忸怩たるループ  2003年7月
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 どうも釈然としないので『ハルヒ』のことばかり考えている。

 そんなわけで昔ならたぶん「恋愛」へと回収されることに物凄く反撥したはずなのだが、今となっては別の釈然としない思いがある。つまり、どいつもこいつもハルヒの居ないところで楽しいことしやがって、だ。
 そらキョンはとっくに面白いメ(ハルヒ的には、だけど)に遭ってるからいいけどさ、じゃあハルヒはどうなんのさ。これ知ってる、「彼女だけが世界から疎外されてる」(『Sense Off』風にいえばね)ってやつだ。
 Sense Offでやってたのはみんなが見てないものが見える」ゆえの疎外だが、こちらはむしろ、ヒロインの認識が常識的なものであるにもかかわらず(彼女の世界には結局、宇宙人も未来人も登場せずじまいだ)、それゆえに部室の連中には誰も共有されないってことでさ。ちょいとやりきれない。

(Thursday, 31-Jul-2003)

 やまうちさん、らぶー。バレてるやもですが「一度にそうたんとのことは」は『マルクスの悟達』で「小説を書こうとして書かれた小説」が『Xへの手紙』。あと枯堂夏子についてはいろいろ書いてた気がするんですが残ってるのはあとこれくらい。大好きよ、強くなくても/エラくなくても/頑張らなくても/負けてばかりでも。守ってほしいわけじゃないし勇気や力に惚れたわけでもない。
 というのは全く当たり前でさ、ただいっしょにいたいだけなのが当たり前で、なのに男の子と来たら走ったり守ったりしなきゃならないというのはどうも誰も幸せにしない思想ですよええ。

(Wednesday, 30-Jul-2003)

 どうもKeyの新作(移植は除く)が出ないと一年経ったという気がしない。また夏がくるのはわかるのだが。

(Tuesday, 29-Jul-2003)

 『地底人伝説』(中学生日記)についてもう少し。

 「犬どうしって、かみあってるのかなあ」
 彼女の目線の先には、じゃれあう二匹の犬。求愛行動は成功したらしい。
 「かみあってません。嗅ぎあってます」
 彼の答えはどうにも見当違いだ。

 こいつらに限らず、どいつもこいつもほんとうに噛み合わない。齟齬は意識されるときは苦痛で意識されぬときは滑稽だ。と書いてみたが、やはり「批評の言葉はどんなにしても作品よりまじめすぎる」(吉本隆明『悲劇の解読』)のが悩ましい。笑いながら観るべきものなんだけど。

 聞くところによれば名古屋の中学校には地底人伝説というものがあり、たとえばあかずの焼却炉の扉は地底人の棲処への扉だったりする。地底人とはつまり最底辺のいじめられっ子の身方であるらしいとか、なんだか願いを叶えてくれるとか、定かではない。
 現実が共同幻想であるとするなら中学校の現実の担い手は常識をろくに弁えぬガキどもであり、だから学校にはそのテの噂はつきものだし、地底人は立派に現実的な存在だ。心の底からは信じていなくとも、存在するものとして会話が成立するなら同じことだ。つまりかれらの現実ってのはそういうものでさ。

(Monday, 28-Jul-2003)

▼CROSS†CHANNEL体験版、ハルヒ

 CROSS†CHANNEL体験版(テックジャイアン付録)。微妙だなあ。

 とりあえず夏(残暑だけど)でループで部室で屋上でアンテナってだけで抵抗不能ではある。さして暑くもなく蝉も鳴かない九月であったり蝉が鳴いていて残暑が厳しかったりする夏というか残暑。俺はどうやらアンテナを組み立てねばならないらしい。
 奇妙な非現実感というか現実遊離感が全編に漂うのがループゲーのお約束ですね。夏だけあってCGはあまりに光り輝いていて美しい。追憶はつねに美しい。美しいのは追憶だけである。よってここでは、現在をあたかも追憶であるかのように眺める視点(つまりはメランコリーの一形態)が視覚印象として構成されるわけですね。うわ。
 ええと、メランコリー云々については木村敏『時間と自己』(中公新書)、三浦雅士『メランコリーの水脈』(講談社文芸文庫)等をどうぞ。最初のへんだけでいいと思います(僕も最初のへんしか記憶にない)。

 とりあえず娘さんとの会話は良い。一例を挙げればメガネで先輩でたゆんたゆんで一見天然系で偽善者くさいというちょっとそれはやりすぎじゃないかという方がいらっしゃるのだが(絵柄があっさりめなのでわりと抵抗ないけど)、この方の口調が一定しない。おっとりさんではあるのだが、いつもおっとりした口調で喋るわけではなく、言葉の調子というのは会話の成り行きによって、或は俺の預かり知らぬ何か彼女内部の事情によって、あっさり変わる。まあ、たまには珍しい喋り方も出るのが自然だろう。これがまた嫌味なく決まっててね。あんまり狙った感じはしないのよおわかりか(無理)。ままならねーです。

