあ素人の印象論ですが。どうかすると「まんまじゃないか!」とツッコミを入れたくなるくらい。見て、伝える、という義務のために写真というものはあるのだ。もちろんそれも「作品」には違いない。大方の写真家に感じるある種の嫌味というか押し付けがましさみたいなのが薄い気がする。そこでは写されるものこそが重要なので、写真としての出来はそのためにあるのだ。優れた写真の多くはそうである。


 だから「王国」もまた、「なにを写すか」こそが重要である、という、呆れるほど健全な意識に発する。今回の対象は、北海道のトラピスト男子修道院と、和歌山の婦人刑務所である。昭和三十年代の仕事である。一方で、男子修道院と婦人刑務所という対象の組み合わせは作為的で、こんどは土地ではなく精神の極限を求める態度には、どうも常軌を逸したところがある。だって男子修道院だぜ?
 写真展だから当然、キャプションもなきゃインタビューもナレーションも無しだ。説明抜きでいきなり突きつけるが、だからどうってわけじゃない。連中は単にそこでそうやってる、たとえば靴もぜんぶ自分たちで作ってる(木靴だ)、それだけのことさね。社会性を帯びたメッセージなんてものはまるでない。思想だって無論ない。現にそうやってるってことが必要かつ充分な全てなのだ。美術館側の説明には「極限状態における人間の生とは何かを、実存的に」云々とあるが、そら実存的とでも言うしかないわな。「何か」とは言ってくれねえんだから。ちなみに「実存」ってのは「現にそうしてあること」のことで、「本質」(「それが何なのか」)と対立する語だ。だったと思う。



(Sunday, 15-Dec-2002)

 十日ほど前のこと、『ファントム ツヴァイ』の虚淵玄の解説のみ立ち読みしました。

 「鳩とスローと二挺拳銃が大好きという大馬鹿者が大勢存在するのだろうか?」

 まさか。
 ただ「そういうものが大好きなウロブっつぁんが大好き」という度し難い連中はそれなりに居るとは思う。
 これに限らず、ジョン・ウーの映画を観る心理についても、似たようなことはあるだろう。
 「何かに夢中になっている姿」に惚れるのはラブコメの常道である。『フルーツバスケット』では、男の子は格闘技だの園芸だのについてえらくマジに語ってくれて、そのせいで本田透は格闘技だの園芸だのの本に手を出してしまうのであるが、もちろん、彼女は格闘技や園芸にあらかじめ興味があったわけではない。
 むろん虚淵氏にしたところで、二梃拳銃が大好きであるのはやはり「二梃拳銃が大好きな誰か」の影響であるはずだ。

 こういう話を最近読んだなとおもったら、晶文社のサイトでの斎藤環の連載のだった。第十二回にリンクしときます。

 たとえば通常は「イメージ」(映像的な)を「言語化」するというプロセスが存在することになっています。つまり「イメージ」は「一次的なもの」であり、「ことば」は「二次的なもの」です。もっと具体的にいうと「目で見た風景」がまずあって、その風景を「ことばにする」する、という順序が存在します。しかし、ちがうんじゃないか。まず「ことば」があるからこそわれわれは「見る」ことができるんじゃないか。こういう「一次的なもの」と「二次的なもの」を引っくり返すのは、思弁というものの習性といっていい。柄谷行人はアルチュセールだかデリダだかを引いて、哲学の歴史はこの種の(一次的なものと二次的なものとの)形式的な顛倒のくりかえしである、とどこかで書いていたような憶えがありますが。

 僕は時々(比較的最近)「言語化」という言葉を使ってしまうのですが、このことに対して忸怩たる思いを禁じ得ません。僕は言語化なぞというプロセスが存在すると信じたことはあんまりない。「言語化する」、という言い回しでもって言語ゲームをやっていたのだ。「言語以前のなにか」が存在し、それが言葉にされるわけではない。だいいち、「言語以前のなにか」なんてものには「ある」とか「ない」とかいった「言い方」がそもそもあてはまらないはずです。言及ができないなら「ある」とも「ない」ともいえないはずだから。
 あるのはただ「言語以前のなにかがありますよ」と言い交わしたり、あるいは「うまく言えない」と言って口をつぐむパフォーマンス/レトリックだけです。

 そのつど言葉によって「お話をでっちあげる」ことが、あたかも「ことばにならなかったものを言語化する」かのような様相を呈すのです。そこにあるのは「言語」へのエンコードではなく、ひとつのストーリーの創出です。
 あるいはこう言ってもいい。「言語」に翻訳されるのは「言語」だけだと。われわれの知っている言語に翻訳されるならば、それは言語である。「言語化」というものが本当に成り立つとしたら、ある言語から別の言語への翻訳とそれは同じことです。言語化=翻訳されれば、それはもともと言語であったことになるのです。青い鳥は、最後に発見された瞬間に「最初からそこにいた」ことになるのです。

 なんでこんなこと書いたんだろ。



(Saturday, 14-Dec-2002)


もどる