忸怩たるループ  2003年8月
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 内田樹『ためらいの倫理学』(角川文庫)読了。「ためらいの倫理学」が面白かった。つまり書名と同名のカミュ論のほう。
 『現代思想のパフォーマンス』の「ジャック・ラカン」の章でもカミュについて論じられていて、そこでは『異邦人』はつまり、象徴界への参入を拒否し「人間」(精神分析的な、というかラカン的な意味での)になりそこなう話である、といったことが論じられていたように思う。記憶に従って書いているので自信がありませんが。
 「ためらいの倫理学」はその続きなんだけど、これがまんま「第三者の審級抜きで可能な倫理とはいかなるものか」という(「第三者の審級」という用語は見えないが)話である。
 もっともカミュの時代にはまだ「大きな物語の喪失」という大きな物語、が機能していたんじゃなかろうか。そして現代では(笠井潔が『終焉の終り』で論じたように)その「喪失感」さえ失われているわけだが。

 「無意味な死を無意味なままに悼む」こと。言い換えれば、交換価値を付与しないこと。文学ってのはそういうものらしいです。

(8/31)


 上洛。いろいろ観た。
 中学生日記はなんか山中で鍋やってた。食うために殺すのと惚れ薬の材料として殺すのではぜんぜんちがいますよう。あとオチが古典的でちょっとびっくり。というのは割とどうでもよく、絵的に、またシーンの繋ぎ/切り替わり方的に、キャラ的に、とにかく妙で/に楽しい。

 なにはなくとも『D.N.ANGEL』。原田さん(つまり妹)がかっこいい。
 ちょっと前までは愛されたがりの色ボケ小娘だったのに。気が付けば、愛されるよりもまず「愛すること」を喜びの本質とする、そんな境地に達してしまわれています。失恋とはそういうものだ。蚊トンボを獅子に変えるといいますか。もう梨紅さんでは逆立ちしたって太刀打ちできませんぜ。


 

(8/30)



 sense off 用語辞典。力になりたい気はするけれど、いまの私にはネタがない。

(8/29)


 ポポロクロイス#9〜#14。ヒュウのためらいを反映してか、ダレ場くさい。男の子は「負けて泣いて立ち直り」(つまり「強さ」を求め)、女の子はともすれば色恋沙汰に滑り落ちる、というだけである。
 ひとつだけ見るべき点があるとすれば、ヒュウが出て行った理由が、たとえば特定の事件の結果とか、そうしたものではないことだ。ふと気付いてしまうときには気付いてしまうのである。もちろんそこに至る伏線はいくつかあるのだが、そう一直線につながるものではない。自分に用意した言い訳はあるがたぶん言い訳でしかあるまい。
 ところで#15からそろそろ正念場の前哨戦(妙な日本語だが)、みたいになりそうな気配。なのでここで一休みしておく。

 それはそうと、オープニングが好きです。主人公が出てくる前に、ひとつお話があるところが。それが主人公の両親であるらしいとわかるのは第1話を観終えてからで、つまり性急に伝えようとしているのではない。ついでにいえばナレーションによる説明もない。本編で語られる物語には、当然「その前」もあればたぶん後もある。いちいち頭から主張するようなことではないけれど、触れずに済ませるのも忍びない、というバランス感覚がはたらいているのかどうか知りませんが。作品を信用できそうな気がする(もしくは作り手の誠実さを)としたら、たとえばこうした点による。

(8/28)


 Princess Bride!(その3)

 2chのスレ(13cm アーヴォリオ/エロゲ板)も参考に、そろそろ決定版くさいものを。cheer me waitin'とかいろいろ捻ってたけれど、Brideといえばそっちか。あのとき聞こえたラ行と「が」はそれか、等。すっかり他力本願だなあ。
 多分これで心置きなく聴ける(しっくり来ない表記が若干あるが)。めでたい。

 しかしなんだ、思いついて当然のものが思いつかないと、何か無意識の抑圧が働いてますか、という気にならなくもない。

 じゃ下に。例によって隠します。

Princess Bride!


I want to be your princess.
I want to be your princess.
Tell me, my prince.
What can I do for you?(can I do for you?)

今から胸ドキドキ 彼の部屋の前
宿題なんか せっせっせっせ やってる場合じゃないって
独占欲メラメラ 待ってるだけじゃダメだって
勇気を出して KNOCK! KNOCK! 小さな小さな大冒険

二人の進度どれほど? ここの戦法は NO GUARD
好感度は word? card? 一世一度の seminude
ベッドは二人の island これでリード virgin road
私には early? それでもこの際だ アリ!

