忸怩たるループ  2003年10月
もどる


 『野島伸司というメディア』の最初のへんを読む。

 《そして「衝撃」もまた野島ドラマがつくりだす純粋機能であり、その衝撃を衝撃たらしめるために、野島は「唐突さ」の話法を組織する。野沢ならドラマの進行を滑らかにすることによっておおむね衝撃は自然化し、しかもそこに登場人物の心情をも書き込むから、主婦売春などの衝撃は視聴者の「共感」によって結果的に緩和されるのである。そうして登場人物の独白もオブラートに包まれる。いっぽう『高校教師』以降の野島の独白は、直裁に視聴者の心理に届き、視聴者をしてドラマを対象化させる前に、彼らを魔的にくるみこんでしまう。野島ドラマにあっては、ドラマと視聴者とが距離を介在させない状態で配備され、そこで密着的一体化という事態がひきおこされる。》(阿部嘉昭『野島伸司というメディア』図書新聞)

 ちなみに阿部嘉昭が「共感」に対置するのは「反射」である。

 《野島は橋田のように、視聴者の「共感」に、自らシナリオを書くドラマを傾斜させたりはしない。彼が目論むのは「共感」ではなく、視聴者への「反射」である。(略)橋田ドラマにおいては視聴者はドラマの上に登場する人物を対象化することができる。しかし野島ドラマにおいてはドラマが視聴者にいきなり「反射」してしまうから、そうした「対象化」が確かに起こっているか否かが必ずしも明らかではない。》

 阿部嘉昭は「反射」という言葉を出すに先立って、たとえば突発的な事件映像の衝撃を挙げている。そこでは、事件を対象化する視点や、事件についての註釈は、後から遅れてやってくる。ラジオにあってはまず「声」によって語られる対象としてあった事件は、テレビの「映像」においてはそうはならない。そうした「声」に対する「映像」の優位が背景となる。

 が我々はすでに『新世紀エヴァンゲリオン』を知っているので、この、対象化が起こらずも距離を介在させぬ密着的一体化はむしろ「シンクロ」といいたくなる。物語にのっとったドラマや、キャラクターの一貫した人格への理解を前提とする(つまり対象化を前提とする)反応ではなく。それは、ある視点から見られた対象でも、語り手によって語られるべき対象でもないものへの反応だ。そこでは、観客が観客の視点のまま(あるいは特定の視点からのパースペクティヴを前提することなく)、作品内に感情的に巻き込まれることになる。

 《「唐突さ」の話法》だの《直裁に視聴者の心理に届き、視聴者をしてドラマを対象化させる前に、彼らを魔的にくるみこんでしまう》だのと言われてもちょっとわかりづらいと思うんですが(というか僕にもよくわからない)、たぶん例を挙げるとですね、『エヴァ』#14「ゼーレ、魂の座」Bパートの綾波レイのモノローグ。野火ノビタが不意に泣き出してしまった(そしてエヴァにハマるきっかけとなった)というやつ。あんな感じのかなあ、と。あとはやっぱ『ONE』の「永遠の世界」か。あとは「唐突さ」といえばやっぱり観鈴ちんで、あれは伝聞と推測によってしか彼女の事情には触れられないのだし、会話によって和らげられるようなことも起きない。

 もちろん単に唐突であればよいというものではなく、たとえば『ONE』なら、定期的に騒がしい日常と静謐なモノロ−グが、一種音楽的な緩急として機能していなければならない。このあたりは言わずもがな。



(Friday, 31-Oct-2003)

 『パンドラの夢』最後まで。なかなかしぶとい。
 ごめん、最後のへんずっと笑い通しだったわ。頭悪いセンス悪い芸が無いツメが甘い。テキストが年寄り臭い(DOSゲーっぽい雰囲気。必ずしも欠点ではないが)。スウをあんなことにしておいて。逃げ道はもっと巧妙に潰せ。いらぬ突っ込みの入る可能性は周到に排除しておくべきだ。お願いだから。
 ロボが壊れてく描写としては、菅浩江『雨の檻』くらいのを期待していたので、ちょっと物足りない。

 何かとストレートすぎて困るのですよ。地震が起きて時計の針が逆回りなんてどういうセンスだ。それを一周目からそのまま見せちゃうし。ちなみにループ物の常として閉鎖空間ものを兼ねていて、舞台は学校に限定されてるんだけど、試しに学校から外に出ようとすると戻されます。目の前の風景がネガポジ反転して気が付いたら元の場所に戻されてる。これってどうなのよ。おまけに一周するたび「ループ、未だ終わらず」なんて字幕出るしさあ。そのへんのセンスの無さはもう神かと。
 一日の始まりや天候の変化については唸らされただけに残念。

 盛り上げているつもりらしい部分において、書いてる人が頭悪いのかそれともユーザーが馬鹿にされてるのか、みたいな突っ込み所がありすぎる。それを忘れさせるような勢いとかがあるわけでもない。素手で土を掘ってツメを剥がす前に、そのへんに穴掘りに使えそうなものはないか探しなさい。ハンカチがない程度で、焼けて熱いバールを素手で握るんじゃありません。服着てるだろあんた。わりとこんな感じのシーンが多いです。あと、錯乱した母親が娘を殺しに来るのですが、なぜか包丁二刀流です。いくら刺殺死体が二体なきゃいけないからって。



(Thursday, 30-Oct-2003)

 金持ち頭脳結果。ああ、うん。だろうなあ……。


 CROSS†CHANNELの感想を漁っているうちにフラグが立ったので、『パンドラの夢』。ループでロボなやつ。複数のヒロインのシナリオが一本道のループ上に配置され、既クリアヒロインはループから弾かれていなくなる。そういうパターンのはしりですね。
 ループでロボなのに今までやってなかった理由といえば、スウ以外のヒロインにからきし興味が持てなかったからなんですが。
 ちなみに体験版はスウが出てくる前に力尽きました。ギャグがひたすら苦痛で。昔のオレはバカだった。せめてスウが登場するまでは耐えるべきだったのだ。
 いやもう、スウが画面に出る度にめっさドキドキしますよ? いやどっちかっつうと髪型とか服装とか表情のせいなんですが。ロボ分については微妙。

 つってもまあ、開始後いくらも経たぬうちに、ロボっ娘と添い遂げてえとかそういうことしか考えられなくなるわけで。CROSS†CHANNELとの比較なんて知ったこっちゃないですもう。すごい勢いで頭が悪くなってゆくようだ。シチュエーション的にちょっとOVA『神秘の世界エルハザード』(第一期)を思い起こさせて、ついイフリータにばかり思いを馳せてしまうのがアレですが。

 しかし、鬱系テキストもりだくさんの割に、あんた女の子と一緒の部屋で寝てませんか。ぱじゃまソフトだけに女の子のパジャマ姿は必須ですか。なぜそう自然に背中を流しに来ますか。そして流されますか。いくら章題が「楽園」とはいえ。桃源郷ですか。

 主人公は昔メイドロボと暮したことがあって、ちょっとしたメンテなら出来る。そんなわけで、調子悪いスウの背中のフタを開けたりするのですが、中身見られるのを恥ずかしがるのがもう萌えです。『鋼鉄都市』以降これは基本といえよう。



