忸怩たるループ 2003年1月
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 ユーシィは10歳で成長が止まってしまった17歳の少女で、グレンダもそうだという。ところで『ニャンと?魔界はネコばかり』について、ないとメア氏が洩らした感想によれば、グレンダはむしろ、早く大人になりたいだけの女の子に見えるらしい。「自分がもっと大きかったら」という思いのあまり、「自分は本当はおとなだ」と言い張ってるんじゃないかと。泣ける。もっとも、比較対照のユーシィが中身も子供なのでこれでは判断のしようがない。いずれにせよ、今すぐおとなになりたい、むしろ自分は本来なら既に大人である、と信じるほどに子供っぽく見える、ということにはあんまり気付いて欲しくない。女の子くらい存分にやっとけ。キスはおでこにするものです。
 何が気に入ってるかってOPで五人そろって足を踏み鳴らすようなステップ踏んでるあのへん、サビ前に一瞬、足だけアップになるやつ、あれがむやみと幸福である気がするのですが。


"ぷちぷりユーシィ"
(Wednesday, 15-Jan-2003)

 未来さん萌えー。ああ、そうやって行く先々でガキを誑かして、とりかえしのつかない毒を吹き込んで、あんたはそら楽しいだろうけど、見てるほうはもっと楽しいぜコンチクショー!

 ええと。世間はすでに「ずっとずっと、フレンズ」なんでしょうが、今木はこないだ(二週間ほど前)ようやく「どれみと魔女をやめた魔女」を観たわけで。
 ところで、とりあえず、ウパー君のメルマガを転載しときます。で、今木の書くことはかなりそれと重複しますが(というか影響されてますが、あまり気にせず)続けます。

 幼い頃の帰り道には何か特別なものが潜んでいたように思う。それが何なのかは知らない。回り道ができるのは概ね帰り道だけである、というそのせいかもしれない。つまり、目的を持ってどこかへ出かけるわけでなしにさ。どこに着くかはそりゃ自分の家に決まりきってるからね。
 何かのマンガに、思い出した『灰皿猫』だ、駅と駅の間はたとえば断崖絶壁のようなもので隔てられた不連続であると思い込んでしまう話がある。駅という点はただレールという線でのみつながれていて、そこから外れたらどこへ行くのか知れたものじゃない、という風に。学校と家のあいだの連続性にはじゅうぶん疑問の余地があるだろう。べつに子供にかぎった話じゃない、チェスタトン『木曜の男』に登場する詩人にいわせれば、地下鉄がスローン・スクエアの次に間違いなくヴィクトリアに着くというのは、ほんとうに大したことなのだ。君も少しばかり寝ぼけて電車やバスを乗り違えたり寝過ごしたりしたことはあるだろう。そのとき感じる恐怖は間違いなく合理性の範囲を超えている。日々のちょっとしたルーチンが予想外の方向へ転がっただけで、われわれは随分と不安になりはしないか。まるでもう二度と見知った日常に戻れないとでもいわんばかりに。
 もちろん小学生は必ずしも不安になったりしないけれど。それでも、われわれの変わらぬ日々の繰り返しが、いかに多くの可能性を排除した上で成立しているかは熟知していよう。

 やたらと思わせぶりな「分かれ道」の標識、そして奇妙に、何かのレンズを通したかのように歪んだ家並み、どれみは回り道して帰ることを選ぶ。観ながら思わず「どこだここは?」と突っ込みたくなるようなあれやこれやの景色が続くが、それでも帰り道でしかないことにはかわりはない。だがそこに、突如として、日常の連続性を断ち切る音が響く。何か金物を落とすような音が断続的に繰返され、そしてどれみはその音に導かれるままに、魔女をやめた魔女であるところの未来さんに出会う。このあたりで既に完璧。
 そこから先は決まりきっている。いちど踏み外しちまったら、もうおしまいだ。かけちがえたボタンは元にもどらない。いつもの日常を送ってるくせ、すべてが遊離して感じられる。得体の知れない衝迫によりあわや取り返しのつかない選択をしてしまうのも。こいつはまさに得体の知れない衝迫であるのに存在意義がある。べつに心理としてはバーゲンセールの最後のひとつを思わず買ってしまうのと大差ない。だが心理など何者でもない。ともあれ人間はやっちまうものだ。どれみはただ、定まった意味付けのできない体験をしたのだから、傍から註釈をつける気にはなれない。魔女と人間は異なった時間を生きているとか、未来さんの生きてきた時間とかいった内容はどうでもいい。それがどれみにとってデカすぎる、日々のなかに回収しえないなにかであった、ということだけが重要だ。だから未来さんが一介のホラ吹きであったとしても(まあ設定上ありえないんですが)、「この魔女め!」くらいのことは言ってやりたい。というわけで未来さん萌えー(冒頭に戻る)。


