忸怩たるループ 2003年2月
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 というわけでここ数日、『少女革命ウテナ』を観返している。

 何より言って置かなくてはならないのは、川上とも子が素晴らしい、ということ。いい感じに頭悪そう。常識的に物を考える人間には革命などできない、なぞという御託はどうでもよく萌え。


 ああ、これはウテナと姫宮が「共通のプロトコル」を見出す話なんだ、と最初は思った。「教える−学ぶ」とか「コミュニケーションの非対称性」という文字がメモってある。

 姫宮が「自分」というものを持つためには、そのためのルールを教え込む必要がある。これは決して対等な関係ではなく、一方的なものである。そして、それ以外に道はないのだ。だからウテナはまず、薔薇の花嫁の主である必要があるわけだ。



(Thursday, 27-Feb-2003)

 見果てぬ樹璃。
 わかりやすい。教科書通りっつうか。一見不条理な設定である以上、こういうバランス感覚は正しい。そもそも「わかりにくい外見でわかりやすい話をする」というコンセプト。むしろ「やりたい放題の表現をやりつつ視聴者についてきてもらうために、わかりやすい話をする」。これは黒薔薇篇で顕著。
 幾原邦彦はどこかで、表現主義という言葉を使っていた。表現は「ただそこにあるだけで面白い」ので、意味だの象徴だのに頼ること、何かを意味すること、つまるところ「なにかの代わり」ではなく、「表現そのもの」であるべきだと。これはセーラームーンSの頃の話だ。
 だが、それを行いつつ、商売としてやっていくには、「わかりやすい話」とセット販売する必要があるわけだ。「表現のおもしろさ」だけでは客はついてこない。
 これは作品にとってプラスに働いていて、ようするに「表現」と「お話」のあいだに緊張感がある。表現がお話に一方的に奉仕するわけでなく、さりとて絵的に面白いものばかりが追い求められるわけでなく。諸要因のせめぎあうざわめきが聞こえる。何ともスリリングだ。


 カレーなるハイトリップ。
 さいとうちほのマンガにある話。だが、このエピソードをここに配する感覚は並大抵ではない。カンガルー、見果てぬ樹璃、カレー、と来た日にゃあ、かなり脳が揺らされる。改良デンプシーを喰らう沢村の心境である。もう何が何だか。
 当時を思い出すに、「いや、カレーが辛いから爆発するんですよ」と中将くんたちが解説してくれたせいもあって、(つまり一緒に観てたというか観せてもらってた)、いまもっていちばん楽しい話である。どうせ番外だからってんで、西園寺との交換日記が続いてたりして、ああいうのを見ると幸せになりますね。


 永遠があるという城。
 西園寺はずいぶんと道化に見えたものだが、今となっては、むしろ冬芽が幸せ者に見える、とか。冬芽くんは戯言遣いで、誰かを激マジにラヴったことなぞない人間なので、ストレートに感情をぶつけてくる西園寺には勝てない。そんなことをむしろ考えた。
 友達がいるなんて信じている人間はバカだ。そしてバカには勝てないのである。『もののけ姫』を観たまえ。



(Wednesday, 26-Feb-2003)

 ボクは、七実様のお兄様になるんだ!

 そう述べたのは石蕗美蔓くんで、彼は小学生なのでした。それで七実様は中学生なのである。年下のお兄様。間違っている。女の子なのに王子様になりたいってのも間違っている。何よりウテナは「健全な男子にしか興味が無い普通の女の子」を一方では自称する。カウベルを首につけて登校するのは大間違いだが、妙な変造ガクランを着てる女子生徒に言えた義理ではない。いやもう。暴れ馬と暴れカンガルーにどれほどの差があるというのだ?