お見通しよ 林檎の booby trap
齧るなら 甘い forbidden fruit
勝手に覗くわ 鏡よ鏡
自分撮りでキャラ作り "Snow White"

乙女の pride 夢の bride
Lovin' Callin' Feelin' Healin' Kissin' Again Darling!
秘密に触れてよ もう震えない
朝も昼も夜もずっと好きになってく

広がるよ世界 めまいするくらい
Cryin' Smilin' Fallin' Flyin' Charmin' Weddin' Heroine!
腕を伸ばしてよ ぎゅっとつかむから
朝も昼も夜もずっと抱きしめて


(meow...)



 8/29追記:こちらのスレ218氏の情報をもとに一部修正。
 8/30追記:デモに基き一部の表記などを修正。

(8/27)


 ポポロクロイス物語#1〜#8。ヒュウがちょっと他人とは思えんのですが。
 いや、ものすごくだめな子なんですけどね。わがままで浅墓で意地っ張り。自分の気持にも他人の気持にも疎い。そのくせ自分への好意だけは確実に利用する、その好意の内実なんてよくわかっちゃいないくせにだ。違いがあるとすれば自覚の有無で、つまり僕の方がとしをくっているというだけだが。たぶんそれは良くも悪くも絶望的な差だろう。
 大森望の「かつて少年だったすべての人に」(週刊新潮の『イリヤの空、UFOの夏』評)というのに倣っていうなら、こいつは「かつて子供だったすべての人に」。とりわけ、子供であるということが、そのとき子供でしかなかったということが、どれほどとりかえしがつかないか理解できる人に。
 もっともこの作品、いかにも「大人から見た」感が強いので(だから1998年当時は観れなかった)、子供時代をそれなりに遠くに感じられる必要はあるかもしれない。
 ねえ、わかりますか。子供である、ということはそれだけで残酷なんですよ? つまりかれら自身にとって。もちろんそいつは、単なる未熟と無知にすぎないのだけれど、大人から見ればつまらないことであっても、子供にとっては世界の全てなんですよ? たとえば人情の機微なんて概念さえない。たった一言謝るのに一世一度の決心が要る。つい心にもないことを言ってしまう、という事態が理解できない。どころが自分が嘘をついていることさえわからない。でも世界はかれらに世間知が身に付くのを待ってくれやしない。いずれ誰にだってわかるようなことを今は与えてくれない。おまけに、ファンタジーという世界観は、子供の気まぐれやとるにたらぬ失策が、世界にとって致命的な影響を与えかねない、そんな風に機能している。えげつない。

(8/26)


 Princess Bride!(その2)

 頼れる後輩からメールで指摘が(というわけで、そのメールの歌詞部分をこちらに)。ああ、言われてみれば確かに!(林檎) この吾輩の節穴な眼をもってしても見抜けなかったのである!(Dr.ウェスト)
 つまり「実」より「花嫁」に意識が行っていたわけか。

 ……

 ああ、確かに世界が!

 というわけで修正版。表記を好みに近づけた。

I want to be your princess.
I want to be your princess.
Tell me, my prince,
What can I do for you?(can I do for you?)

今から胸ドキドキ 彼の部屋の前
宿題なんか せっせせっせ やってる場合じゃないって
独占欲メラメラ 待ってるだけじゃダメだって
勇気を出して Knock! Knock! 小さな小さな大冒険

二人の進度どれほど? ここの戦法は no guard
好感度は word? card? 一世一度の seminude
ベッドは二人の island これでリード virgin road
私には early? それともこの際だ アリ!

お見通しよ 林檎の booby trap
齧るなら 甘い forbidden fruit
勝手に覗くわ 鏡よ鏡
自分撮りでキャラ作り Snow White

乙女の pride 夢の bride
Lovin' followin' feelin' healin' kiss me again, darling!
秘密に触れてよ もう震えない
朝も昼も夜もずっと好きになってくる

回るよ世界 めまいするくらい
Cryin' smilin' fallin' flyin' show me a way heroine!
腕を伸ばしてよ ぎゅっとつかむから
朝も昼も夜もずっと抱きしめて


(8/25)


 Princess Bride!

 やってみました。
 「以下,読み進める前に出来れば自分で歌を聞いて書き取りをやってみてほしい.おそらく,面白いと思うから.」だそうなので。 確かにこれは面白い。日常的には我々は意味をやりとりしていて、音声はあまり顧られることがない(だから通じなかったときには別の語で言い換える)し、音韻とはえてして、意味がわかったあとでようやく弁別されるものだ。だからどうってわけでもないけれど。

 じゃあ下に僕の書き取ったやつを。とりあえず隠しておきます。答合わせは自分でやってからにしましょうってことで。

I want to be your princess.
I want to be your princess.
Tell me my prince,
What can I do for you?(can I do fo you?)

今から胸 doki doki 彼の部屋の前
宿題なんか sesse sesse やってる場合じゃないって
独占欲 mera mera 待ってるだけじゃダメだって
勇気を出してknock knock 小さな小さな大冒険!