 なんつうかネタバレ抜きに語れない代物なのが悩ましい。まあオフィシャルの説明も嘘は言っていないが、いちばん作品の正体に近いのは某画像のALT(この空が消えてなくなる日まで」くらいなもんである。
 それでも悩ましいからちょっとバラすと、「腐り姫」「Sense Off」「リバーズ・エンド」等の単語に聞き覚えのある方はご連絡下さい、的な。いやこれは僕が勝手に、もしかしたらそんな風になるんじゃないかと予想したまでで、実際どうかわからんけどさ。

 であと特筆すべき点といえば、セクハラが楽しい。いやもう。かのりんにセクハラしたい──ってのはだいぶ違う方面ですが。なんだかんだ言って主人公は耳年増(これ男の子に使うと違和感ありますが)な純情少年の域を出ないので。それと、ひっきりなしに特定方面のネタが反復されるのはそれだけで幸福感の演出にはなります。つまり御堂くんのオカハラ(オカルト・ハラスメント=霊的いやがらせ。桑田乃梨子『おそろしくて言えない』参照)とかね。

 で日常的なバカやってる部分はいいんだけど、シリアスになったりなんか謎設定がほのめかされたりする段になるとどうにも不安になる。どうしてこう古臭いんだ。いると思う次第。

 残暑というのは気分的には夏で、夏にはループゲーが多い気がする。『プリズマティカリゼーション』『かぜおと、ちりん』『ひとかた』『腐り姫』等。『AIR』も気分的には「繰り返し」だ。夏の無茶な陽射しだの暑さだのは既視感と親和性が高い。どうも光量が多すぎて何もかも映画のセットかなんかみたいに見えたりする。

 ……

 余勢を駆って(というかちょっとした予感に導かれ)、永らく積んでいた『涼宮ハルヒの憂鬱』をようやく読むことにする。あ、セクハラつながり。部室つながりでもある。

 よくわかんない。つうかあれだ、俺がきっと鈍すぎるんだ。鈍いってのは単純に知的な意味で、「行間を読む」という作業を久しく行っていなかったのが敗因のひとつではあるんだけれど。
 
 滅多に思わないのだけれど、こればかりはもっと若い頃に読みたかったように思う。いや、若くなくてもいいから、たとえば僕がいま中島梓『わが心のフラッシュマン』にハマってたりしてくれれば。

 僕はとっくに宇宙人だの未来人だの超能力者だのからは逃げてしまっている。ついでにいえば、(男女の)恋愛を自明の動機とする発想をかつては敵としていたが、今では変則のボーイミーツガールくらいは認めてもいい気になっているしさ。もちろん思春期のバイブルは『小説道場』だったさ。

 いや、個人的な話なんだけどさ、宇宙人やら未来人やらロボットやらを「あっちの世界」に追いやってしまったことに、けっこう忸怩たる思いがあるのですよ今でも。だからこの作品はとても痛い。
 現実逃避という言葉の意味はわからない。現実と妥協しただけの敗北主義者がリアリスト面をしているのはまったく笑えない話です。

 いや、昔の自分ならこういう感想になった(同意した)だろうな、ってことでしかありませんが。

(Sunday, 27-Jul-2003)

▼『しずるさんと偏屈な死者たち』

 上遠野浩平『しずるさんと偏屈な死者たち』(富士見ミステリー文庫)は先日立ち読みしたのだが結局買うことにした。
 表紙がゴスロリ(つってもそうなのは表紙だけだが)、メインキャラが猟奇殺人に興味を示すこと、等からどうしても乙一『GOTH』を連想するのだが、もちろん上遠野浩平は乙一みたいに、諸要素をそのまま放り出して並べて済ませるような真似はしない。上遠野浩平はあまりに倫理的すぎるのだ。それこそ荒木飛呂彦みたいに。
 換言すれば、登場人物は「理由」を、意識化された規範的な行動原理を持っている。あるいはまた、意識せずとも、世界をなんらかの形でよきものにしようとする人物は作品内で顕彰される。つまりはそういうことだ。

 たとえば『GOTH』には、「理由」というファクターが不在だ。実をいえば乙一は最初(『夏と花火と私の死体』)からそうで、妙な出来事がいくら起きようが当たり前のように書くし、当たり前のことに理由は要らない。倫理の不在も自明の前提にすぎない。
 単に端的に理由なく目的無くただ猟奇殺人するために猟奇殺人を行う存在である犯人と、べつだん理由もなく猟奇的なことがらに興味を示す主人公=探偵はここでもやはり対になっている。事件の真相のためには、探偵と犯人は同じ目を持たねばならないから。探偵と犯人の同質性はつとに指摘されていたはずだ。