 ウテナはいいねえ。



(Tuesday, 25-Feb-2003)

 『フルーツバスケット』11巻を読んでいたら、何かがつながった。

 『アトラク=ナクア』はともかく、かなこについてはずっと、何か言いたかったらしい。


 学校という日常が無媒介に神話的世界に接続される、という点ではむしろ冬木るりか『アリーズ』を思い浮かべた。あれはやはり少女マンガなわけで。これがジャンプだと「女神の聖闘士」みたいなシステムに媒介される必要があるわけです。ような気がする。



>ウパー
 某所で、「かなことは!!(バン!)」(旧掲示板)のつづき、やっちゃったけど、見る?
 つうか初音についてあんたも語ってください。できたら。



(Sunday, 23-Feb-2003)

 超人計画。「人間彼女」とか「シャドー恋愛」とかいう造語のセンスがあまりに素晴らしい。「脳内彼女」くらいは誰でも思いつくが、その対義語に「人間彼女」ってのが出て来るあたり。



(Monday, 17-Feb-2003)

 江藤淳『成熟と喪失』を読み返していたのだが、結局挫折。
 安岡章太郎、小島信夫、遠藤周作あたりまではよいのだが、吉行淳之介になるとどうにも面白くない。まあアレだ。『みスを』でいうところの「荒野」(圧倒的な楽園)に辿り着いた、その後の分析をえんえんとやってるような。「ああもうわかってるから」といいたくなるような感じ。わっかんねえだろうなあ。
 洪水の後のような、もう何もかも壊れちまって、モノだけが無意味にゴロゴロ転がってる、そうゆう感覚。どうでもいいが滝本竜彦が「ゆう」と書くのが好きです。

 ところでこの本には、遠藤周作『沈黙』におけるキリストを「母」と評した個所がある。まあ、あれが「母性的なキリスト」ってヤツなのはいまでは常識だけど。なにしろ公文式の国語教材にだてそう載ってる。むろんキリストは男である。
 で、ふと思ったのが、ギャルゲーで「母性」なり「父性」なりという話が出る場合、みんな、キャラクターの性別を額面通りに受け取りすぎるんじゃないか、ということだ。エイハブ船長のモデルはメルヴィルの母親である、くらいの話は聞かないのかね。

 要するに、晴子さんを無前提に「母」と見做すようでは、あまりに無邪気すぎるということです。
 たとえば『AIR』なら、晴子さんを「母」と見るのも「父」と見るのも、読解としては等権利なんですよ。

 ついでにいえば、麻枝准の描く母親像というのはちょっと面白い。基本的に「遠くにいて見守っているだけ」の存在なんですね。MOON.だと「月」が出てきますが、まさにああいうものなのです。ちなみに『まもって守護月天!』のサユリさんというお母さんも、遠くから祈ってるだけで何もしない人ですね。あの作品の主人公の家族のブッ壊れぶりはけっこう好きで、お姉さんにしても、一人でガキを放っておいたら淋しがるだろうとか、その程度のことを思いつきさえしない。まあこのへんは脱線。

 ちなみに従来の「母性」のイメージを考えてみますと、無限の肯定と承認、豊かな肉感性を前提とする甘やかな一体感。これはメルヴィル『白鯨』の鯨脳のなかに人が落っこちるシーンあたりを(というか小谷野敦『八犬伝説綺想』を)参照していただけるとわかりやすいんじゃないかと思うのですが、だいたいそういうものなわけです。少なくとも『成熟と喪失』読む限りでは、そういうものだったようです。

 つまりですね、麻枝准の作品を論ずるために、母性という言葉を用いる人ってのは、「自然性と肉体性を基礎とした温かな一体感」と「アータフィシャルで観念性の先行する、断絶を前提とするような関係性」を、同じ言葉であらわすという暴挙に出てることになりかねないわけです。実際、そこでいわれる「母性」が何なのか、読んでてもよくわからない。

 ただ、たとえば更科修一郎氏は別です。たとえばこれを読んでいて、「母性」なり「父性」なりといった言葉が何のことなのかわからなくなる、ということは僕にはありません。それはあくまで、ひとが適切な対人距離感をもって生きてゆくための「獲得すべき役割」のことです。ロールモデル、と言いかえてもいいかもしれない。また、それ自体として自然に存在するのではなく、適切な相手を得て、関係性のなかで初めて成立する、そうしたもののことです。



(Saturday, 15-Feb-2003)

 虚構に咲くユリ。

 ごめん。ぜんぜんわからなかった。RPGとしてなら、サクサク遊べていいんだけど。

 つまり、あんたがどう意識し決意しようが、僕の知ったことではないのだ。
 
 たとえば養豚場の豚は、もしかしたら自分に与えられた飼料に固有の実存的な満足を覚えているかもしれない。飼われている状況を認識し、しかし自分なりの決意をもって受け止めているかもしれない。だが、そんな認識や決意が何になるね?

