忸怩たるループ 2003年4月
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 瑠璃ハッピーエンド……なのか?
 存在意義が見当たらぬ。

 開き直るアルが萌え。


 『ラヴクラフトの遺産』よりラムレイ「大いなる"C"」立ち読み。あとロバート・ブロックの「公開書翰」が泣けるのじゃよー。



(Wednesday, 30-Apr-2003)

 瑠璃ED。

 セーブポイントからやり直すのはどうも苦手で、いちいち最初からやり直してしまうわけですが、繰り返してるうちにだんだんとルルイエ異本萌え。とかゆってたら最後のへん凄いことに! 読まれてるのか。

 さて、ビジネス訓話みたいなのでよく聞く話に「茹でられたカエル」ってのがある。熱湯にカエルを放り込むとあわてて飛び出して助かるが、水の状態から徐々に熱してやると、茹って死んでしまうのだそうだ。本当かどうか知らないが。
 でこれが大抵「状況の変化にニブくてはいけない」みたいな話になるのだが、これはどうや考えたって結論の引き出し方が間違ってる。
 前者のカエルが助かり後者のカエルが死んでしまうのはどちらも単に環境条件と生得の性質に従ったゆえであり、助かったカエルはべつに賢かったわけでも何か自覚を持とうと決意していたのでもないし、死んだカエルがとくに愚かだったわけでもない。そこにあるのは単なる唯物論的条件の差異だ。塩水に浸した鉄とそうでない鉄では前者の方が錆び易い、という以上の差異ではなかろう。だが、そんなものが、賢さや愚かしさにみえてしまう。

 主人公はあくまで希望を捨てず、宿敵はすべてに絶望しているとして、そこにあるのはただ「存在は意識を規定する」というだけのことで、もちろん彼らには彼ら固有の考えなり感興なりのもとに絶望したりしなかったりしているわけだが、しかし、かれらが希望と絶望どちらに傾くか、そのこと自体は、(「神」の仕組んだ)構造的な必然により決定されている。
 主人公は、まるで少年マンガの主人公のように希望を捨てない。しかし作家は同時に、ひとが希望を持つのは、そのように仕組まれているからだ、ともいっているわけだ。

 それはそうと、戦うお嬢さんたち。#11(この場合"SHINING")はこのルートがいっちゃん好きです。デモンベインのポーズがちゃんと違うあたり、ゆきとどいてます。さっくらちゃんっのっせったら♪



(Tuesday, 29-Apr-2003)

 ライカED。キャラクター主義的にはこっちの方がよくできてる気がする。キャラの心情がドラマを牽引する、という意味で。


 シナリオライターのサイトに行くと、「心の無いはずの存在が、垣間見せる感情らしきもの」「そんな筈はないけど、実は魂がそこに宿っているんじゃないか?というシチュ」が好きとかかいてあって、なんつっかもう一生ついていきます。
http://www.vesta.dti.ne.jp/~hagane/txtlog/200302.html

 エセルドレーダ萌え。
 アル可愛い。

 だが、やはりここはウェスパシアヌスについて語らねばなるまい。
 実は苦労人っぽい。努力でのし上がって来たタイプ。子供の頃は不遇だったに違いない。たぶんワインの味なんて、ほんとうはわからない。で、わからないくせに知った口をきく。でもって、そんな自分の俗物ぶりをけっこう気に入ってる、みたいな。うわあ理想的だ。おおきくなったらああいうえせしんしになりたいです。
 「難しい年頃だなあ」ってセリフがあのタイミングで出ますか。「いや世知辛い」もかなり。「これがなかなかに下品な甘さでね」。セリフは記憶に頼って書いてるので怪しい。



(Monday, 28-Apr-2003)

 『タイタス・クロウの事件簿』読了。こっちも「久遠に伏したるもの死することなく〜」って訳を採用してるのか。あとバッド・トリップ・ワインとか。それにしてもオビが凄いですな。「邪神対名探偵」。ちなみにラヴクラフトの作品との最大の差は、主人公が不屈の闘志の持ち主である点です。インテリだけど。

 デモベ第1話の詰め込みぶりはちょっとオーガン小説版のあとがき(主役メカが「科学者が秘密裡に建造していた切り札」であり、かつ「敵の裏切り者」である、という一挙両得のアイデア)を思い出すのであるが。
 