(Wednesday, 29-Oct-2003)

 CROSS†CHANNEL二周目つづき。というかちょっと中断。

 『悪魔のミカタ6 番外篇・ストレイキャット・ミーツガール』とセットで。いや、なんとなく。ところで主人公が、酷薄な(と自分では信じている)笑みを浮かべた、なんて書いてあるけれど、「と自分では信じている」という突っ込みをわざわざ入れるのは、作家の優しさか意地悪か、どっちなんでしょう? 答えは、僕がオトナなら優しさで、僕が子供なら意地悪どころか残酷です。逆かもしえませんが。

 さて、太一の自意識について書き手は突っ込まない。群青色の皆さんはえらく都合よく太一のなすがままになる。彼が霧ちんの言うような「怪物」であれるのは、周囲が脆い人間ばかりであるときだけだ。プリブラなら「女の子はおまえの思っているほど弱くはない」(なにせ「勇敢な姫君たち」だ)と恭ちゃんが突っ込んでくれる。だがそうした可能性は設定により排除されている──少なくとも弱められている。また他にも、彼の自意識にはある程度客観的な根拠が与えられてしまっている。これを悪辣な世界観と呼ばずに何と呼ぶのか。

 と雑談はこれくらいにしておいて。


 本当言うとさあ、フィクションの少年少女たちのことなんて僕はどうでもいいわけで。ついでに他人も。単なる知的興味と分析の対象としか思ってなくて。本当は誰も好きじゃなくて。つまりは消費対象でしかなくて。当り前すぎますか普通そんなこと気にしませんか。CROSS†CHANNEL(前半)をやってると、やっぱりそんな告白をしたくなります。やっぱり?
 こんなとき僕が思い出しているのは平山さんのこれこれだったりします。というか僕がCROSS†CHANNELについて書く時の元ネタの一部であるわけですが。こういう人にこそやってもらいたいゲームだと思います。幸いにして、届くべき人のところには届くようになっているらしい。

 CROSS†CHANNEL感想リンク集。そこからいろいろ漁ったり。で、関係ないものを思い出したりする。

 (『Memories Off』の)阿修羅の傑作テキスト集
 こういうの読むとほっとする。まあ僕は日常会話自体はそう嫌いじゃないのですが。「雨はいつあがる?」はねえよなあ、とか、キャラの扱いがどうもなあ、というあたりで同感。いちばん許せなかったのは、雨の中で仔猫を抱いていた時の唯笑のセリフだったりしますが。あと、どっちかっつーと「若草のような香り」って言葉が出てくるセンスがヤバめである気がしますが。打越鋼太郎はシリアス台詞の方がひどいのではないかと思う。

 「やすき節」。「安来節」は「やすぎぶし」と読むのが正しい。まあ、間違えてる人の方が多いけど。地名の安来はヤスギと濁る。ヤスキハガネは商標なのでまた別。これはみんなが間違えて読むのに合わせたんですね、たぶん。よくある話です。
 「ピュリタンのロバ」。ビュリダン(ブリダン)だってば。参考。ちなみに花田清輝のロバは両方食う。検索して調べるなら「ブリダンの驢馬」あたりが妥当。


 DC版で削除、というのがけっこうあるのですね。むう。


 『Memories Off』についていえば、みなもシナリオだけで1500円の価値はあると思います。
 ツインテールにはずれなし。



(Tuesday, 28-Oct-2003)

 『CROSS†CHANNEL』二周目。


 『人間失格』とセットで。(引くところ)

 以下は以前書いたやつのリライトのつもりなんですが、

 黒須太一のキャラ紹介ってのは醜形恐怖じみているわけで。『サイコドクター』にも出てたらしいので知ってる人は多いと思うのだが、つまり対人恐怖の一種である。そして黒須太一のモノローグはしばしば対人意識を巡って行われる。で、このテの問題については太宰を避けて通るのは僕には難しい。

 ここで、更科修一郎が『雫』の「毒電波」を、思春期の疎外感や強烈な自意識のメタファーと呼んだことを先に参照しておく。『雫』は「毒電波」が妄想ではなく現実であるような世界だ、ということにも触れておこう。

 たとえば主人公は「怪物」と自分にも他人にも言及されるが、これはつまるところ、他人に適切に接することができない──要するに「同じ人間」として対等につきあうことができない──という以上の意味は結局のところない。このあたり、太宰治『秋風記』の「僕は、あの、サタンではないのか」云々、という台詞に遡るのもあながち見当外れではあるまいと思う。《僕には、花一輪をさえ、ほどよく愛することができません。ほのかな匂いを愛ずるだけでは、とても、がまんができません。突風の如 く手折って、掌にのせて、花びらむしって、それから、もみくちゃにして、たまらなくなって泣いて、唇のあいだに押し込んで、ぐしゃぐしゃに噛んで、吐き出して、下駄でもって踏みにじって、それから、自分で自分をもて余します。自分を殺したく思います。僕は、人間でないのかも知れない。僕はこのごろ、ほんとうに、そう思うよ。僕は、あの、サタンではないのか。殺生石。毒きのこ。まさか、吉田御殿とは言わない。だって、僕は、男だもの。》もちろん太一っちゃんは周到かつ冷静にやってのけるんだけど、後先考えず自動的にやっちまうのだし、後悔もする。
 
 ちなみに『人間失格』だと「人間という化け物」という言い方で、怪物とは自分ではなく他人のほうだ、ということになる。が、つまるところ問題の本質は、「同じ人間」という地平に立てない、ということにあるので、どっちでもかまわないといえばかまわない。

     □

 《人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを噛みながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした。
 めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。》

 ここは笑うところです。で、空腹という実感の不在そのものは問題ではない、「実感の有無」に過剰にこだわり、そこに根拠を置くことが問題なのだ。「迷信のように思われてならない」のは、不在の実感にこそ根拠を置いてしまうからで、頭でわかっているだけでとりあえず済ませる、ということができない。彼は(空腹という)自己の感覚に裏切られているのではない、あんまりにも実感を信じすぎるのだ。

 問題なのは不在そのものではなく、不在の意識である。「ここにあなたがいないのがさびしい」のじゃなくて「ここにあなたがいないと思うことがさびしい」というヤツだ(三年前にも書いたが)。跨線橋を遊具と信じたり、ふとんカバーが実用品であることに思い至らなかったり、地面の上を石が這いずって動いているのを「ああ石が這っているな」で済まして誰かが引っ張っている可能性に思い至らない(これは『葉』だけど)のも、そんなに珍しいことじゃない。もちろんそこに分裂症的な自明性の喪失(意味連関の失調)を見てとってもいいわけだが。むしろ問題なのは、そうした「あたりまえ」から疎外された自分を意識し感じることである。まあ気になるものはしょうがないのだけれど。