 この世にあるのは「ごまかし」だけ──そう、『しずるさん〜』のオビには書いてあった。


 しずるさんは猟奇殺人に興味を示すけれども、思うに彼女はほんとうの猟奇殺人には興味を示すまい。つまり、猟奇的に人を殺さんがためだけに猟奇的に人を殺した、という類の事件には。
 彼女が興味を示すのは、ある種の「ごまかし」だけだ。名探偵にふさわしく、警察の地道な操作でもなんとかなりそうな事件には興味がない。もしかしたら猟奇殺人は単に結果としてそう見えるだけなのかもしれない。見かけの割に実はおそろしくくだらない「ごまかし」の結果にすぎないのかもしれない。そういう予感だけが彼女を動かす。実際にどう転ぶかはともかく。
 回復のあてのない入院患者であるしずるさんは、放っておけばとっくに死んでいる自分がいま生きていることがやはり「ごまかし」かもしれない、なんて言ったりする(そしてよーちゃんを困らせる)から、これは倫理的というより「探偵と犯人の対称性」に回収すべきかもしれない。がなんにせよ、しずるさんには理由があるのである。

 上遠野浩平はライトノベルというよりはジュヴナイル(ライトノベルとの最大の差は「おじさん」が書いている点だ)じみた印象があるのだが、これは文体のせいもあるが、倫理性ないし律儀に理由にこだわる点にあるという気がする。

 あとまあ、しずるさんのよーちゃんへの惚れっぷりはどーよ。よーちゃんがめっさ朴念仁(女の子に使う言葉じゃないけど)で、ちっともそれに気付かないところなんかもうお約束ながら身悶えせずにはいられないんですが。つうか真面目に受け取られないのをいいことにナニ恥ずかしいこと言ってますかアナタ。

 さして重要でないことを付け加えておくと、この本もやっぱりそんなに面白くない。あと文章酷い。

(Sunday, 20-Jul-2003)

▼なつみさんは、別嬪さんだ。

 思うに今の自分にはロボが足りない。そう天啓(電波ともいう)が下ったので三雲丘斗『ワイヤレスハートチャイルド』(徳間デュアル文庫)。いや、ほんとうはいつだって足りないのだが。個人的にはスーザン・キャルヴィンとまったく同意見で、「かれらは人間よりずっと優秀な種属ですよ」と認めるのにやぶさかではない。なぜそのへんの喫茶店ではセリオさんがウェイトレスやってませんか。つまり僕としては『セリ風』みたいな描写が些かなりともあればそれで満足する予定だったわけで。

 ちゃんとした書評はこのへんで。

 ところで、なつみさんは地の文でしか喋らない。つまりカギカッコ(「」)つきのセリフがない。いかにもおっとりと静かに喋ってそうな感じがして実によろしい。
 なつみさんは古い海外ミステリが好きで、ミッシツとか、アリバイとか、まあなんてことでしょう、とか、そういうひどく古風な言い回しをたまにする。
 といってもだがしかし、なつみさんは探偵役ではない、どころか単なる脇役でしかない。まあわずか数百行のプログラムで動いてるわけだし。ダニール・オリヴォーでさえ探偵役を務めるまでには随分とかかったものだ。だからなつみさんが最後に、つけたしみたいに言い出す「スイリ」なんてほんとうにたかが知れている。

 もしできたらやさしさを定義してください、というのは『谷川俊太郎の33の質問』のひとつで、訊かれた人はいろいろな答えをしていたが僕が覚えているのはモーツァルトの小夜曲の一節の楽譜が載っていたことくらいだ。何にせよこの作品ではそれは、極めてシンプルな指令の組み合わせから最適解が導き出されるようなものだ。より正確には、端的に最適な行動がとられる。人間の知性が仮にシンプルな指令の組み合わせで再現できるとして、優しさもまたそうだとして、しかし人間は欠陥製品だからそうはいかない。だからロボットは圧倒的に善人であるのは致し方ない。みもふたもなく善良である。なつみさんの「スイリ」と来たら! そいつはまったく底が知れていて、だがそこでそれを言い出すということがあまりに最適で、優しさというのはそういう、意識的な「配慮」とはまた別の何者かであることを僕は疑いません。アレだ、リティルにとっての本田高広。

 あと「ただのロボット」とは何事ですか! 貴様こそ「ただの人間」の分際で! スーザン・キャルヴィン(アシモフ『われはロボット』等に登場の)だってロボットについて「かれらは無垢で純粋で、人間よりずっと優秀な種属ですよ」と言っておるではないか。そして、何度も繰返して言わねばならないが、ひとびとは、「機械によって再現される」というだけの理由によって、かつては人間的な美徳だったものを、しばしば非人間的な属性としてしりぞけるのである。たしか三浦雅士がそんなことを書いていたはずだ(たぶん「サイエンス・フィクションまたは隠れたる神」、所収は講談社学術文庫『私という現象』)。

 ところでこの本はちっとも面白くない。やや萌えどまり。

(Friday, 18-Jul-2003)

 主人公がヘタレだと相対的かつ自動的 にヒロインたちの魅力が増す
 それだ!