二人の進度どれほど ここの戦法は no-guard
好感度はword? card? 一世一度の seminude
ベッドは二人のisland 木漏れ日の virgin road
私には early? それともこの際 darling!

お見通しよringの booby trap
齧るなら甘い forbidden fruit
勝手に朗読は「鏡よ鏡」
自分ノリでキャラ作り "Snow White"

乙女の pride 夢の bride
Lovin', callin', feelin', healin', and kiss me again darling!
秘密に触れてよもう震えない
朝も昼も夜もずっと好きになって
くり上がる世界めまいするくらい
Cryin', smilin', fallin', flyin', and tell me what you are, heroine?
腕をのばしてよぎゅっとつかむから
朝も昼も夜もずっと抱きしめて

(meow...)

 辞書を引き引きやった。「一世一度」という言葉は耳馴れない気がしたがちゃんと載っていた。
 僕のについていえば、今にして思うとどう考えても間違ってる部分とか、何度聞いてもそうは聞こえない部分とか、表記のノリを統一しようとして挫折したとか、そういうのが混じってます。お察し下さい。

 やっぱり数時間かかったけれど、あっという間でした。面白いこと教えてくれた曽我さんに感謝。

(8/23)


C.Fさんの8月21日

 仰ることはわかっているつもりです。ただ、これは対話ではなくモノローグになってしまうのですが、僕がいま気になっている「強さ」は、たとえば「木々の声や日々のざわめきに似た/奇跡の足音に気づいたら/こんなにまた強くなれる」という部分であったりします。強くあるための条件と根拠といいますか。

 AIR/鳥の詩については、
「いつまでも変わらずにいられなかったこと/悔しくて指を離す」というリフレインに挟まれて、「いつまでも真っ直ぐに僕たちはあるように/わだつみのような強さを守れるよ きっと」という言葉が入る。
 つまりそこでは、「強さ」とは、未来において期待されるものであり、また、(自分たちにとっては)既に失われたものであるわけです。どちらにせよ現在では決して手に入らない(作品内では、「さようなら」と告げられてしまった主人公たちには決して届かない、主人公たちにはたんに「苛酷な日々」が与えられ、訣別の言葉が投げかけられるのみです)、そういうものとして構想されたフシがある──とここまではいくらでも見かけた話なんですが、(これとか)
 僕が気になっているのは、「わだつみのような強さ」がどっから(或は何に対抗して)出て来たのか、という点であったりします。可能な限り具体的に。

(8/22)


 三浦雅士/麻枝准、メランコリー(その2)

 三浦雅士『メランコリーの水脈』について。昨日のつづき。

 一年ほど前に、『鳥の詩』(むろん『AIR』のOPのことだ)についてのメールを知人から受け取った。以下はその一節。

 《簡単に概要だけ説明させていただきますと、「鳥の歌」の詩の中では、
ひとつのセンテンス中にいくつもの時間が交錯していることがある。そこでは
「現在から未来を思い、そこから過去を回想する」とか「いまだ犯されていない罪を
未来において償わされている」といったような、非常に複雑な状態が現出する。》

 「鳥の詩」の歌詞を読みさえすればこれは誰にでも納得されうる指摘であろう。だが問題は、これはが何を意味するかだ。

(なおこの指摘は、「時間意識に限れば、『風の辿り着く場所』にも適用できるだろう──「罪」「強さ」といったモチーフの有無について一考する必要はあるが。そしてなにより『ONE』における交錯する時間意識。)

 ところで三浦雅士は『メランコリーの水脈』において次のように述べている。

 《木村敏は『時間と自己』において、メランコリー者にあっては「過去・現在・未来をまとめた歴史的展開の全体が『とりかえしのつかない』確定性 において経験される」と述べている。未来までもがすでに終わってしまったもののように感じられるというのである。》
 《『仮面の告白』の語り手はいう。

 空襲を人一倍おそれてゐるくせに、同時に私は何か甘い期待で死を待ちかねてもゐた。たびたび言ふやうに、私には未来が重荷なのであつた。人生ははじめから義務観念で私を締め付けた。義務の遂行が私にとって不可能であることがわかつてゐながら、人生は私を、義務不履行の故をもって責めさいなむのであつた。

 (……)未来において不履行であることによっていま責められているというのだ。この倒錯ははなはだしいが、これこそまさにメランコリーの時間というべきであろう。(……)さらに語り手は、やがて恋人になるはずの女性に初めて会ったときに感じた感情がなぜか悔恨であったと述べ、「明らかな矛盾ながら、罪に先立つ悔恨といふものがあるのではなからうか? 私の存在そのものの悔恨が?」と問うている。罪に先立つ悔恨が、すでに終わってしまった未来に責められるという意識に対応していることは明らかである。しかも、悔恨とは「とりかえしのつかない」確定性に対して抱かれる感情なのだ。》