 さて私の目には、黒須太一は随分と自然に自明に普通に融通無碍に人間として振舞えている(実を言えば大庭葉蔵も、むろんどこぞの戯言遣いだってそうだ)ように映る。まあ霧ちんも不思議がるくらいだし。だいたい「人間らしく振舞う」というオプションを選ぶ余裕がある。
 そのくせ自分を「怪物」と言ったりするわけだ。当人としては「ふり」とか「擬態」のつもりらしいが、前提となるのは、「本当の」「真正の」人間らしさが実在する(そしてそこからの絶望的な距離を設定するわけだが)という信仰だ。否、何よりそれこそがかれらのゆるがぬ実感である。従って堅固だ、たとえば神は観念にすぎないという言辞によって見神体験者の信仰がゆるがぬ程度には。

 ここで陥りがちな(そして脱出不能の)トラップは、《普通に自然に行為・生活したいのにそれが出来ない、しかも意図的に「普通」「自然」に振る舞おうと心懸けることがまさに不自然である以上この円環から脱け出す道はない》というやつだ。
 われわれのギャルゲーに即していえば、「普通」「自然」とはつまりあの「(幸せな)日常」である、ということになる。
 もっとも、上記のトラップに苦しむためには(それが苦痛であるためには)いくつかの前提が要る。自分以外はみな普通に自然に振舞えている(自明な相互主観的な共同性が存在し、かつそこから自分が疎外されている)こと。普通のあたりまえの日常がともかくも続いていること。時が過ぎるほどに虚偽(の意識)が積み重ねられ、どんどん取り返しがつかなくなっていくこと。CROSS†CHANNELはこの三点をことごとく排除することによって前述のトラップを回避しているといえるだろう。巧いとは思うけど釈然としない面はある。つまり、それを目指すことがむしろ自然な状況を作ってしまっているのである。

 ダメだ。なんか違う。

 だからその、いっしょに凡人めざして頑張ってみませんか、なんて言われたら、泣いてしまうじゃないですか。

 ほつれてるなあ。


CROSS†CHANNEL(その3)
(Monday, 27-Oct-2003)

 『リベリオン』DVD。これ、映画館で観たら帰りに変なポーズとりそうだ。というか、目の前にモデルガンが二梃あったら間違いなくやるね。男の子に生まれた喜びをそれはもう満喫したのですよ。

 あと、これを文章で読みたい、というのは確かにわかる話で、『浄火の紋章』は未読ですが、ガン=カタの理屈を思う存分語ってくれてたりしますか。こんな感じに。そういえば荻野真『拳銃神』もガンアクションで無拍子がどうとか言ってたなあ。

 映画の中だとせいぜい「確率と予測」なんだけど、あの身体運用は「誰を撃とうとしているのかわからない」のと「次にどう避けるのか読めない」というのが絶対あるはずだ。絶対?


『リベリオン』
(Sunday, 26-Oct-2003)

 熱出してぶっ倒れてました。知恵熱?

 鞠乃さんの誕生日(忘れてたけど)。



(Saturday, 25-Oct-2003)

 『CROSS†CHANNEL』コンプ。ネタバレトークにつきご注意。

 なんだかんだ言って(というか、これから言うのだけれど)寝食を忘れて没頭したわけである。それはもう貪るように。俺は七香さんのためにとっとと思い出さねばならんのだ一刻の猶予もならぬ、という勢いで。なんというか、こういうシチュエーションには弱い。つまり、自分の代わりに何かを覚えている人がいてさ。あるいは、その人のために思い出すべきことがあってさ。

 ところで、先にまともなレビューを三つほど紹介しておきます。
http://www.din.or.jp/~eup/denpa/review/rev_crossch.html
http://homepage1.nifty.com/tokunaga/gamereview.htm#crosschannel
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Domino/5174/0310.html

 ちょっとやさぐれモード入ってるので、以下はのはまともな感想ではないのです。まあ、今回に限ったことではないが。


 先行作品に対する位置付け、としては『アトラク=ナクア』とか『リフレインブルー』あたりに近い気がします。もしかしたら『SNOW』(やってないけど)にも。先行諸作のスタイルないし諸要素を巧く取り入れているしそれなりに消化もしているが、それ以上とは言い難い。あとは、キャラクターやテーマ/メッセージの水準では凡庸化ないし退行気味。地に足が付いてきている、と言ってもいいのだが。
 たぶんこうした評価の仕方が間違いなので、コンセプトやテーマの水準でなく、作品としての完成度(これは設定の辻褄合わせとは別の概念である、と強く言っておかねばなりませんが)を評価すべきでしょう。かつては主役であった諸要素はいまや作品の素材でしかない(オブジェクト指向的な前提ってのは感覚としてはわかります)、というのは健全な事態であると思います。

 ちょっと脱線。どうも東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」が思い出されて仕方がなかったのですが、このテの作品は、(つまるところ、『YU-NO』がそうであったように)実質的には一本道になるのが傾向としてあると思います。固有で単独的な感動のためには、分岐はかりそめに過ぎず。
 やはり、『動物化するポストモダン』p122〜p124で語られるような「解離」に、ひとはそう耐えられるものではないのかもしれません。

 キャラクターについて。適応係数がどうの、という話が出てきますが、なんだかんだいって、たとえば麻枝准のキャラクターよりよほど「人間的」なのではないでしょうか。その意味では「壊れた」人間たち、という設定は有効に機能していると言い難い。形容こそ大仰だが、どうもそのへんのテレビドラマでありそうな行動だと思いました。たしかにちょいと壊れた連中かもしれないが、そのへんはじっくり説明されるので観客に了解可能なように気を配られている。

 これはキャラの造型そのものよりは叙法の問題で、おそらく、阿部嘉昭が(野島伸司に対しての)野沢尚に述べたような事態になっているように思う※。唐突さの衝撃と反射を持って旨とする野島伸司に対し、同種の符牒をいくら使おうとも、野島尚は映画的停滞と心情化と共感という古典的な手法をしか用いえない。阿部嘉昭が評価するのはむろん野島伸司のほうです。
 つまりは、キャラの背景を細かく埋めてゆき、なんというか「人間的な深み」みたいなものを付与してゆくことによって観客の了解を獲得する、というのが、ここでいう「心情化」であり「共感」であり「映画的停滞」であるわけです。『CROSS†CHANNEL』は「唐突さ」よりも明らかにこちらの戦略を取っている。このことがかえって「壊れた」キャラを描くことを阻害しているように思う。
 田中ロミオ=山田一説は、この意味ではわからなくもない。『家族計画』のシナリオライターが、西尾維新的な設定のキャラを(むりやり)描いたらこうなるかもしれない、というぐらいのことは思いました。思っただけですが。でも「一姫」とかいってるしさあ。

 まあ大前提として、主人公が「凡人」を目指してがんばる(そして成功する)話なので、このテの文句の付け方は不当であるのですが。ようは「普通」の側に着地しなきゃならん話なわけで。