(Thursday, 17-Jul-2003)

 遅れてきた私信。しかし書いてるのはいいがアップできるのはいつになるんだろう。僕は文章を書き始めることは多いが無事に書き終えることが滅多にないのです。

 東浩紀が時間について書いてるというと、『不過視なものの世界』(朝日新聞社)の法月綸太郎との対談あたりですかね。精神分析医の(そしてある種の名探偵の)語る「真実」は、時間をかけて語られねば「真」たりえない、とかそういう話。
 僕としては「確率」(ソルジェニーツィン試論がらみの)がそのまま、時間的な順序とそれへの意識、という話だと言いたい。

 あと、以前にも書いたけれど、東浩紀の「確率」はいつも、Kanon真琴シナリオの話として読んでしまいます。

 見なしていいのかと言われれば、僕が「文学的」と評した時点で、正当性とは無縁の話になっているとお考えください。「正しさ」に対抗するための言説は僕には必要です。

 あとさ、観鈴ちんが幸せだって言ったらあなたはそれでいいの? ということも、ならば訊いてみたい(意地悪)。

 前にも書いたけど、確率だの交換可能性だの匿名性だのの話はKanon真琴シナリオあたりを念頭に置きながら読んでます。

(Wednesday, 16-Jul-2003)

 まだ京都。
 おねてぃ。ようやく観たわけさ。途中で力尽きて寝てしまったのだが。
 実をいえば、宇宙人がどうとか聞いてちょっとそのセンスはないだろう、と思って敬遠していたのだが、実際観てみるとそんなに違和感はない。つまり実際に見てみなければわからないことがあって、たとえば夏の陽射しと田舎の風景である。夏の陽射しは現実感を狂わせるし、まして田舎の風景が重なれば尚更だ。何が起こっても不思議ではない。主題歌云々よりもこちらの方が余程エロゲーくさい。もっともこのへんはエロゲーならずとも、たとえば邦画あたりも。いや『水の旅人』くらいしか出てきませんが。なお、宇宙人そのものよりは、それが日本語を喋っててメガネで美人の先生である、ということの方が異常度は高い。
 ちなみに主人公は学園生活を送っているんだけれども、どうも療養中のような雰囲気がある。ここは主人公にとって何か「別の」場所なのだ。特別なことが起こるための。

 結婚→恋愛という流れ。こういう主人公が「停滞」を脱する鍵は、外面的現実的な契機が荷担する必要があるわけでね。内面性はあとからやってくる。何かと「内面」が先行しがちな恋愛系エロゲーとは異質な感触があるように思うし、さんざんエロゲ臭いといわれた割に随分とTV媒体で流しても問題ないものになっているような気がする。正直いって随分と一般的に観れる代物だと思うのだが。

(Tuesday, 15-Jul-2003)

▼その後。

 さて宴会ののちはみんな寝るか帰るかしてしまい僕はヒマだったのでそのへんを漁り『宇宙のステルヴィア』と書かれたテープがあったので勝手に再生した。観たことなかったし。おお、これが噂のしーぽんか。しかしどいつもこいつも主人公に好意的なのが引っかかる。

 とかくするうちに起き出してくる者もいて、それなりに楽しい鑑賞会っぽく。いや二名だけですが。つってもグレートミッションまでは『大運動会』『ハリー・ポッター』『サイバーフォーミュラ』で片付く程度の代物で、そういう話ばっかりなんだけど。いちばん近のはハリポタな。主人公の甘やかされ具合が。

 しかしまあとりあえず、天才が容赦なく天才なので気持ちいい。才能の差とはかくも残酷なまでに絶対的であり、努力では決して超えられないのである。
 もっとも、適切な師(音山くん)を得たことこそが重要で、師はそれ自身としては必ずしも弟子より優れている必要はないこと、あたりが新味っちゃあ新味。

 佐藤監督の作品はきまってそうなんだけど、感情移入を作劇の基本に置いていない。つまり三谷幸喜のコメディがそうであるように。具体的にはキャラのモノローグがほとんどないし、「心情」ではなく「行動」や「事件」が主になっている。佐藤竜雄の他作家に対するアドバンテージは、「キャラへの感情移入」以外の原理による作劇(コメディなら当然の手法なんだけど)を、しかもキャラ萌え主体の作品としてやってみせることにある。

 気がついた(気になった)点を挙げるとすれば、キャラ同士の感情的な軋轢や齟齬の少なさか。いちいち説明するのはめんどくさいので、シチュエーション的に似る『大運動会』や『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』、なんなら『機動戦士ガンダム』と比較してみるといい。

 ところで『自由を考える』を読んだ直後だと、「戦争」概念が機能不全に陥ってしまう(つまり概念や定義が現実の状況に追いついていない)気持悪さが、けっこうわかりやすい気がしました。

 ……

 アニメ版D・N・ANGEL。こういうのを男女兼用(惑星開発委員会で大月アニメがそう評されていたはずだ)と呼ぶのだろうか。とりあえず原田姉と日渡くん。人工呼吸後の勝ち誇った顔がもう! というか男女のキスシーンはOKでもヤロー同士の人工呼吸はNGですかそうですか。あと、原田妹がデザイン的に透くんに似てることで無闇と腹を立てていた気がする(病気)。いや、何かとえらく楽しかったんですが。終始笑いっぱなし萌えっぱなしで。あと好きなコの写真見て変身するってどうよ。ドキドキダイナモ?
 というか恋心にドキドキすると別人に変身してしまう、というのはとてもかわいそうなので早くなんとかしてください。あと妹はやめとけ。
 