 換言すればここでは、「現在から未来を思い、そこから現在を回想する」「いまだ犯されていない罪を現在において償わされている」という、上記『鳥の詩』よりやや単純ながら類似した時間意識がはたらいているといってよい。またここで、「罪に先立つ悔恨」めいた例として、anemoscopeの、《まだ知らない悲しみがあると言って、/少女は泣き続けた/ そんな悲しみ、どこにもないのに》という一節を挙げることもできよう。
 ここで麻枝准の過去の仕事における「時間的な倒錯」をいちいち追ってみたい誘惑にかられるのだが、またの機会に。
 それでもひとつだけいっておく。三浦雅士はまた、(メランコリー者の)《現実との直接的な接触を欠いた眼は、あたかも望遠鏡を逆さに覗きでもしたように、すべてを遠くに見てしまうのである。すべてを遠くに見てしまう眼は、時間的にはすべてを過ぎ去ったもののように見てしまう眼、現在をまるで過去のように見てしまう眼である。虚無感は、このような眼差しの帰結であって、その逆ではないように思われる。》と述べている。ここでわれわれは、時間的な距離と空間的な距離を同時に発生させみもふたもなく体現した、「永遠の世界」というガジェットを既に知っているわけだ。

 もちろん『ONE』にしろ『Kanon』にしろ『AIR』にしろ、そこに描かれているのはメランコリーとの闘争であって肯定ではない、「とりかえしのつかなさ」から発してそれでも希望とハッピーエンドに至る道だ。主人公は自身の無力を彼の生存の自明の前提として習わされているから、ちょっとした迂回路がいる。更科氏のいう「浩平の本能=作者=プレイヤー」ってのは恐らくそういうことです。『ONE』で描かれるのは「追憶のような現在」か「現在のような追憶」であるようだが(ちなみに今木は前者を支持)、未来から確定した過去を回想する(ような意識である)以上、ありえないはずの、「選択肢による変化」。

 『Kanon』は随分と「とりかえしのつかなさ」というモチーフが強調されるように思うし(麻枝准パートの話ですが)、『AIR』といえば主人公の無力さだ。このへんまではなんとかわかるんだけど、『風の辿り着く場所』がそれでも未来への明るい確信を感じさせ、『鳥の詩』が「強さ」への希望を歌っている(ゲーム本編の終わり方に準じて)、というあたりの意味は掴み損ねている気がするのです。誰かやってくれませんかねえ。

(8/18)


 三浦雅士/麻枝准、メランコリー(その1)

 三浦雅士による麻枝准、みたいな話。

 《追憶は美しい。美しいものは追憶だけである》(三浦雅士『自分が死ぬということ』

 とのっけから引用しておいて何だが、『自分が死ぬということ』は手許にないので上のやつは記憶に従っている。ちなみに前書きの部分。たしか、あるとき目前の風景があまりに美しく見えそのことに恐怖した、とかそんな話。なんとなれば、美しく見えたということは彼が目の前の現実に距離を置いてしまっているということだからであり、何もかも終末の側から眺めているからであるからだ。このことは、他人からしばしば嫌な目つきを責められたことによっても証されるかと思われた、云々。

 三浦雅士の議論だと、現実との疎隔(を必要とする心性)の結果として、あたかも追憶のように現在を見るようになる、そして追憶の美しさを目前の風景に付与してしまう。
 だが思うに、実際に意識される限りでは、美しく見えてしまった、という方が先で、そこから先は解釈にすぎない。『ONE』に即して言えば、目の前の日常を大切だと思ってしまったが最後、永遠の世界に片足つっこむ破目になる、という具合だ。
 『風の辿り着く場所』をメランコリーとして読んでしまうのは、ひとつにはそこで描かれる世界があまりに美しいせいだ。ちなみに山内さん言うところの「多幸感」を僕は感じたが、それは同時にメランコリックなものでもあった。それは目の前にあるくせ「思い出に還る」幸福であった気がした。もっともそれは、僕がもともとメランコリックな人間であるか、たまたまそういう状態だったというだけの話である気はするが。気分に流されやすいたちなので。

 《金閣寺がいづれ焼けると思ふと、耐へがたい物事も耐へやすくなった。(……)自然とすら私は和解した。冬の朝な朝な、梅もどきの残んの実を啄みに来る小鳥たちの胸毛にも親しみを抱いた》(三島由紀夫『金閣寺』)

 三浦雅士『メランコリーの水脈』は、この一節を引き、現実との疎隔感は解消されたのではなく受容されたのだ、と述べている。いいかえれば彼の世界が手に入れたのは追憶の美である、ということだ。

 というわけで時間の話に続く。

 と、その前に。
 こういう話を書いてた矢先にこんなもの(8/16)を発見。むろん、未来から現在を回想する、という視点は必ずしもメランコリーを意味しない、ということは言っておかなくてはならない。あと「末期の眼」とかそのへんはまた別の機会に。というか何だったっけ?