※《野島は橋田のように、視聴者の「共感」に、自らシナリオを書くドラマを傾斜させたりはしない。彼が目論むのは「共感」ではなく、視聴者への「反射」である。ある実在が鏡の表面に鏡像として映るとき、そこに介在した時間は光の進行速度によって測られるのみだ。いっぽう『となりの芝生』(橋田壽賀子脚本の──引用者)の登場人物にかつての視聴者が「共感」するために要した時間は心理的速度という実体的な尺度で測られるだろう。橋田ドラマにおいては視聴者はドラマの上に登場する人物を対象化することができる。しかし野島ドラマにおいてはドラマが視聴者にいきなり「反射」してしまうから、そうした「対象化」が確かに起こっているか否かが必ずしも明らかではない。》
《ところでこの、『この愛に生きて』は、これから論じようとしている野島伸司の資質を逆照射する機能をももっている。すなわち、記憶するところでは脚本家野沢尚は、高視聴率男野島伸司に『この愛に生きて』により挑戦状を叩きつけたのである。なるほどこの作品には、野島ドラマ同様のスキャンダラスな符牒が満ちみちている。主婦売春、不倫、変態性欲者による幼児虐待(殺害)、はては東南アジアの極貧層を利用しての商社の臓器売買など。しかしこの作品は、そうした禁忌の連打によっても野島ドラマと通じるところがない。なぜか。野沢の書いたシナリオのシーンの持続力によって俳優の存在が細かな彫込みをなされ、それにより「心情化」され、結果的にいわば作品が「映画的に」際立ってしまうからである。逆に野島ドラマのシーン進行はもっと純粋消費的なものだ。それは物語機能に奉仕するために高度に配備されている。だから野島の人物は「機能的」であり、緻密さの方向もまたその機能性の練磨にあるのであって、野沢にあるような人物の彫込みの緻密さにはほとんど向かおうとしない。
 そして「衝撃」もまた野島ドラマがつくりだす純粋機能であり、その衝撃を衝撃たらしめるために、野島は「唐突さ」の話法を組織する。野沢ならドラマの進行を滑らかにすることによっておおむね衝撃は自然化し、しかもそこに登場人物の心情をも書き込むから、主婦売春などの衝撃は視聴者の「共感」によって結果的に緩和されるのである。そうして登場人物の独白もオブラートに包まれる。いっぽう『高校教師』以降の野島の独白は、直裁に視聴者の心理に届き、視聴者をしてドラマを対象化させる前に、彼らを魔的にくるみこんでしまう。野島ドラマにあっては、ドラマと視聴者とが距離を介在させない状態で配備され、そこで密着的一体化という事態がひきおこされる。》
《……いっぽう野島ドラマでは映画技法でいう「平行モンタージュ」や特殊野島的な人物の「尻取りつなぎ」により、その持続感が最終的に危うく成立するものにすぎない。それをひとつの「物語」として有機的につなげる手立は野島にあってはたぶん「逆算」でしかないだろう。》
《空間恐怖的に停滞を嫌う野島にたいし、停滞を映画的持続に替えようとする野沢は、とりあえずドラマ上到来する停滞を厭わない。それでひとつのシーンを長く書き込み、そこに心情のほか、登場人物にまつわる情報や物語的要素をも組み入れようとする》(阿部嘉昭『野島伸司というメディア』図書新聞)



CROSS†CHANNEL(その2)
(Friday, 24-Oct-2003)

 今日のは『CROSS†CHANNEL』の話。ネタバレあります。ところで、「†」は「ダガー」で変換できます(基本)。というのはここで知りました。


 つまりフィクションに対しての話だが、まっとうな世界観や人物だとアジャストできない状態というのがあってね。だからいくつかの積みゲー(例:かえで通り、僕夏)を差し置いて、『CROSS†CHANNEL』に手を出したわけさ。これの体験版をやった時に、壊れた世界と壊れた人間たち、という匂いを嗅ぎつけていたのでね。我ながらあまりいい趣味とはいえないが。まあ、黒須太一だって、壊れた世界は親近感を抱かせる、くらいは言っていただろう?

 で、ビンゴ。「悪辣な世界観」(という言葉が本篇中にあるわけさ)のもと、欠陥製品(by西尾維新)と人間失格たちが揃って「普通」を演じてますよう。こいつは好物だ。人間未満と人間以前の悩みを賞味して消費して蕩尽して枯死させるのが僕の習性であるからね。
 もちろん、ある意味では折原浩平もそうだった。「永遠の世界」なんて代物を抱えたまま、ことさらに狂騒的な日常を演じていた彼も。ともすれば、どっかにずり落ちそうになるんだろ? たとえば夕陽の赤を見た時はどうだい? 判るさ。他人事だからね、いくらでも知った口が聞ける。確信に満ちた口調で語れるのは、自分は何も共感していないことについてだけだ。

 主人公の自意識は、ゲームのプレイヤーたることの暗喩どころか時に直喩に近いが、実をいえば、こういう形式の自意識はそう目新しいものでもない。他人を、審美的な鑑賞や品評の対象として見てしまうこと。あるいは嗜好品のように消費してしまうこと。時には積極的にその精神と人格を食い物にすること。そしてそんな自身を怪物と見なすこと。これらは畢竟、自己と他者との距離感、という、より普遍的な問題系の一部だ。
 ループについていえば、われわれは現に既視感をもつし、現在の経験が単独で固有のものだと感じられなくなることは、現実にある。ギャルゲーの歴史よりは疑いなく古い感覚だ。

 やや余談だが、黒須太一を見てて二番目に思い出したのは『人間失格』の大庭葉蔵だったりする。自分の顔を醜いと信じている(厳密にはこのへんは解釈次第なんだけど)。人間をどうにも思い切れない。そのために「道化」を演じる。あと幼児期に性的虐待経験がある。エトセトラ。
 こうした細部をいくら並べたとては牽強付会の域は出ないのだが、重要なのは、これらの特徴がほぼ全て、主人公の対人意識を巡って登場するアイテムである、ということだ。

     □

 「怪物」から行こう。「人間という化け物」は太宰の『人間失格』にあるね。たとえばこんなの。

《自分は怒っている人間の顔に、獅子よりも鰐よりも竜よりも、もっとおそろしい動物の本性を見るのです。ふだんは、その本性をかくしているようですけれども、何かの機会に、たとえば、牛が草原でおっとりした形で寝ていて、突如、尻尾でピシッと腹の虻を打ち殺すみたいに、不意に人間のおそろしい正体を、怒りに依って暴露する様子を見て、自分はいつも髪の逆立つほどの戦慄を覚え、この本性もまた人間の生きて行く資格の一つなのかも知れないと思えば、ほとんど自分に絶望を感じるのでした》(『人間失格』)

 もちろんここでは、怪物とは他人のことであって自分のことではないのだが、これは容易に反転可能だ。事実、太宰は別の作品の主人公には「僕は、あの、サタンではないのか。殺生石。毒きのこ。まさか、吉田御殿とは言わない。だって、僕は、男だもの。」(『秋風記』)と述懐させている。もっとも文脈はちょっと違うのだけれど。

《僕には、花一輪をさえ、ほどよく愛することができません。ほのかな匂いを愛ずるだけでは、とても、がまんができません。突風の如く手折って、掌にのせて、花びらむしって、それから、もみくちゃにして、たまらなくなって泣いて、唇のあいだに押し込んで、ぐしゃぐしゃに噛んで、吐き出して、下駄でもって踏みにじって、それから、自分で自分をもて余します。自分を殺したく思います。僕は、人間でないのかも知れない。僕はこのごろ、ほんとうに、そう思うよ。僕は、あの、サタンではないのか。殺生石。毒きのこ。まさか、吉田御殿とは言わない。だって、僕は、男だもの。》(『愁風記』)