 この世界が現実か虚構か、と悩むのはいいよ。でも、そっから先ってもんがない。この世界が誰かの犠牲の上に成り立っているとしたら? この世界がひとつの虚構なら、自分としては無垢な被害者のつもりでも、そこでは悪役であるのかもしれない、そんな風に考えてみたことはない? 『オネアミスの翼』のシロツグみたいに。もちろんそんなことはありえない。あなたの世界はあなたの母親が作ったものであるから。あなたは無垢な被害者でしかありえないから。そして母の世界を離れては、歩くことはおろか食べ物を消化することさえできない(これだって疑ってみるべきなんだ)のだから、そこを離れるなんて選択肢はない。別に受け容れなくても、流されるだけでも済む話ではないか。
 
 ともかく「疑い」の方向がえらく限定されていて、狭い。もちろん、ひとつの作品でできることは限られているのだけれど、こういうネタはいいかげん定番なので、ありそうな突っ込みは予め封じとけよと思う。正直、竹宮恵子『地球へ…』か村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』か佐藤友哉『水没ピアノ』とか、そのへんを一度読んでおいた方がいいんじゃないかと思いましたよ。いっそ『嬌烙の館』か『フロレアール』を。あるいは『少女革命ウテナ』を。

 まあ、僕はたぶん『化石の歌』あたりに対しても似たようなことは言うのですが。

 ストーリーテリングは良い。RPGの体裁をうまく使っている。途中でやめられなかった。



(Friday, 14-Feb-2003)

 とらハ3話。拾遺。

・「中辻陶夜」「藤原陽道」の元ネタがわからない。
・「東神漬け」とはいかなる食べ物であろうか。ネットで検索したがとらハ関係の記事しか引っかからなかった。

 気になる。



(Thursday, 13-Feb-2003)

 フィアッセ。
 いいことも悪いことも、すべて受け容れて生きるのであれば、せめて翼くらいは白くなってもいい。
 過去は変えられない。変えられないならば、それを認めぬのは欺瞞であるだろう。しかし一方で、変えることのできるものも、現に変わりゆくものもある、とかまあそんな話。予想ではフィアッセがあの黒い翼を受け容れる話になるんじゃないかと思ってたが、都筑氏のバランス感覚を侮っていた、というところですかね。

 あとはそうっスね。やはり人間は、相手が年上だと子供っぽくなりがちですね。美由紀相手だとお兄ちゃん風吹かせてますが。ちと当り前すぎるなこれは。


 さて、終えての雑感。恋愛よりも家族。一対一の対関係よりも、幸せな共同体。主人公とヒロイン、以上に、女の子たちどうしの関係。そんな感じ。「2」も似た面はあったけれど、あれはやはり主人公とヒロインのラブラブっぷりの方が印象に残った。

 恋愛ゲーは本来、一対一の対関係を優先するべきものである。だがこの作品、主人公とヒロイン、という関係よりも、女の子どうしの関係(ノエルと忍、レンと晶)の方がよほど印象に残るシナリオも珍しくない。この理想的な家族において主人公の演ずるべきは半ば家長であり(父のいない家の長男で、妹たちがいっぱい)、いきおい彼女たち(の成長=物語)を「見守る」立場になる。一方で母も姉もいて、その前では子供であるわけだが。ちなみにゲームシステム上、妹の面倒をちゃんと見た後じゃないと、お姉ちゃんに甘やかしてもらえません。正しい。

 物語冒頭から、主人公は随分と好意と敬意に、何よりも親密さに囲まれている。登場する女の子の大半が昔馴染みであり、さらにメインヒロインは妹であったりして、要するに、最初から身内ばっかりなのである。この共同体に新来者は確かに登場するけれど、およそ波風を立てるということはない。
 「2」はたしかに、同じように幸せな共同体を中心とする話だけれど、ともかくも主人公は最初は闖入者であり、新たな共同性を作り上げるという動きも存在した。