(8/17)


 8/9のための付記。
 「それじゃ駄目かな」(冒頭引用部参)と問われれば僕はもちろん「駄目」と答える。だいたい、それだけで済ませるようではキャラへの愛が足りないというもの だ。きちんと筆を割いてやんな。ただ「悲しみや不幸だけを感動だと感知するシステムよりいいと思う」と言われりゃ反論はできない。もっともこのあたりは、個々の 作品に即して具体的に検証するのでなくば、結局は空疎な一般論となる。


 「美しさはそれ自体が説得力を持つ」。(ハッピーエンドの)説得力は、たとえば物語上の因果(あるいはキャラクターの人格の優劣や行動の如何)によらねばならぬわけではない。
以下は半分は与太として聞いてほしいのだが、ギャルゲーにおいては、ギャルによって語られる、それに萌える、というのが説得力を構成する、という場合がありうる。たとえばKanon真琴シナリオ。突拍子もなければ他愛もない空想めいた語りを語る天野さんに萌えることと、街の人間の半分が云々と信じ真琴シナリオのハッピーエンドを認めることは一つであって二つでない。また信じるというほどでなくていい。一瞬でも「そんなことがあってもおかしくない」という気分に人をさせるだけで、作品としては何ほどかのことをなしたことになる。一度でも知ってしまったら戻れまい。

 ……

 以下は8/16の日記。
 転叫院さんと会いました。やっぱ3時間じゃ足りない。話が弾んだためではなく(僕は初対面でひとと話が噛み合ったためしがないのですが)、むしろその逆の理由ですが。こちらも何か準備していけばよかったと思うけれど、結局はたぶん同じことになった気もします。まあ、会って話すことの目的は会って話すことなので良し。

 ……

 ところで、このサイトに登場する人名は概ね、ネットが先行した知り合いばかりである。京都で実際に会ったり世話になったりする面々とは、Web上ではほとんど付き合い(つまり日記の相互参照とか)がないものだなあ、ということを改めて意識したりした。だからどうというわけでもありませんが。

(8/16)


 京都。
 で、観た。

 何はなくとも『D.N.ANGEL』。「みつけたよ」から最新まで。大介がついにコクったー! 
 で、背がのびたなあ男っぽく見えるなあとと思った次の週には、学園祭の劇でヒロイン役に選ばれてしまうのがいと哀れ。しかも満場一致で、つまり、こないだ告白してOKだった彼女まで、一票入れているのである。学園モノのお約束、の残酷さをふと感じた次第。



 そしてなぜか『直撃!地獄拳』。千葉真一の変な拳法がまんま『恐怖奇形人間』なんだそうだ。
 6年前、麻薬捜査の際、密売組織の用心棒の格闘技により殺された六人の警官(このあたりで何かがおかしい)。その弔い合戦に、元・警視総監(現在は素手の殺し屋。まちがっている)は格闘技の腕っこきを集めることにする(もう勝手にやってくれ)。
 まあ粗筋の無茶さもさることながら、実際の演技はもう何がなんだかである。たとえば、敵のボスの津川雅彦は常に女をはべらせている。正確にはまとわりつかせている。立っている時も坐っている時も会議している時も。何なんだ。そんな感じ。
 ちなみに続編もあるそうです。

(8/15)


 レティサンス

 ハルヒ話。あれをボーイミーツガールとして読むためのおさらい。初読のときそのへんちょっと掴み損ねてた気がするので。
 ハルヒ側については、あんよさんの があれば十全なので、キョンについて若干。
 いや、キョンの一人称叙述を額面通り受け取っていると、最後のへん「なんでそうなるの?」という具合になりかねないので。思うに本人の言っていることではなくやってることを、或は周囲の人間の言っていることに注目するべきで、人間自分のことがいちばんわからんものです。

 もうひとつ。まあ野暮だとは思うのだけれど「言い落とし(レティサンス)」について。はいはい『ノルウェイの森』ね。これの第一章を参照。つまり「恋心を自覚しているが、読者には隠している(直接に言葉にしていない)」ということも小説ではありうるわけなんです。

 たとえば、なにかと比較される滝本竜彦『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』はやはり一人称で語られる小説であり、主人公は友人の死に接し内心ではけっこう深刻に悲しんでいるんだけれどもそのように直接言及はされない。同様の例として『オネアミスの翼』を挙げてもいい。
 まあ、ものが恋愛なので、酒見賢一『語り手の事情』を挙げる方が適切かもしれませんが。こちらは単に語り手がなにかと自分に言い訳せずにおれない難儀な方である、ということなんですが。式子? キョンはむしろこっちかも。