 つまるところ「怪物」とは単に、他者と適切に関われない、という程度の自意識の具現化だ。厳密には、適切に関われない、ということそれ自体ではなく、「他者との距離」に過剰に躓くこと。過剰に意識してしまうこと。その過剰さが、怪物だの化け物だの果てはサタンだのといった言葉を呼び込むわけだ。

 もちろん、こうした自意識が他者に真面目に受け取られることは稀だ。『人間失格』の葉蔵が「神様みたいないい子でした」と言われてしまうのに比べれば、

《そんな恐るべき化物を体内に飼っていて他人と関わろうだなんて──虫がよ過ぎます》(西尾維新『クビキリサイクル』)

 という反応(『CROSS†CHANNEL』中に類似のシーンがあるが)が得られるのは、かえって妙な話ではある。


CROSS†CHANNEL
(Thursday, 23-Oct-2003)

 『わたしのありか。』サファーED。

 確かに何も変わっていないし、彼女も嘘をついたわけではないのだけれど。

 展開は全部読めます。というか、作中で言及される映画によって、ほとんど予告されてるとさえいっていい。ただ、なるほど神は細部に宿るというやつで。世評の高い諸作品と比べても、描写の細やかさが数段上です。地道かつ正攻法でスキがない。ただ、それ以外に何かあるというわけではないのですが。冒頭のほとんど悪趣味な設定からこう繋げるのはけっこうな荒業である気もするけど、定番といえばこういうのも定番だし。

 マニュアルで読んだ時は、なんというセンスのない歌詞だと頭を抱えたものだが、終わってみると涙なしには聞けない罠。

 それはそうと、サファーの登場する時にかかる曲の名前は「いつもいっしょ」なのですね。ああ。


わたしのありか。(その3)
(Wednesday, 22-Oct-2003)

 ふと思い立って『水月』体験版を今頃やった。以前は文章が肌に合わず、「少女の幻像」というフレーズが出たあたりで気力が尽きたのだが、今回はなんとか最後まで読めた。思ったより何とかなるものだ。
 なんかこう次から次へと女の子に領空侵犯されっぱなしで心休まるヒマがない。自分の部屋にまでメイドが。助けて。というわけで今は逃げます。

 とまれ、これに勢いを得て、永らくHDの肥やしになっていた体験版をいくつか漁ったり。そのうちのひとつ。

 抜けるような青空。
 綿アメみたいに白い雲。
 太陽は、まるでとろりと溶けたオレンジ。

 助けて。

 「もえぎ色に染まったゆるやかな風が吹きぬけ」とか「幻想的な慈愛に満ちた声色」とかもう勘弁してくださいって感じだ。「混じりけのない圧倒的な美しさを放ちながらも、それでいて、どこか空々しく虚ろで、むりやり飾り立てた偽者の印象もはらんでいる。」なんて言い回しでどんな実感が伝わるというんですかっ。だいいちこれでは「描写」ではなく単なる「説明」ではないか。



(Tuesday, 21-Oct-2003)

 『わたしのありか。』中。

 萌葱ED。「もえねぎ」呼ばわりされるかわいそうな従妹。いろいろあって同居中。何年か会っていなかったので主人公への接し方に迷った挙句、「お兄ちゃん」に落ち着いたらしい。でもぎこちない。そんな感じで萌え。もっとも、プロローグ(長い)のあいだにすっかり打ち解けてしまうわけですが。

 パターンとしては、昔は一緒に走り回っていたような子が、久しぶりに会ったら女の子らしくなっててびっくり、的なんですが、この作品だとタダでは済みません。まあ、やけに入院生活のあれやこれやに詳しかったりするのでバレバレなんですが。それにしてもちょっとこれは。ええと、立ち絵見て、右肩がちょっと下がってるなー、とか気付いた貴方は覚悟しといて下さい。
 「昔はよく走り回ったりしてたのになあ」という台詞が実はけっこう残酷。中学に入ったら陸上部にでも入るかと思ってたのに、なんて言ってしまったことを死ぬほど後悔するハメに陥ります。いや当人は克服してるんだけどさ。なんでこう……うう。もの食べてる時にものすごく幸せそうにしてるんだけど。食い物用意する時に限ってやけに甲斐甲斐しいんだけど。それがかえって痛々しく見えて困った。ごめんなさい助けて。

 


わたしのありか。(その2)
(Monday, 20-Oct-2003)

 『マトリックス・リローデッド』のDVDを観る。おお、主人公がついに世界の根源に触れるぜ。魔術師たる者の本懐ですな。世の中には「大元の一」めざして頑張ってる皆さんもまだまだいらっしゃるというのに。
 どうでもいいが、『デモンベイン』の魔術師ってつまり「世界のソースコードが見えちゃう人」なのだな。デモベの作品中だと「世界の法則を識る」という表現になるが。
 むしろ、世界が、ある窮極的な(一般人には隠された)「理」によって支えられている、と考えるのが、オカルトの基本というものかもしれない。よく知らないけれどね。いいかえれば「理」を見通すような視点があると前提すること。そしておそらく、God as the Great Architectの存在が要請される(というかこっちが先に来る)……んでしょうかね。

 あ、便利なものみっけ。

 それはそうと、アクションはなんか欲求不満が溜まる。薄っぺらく見えるのは作品の性格上の必然とはいえ。車内でシートに坐ったままの挌闘とか、そういうのは面白いんですが。ザコは一撃で屠り去れ。刃物は刺せ。ムキー。とりあえず『ブレイド2』で解消したのでした。ところでサングラス外すと可愛いってのは基本なんでしょうか。


マトリックス・リローデッド
(Sunday, 19-Oct-2003)

 プリブラの第一部に、主人公が、人恋しさに駆られて思わず駆け出してしまう、というシーンがあってね。といっても別に淋しい感じはしないんだ。むしろ暖かい感じでね。その少し前まで、彼は誰とも顔を合わせたくなかった(ついでにいえば僕も)。だからここでは、あらためて人恋しさが思い出されるという、ひとつの回復が描かれているわけだ。いいシーンです。
 続くシークエンスがまたえらいことになっていて、出色の出来というやつである。とりあえず、きゅう。とか言ってぶっ倒れるくらいしかやることがないくらいに。いやもう。

 ひところはシンクロ(率)という言葉でいわれていたことだが、視点キャラの声(やそのほかの言動)がまるで自分の声のように感じられることがある。ここで必要なのは逆の場合を考えてみることで、自分の声が(言っていることが)まるで自分ではない別の誰かが喋っているように感じられることがある。
 およそ人間は思いもよらぬことをつねに言ってしまっていて、言った後で「自分が言いたかったこと」として事後的に回収するのだ。だからこういうことは不思議とは思わないが、しかし実現するのはけっこう稀である。理人くんが走り出して暫くはわりとそういう幸福な状態でね。つまりそういう個人的な経験からして、上のシーンに触れる誘惑を抑えるのは困難だったという話。

 参考として、http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0209a.html#p020903aの「もっと極端なケース」を挙げておこう。あとは柄谷行人『探求T』p33〜。



(Saturday, 18-Oct-2003)

 微妙にやさぐれモードらしい。こんなときは、なにかの悪い冗談じみた設定の作品しか受け付けない──というのは考えてみればほとんどいつもそうである。立派な人間の前に出ると気後れする程度には、まっとうな見かけのフィクションに接するのが辛い。CROSS†CHANNEL(体験版しかやってないけど)の黒須太一は「壊れた世界は心安らぐ」と言っていなかったか?