"どれみと魔女をやめた魔女"
(Tuesday, 14-Jan-2003)

 神山満月にメロメロ。

 いやその。
 年末年始はめでたく京都で過せたわけですが、そこで例によって色々アニメを観せてもらったりしたわけです。神山満月(こうやま・みつき)というのは『満月をさがして』の主人公ですが。
 このアニメがどうにも切ない代物で、まあ大半はPantser氏に半分くらい言われてしまってるのだけれど。リンク先で既に言われていることの繰り返しになりますが続けます。

 普段は小学生の女の子が魔法の力で大人に変身して歌手になる、というのはさして珍しくもありません。同種の設定はぴえろの魔女っ子モノににいくつかあったし(『魔法の天使クリィミーマミ』『魔法のスターマジカルエミ』等)、最近では『魔法のステージ ファンシーララ』がそうです。そこでは『大人』というのは女の子が「いつかなる」ものであり「招来の夢」のごとくイメージされます。女の子たちは「未来の自分」を仮想的に先取りするのが常で、変身後は「いまの自分」とは何かしら別種のものです。「いつかなりたい/なれるかもしれない」、という次元のものがたまさかに実現してしまったにすぎませんし、だから彼女たちは魔法を手放すことができます。Pantser氏の表現を借りればそれは将来の「希望に胸膨らむ夢物語」です。
 夢は、いつか魔法なんかに頼らずとも、自分の力で叶えられるかもしれない。むろんそれには時間がかかりますが、時がたち年齢を重ねることは、彼女たちに身方するでしょう。あるいは、しかるべく時が経つことを受け容れることができたとき、女の子たちは子供であることをやめ、魔法をもはや必要としなくなるのです。

 神山満月にとって事情は違います。彼女は12歳(重要)の女の子で、歌が好きで、けれど病気のため大きな声が出せません。そして彼女は「いま」歌えなければどうしようもない。彼女には将来なんてものはないから。
 物語の発端は、彼女のもとに現れた死神が「余命一年」と宣告するところから始まります。だから彼女は、やはりその死神の力で16歳の健康な「フルムーン」として歌手デビューするのだけれども、実際に16歳となることはもはやありうべくもない。
 彼女が歌う理由は、英知くんという男の子との約束のためです。「次に会うまでに、お互いが自分の夢により近づいていること」というのがその約束です。しかし連絡先も行先もわかりません。
 彼女はその男の子に、自分の声を届けるために歌うのだけれど、もちろん16歳の歌手フルムーンの歌声に触れたとて、その男の子には彼女が神山満月だとはわかるはずもない。どこにいるかわからないから、有名な歌手になれば自分の声も相手に届くんじゃないかと思ったけれど、自分自身としてそうすることはかなわない。例によって迂回的にしか接近しえないわけですな。「フルムーンをさがして」と歌うことはそれでも「わたしをさがして」というのと同義です。これを切ないといわずに何というのか。
 さて、英知くんは画面に登場しませんので、神山満月にメロメロになるのはもっぱら視聴者たる僕と死神のタクトの役目になります。まあそもそも、タクトが満月という少女に肩入れして「未練が残ると面倒だから」なんて理由をつけて16歳に変身させてしまわなければ、何も始まらないわけですが。側にいない英知くんのかわりに、彼女の魅力にいちいち気付いてあげる人が常にいるのはとても優しいことだと思います。つまり視聴者に。
オトコのために歌手になりたいなんて不純だとヘソを曲げたり(嫉妬以外の何者でもありません)
 あと、なくもがなですが付け加えておくと、「16歳らしく振舞おう」とすると却っておかしなことになって、12歳の自分の感覚のまま振舞うとちゃんと16歳の女の子に見える、というのが面白かったです。あとはオープニングの尻に惑わされてる気がしなくもないとか。


"満月をさがして"
(Sunday, 12-Jan-2003)


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