 もちろん『ONE』の折原浩平にしろ、メランコリーを打ち消すために、わざとらしくはしゃいでみせている(誰よりも自分に対して)わけです。だから油断すると「ひとりというのがいけないんだろうな」とすぐ鬱になる。

 いずれにせよ、一人称の語りといえど、本文を額面通り受け取っているだけでは、キャラの心情に迫るのが難しい場合があるわけでして。もちろん、自分の言っていることだけをあてにしていては、自分の心情だってわかりゃしないんですけどね。

 わざわざこんなこと言う必要あるんかいな、という気はしますが。

(8/14)


 日常にだけ積もったぶんの奇跡が

 野暮か既出かその両方、という可能性にビクつきながらも言及すると、「風の辿り着く場所」の作詞は「Key」となっているが、これはまず(anemoscopeの詩ともども)麻枝准の仕事とみて間違いはない。昔のCPGの更科氏のインタビューをあたればウラは取れそうな気がするが未確認。ファン(サイト)の常識ではあるようだ。まあ、あんな言語感覚と文体の持ち主がKeyに他にいるとも考えにくいし。
 で「残りの2人」なんていう限定が働いている(残り4ないし5人ではなく)時点で、話が久弥直樹シナリオ部分に限られてしまっているので、月宮あゆ絡みのシナリオと「風の辿り着く場所」が矛盾ないし乖離しても、たんに作家性の違いで片付けてしまえるわけですが。実際のところどうかというと微妙だけど。
 個人的には、真琴シナリオのラストの天野さんのセリフが秀逸だと思う。くるん、と回る方が重要ですが。

 しかしなんで「残り2人」なんでしょうね? コレ読むと特にそう思う。
 さらにいえば、作中に一片たりとも語られないけれど、雪が降ってれば公園のおじさんが一人くらい死んでるのかもしれないので、作品を実在論的に考えるひとはそのへんにも心を痛めてればいいと思います。想像力の範囲が「少女たち」に限定されているのはまったくギャルゲーの制度性(お約束)というものですが、それにどの程度自覚的なものかたまに不安になる物言いを目にするわけで。


 おまけ。
 個人的には「見上げれば雲 遠くへの帰路」ってのはONEの「帰り道を見ている気がするよ」(永遠の世界にそんなのがあったはずだ、背景は雲)「子供のように 走る 光る海 飛び跳ねてる」はONEの冒頭(および七瀬シナリオ終盤)の反復。寧ろメランコリー。三浦雅士的なやつ。

 あと『悪魔のミカタ』10巻に、「奇跡はどのように人を成長させるか」という議論があってちょっと面白かった。まあ「魔法カメラ」の議論を裏返しにした感じで。

(8/11)


 イリヤUFO4巻。毒吐くよー。
 こうも予想通りだとフェアじゃない。ヌルい。あるいは少年少女の心に優しい。つまり悪いのは結局世界の方なんですよ。シビアな現実なんて現実の残酷さでしかありません。こんなのはフェイスレス司令にでも読ませておけばいいんです。夢を喰い夢に喰われる猫を描いたり「血の記憶」の両義性を描いたりした作家はどこへ行ってしまわれたのですか。もう筆力以外は萌え(伊藤剛いうところのpittyかこれ)しか残らない。むかし、食堂のメニューを読みあげただけで人を感動させた御仁がいたという話ですが、なんかそういう芸にしかなってないと思います。ようするに内容よりは筆力ばかりが意識されるってことですが。
 あと、読んでてどうにも竹宮恵子『風と木の詩』の最後のへんだの栗本薫『レダ』の最後のへんだのを思い浮かべてしまったので、ヌルいってのはそのへんと比べての話。

 ……

 ミカタ。何よりも自身の心が変わってしまうのを恐れる少年のお話も十冊目、まあ番外篇もあったけど、相変わらず狙ったように悪いセンスと限度を弁えぬ恋愛成分の浸透ぶりがもう。いい感じに不安にさせてくれます。でもそれだけです。
どうにも目を離し難くはあるのですがそれ以上ではなく、鶏肋という気分が本当のところです。

(8/10)


 《「それから、みんな、どうなったかって?」
「あの寂しい機械の少女や、血の宿命に翻弄された姉妹、前世の記憶に囚われた少女は? 狂気の扉を開けてしまったあの少女達は?」
「みんな みんな しあわせになりました」
「それじゃ駄目かな」
「御都合主義だ 説明不足だ」
「そう言って 怒るかな 笑うかな」
「でもさぁ」
「不幸な少女が不幸のまま終わる物語より、悲しみや不幸だけを感動だと感知するシステムよりいいと思うんだ」
「だからさ」
「不幸な女の子はこれ以上不幸にはならないのです」
「理由も伏線もなく、ただ」
「もう悲しみの一つも彼女たちにあたえるべきではないんだ」
「そして、物語は終わる」
「そっと」
「しあわせに、終わる」》(秋葉凪樹『はっぱ系・再』)