 この幸せな共同性は最後まで変わることがない。
 たとえば『家族計画』(D.O.)においては、恋愛をはじめるためには家族を崩壊させねばならない。なんとなれば、主人公(とヒロイン)の目的は「喪われた家族の回復」(あらゆる物語がそうであるように)であり、そのためには、家族にそこにそのままいてもらっては困るからだ。それこそストーリーが動かない、というやつである。物語的運動とかそういうあれだ。ちなみに『前略・ミルクハウス』あたりでも、恋愛はあの「幸せな共同体」にとって異物だったので、これは山田一が古典的なのである

 『Kanon』でも、美坂姉妹もあれば、舞と佐祐理さんもあった。それに先立って、『ONE』は、この手の作品には珍しく、ヒロインの横のつながりが(主に久弥直樹によって)はかられてもいた。WHITE ALBUMだって忘れてはいけない。けれど、ドラマのクライマックスが、感情面では主人公抜きでも成立するような代物になっている、なんてことはなかったはずだ。そして、とらハ3と同時期にはあの『AIR』がある。そこでhが、主人公とヒロインの関係、という概念が成立しなくなる。

 追記。
 ついでに元長柾木はといえばこれと正反対で、「主人公とヒロインの関係が特権的に描かれる」「しかも、ひとりの主人公に対し複数のヒロインが存在する」という二点への驚きがそのまま彼にエロゲーを作らせている。このへんは、三月売りのピュアガの東・元長対談を読むと一層はっきりする。



(Wednesday, 12-Feb-2003)

 ノエル。しのぶさんのお話を引用させてください。
≪このお話は“エピローグでノエルが再び目を覚ます”のではありません。そうではなくて“ノエルが目を覚まさなければお話の幕は降りない”のです。≫

 那美さん。同じく引用。
≪彼らの間には一度としてすれ違いは起きないし、彼らは大きな声を出したりすることはありません。言うまでもなく、静かな空気の中では人は大声を出す必要がないのです。≫


 すれ違いが起きなければ大声を出す必要はない。
 つまりかれらには、そっぽを向いている相手を振り向かせるために、相手の声を圧するために、自分の声が届かぬ不安にかられたために、大声を出す必要がない。たぶんそういうことだ。



(Tuesday, 11-Feb-2003)

 とらハ3、忍。
 いよいよとらハらしくなってきました。うわやっぱりそうきますか。まったくもって、ああとらハ((c)ひらしょーさん)、という感じである。10年以上前のエロマンガのごときどうしようもない設定が。ドラマトゥルギーへの配慮などまるでない展開が。しかし今木はそれを嫌いではない。80年代的というも愚かな時代錯誤を嫌いではない。
 むしろ、とらハシリーズの重要な美点は、お話の切れ味が決してよくない、という点にある。
 読む者を圧倒したり震撼させたり、そうした脅迫的な要素は皆無である。凄味はないが読み手を傷つけもしない。それこそ『赤毛のアン』のように。そしてこれは作者の資質でもあり意図的な作風でもあるのは、とらハ2における真雪さんの言葉からもみてとれよう。
 そして、なおいっそう重要なのは、登場人物たちがみな、こういう話を、大真面目にやっていることである。ふつうならイタいはずなのだが、そこがかえって、なんというか、まだまだ人間って捨てたもんじゃねえな的な感慨に襲われたりするのが都筑マジックである。たかだか、俺から見て馬鹿馬鹿しい、という程度のことはけっこうどうでもよくなる。
 お話の出来? もし人を幸せにしないなら、そんなものに何の価値もない。どうせ我々の実生活だとて、たいして出来のいいシナリオに恵まれているわけではあるまい。そして、我々がもし、われわれが現実にあてがわれたシナリオなり役割なりに不平をとなえるばかりで真面目にやらないとしたら、ヤツらに顔向けできない。
 思わずそんなところまで思考が行ってしまうのも、つまりはロケットパンチのせいである。かっこわるかろうが今更だろうが、それが勝負を賭けるに足ることに疑いはなく、大切なものを掴むのにもちゃんと役に立つ。


 関係ない話なのですが、永井豪『マジン・サーガ』でのロケットパンチ誕生秘話が好きです。足が竦んで一歩も動けなくなって、それでも、せめてこの手だけでもあそこに届けば、という。



(Monday, 10-Feb-2003)