(Monday, 14-Jul-2003)

▼鍋とか。

 野菜を切りながらアニメのエアマスターを観てたら、ちっとも進まないので怒られました。というくらい面白い。
 映像的には過不足のない出来。ただアニメにすると、挌闘シーンの嘘臭さが増すのはマイナス。つまり原作だと割と「ワケのワカらないうちにやられた」的にごまかせるんだけど、過程を全部見せちゃうと端的にありえねえので。死エロと似たようなこと言ってますが。
 まあそれでも作ってて楽しそうなアニメなので何かと元気が出る気がするのだが、むしろ特筆すべきは声! 坂本ジュリエッタ! 変態キター! 緩急の付け方なんざ完璧。それと土井美加が二十歳の役を!(あんまりな驚き方)
 まあ、出来栄え云々よりも、とにかく楽しめる代物だと思うのでござるよ。


 鍋食う。
 中学生日記より「地底人伝説」#3・4。これを観ずして何を観る。ネットパル含めて知り合い全員に布教したくてたまらないのだが、形容する言葉が見つからぬ。つまり、屋上で少女がチェロを弾いていて、それは彼への呪いだという。彼はいじめられっ子で、地底人で、彼女を振った相手で、新聞部で、その音は部室の彼の意識下に浸透し彼女の存在を刻み付けるであろう。「女の子より男の子の方が好きなの?」「選ぶような権利、僕にはないから……」。ダメだ伝えられねえ。
 現実とは共同幻想であり中学校とはつまるところ非常識なガキ共の共同幻想の場であり、然り、そこには地底人は現実に存在せざるをえないのです、なんて理屈もなんにもならない。とにかく観たまえ。
 あと「部室」「屋上」「河原」とかそういうシーンになる度に脳内のギャルゲー野が活性化してしまうのが我ながらどうかと思った。いや「部室」って憧れてたんですよ今まで一度たりとも縁がなかったもので。いやそれはともかく、アヤシゲな備品?満載の部室(新聞部)で男の子はピアノを弾き女の子は何かアヤシゲな縫製に精を出し傍らには地底人の出現を報ずる校内新聞が山積み(記憶に基く再構成なので実際とは違ってるかも)ってあーた。此処は避難所にして妄想の発信地なんつって。


(Sunday, 13-Jul-2003)

▼上洛。

 電車で『動物化する世界のなかで』読む。しまった面白い。そして読んでて辛い。しまいにゃ泣く。
 双方の問題構成が見事にすれ違っている。東浩紀は性急で笠井潔はどんくさい。この朴念仁。
 あと『自由を考える』がいきなり『闘争のエチカ』っぽく見えて(もちろん、そう見えるというだけだが)きてぐんにょり。『闘争のエチカ』は重宝するんですけど。図式化した方がなにかと楽なので。何がって、生きることとかさ。

 ……

 新大阪駅の書店で上遠野浩平『しずるさんと偏屈な死者たち』立ち読み。上遠野浩平の本は読まなくなって久しいのだが、土踏まず日記の記述が気になったので。あ、よーちゃんって女の子なのカー。
 しずるさん、とか、よーちゃん、とか、そうゆう呼び方だけでごはん三杯いけます。ちょっと末真と新刻っぽい。喋り方がどうも昔のジュヴナイルみたいでちっとも女の子らしくないつうかいかにもおじさんが書いたみたいなんですが、それはそれで味です。あと最初の話の自販機のエピソードが赤面モノ。
 いいやもう。あんたら充分幸せだよ。

 ……

 中学生日記。死体写真の回(『R-15』)。相変わらずヘン。どうしてそう始まってそう終わる?
 むしろ気になったのは予告にあった次回の「勝ちたい」。クラスの中が「勝ち組」と「負け組」に分かれてて……という話らしい。で、底辺の三人衆(当然男子)が、代表一名にクラス一の美少女をオとさせて地位挽回を図る、らしい。うわあ気になる。中学校はそれはそれは残酷で容赦ないパワーゲームの舞台なのでありまして、ハタから見てりゃばかばかしい限りだが当人たちはそんなことで生きたり死んだりしかねないほど現実的なのでございますよ。わかってるなあ。

 ……

 河原で飲む。久しぶりにイヤというほど人と話す。中身は武装錬金&GBW、オートマチック・リボルバー、東浩紀、ラヴクラフト等だった気がするが、ほとんど内容を覚えていない。無念。

(Saturday, 12-Jul-2003)

▼ウィル・デューラント『西洋哲学物語』(講談社学術文庫)

《「自殺をしたくなければ、いつでも仕事をしなさい」(タレンタイア、九三)
 自殺が絶えず誘惑していたにちがいなかった。なぜなら彼は絶えず仕事をしていたから。》(ウィル・デューラント『西洋哲学物語』)