 さて現代日本人たる私たちにとって「正しい」感動とは、『ごんぎつね』であり『フランダースの犬』である。後者に関しては本来ならばキリスト教的な非現世的な「救い」こそが主題であるはずなのだが、たぶん単に悲しい話として受け取られ感動されている。ちなみに荷宮和子によれば『火垂るの墓』も最近では単に泣くために観られているそうな。
 まあ大衆娯楽といえば婦女子の紅涙を搾り取ってなんぼである。そしてドラマとは不幸のことである。『野菊の墓』でも『冬のソナタ』でもいい。手塚治虫は「その方が感動するから」という理由で作品に悲しい要素を持ち込み、そのため宮崎駿に罵られている。これは手塚治虫のサービス精神だったといっていいのだが。「神の手」がどうとかいうやつ。いま手許になくてちょっとアレなんですが『出発点』に載ってたはずだ。さてまたKanonにやや遅れて「妹モノでお涙頂戴」というコンセプトの十全な具現化でありそれ以上でもそれ以下でもない『加奈』がヒットしたのは記憶に新し……くないなあんまり。
 もちろん安易なハッピーエンドも、あるいは「笑わせて泣かせる」たぐいの娯楽作品も、世の中にはあふれており要はすべては娯楽として消費されるのであり悲しい終わり方だろうとなかろうと同じことだ。文脈を無視して引用させてもらえば《やり切れない「シリアスな現実」を思い出すちょっと哀しいラストがいいとか寝言ぬかしてる人達は、「自分達の現実」を省みた方がいい。「予定調和」な「シリアスな現実」に安穏と胡座をかいてる自分達の姿が見えないか? ハッピーエンドもちょっと哀しいラストも予定調和なことに変わりはないし、双方共に等しく御都合主義だし、娯楽とはすなわちそれを言う》。

 ……

 しあわせに理由はいらないと思います。作品はやはり受け手に対し最低限の説得力がなきゃ話にならないわけですが、少なくとも、物語上の因果によらなければならぬわけではない。
 いやほんとは、女の子は無条件でしあわせにならなきゃいけませんよ? とまあそういう思想を前提にするのでもやはり構わないし、人はすべて救われねばならない、と考えてもいいのである。
 まあ言っておくと、「救われるべき存在が救われず、救われるべきでない存在が救われる」というハナシだってなんぼでもアリですが。ホメロスとか。

 しのぶさんのこれとかこれ(『魔笛』の話)がとても好きなわけでして。

(8/9)


 さてエレアのゼノンが物体の運動を否定したとき、ディオゲネスはただ歩いてみせたといいます。キルケゴール『反復』の冒頭にそんな話が載っていた気が。
 たとえば禅問答。「この棒が実在するといえばこの棒でおまえを打つ。実在しないといえばこの棒でおまえを打つ。どっちか答えなかったらおまえを打つ」と師匠に問われた場合、「正解」のひとつは「棒を奪い取って師匠を殴る」であったりします。だから僕としては、彼女を無条件無前提に「不幸な少女」と称されたら異議のひとつも言うだろう、という答え方をします。思いや経緯については、複数の答とまとめ方が僕にはあるし、さしあたっては決定する気もなしってことで(〇点)。

(8/8)


 『涼宮ハルヒの憂鬱』再読。
 ほぼ十日前に読んで以来けっこうハルヒのことばっかり考えてます。たとえば彼女の「ちぐはぐさ」について。なんつうかその、調子っ外れのピアノを全力でぶっ叩いてるようなノリはどうしたことかね? 「分裂」という言い方でもいいけれど。
 なんつーか、お前実はバカだろ。ちったあ真面目に考えろ。おまえの考えるのは考えなくてもいいことばかりだ。

 そう、たとえば、なぜ超常現象研究会ではないのか。普通は心霊スポットを漁ったり、或は体系的にオカルトを学習したり、でなくとも種々の事例を集めたりするものだ。なぜ外見ロリでたゆんたゆんな先輩を引っ張り込んでセクハラ三昧、あまつさえ何のあてもなく市内を探索、どうかしてる。いいから落ち着け、とはキョンならずとも言いたくなるところである。いや、そういうところがほっとけないんだけどさ。ほっとけないってのは惚れたってことなんだけどそら。てかハルヒは可愛くて仕方ないです、ごめん。
 もちろんハルヒ自身がじぶんが何をやりたいのかわかっていないからだ。よーするにコイツはガキだ。で老成してるようにモノローグるキョンにしたってこの点実は同じ。俺が何やってるのかは俺がいちばん知りたい。
 端から見れば色恋沙汰以外の何者でもないのだが、そんなものだけは自分と無縁だと信じているわけでどっちも。要はそういうことなんかね。どうも恋愛モノに回収しようとすると抵抗感があるのだけれど(個人的な事情ですが)。