 だらだらと『とらいあんぐるハート3』なぞやりながら過ごす。ちなみにDVD版ではない。つうか今更初プレイってのは。

 とりあえずレン。ひらしょーさんも曽我さんもレンらしいので。とらハは年長組は可愛い、年少組は思わず尊敬してしまう、というのが基本である気がする。もっともこれは見る方が年相応の反応を期待するからで、連中はそれぞれ単に、年のわりにしっかりしている時もあれば、年相応に可愛いかったりする時もあり、年に似合わず子供っぽかったりする時もある、というだけである。相手や状況によって態度は変わる。当然。

 何かと張り合う相手がいる、どうでもいいことで張り合ったり、勝負を挑んで来る相手がいる、ということは紛れもなく幸福を構成します。それが失われてはならないのはそれが反復され日常を構成し続けてきたからで、その内容に対する好悪の感情はさして問題にされません。せいぜい本気で鬱陶しがってください。

 それにしてもよく伸びる。
 
 ただ傾向としては、年の割に大人びた選択をしがちであるように見えもする。これは主人公の前だととくにそうなので、だから晶と果てしなくローレベルの(ガキっぽい)争いを繰り広げているのを見るとやはり安心するわけです。そのあたりのバランスがゆきとどいているのは配慮というものだろう。有難い。味勝負に勝ってヨロコビのオドリを踊ったり敗北の歌を口ずさんだりするのが素晴らしいです。中学生にもなってそれはないだろう。

 だから、本気でどつきあうのはガキどもに任せておいておけるのが、主人公のポジションとしてはいいと思いました。いいも悪いも、キャラクターを作ってしまったら必然的にそうならざるをえない、ってあたりが。

 病室で虎撲手を練習するレン、というどうでもいいネタが浮かびませんでしたか。

 
 で、晶。
 いいお話でした。言葉が苦手なら拳で語ればいい。考えてわからなければド突き合ってわかればいい。この幸せ者め!
 えっちを始める際の口上がいやに礼儀正しいので(二人とも)笑いました。いやそもそも闇討ち(でも何でも一本取ろうと)しに来る相手が夜這いに来たりする、というシチュエーションからしてどうかしてます。いやそれ以前に女の子とコブシでわかりあうってあたりから突っ込むべきか。もうなにがなんだか。あーはいはい幸せにやってくださいこのひたー。



(Sunday, 9-Feb-2003)

 シリアの冒険。『今の風を感じて』の絵の雰囲気が気に入ったので。

 実に良い。イチオシ。俺が何か言うよりは探偵紳士さんのサイトの紹介を見てもらった方がいいと思う。それで十全です。

 サラダの材料を集める、というだけの作品ですが、それでもこれを作ってる人はRPGが好きなんだなあ、と思います。そう感じるのは、たとえば、村人としつこく会話したり、ふと思い立って手持ちのアイテムを確認することによって、新たなる展開がようやく現れたりすることであったり、あるいは、所謂ボス戦で、回復アイテムが尽きるのと相手を倒すのとどっちが早いか、というハラハラ感であったりします。

 ああ、ネタバレが勿体無くて何も書けない。 
 



(Saturday, 8-Feb-2003)

 KNight Blade 〜The Surviver of Hell Hound〜。
 サーヴァイヴァー・オヴ・ヘル・ハウンド。これは要するに「ザ・ラストレッドショルダー」と思ってくれていい。主人公はとある機動歩兵(AG=アサルトギアと呼称)の特殊部隊の生き残りである。彼は終戦後、とある村娘に拾われて(萌え!)どうも所帯を持ってるように見えるのだが、住んでる村の自治が脅かされるに至り再び銃をとる、とかそういうやつ。まあストーリーやキャラはどうでもいい。要するにお約束通り。
 アサルトギアをセカンドモードで強制起動したり、一体で敵戦略拠点を強襲する際には、アクティブステルスを張りつつ接近、距離500でECMパラージを仕掛け、敵管制室に誘導弾をブチ込んで指揮系統を破壊、有視界戦闘での乱戦に持ち込む、とかそういうのが好きでたまらない人のための、このRPGはそういうそういうあれである。それ以上でもそれ以下でもなく。



(Friday, 7-Feb-2003)