 なんとなく『わたしのありか。』に手を出す。まあ、『東京九龍』はけっこう好きで、『忘レナ草』の設定聞いて思い出したりして、気になってはいたのだが、随分と遅くなったものだ。
 ええと、とりあえず、落ち着いた背景美術(と呼んでいいレベルだと思う)とやけにクオリティの高い音楽(OdiakeS氏とかかっちん氏とか、俺でも名前を知っているレベルの皆さんである)、それに抑え気味の細やかな人物描写が心地いい。ちょっとびっくり。ついでに入院生活の描写がえらくしっかりしている。奇矯な設定に似合わず、叮嚀な仕事です。ただし修正ファイルは必須らしい。

 サファー、といういかにも意味深な名前。自称10万14歳(いつのセンスだよ)。口が悪い。人間の魂を食う。さて、そんな人外ロリであるところのサファーさんであるが、現れたのは主人公の手術中の夢の中、開口一番、あんたもう死ぬよ、と来る。さらに、けどなんかあんたの魂は不味そう、だからもうちょっと死にたくないとか思いなさい、と無茶を言う。どうも生きる気力ゼロだと不味いらしい。いや魂もってくなら勝手にしろだからちょっと黙ってろ。そう言わずにちったあ生きたいとか思わないわけほらあんたの人生思い通りに変えてやるから何かない。あー、じゃあ回りくどい駆け引き抜きでどんなオンナともヤれるとかそういうのなら。じゃ、それで。とまあそんな感じで交渉成立。
 で、どういう話の流れか知らんが、サファーさんは主人公の中に住むことになります。というか脳内彼女です。よく考えると主人公の魂を食うわけにはいかない話の流れになってしまったので、主人公がHする相手の魂をツマミグイする、という線で落ち着いたらしい。

 で、こうした設定はどうしてもメタエロゲーくさい展開を生みます。主人公にやる気がない。サファーさんは主人公のケツをひっぱたいて女の子の方に向かわせる役目です。一応は主人公は「回りくどい駆け引き抜きでどんなオンナともヤれる生活」を望んでいたことになっているのですが、何しろ「強いていえば」というか、他に思いつかなかったので適当に言ってみた、という程度なので、自分から動こうとはあまりしません。あとサファーさんは人格改造(もともとあった要素を調整する程度らしいのですが)、気が付くと、ぎこちなかった従妹とも普通に話せるようになってたりします。
 ついでに言えばサファーさんはグルメでもあるのですが、生きる気力がなかったり生き方が歪んでる女の子の魂はお気に召さない。しかし存在するヒロインの何割かはそんななので、主人公は必然的に、彼女たちの幸福をいくらか増すように働きかけることになる(攻略しようとするならば)。ちなみに、最良のスパイスは恋をしかけることらしいですぜ?
 で、各ヒロインのエンディングにおいては「住むべき心の隙間がなくなった」といって去って行きます。要するに彼女は「プレイヤー」に果てしなく近い役割を果たす。
 というか、プレイヤーとしていちいち悩まなくても、サファーさんにけしかけられるままに動いてれば済むので、精神的にとても楽です僕としては、という話。

 北園ありすED。久しぶりに綾波さんが来たので抵抗できませんでした。その喋り方は卑怯。
 しっかし重たいなあ。まあ、なにしろ主人公が癌で死にかけるとこから始まるから、このくらいは予測してしかるべきなのかもしれないが。


わたしのありか。(その1)
(Thursday, 16-Oct-2003)

 なぜか『入院』をちょろっとやったり。そういえばバッドエンドしか見たことがない。ところで作中、『君と宇宙は五文字まで』という題の詩集が登場するのだが、これは確か『嬌烙の館』の図書館にも(ヴァイキングシリーズに混じって)置いてあったはずだ。何か元ネタがあるのだろうか。

 ああそうか、普通はヒロインと一対一で話すことになるのか。プリブラの後だとえらく淋しい。



(Wednesday, 15-Oct-2003)

 プリブラ遥奈。これはちょっとちょっとお話にならないというか。後半が。
 ところで、このテのばかは往々にして己の内面性ばかり気にするあたりがめがねなのである。逆か。つまり、たとえば魔女を気取ることと魔女であることは同じではないし、ひとは決して私的に魔女になることはできない、そのへんわかってないから葛城にめがね呼ばわりされるんです。あと、理人くんも赦すの赦さないの言わんと他に言うことがあろう。これが天上ウテナなら「逃げるのか!」と言うところだ。君は知らないんだ。君といることで、どれだけ僕が……何だったっけ。理人くんがどう言うのが正しいのかはわからないけどさ、赦すとかそういうのだけは勘弁。
 葛城。いや、そう言われても。もちろん、葛城はいい奴だし憧れるわけだが。なんか王子とか魔女とか、言ってみたかっただけなんじゃないかと小一時間問い詰めたい。

 聖。そういう解説をしてはいけない。
 聖が選択依存症になるのは、彼女にとって「どっちでもいいような問い」に対してだけだ。彼女には、自分にとって何が重要で何がそうでないかの区別は、ちゃんとついている。僕には、彼女は最初から最後まで、重要なことはちゃんと自分で決めていたように見える(というか「もう決めてしまった」あとの彼女しか知らない)。彼女が進路を理人に相談するのは、理人と一緒にいようと既に決めているからだ。
 どっちでもいいような問いはまさしくどっちでもいいので、決められないのは彼女が真面目に考え込んでしまうからである。というより「どっちでもいい」ということに気付いていないのだけれど。

 そして愛生。これはパーフェクト。言うことなし。あらゆる表現がその所を得ている。うかつに「敵」を持ち出さなかったのがひとつの勝因ですが、むしろ理人くんの「暴走」ぶり(第一部の結びにもありましたが)にナックダウン。なんちゅーこっ恥ずかしいマネを……。
 さて愛生は圧倒的に正しいかっこいい。たぶん「一緒に寝たり起きたりするの、きっと楽しいで?」と最初に言えるあたりからしてもう。
 それと台詞がいちいち刺さる。すまん、見透かされてる、わたしが今まさにそれ(つまり理人のみならず)、と謝りたくなるがそうしてはいけないのである。
 聡明な彼女のことだから、自分が子供扱いされることくらい当然と承知しているし、そのことで得をしてきたという自覚もあろう。だから彼女は自分の言い草が理不尽なことくらいわかっている。非を認めるとか謝罪するとか、そういうことが求められているわけではない。
 どうしてこうかたくるしい言い方になるかな。それはそうと、愛生はメルンとか霞とかそのへんの系譜である。撫でたい※。もちろん、あと触ったり触られたりえろーいことしたり。この娘に限っては、えっちへのなだれ込み方が何かと好きです。