 ヴォルテール萌えのつづき。
 今日われわれがヴォルテールを読まないというのも、彼があまりに勝ちすぎたからだ。《われわれはすでに別の戦場に来てしまった》。たとえばわれわれは、言葉によって対話しそれを基に徐々に前進しようとする。少なくともそうするのが望ましいと思っている。である以上、彼はいまなお勝ちっぱなしだともいえるのだ。《「我らは、話と筆で人をいっそう啓蒙し、改善することができる」》。」
 というわけで「ヴォルテールとフランス啓蒙」の章は、とりわけ人物伝色の強いものとなっている。というかこの著者特有のありあまる豊富な引用の悉くが人間ヴォルテールに捧げられている。「地獄がその全権力をその手に与えた男」! 《当時は万物が破壊者を呼び求める時代であった。「笑う獅子きたるべし」とニーチェは言った。然り、ヴォルテールが来た。そして「笑いながら破壊した」》。
 いやもう、「然り、」と来たもんだ。
 ところでこの本には、《ニーチェは「喜ばしい知恵、軽い詩脚、機知、火、優美、強い論理、尊大な知力、星の舞踏」について語っている。彼がヴォルテールのことを考えていたのは確かだ》とあるのですが、これってどの程度に根拠のあることなんですかね。初耳だったもので。

《ぶあいそで、みにくく、うぬぼれで、軽薄で、卑猥で、慎みなく、不誠実なときさえある》《ところがこの同じヴォルテールには、不断の親切心があり、思いやり深く、労力にも金にも気前がよく、友を助けるにも、敵を挫くにも、こつこつと精を出し、ペンを一なでするだけで殺すこともできるが、仲直りの最初の提言ですぐに武器を捨てる》

 そしてとうぜん、引き立て役が要る。わかりやすく対照的で、強敵であるほどいい。というわけで陰気なルソーの登場である。

《さてヴォルテールの横にルソーを並べてみよう。彼は全身熱と幻想で、崇高でいて空虚な夢想を懐く人間で、「心には、頭脳がとうてい理解できない心の理性がある」とパスカルのように公言するブルジョワ淑女(la bourgeoise gentile-femme)の偶像なのである。》
《ルソーは少しも理性を信じない》

 時代はやがてルソーの、すなわち暴力と行動による改革の方向へ歩むのだけれど。

 ヴォルテールの有名な言葉に「私は君が言うただの一言にも同意しない。だが君がそれを言う権利を護るためには死をも辞さない」(「手紙のヴォルテール」)というのがある。「ただの一言にも同意しない」のである。「君の意見には反対だが」なんてヌルく訳されると、相手にも一理あると認めているかのようなニュアンスがあってよろしくない(いや、原文は知らないけど)。これは論敵ルソーへの発言だが、彼のルソー評たるや散々なもので、(社会契約論について)「いまやジャン・ジャックが哲学者に似ているのは、正に猿が人間に似ているようなものである」。ここに何を読み取るべきだろうか。相互に対等な立場で対話的理性を働かせましょう、などという生温い話ではないのは確かだ。相手の知性がまるきり評価に値しないとしても、なおも言葉なのだ。

《「書物は世界を支配する。でなければ、少なくとも世界の中の書かれた言語のある国民を支配する。それ以外の国は問題にならない」》


(Friday, 11-Jul-2003)

▼東浩紀・大澤真幸『自由を考える』

 東浩紀・大澤真幸『自由を考える』(NHKブックス)読了。面白かった! 困惑した!
 あと、用語の定義をゆるやかに留めておいて、とりあえず「話を進める」という方法(このへんは内田樹『寝ながら学べる構造主義』のまえがきを参照)は、僕なんかには痛快といっていい。森の中にいるなら、手持ちのブツが斧か鉞かを云々している暇はないのだ。当たったら痛い方がマサカリだっけ(修羅の門)。

 カフカの「掟の門」の寓話(『審判』の)が引き合いに出されてるせいでそういう印象になるのかもしれないけれど、これはなんつうか文学的な仕事だ。つまり、未だはっきりとした言葉が与えられていない、明瞭に概念化されていない、何より合理的な正当性や説得性を未だ獲得していない何か、を言語化するための試み。

 真っ先に連想したのは、オルダス・ハクスリィ『すばらしい新世界』や栗本薫『レダ』であり、あれらの世界では誰もが自由意志に従い幸福である。誰もが「自分らしく生きる」ことができる。だから何も問題はないはずなだ。けれどもそこでは、人間にとって決定的な何かが失われている、という感じが強くする。少なくともそう感じさせることを意図して書かれているのは、主人公がその社会に不全感を感じていると設定されていることからも明瞭だ。
 『すばらしい新世界』では、遺伝子操作と幼児教育と睡眠学習により誰もが自分に最適の社会的な位置を得、それに不満を感じることがない。精神的な不満や不快は「ソーマ」という薬の服用によりすみやかに解消される。ついでにいえばフリーセックスが極限まで普及しているので、恋愛感情はただちに性交によって解消されるというか、むしろ端的に恋愛が存在しない。かの社会の人々は『ロミオとジュリエット』をまったく理解することができない。恋愛に障害が存在する、という事態そのものが想像だに出来ないし、そもそも恋愛を理解しない。ついでにいえば過去の社会に対する想像力を決定的に欠いている。およそ歴史というものは、現状に満足している人間には意識されないものだ。ひとが歴史を学ぶ動機の多くは、現代を相対化するためであろうから。
 『レダ』の社会は、あらゆる個人にその適性に応じた社会内の位置を与え、社会不適応者のためのコミュニティまで用意されている。その「紊乱者」たちもまた、健康で文化的な生活は十二分に保障されている。ついでにいえば学校の授業には「会話術」という科目があり、そこでは、いかにして互いに不快感を味わうことなく、相互に承認と敬意を交わすか、ということが、ただそれだけが追求されている。
 『一九八四年』を持ち出すならこっちにしなよ。