(Sunday, 27-Apr-2003)

 デモンベイン。アルEDひとつめ。ロボットアニメの最終回っぽい方。最後に出てくる絵が沙漠に落ちたデモンベインである所がとてもよい。その前には「デモンベインは、少女の願いに応えた」もあるし。あの、図体はデカいが徹底して寡黙で控え目な御仁にも、こういう見せ場は必要だ。
 つうか、どのキャラにも作り手の愛が感じられます。あんたいい人だな。


 しかしその、なんだ。もう終わり? ちぇー。まだあそこにもあそこにも行ってないじゃん。最終話はだいたい「さあこっからイデオン発動篇だぞ」くらいの気分でやってたので、辛うじて満足、というのが本音ですが。勝手な言い分だのう。
 こんだけネタがありゃ、2クールプラス発動篇くらいやってもお釣りが出そうなのだが。
 テリオン一時退場、その間はウテナでいうと根室記念館みたいな話を一クールやって、とかやれば3クールはもつネタだ。
 つうか、これから第二部宇宙篇が始まるぞ、とか言われてもあたしゃ驚かない、そのくらいの心積もりでいたわけですが。最後のへん。

 最終戦闘は絶頂モンでした。あんな場所やそんな場所で! 無茶な超兵器の応酬から鋼の拳のド突き合いまで! 個人的にはもう少し長くてもよかったかな、と思うけれど。まあ長すぎるって人も多いか。


 
 なんだかあからさまに分岐があるくさいのだが、EDひとつ見てしまうと、セーブポイントからやり直す気になれない。



(Saturday, 26-Apr-2003)

 デモンベイン#1〜#8。止まりませんよ? 話の続きが気になるっつーより、「次はどう来るんだ?」って感じ。ほら、エヴァのアスカ襲来の前後とか、ウテナのカンガルー→奇蹟→カレーのコンボとか、色々ありましょう。ノリの振れ幅が大きい。
 ヴェドゴニアも序盤は香織の胸揉んだりしてる(でマッハ突きくらう)んだけど、ああいうのはすぐ消えちゃうからね。関係ないが小説版(WHITE NIGHTのほう)の挿絵は必見。巻末の対談とセットでどうぞ。

 過去のニトロの作品に比して、キャラがどうにも薄いというか軽いというか、当初はそういう印象がある。まあ、ハリウッド映画より少年マンガが薄っぺらい程度にさ。単に依拠するリアリティが異なっているというだけであり、特に優劣を述べるようなことではないが。
 作品内にちりばめられたネタの数々にしてもたぶん同様で、だ。


 テクストの話。ノリノリである。内容の伝達よりは装飾。事実ではなく印象。たとえば「銃」について述べるなら、第一義的に「殺意の象徴」である、といったふうな。

 日常会話レヴェルでは、何だね、こう女の子(たち)に振り回されてばかりだと、ちょっと荒川工みたいなノリで幸せだネ! どいつもこいつも人の話聞かないし。
 あと、読んでて楽しくないテクストは書かない、という姿勢らしい。単なる「説明(情報伝達)」や「つなぎ」のことば──野球でいえば、単にストライクを取りに行くようなボールというか──は存在しない。



(Friday, 25-Apr-2003)

 『童貞としての宮沢賢治』読了。書き出しを見るに、より正確には「オナニストとしての賢治」らしいと踏んで買ったのだが、終わってみれば「交換不可能な贈与」みたいな落しどころになってて無念。つまり、性の問題は対人意識の問題へずらされ、終いにゃ贈与論として終わる。一般化の度合いが過ぎて賢治の話になってない。
 いや、時代背景とかそのへんは面白いのですが。ぶっちゃけ僕がこのテの本を読む目的はといえば、興味のある話題にかこつけて歴史に対する無知を補う、というのが半分くらいあるので。あと『永訣の朝』の裏バージョンとかそういう資料な。

 しかしどうも学生のレポートじみている。論題に必要な部分だけ拾い読みして作ったような印象である。ぎこちない。
 たとえば『太宰治 弱さを演じるということ』(安藤宏/ちくま新書)は、さすがに太宰の全集を何度も読み返しているだけのことはある、というソツのない書き方だったのだが。