※頭を撫でるとストレートに喜びを表明するあたり特に。



(Monday, 13-Oct-2003)

 プリブラをまた最初から。
 とりあえず愛生の「ただいま〜」(神戸弁アクセント)が幸せでよろしい。思わず練習してしまった。ただいまー、ただいまー、ただいまー。もうひとつ違うなあ。どのくらい違うかというと、このくらいです。見えないと思うけど、このくらい。神と虫ケラくらいといってもよい。
 あと今回、ここはやはり素直に共同生活を楽しむべきであるとの結論に達したので、そういう方向で。行く手が大変そうならなおのことです。というかパッケージ裏くらい額面通りに受け取っておきましょう。ちなみに裏面はCD/DVDとも共通だったはず。私はブライド感の差でCD版にしましたが。


 すこし昔話をしようか。個人的には「荒野」といえばガンダムXである(参考:サントラの高松監督によるコメント)。
 だが僕にとって印象的だったのはむしろNewtype誌連載のGUNDAM FIX(のKAZUO ICHIOKIによるテクスト、放映開始時のもの)だ。残念ながら現在手許にないのだけれど。単行本化にあたり折込付録になってたあれ。廉価版では省かれていたような気がするが、どうだったっけ? カトキハジメのグラフィックは要らないから、テクストだけ欲しいんだよな誰かくれないかな。
 さて『機動新世紀ガンダムX』の冒頭は、何より、地表に雨のように降り注ぐスペース・コロニーの図によって強い印象を与える。落とされるべきコロニーは全て落とされ、何もかもを台無しにしてしまった。地上のすべてはブチ壊され、ただ何もない荒野だけが残されている。

 ガンダムという物語はつまりは「落差」の物語だ。地球と宇宙。アースノイドとスペースノイド。オールドタイプとニュータイプ。最近ならナチュラルとコーディネーター。Gガンダムでさえこの「落差」の構図は変わらない(地球とコロニーの立場が逆転しているが)。だが、落とされるべきコロニーが、既にすべて落とされてしまっていたとしたら? そこにはもうどんな「落差」を発生させる装置も残っていない。いっぽうで地上はとうに壊滅していて、やはり、ろくに形のあるものは残っていない。何も無い荒野とはそういうことだった。
 もっとも『ガンダムX』が大した回答を見せたわけじゃない。答はシンプルだ。ボーイミーツガールという範型への解消。何も無い荒野でも、あいかわらず少年少女は色恋沙汰が大事なわけさ。そして、実はコロニーはまだ残っていたんだけれど、そこにいたのは徹頭徹尾「過去の亡霊」として扱われるよりないくだらない連中でしかない(この点、ガンダムSEEDを予見していたといえる)。むろん「ニュータイプ」という物語(より厳密には「ニュータイプとオールドタイプの対立」という物語)も笑って乗り越えられるけれど、これはまあ、つけたしみたいなものさ。ティファ可愛いし。つまり答は「萌え」でもあったわけさ。



(Sunday, 12-Oct-2003)

 プリブラ。

「俺は帰る!! もういやだ!!」
「どこに行く気だ? おまえの墓穴はここだぞ 墓標はこの馬鹿でかい館 墓守りはあの勇敢な五人の姫君たちだ」

 ごめんなさいマッチョイズムでいいです、と弱い心が喚く。そのへんねじふせて続行。えー結婚は人生の墓場と申しまして。
 いやモニターの向こうの連中は揃って覚悟決めてんだから、いまさら僕の言うことなんてありゃしないんですけどね。まあ、お前は俺よりずっと先に行ってるんだな、と言っておく。この際ああいうポジションのキャラが用意されているのは有難い(プレイヤーは視点キャラに憑依するとは限らない」)。あとは素直に少年少女たちを愛でつつ。とかいいつつたまに『嬌烙の館』に逃避したりしてますが。こういうとき、ケイだの珠希だのに罵られたりはたかれたりする有難味が身にしみますね。そんなんなので最初はこんぞーなしにふさわしいED。にゃー。

 枝絵留ED。コンセプト倒れ。キャラは好きだけどさ。さらにいえば、このイビツなメルヘンを僕は愛してやみませんが、だからこそ不満があるわけで。まあ水準以上の出来だとは思うけどさ。
 まあそれはそれとして枝絵留さんは可愛い。独仏の血が1/4ずつ入ったクォーター(?)。一見無口でクールな感じだけど、実は単に人と話すのがいまいち苦手なのか。自分自身に向かって、ゆっくりと、何かを確かめるように喋る子です。その場のノリよりは内的な実感に根拠を求めてしまうので、そういうことになるのではないかと思います。ひとつ嘘をつくのにも必死の思いだし、本当のことを言うときは尚更そうです。
 そういう喋り方は聞いている方にはたぶん伝わり難い、ぶっちゃけすぐには何を言っているのか判らない、のだけれど、そこは焦れずに聞いてれば済む話で、理人くんにはもちろんそんなの当り前にできるわけです。あと、このテのは必然として他人の話について行くのは遅い。もちろん押しに弱い。で困惑すると目が線になります。可愛い。困らせてえ。そのへんはゆきとどいた作品になってます。

 以下は適当にメモ。
 マリッジブルー。ああそういえば、シナリオが分岐しちゃったことが確定するとしばらく憂鬱になるな。いや何が「そういえば」なんだか。

 ところでチック・コリアの曲「浪漫の騎士」は島田荘司『異邦の騎士』で重要な役割を果たす。そして『嬌烙の館』のChapter 1は「Knight in the Strange Land」という名だったはずだ。あまり関係はないんだろうけど。

 あと「宇宙という密室」って新城カズマ『屍天使学園は水没せり』のパクリっぽくね? 偶然かもしらんけど。



(Saturday, 11-Oct-2003)

 プリブラ開始。
 うう、どうしてこんなことに。俺が何をした──いや、こういう代物なのはわかっていたわけで、じゃあ理人くんが何をしたってのよう。とりあえず、大岡裁きを希望に賛成一。
 罰が罪に先行する。罰に対応する罪をこれから思い出すことができればいいんだけれど。なんてね。



(Friday, 10-Oct-2003)

 「それ」と「それを含む何か」は別って話。つまり「富士山」と「山」は区別せねばならない。富士山が山であるのは確かだが、しかし、もしひとが、「山の恐ろしさ」を語ろうとして、しかし「磁石が効かない樹海」の話しかできないなら、かれがしているのは富士山の話であり山の話ではない。
 たとえば元長柾木が、「美少女ゲーム」ないし「エロゲー」という語を用いても「ゲーム」と言い出さない(いきなりは)のは、このへんをちゃんと弁えている、ということだろう。
 どうもうまくいかない。 

《……そして、このことをひとは「この描出は適切か、それとも不適切か」という問いの生ずる極めて多くの場合に、強調しなくてはならない。そのとき、その答えは「しかり、適切である。しかし、この極く限られた領域に対してだけであって、きみが描出していると称する全体に対してではない。」ということである。
 このことは、あたかも誰かが「ゲームというものは、ひとがある規則に従って物体を平面上で移動させることによって成り立つ……」と説明しているのに対して、──われわれが「きみは盤上ゲームを考えているらしいが、それがゲームのすべてではない。きみは、自分の説明をはっきりとそうしたゲームに限定することによって、きみの説明をただすことができる。」と答えるのに似ている。》(ウィトゲンシュタイン「哲学探究」3、藤本隆志訳)