 あとメモ。
 「神がいなくなったと思ったら、もっと強烈な管理ネットワークの時代がやってきた」「神がいなくなったからすべてが可能である(倫理的には)といっても、その「可能」の外延は技術や環境によって決定されている」「それはゲームのコマンドですね」

 「父性が失われて行った先に、(ゲーム)システムが父性として機能する」?

 さてこの本の「まえがき」は「理論の没落と現場主義の台頭」についてのものである。で、おそらくデータベース消費=現場主義。統一的理念なき現場主義(対症療法)というのはそのまま、複数のヒロインを攻略し異なった物語をその場その場で消費して矛盾を感じない、ギャルゲーのプレイヤーみたいなもんじゃないのか? とか。つまり「統一的な自我」こそが「第三者の審級」であり、それが撤退したがゆえに多重人格的に振舞えるという。
 じゃあギャルゲーでは何でも可能で複数の女の子と同時恋愛しつつ初回からハーレムED、というわけにいくかというとゆかない。ゲームシステムによってそれは禁止される。シナリオは分割され、その中では極めて統一的な人格として(少なくとも女の子に対しては)振舞うことになる。もちろん東浩紀はまるでこんなことは言ってないのだが。いちいち異同を明らかにする意力は僕にはないので各人同書をあたられたい。

 まあ、ゲームに喩えて現実を語ることができるなら、その議論をゲームに適用することも可能だ、という話。フロイトは集団の行動の比喩により個人の自我を説明したが、ならば個人の自我についての理論によって集団を論じることも可能だとして実際にやっちまったのは岸田秀である(余談)。だからこの本をゲームの「自由度を考える」として読むことは充分に可能であるわけで、
ヤマウチさんの記述だと「ゲーム性」が父性的なイデオロギーっぽく(僕には)見えるけれど、DALさんがそれを「ゲームシステム」と
呼び換えたわ)

 あと、この本の感想としては、「意識される(内面化される)」かどうか、ということにやけに拘ってるのに違和感があった。意識的に規範に従うことと、結果として規範(秩序)的に振舞うということに、さほど本質的な差があるとは思わない。唯物論者にしてみれば自由意志も動物的な反応も同じことだ。もちろん東浩紀だってそんな本質論を言ってるんじゃなくて、状況に適切に対応した言葉の使い方をしているだけなのだが。
 つまり「ゲームシステムが父性の役割を果たしている」という話を本気でやろうとすると、つまりこの本に即してに限ってはなんだけど、「ゲームシステムが規範的に内面化されている」と主張するか、あるいは内面化の有無を問題にしないか、というどちらかにしかならない。もちろん「象徴界」についてなら、それはもともと単なるシステムであり物理的限界であり動物的というより機械的な反応だけでできあがってるようなもの(斎藤環を読むとそんな感じ)なのであるが。

(Thursday, 10-Jul-2003)

 『CROSS†CHANNEL』が気になる今日このごろ。具体的には、「太一の姉的存在(自称)で婚約者(自称)で一心同体(自称)」「太一のピンチになるとどこからともなく姿を見せる」とか、あとこっちも。「田舎」の使い方ワカってる感じ(どっちも)。しかし最大の関心はCPG108頁上のCGの左下あたり。百合物件?

 ただどうも「苛烈」とか「品格」とかの用法が不安を誘うのだが。

(Tuesday, 8-Jul-2003)

って。

(Monday, 7-Jul-2003)

 フルバ再読。そういえば透君のスカートも短い。フルバを読み始めてからそれなりに経つが、本田透というキャラを意識するまでは随分と時間がかかった。彼女は透明な語り手のようなものと(あるいはギャルゲーの主人公みたいなものと)いう感覚でいたわけだ。その状況が変わったのは10巻からなのだが、これは要するに透くんの物語がドラマの主軸になりそうな予感が呈示されているためであり、僕が何か変わったというわけでは別になく、作品の形式に忠実に読んでいけば必然そうなる、というだけのことだから特に言うまでもないことなのだけれど。
 それはそれとして、7巻で中学生の透君は豆腐を買って帰るのに水を張ったボウルを用いているのだけれど、あのような光景はいつごろまで実際に見られた(もしくは今でも見られる)ものなのか、気になる。昨日の「蝿帳」(最近は「フードカバー」という名で売られている)は、今でも夏場は見かけると思うのだけれど。