 それはそうと、タイトル見てもしやと思ったが、やはり小谷野敦が一枚噛んでいた。



(Thursday, 24-Apr-2003)

 「元気」を「元長」と読んでしまった。



(Wednesday, 23-Apr-2003)

 つまり赤色とか血液とか苦悶とか絶望とか。このテのフレーズを見るためだけにメルブラを起動してしまう。



(Sunday, 20-Apr-2003)

 モエかん。冬葉。

 ケロQで『星の銀貨』っつうとどうしても永井均『ルサンチマンの哲学』を連想してしまうのだが、それとは特に関係なかったので、安心したような釈然としないような。

 「祝福」と「物語」についての、あるいは「共感」についてのささやかな一篇。悪くない。

 メイド養成施設の話なので学園モノといえばそうなのだが、最も幸福な結末はといえば、やっぱりみんなして学園にとどまることなのであった。

 いや、お話の中の女の子を幸せにしてあげるのは、とても大切なことですよ?

 ところで、リニアと冬葉がSCA-自氏のシナリオらしい。露骨に他と差がありすぎる。


 じゃ総評つうか雑感。
 ますたぁの言が的確かと。最後の段落ね。あとは内田樹氏の『スターシップ・トゥルーパーズ』評で足りる。

 もう少し詳しく。
 なんかタダの萌えゲーじゃん。しかも破綻した、などと言おうものなら「ふふ、あたまの悪いやつには困ったもんだ。つまり、過剰に萌え/泣きゲーらしく振舞うことによって同ジャンルの法則を意識的に前景化する、という、すぐれて批評的な作品なのだよ」とか言われそうだ。
 「らしく」というのは、なにもキャラが萌え要素と/な無茶設定で武装していることのみを指すのではない。なによりこの作品では、物語の運動を支配するのは、主人公がヒロインのことを「思い出す」という行為である。うちの日記の10/6〜あたりでもそういう話はしてますが。ちなみにDALさんの「思い出す」は更科修一郎か誰かがモトだそうなのですが。

 「思い出す」。『センチメンタルグラフティ』を『Kanon』が徹底化し『水月』が作品内の事象として取り込んだ例のアレだ。もちろん『sense off』でもいい。を主人公はヒロインとの過去を思い出すことによって種々の(時に相互に矛盾した設定の)物語に参入することになる。
 おそらくは意図的に設定を破綻させている。といっても『sense off』ほどエッジが際立つわけでもなく『水月』のように世界観とするわけでなく『Kanon』のようにアイロニカル(些細な出来事が決定的に重要になってしまう)でもない。『夏祭』のように露骨でもない。せいぜいが表面的に茶化している程度だ。ついでにいえば、浸ろうとすればそれなりに浸れるヌルい世界ではあるので、腹を立てるような代物でもない。単に受け手にサービスしてるだけかもしれない。


《第二に、主人公が女の子との思い出を最初はすっかり忘れていて、デートを重ねるごとにそれを思い出してゆくという展開。これも子供時代の記憶を呼び出して「せつなさ」を演出することが主眼なのでは決してなくて、ギャルゲーの主人公(プレイヤーキャラクター)が初めは誰にも惚れておらず、プレイヤーの選択を反映して徐々に内面を形成してゆかねばならないというシステム上の制約を受けて導入された物語だと言うべきだろう(なお、そのうち論じようと思う『Kanon』はこの点に関するもっとすごい徹底化の事例だ)。》というのがastazapoteの『センチメンタルグラフティ』評であるのだが、『モエかん』はむしろ、プレイヤーをおいてけぼりにして過剰に露悪的に「せつなさ」を陳列してみせる。頭が悪いといっても小賢しいといってもいい。どっちにしろろくなものではない。「せいぜいが表面的に茶化している程度」と書いたのはそういう意味だ。もちろん『sense off』だってそうさ。ただ、『モエかん』については、冒頭で奇矯な設定を呈示して終盤で(相対的に)凡庸な物語に落とす、という落差の付け方になっている点が異なっている。「一見フツー」から始まって無茶な設定が出てくる、というのがまあ、通常の泣きゲーの手法だけど、モエかんは逆なのな。まあ、だからどう、というわけでもないのだが。



(Saturday, 19-Apr-2003)