(8/7)


 《(……)あたしはうそなんか言ってないわ!」
「いいや、言った。あなたは確かに言ったではないか。道は二つに一つ、だと」》(うえお久光『It/ドッグデイズの終わりかた』)

 つまり問題なのは「選ばれなかった女の子」が特権的に取り出され問題化されそのことが自明視されプレイヤーキャラに好意を抱き得る可愛い女の子であるという程度にしか感情移入の理由はなかろうにそんな相手に対してだけ心を痛めてみせた程度で世界の残酷さだの他者への共感だのといった言辞が紡がれる笑止ぶりである。
 見知らぬ人間がどうなろうと知ったことか、という思考に恐怖や嫌悪を覚えるなら、じゃあ名雪シナリオでは交通事故を起こした運転手の人生は間違いなく不幸だし、舞シナリオでは久我くんとその周囲の人々はやっぱり不幸になるだろう。たいやき屋の親父はどうやったって幾許か不幸だ。きみらの心の痛みなんて、たかだか名前や顔(CG)が付随するかどうか、に限られるのではないか。
《人生でだいじなのはどんなことにも先天的な判断をすることだ。まったくの話、ひとりひとりだといつもまっとうだが大勢になると見当ちがいをやる感じだ。でも、そこから身の処し方の規則なんかひきだすのは用心して避けねばならぬ。遵守するための規則などこさえる必要もなかろう。ただ二つのものだけがある。どんな流儀でもいいが恋愛というもの、可愛い少女たちとの恋愛、それとニューオーリンズの、つまりデューク・エリントンの音楽。ほかのものは消え失せたっていい、醜いんだから。その例証がここに展開する数ページで、お話は隅から隅までぼくが想像で作りあげたものだからこそ全部ほんとの物語になっているところが強味だ。物語のいわゆる現実化とは、傾斜した熱っぽい気分で、ムラ多く波だってねじれの見える平面上に現実を投影することだ。まあ、これが打明けていい、ぎりぎり掛値なしの手ぐちだ》(ボリス・ヴィアン『日々の泡』)

 もちろん僕は女の子と前田純の音楽にしか感情は動きませんが、まさに相手が女の子であるがゆえに心が動くのでしかない、ということは知っている。それ以上でもそれ以下でもなく。どんな思想も付け加える必要はない。で女の子かどうかってのを捨象しても成り立つ議論ならギャルゲー持ち出す必要はあんまりない。ついでにいっとくと、「倫理」は感情を基盤とするものではあるまい。

 《外国で飛行機が落ちました ニュースキャスターは嬉しそうに
乗客に日本人はいませんでした いませんでした いませんでした
僕は何を思えばいいんだろう 僕は何て言えばいいんだろう……》(イエモン『JAM』)

 現に我々は海外の飛行機事故という局面では乗客が日本人であるかどうかで関心の範囲を区切っている。ギャルゲーにおいては可愛い女の子であるかどうかで関心と共感と感受性の範囲を区切るのとおなじに。
 思うに「残り二人のヒロイン」について(だけ)心の痛みを覚え、そのことによって自らを幾許かでも善良である(他者へ共感できる、あるいは趣味が良い、等)と信ずるような人々こそが凡庸なのだ。

 ついでにいえば、自分(プレイヤーキャラ)によって選ばれなかったということがすなわち該ヒロインの不幸の原因と透過的に見做しうる、という方がよほど「ツルツルした世界」じゃないかナー。可能性を考えるなら逆も考えなきゃ可能性ってことにはならない。「よかったのかもしれないし、わるかったのかもしれないし、どっちでもないかもしれない」なら話はわかる。「わるかったのかもしれない」としか言われぬのなら、それは可能性と称するのはいささかどうかと思われます。悲観主義ってんならわかるけどさ。

(8/6)


 NHKアーアカイヴズで『日本の面影』をやっていて、今回は第二回「神々の国の首都」。以前観たときは『怪談』の作者小泉八雲というのを自明の前提としていたので気付かなかったが、これは相当に妙なカップルである。つうかバカップルだろこれ。男のほうは怪談が好きで好きでたまらなくて、女の子はといえば恐い話をするのが滅法うまかったりする。金のために異人の妾になったはずがどうしてこんなことに。で主導権握ってるのは当然女の子の側になります。「今夜もうやることない! さっさと話す!」「急いでは駄目です。恐い話も恐くなくなってしまいます」つうわけで聞く方としては静かにして神妙に待ってるわけさ。しばしの沈黙のあと、少女は透明な語り部の顔になり、そこは彼女の声の支配する場となる。なんつってな。このへん『思い出の記』の描写とは微妙に食い違いますが。

 じゃ最後にもひとつ。《ふたりだけの言語。
 これを萌えと言わずに何というのか。

(8/5)



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