 今の風を感じて。
 いや、そういうタイトルのフリーRPGなんですが。
 勝ち気で強気な女の子と、押しは弱いが芯は強い男の子、という組み合わせはそれだけでツボだ。
 システムは洗練されてて極めてローストレスで遊べる。ザコ敵とのランダムエンカウントもなければ経験値稼ぎもない。

 あと、絵がとてもよい。 



(Thursday, 6-Feb-2003)

 Sacred Blue。
 序盤はかなり好き。主人公がいきなり失恋して傷心旅行ならぬトレジャーハンティングに出かけてしまうあたりとか。あと四年前、記憶喪失の主人公に、ティルスとかいうバカが「きょうからおれがお前の親友になる。お前がおれのことを嫌いになろうが、ずっと親友だ」と宣言するあたりでは泣いたりしてます。親友とはつまり一方的であっていい。
 つまりそのとき主人公は、記憶を持たぬ自分には思い出がなく、思い出とはつまり親しい者との過去のことであり、要は他人との絆がないのだ、と自らの孤独を言い立てていたわけです。共に積み重ねた時間が絆となるなら、いまの自分には何もない。
 さて、ティルスってのはバカです。従ってそんな理窟は通じません。「なら俺が親友になる」です。要するに押しかけ親友です。過去なんて根拠は要らず、無根拠かつ絶対的かつ一方的に、友となることを宣言します。でもって、思い出もこれからいっしょに作ろう、です。殺し文句です。

 でも中盤以降がなあ。主人公は唐突に激昂してついていけないことを喚くし。菅野ひろゆきをローセンスにしたような電波設定が開陳されるあたりで萎え。サルまんのサッカー漫画の最終回とか、モテモテ王国のファー様が考えたマンガの壮大な設定及びあらすじとか、マサルさんの謎理論とか、そのくらいのノリ。Sense Offを素でやったような。

 STARDUST BLUE。
 キャラがどいつもこいつも、書き手の特定の意図を実現するためにしか喋らない感じ。ちょいと目的論的に語らせすぎ。アソビがないと付き合ってて疲れる。


 どちらの作にせよ、ゲーム立ち上げて早々、いきなり鼻持ちならない御託をえんえんと読まされるハメになるのはなんとかしてほしいところだ。これではゲームが勿体無い。



(Wednesday, 5-Feb-2003)

 コープスパーティ。

 いいかげんフリーソフト飽きてきた。どうしてこう、通り一遍の感情しか出てこないんだろう。



(Tuesday, 4-Feb-2003)

 梓999。
 会うキャラ会うキャラものわかりがよすぎる。ろくな対話もなしにいきなり「お前のやっていることは正しい。頑張れ」としか言わない。ひたすら周囲に肯定され背中を後押しされる主人公。こういうのを他者性の欠如というんじゃないでしょうか。とにかく気持悪い。まあ、そういう作品は腐るほどありますが。『罪と罰』も主人公は周囲に気にかけられすぎ。『暗夜行路』も。もちろん村上春樹もです。

 要するに「主人公は保護されているッ!」といいたいわけですが。で、なんだか知らんが周囲に保護され、求めずともお膳立てされるまま他人の悲劇を消費しつつ「また一つ強くなった」りしつづける主人公。もうたまらんね。

 あと、いくら刃物持ってたからってそんな芸当は常人にはムリだろう、とか。とかく過激なモノを見せたいだけで、リアリティなんざ欠片もない。「自分にはこんなエゲツナイものが描けるんですよ」という作り手の自意識しか見えぬ、胸糞の悪い代物でした。つうか終始ギャグとしか思えませんでしたよ。

 列車をひたすら歩いて往復する感じは好きなんですが。



(Monday, 3-Feb-2003)

 囚人へのペル・エム・フル。倫たん萌え。嘘つきは妹にしておきたい。

 おそろしく枝葉の部分であるのだが「信頼されているあいだは、嘘は嘘とはいえない」といった意味のことを教授が言う。僕が彼女の言葉を疑ったとき、彼女は嘘つきとして裁かれるのだ。彼女はそのときは本当のことを言っていたにもかかわらず。オオカミ少年とおなじに。



(Sunday, 2-Feb-2003)


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