 THEビッグオー#12〜#24

 ドロシーが。R.ドロシーが。ああもう。君はR.ドロシー・ウェインライトだ。もっと正確には、ロボット・ドロシー・ウェインライト。
 いつも仏頂面で好き勝手言ってるだけのくせに、どうしてロジャーに好かれますか。男はみんな馬鹿ですか。少なくとも俺は馬鹿ですが。エンジェルだってそら穏やかじゃないだろう。

 #12と#24、やたら景気のいい音楽のもとド突き合う二体の巨大ロボ、それだけで他は何にもいらない、あたしゃ割とそういう人です。明瞭な人型のくせ、角度しだいで爆撃機そのものに見えるビッグ・デュオが素晴らしい。堀勝之佑の声も好き。GZ。

 記憶を奪われた世界。或いは根拠を奪われた世界。かれらの信頼に明白な根拠はなく、動機に根拠はなく、世界には根拠がない。客観的な真は到達不能で、個人的な信は無根拠に主張される。この屋敷では黒い服を着用のこと、というルールと同程度の根拠。



(Friday, 18-Apr-2003)

 デモンベイン体験版。
 プロローグ。次元間を彷徨いながら、果てしなく戦い続ける二体の巨大ロボット。ロマンである。「大魔獣激闘 鋼の鬼」というか(アレは小説版の方が面白かったけど)。
 このへんで既に抵抗不能になってます。

 あと、ハカイダーが天地上下の構えを! 

 ノベルゲーという形式を考えると、「魔術」というファクターはうまい。魔法(ハリポタなんかの)とちがって、魔術は学知であり技法でありサイエンスでありアートであるからして、理屈っぽい説明は避けて通れぬ。文章使えるなら有利だ。


 モエかん。鈴希。確かにここは楽園だと思う。あとはどうでもよい。



(Wednesday, 16-Apr-2003)

 「躾のなってない子は強く叱らないと覚えないからね」

 モエかん。かずさ。古臭い言い回しは萌えです。「つむじはやめれ腹がくだる」とか。

 話が動き出して以降は心底どうでも良い。書き手の技量と愛(思い入れ)の、両方が足りない。或いは悪意が足りない。せめてどれか一つが充分ならなあ。



(Tuesday, 15-Apr-2003)

 モエかん。
《青い空、太陽が照りつける世界は、
どんな荘厳な建造物ですら、
なにかの悪質な冗談に感じられることがある。》
 ……バタイユ?
 いや酒井健『バタイユ入門』(ちくま新書)しか知りませんが。ああ、『文学と悪』も読んだっけ。

 それはともかく、リニアEDまで。話が動き出してからは割とどうでもよい。設定消化を過不足なくやって伏線を最低限回収して、とそんなもの。まあ不満のないデキだし、独特の味もあるが、普通。
 どうしても、何か物騒なオモチャを隠し持っているんじゃないかという警戒と猜疑が消えぬままEDまで行ってしまった。ケロQのゲームという先入観の(というかトばした設定からくる印象の)なせる業だが。

 テツガクっぽい言い回しがもうひとつ求心力を欠いたまま投げ出されてる気がするのですが。

 リニアさんに言わせると、流れる雲には心があるそうで、なんとなれば、自分には心なんてないから、雲を見て何かを感じるなら、心は雲の側にこそある。風よ雲よ心あらば教えてくれ。

 現象学者にいわせると意識とは常に何かについての意識であるというがならばそれが私に属すのか対象に属すのか論ずるのはまったくもって無意味なことではないのかね? なんつってな。

 保坂和志が記憶について書いている。ある場所に行った時だけ思い出せる記憶、というのがある(実のところ、大抵はそんなものだ)が、そうした記憶は、もしかしたら人間よりは場所に属している、と言うべきではないか、と。
 まあ記憶ってのはおおむね、向こうから勝手にやってくるものっちゃあそうなんだけどさ。

 ああしかし、ハッピーエンドをなめてはいかん。観客が求めるの幸福な結末ではなく幸福が必然となるような結末だ。そうでなければ閉幕はありえない、と信仰せしめるのでなければハッピーエンドは失敗なのだ。この点でとらハ3は相当に申し分なかったのだけれど。



(Monday, 14-Apr-2003)


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