(Sunday, 6-Jul-2003)

▼「わたし、ちょっとまずい子なんです」

 かーなーたーさーん。きゅう。

 某所での教唆により『Candy Toys』体験版なぞやっておるわけですが。なんか少女マンガ読みとかフルバスキーにはお薦めらしいので。
 少女マンガはろくに読まなくなって久しいが、フルバの名を出されたら取敢えずチェックせねばなるまい。何が「なるまい」よ。

 サイトのゲーム紹介を見たらいきなり調教ゲーらしくて何故フルバ、という気になったのも束の間、ああ透くんね。またですか。『家族計画』にもいたじゃないですか。あれは機能的には主人公が本田透なんだけど(というか本田透がやるようなことを悉く恋愛に直結させるとギャルゲーの主人公になるわけだが)、いや話がそれた。
 話がそれたので、ニ行でわかる『Candy Toys』。色々あって、夾くん(十年後)が透くんを調教する破目に。でも童貞と処女なのでたいへん。以上。
 ひとつ屋根の下で別々の部屋でエロ本読んでお勉強。ぬしらは馬鹿か。

 それでまあ、「どんどん透に逆らえなくなってきてるな」「おもしろいわね…」(『フルーツバスケット』4巻)ってのがそのまま楽しめます。夾の視点で。だーめーだーおーぼーれーるー。
 思うに「バカだから」と安心している慊人さんは甘いので、頭悪くてお節介で善意と好意を基本戦略とする女の子ってのは勝利することになってる。
 ウザがるのは上等。相手を意識し何かを期待しているということだからね。もちろん相手によるけどさ。

 あと、細かいネタがわりと豊富で好み。
 古くなった緑茶は焙じ茶に!(緑茶からできるのです) ハサミを研ぐにはアルミホイルを重ねて切る!
 あとなんかこいつ(かなたさん)「サッポロ」っていう味噌汁つくりやがんですけど、「作り方はですね、まずサラダオイルでモヤシとキャベツの芯と、それとニンニクの薄切りを炒めるんです。そこにトウガラシを加えて……」
 それはラーメンではないかと思うのだが主人公も世間知らずなので「ふーん」とか言って聞いてる。あと「貧乏蚊帳」じゃなくて「蝿帳」な。
 そんな感じ。

(Saturday, 5-Jul-2003)

▼「ピンク色の甲殻」

 『闇に囁くもの』読了。
 それはそうと、巡回中ふとしたことからジオンの水中モビルスーツ部隊の夜間上陸、みたいな画像を目にしたのだが、水から上がってくるズゴックを見ても邪神の眷属に見える始末である。
 鉤爪のついた手、膨れ上がった頭部、眼はとりわけ異様で、きみょうに幾何学的な形をした眼窩は闇黒をたたえており、そのなかをただ一つの不気味に光る眸が、いうにいわれぬ非人間的な動きを見せていた。そして思い出すも不快な毒々しいピンク色の甲殻をまとっているのだが、「そんな姿をしているにもかかわらず、全体の輪郭はいまいましいほど人間に似てい」た。なんつってな。


(Friday, 4-Jul-2003)

▼「旧神の呪文」

 『未知なるカダスを夢に求めて』(創元の全集で)読了。大瀧啓裕の解説では、故郷プロヴィデンスに戻った喜びを胸に誰に見せる予定もなく書かれた云々とあるが、成程である。
 とにかく幸せである。『ピックマンのモデル』の食屍鬼さえも、あたかも冒険小説における好意的な原住民のような扱いである。ドリームランドはまさしく彼の夢の国であり、彼のつくりだしたフィクションの住人がかれの分身たるランドルフ・カーターと協調的なのは当たり前なのだ。いや要するにヌルいんだけどさ。ただ、夢であろうと他者は他者であり、外なる宇宙の蕃神どもはやはり不吉な影を落とすわけだが。

 「旧神の呪文」という単語に出くわして(242頁)ちょっとびっくりしたのだが、原文ではSpells of the Elder Onesとなっていた。

 なおダーレスの「旧神」は初期にはElder GodsではなくOld Onesで、これはHPLが『インスマスを覆う影』でDeep OnesとCthulhuを封印したOld Ones、という書き方をしていた点に根拠が求められよう。HPLの著作を読む限りでは、統一的な神話体系を目していたとはとても思えず、むしろ人間の認識は限られており、相互に矛盾するような情報が登場するのが当然、という態度ではなかろうか。

(Thursday, 3-Jul-2003)

▼「その数が」

 MELTY BLOODのネロパッチを入れてみた。そういえば今更というにもほどがあるが、横文字での綴りを見るに、ネロ・カオスってつまりネロンカエサル・カオスなわけね。666の獣だけあって。参考:ゲマトリア

 ネロ教授は日本語は不得手なご様子。

 あと、《ポンペイの遺跡に、「私は、その数が545であるような彼女を愛している」という有名な落書きがあるそうだが、》のソースが気になるきょうこのごろ。

(Wednesday, 2-Jul-2003)


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