 つまり、フラグが立つ瞬間が見える、だの、分岐ツリーが見えるだのは「ごく限られた領域に対して」のことでしかないじゃないですか。そりゃゲームじゃなくてギャルゲ(の主流である分岐方AVGとかそのへん)の話だろ、ということですよ。そんなものがなぜ「ゲーム的」なの?
 もっとも、 

 でも、ギャルゲやっちょるときだって「ゲーム」的ななにかを感ずるときはあるではないですか。 (ない? ないか? いや、あるはずだ)
なんというか「フラグが立つのが見える瞬間」ってない? そんなシステムが実装されてなくとも、ルート分岐ツリーが脳内に構成されていると実感する瞬間ってあると思うのだけど。 「来た! っっっここが分岐点!」 みたいな。

 というのは、語の表現にこだわらなければ、こういう感覚に通底するなにかを表象しようとしている、とみることはできる。ただやっぱり、ギャルゲについては、「まあそういうのもあるかな」とはいえるけど、そっから先続けるのは僕には難しい。ぶっちゃけ、ガンパレやら更科修一郎やらそのへんで飽きてる。


 たしかにゲーム全般に通用するような抽象的な言葉をひねり出すことはできるだろうし、そうしてもいい。ただ、こういう事態になっているのでなければよいのだが。

 《14. 誰かが言う「全ての道具は何かを変化させることに役立つ。例えば、ハンマーは釘の位置を、ノコギリは板の形を変える、などなど。」――それなら、定規や膠壺、釘は何を変えるのか?――「 [定規は] 物の位置についての私たちの知識を、 [膠壺は] 膠の温度を、そして [ノコギリは] 箱の頑丈さを変えるのだ。」―― [道具についての] 表現をこのように同じ形式にしたところで、何が得られるというのだろう?―― [何も得られはしない。語についても同様である。]》

 いいかげん書き写すのも面倒なのでここからのコピペ、ただし明らかに誤訳と思われる部分は修正。

 あと、何かとウィトゲンシュタインが出てくるのは、最近このへん読んだせい。



(Thursday, 9-Oct-2003)

 電撃姫インタビューをようやく読む。むろんクラナドの。ああ、麻枝准がまたそんなことを! さて『ONE』にしろ『Kanon』にしろ『AIR』にしろ、パッケージはAVGであるにもかかわらず、どういうわけか「ヴィジュアルノベル」と呼ばれることが多いわけですが(PS版『輝く季節へ』も一因か)、もはや「なんたらノベル」とは言わせない、これは「ゲーム」だ! そんな叫びが聞こえてくるようです。なんつて。
 CLANNADの発売はおそらく、東浩紀の述べるようなノベルゲームの「退化」(それはついに『鬼哭街』のように、選択肢の存在しない作品の発売を可能にしたのですが)の終焉を告げるであろう。まあ、そろそろ反動が来る頃合さね。
 そしてそれは、「攻略」という概念と「ヒロインのEDを見る」という事態を切り離すことにより達成されるだろう。といったことを思いました。まる。



(Wednesday, 8-Oct-2003)

 『ザ・スニーカー』で「涼宮ハルヒの退屈」立ち読み。学園便利屋? 片山愁の学園モノでは、ハルヒなんかいなくても不思議な事件は平気で起こる。そういう時代と読者層だった。あるいは、『ハルヒ』みたく理屈付ける方が珍しいのか。学園モノだから何が起こってもええやん、とはならず、いちいち言い訳がいる。そして言い訳の方がかえって電波じみている。どこかで見たような構図ではないか。まあ、だから何だってわけでもないが。あと、SFだから理屈が要る、なんてのはもちろん逆である。

 さて例によって巡回して『涼宮ハルヒの溜息』感想を漁ったり。
 ……あれだ。酒見賢一『語り手の事情』かotherwise『未来にキスを』の式子シナリオあたりを参考文献指定しておくべきだろうか。
 ところで僕が「難儀な」という言葉を使いたがるのは のせいだ、ということにしておきたい。こういう難儀さというのは遡れば長森の手袋を付けっぱなしにしている折原浩平であるとか、そのあたりまで行き着きます。というのは今考えました。



(Sunday, 5-Oct-2003)

 すのこアンテナを見て、then-dさんのサイトが公開されていたのに気付く。これで必要なときに心置きなく引用できる。僕はこれでも、特定の人々に大しては気を使うふりをすることがないでもないのである。なんか失礼な言い方になってますが。
 というだけで済ませるのもなんだけど、ヨロコビのオドリを踊っても読者には見えないので、とりあえず引用をひとつ。

《……World's End という場所はロンドンに実在する。キングズ・ロードのいちばん先にあって、かつてはここがロンドン市のどんづまりであったということである。翻訳を手伝ってくれた柴田元幸氏によるとロンドンには World's End 行きと書かれたバスが走っているそうで、これはニュー・オリンズの欲望(ディザイア)行きと双璧をなすと言ってもいいだろう。》(村上春樹「異郷の人々」、ポール・セロー『ワールズ・エンド』の訳者あとがき)

 オチまでついてるので付加えることがないねこれ。しかし、なんですと? ロンドンっ子はアキオカーじゃなくても「世界の果て」に行けるわけか。
 さてロンドンといえば四葉であり天広直人でありWorld's endであるわけで、個人的には奇妙な因縁を感じるのも不可能ではない、と言いたいところだ。言いません。
 ちなみに訳すならワールズ・エンドはむしろ「世界の果て」(少女革命ウテナ、GRANDIA、まあなんでもいい)の方がしっくり来る。ともあれ京都がせいぜい「京極」であるのを考えれば大きく出たものだ。もっとも京都人はあまりに傲慢なので、京都よりも上位の「世界」なんて眼中になかったのかもしれないが。
 妙な喜び方だねえ。



(Saturday, 4-Oct-2003)

 『涼宮ハルヒの溜息』。ああ、キョン、つまり君は、ハルヒの将来が心配でタマラナカッタというわけだ!(ワラキアの夜っぽく)
 いつまでも一緒にいられないと思う。つまりはこれからのことが不安でそれに耐えられないから、いつまでも一緒にいる気はない、なんてわざわざ言い出す。このバカをこのままにしておけないと思う。その時自明に前提されているのは、今は自分が一緒にいる、ということだ。にしても、他人に役割を譲ることはしたくてもできないなんて、まるで家族みたいなことを言うじゃないか。ハルヒへの容赦ない物言いはしかし随分と詳細だから、これは妹をこき下ろす兄のようなもので、聞いてる方としてはむしろノロケに聞こえてくる。だいたい、そういう遠慮のない物言いができる相手はそもそも身内だ。あと、誰のために怒ってたのかそのへん自覚はある?
 キョンは自分に言い訳するのに忙しいが所詮は言い訳だね、さっさと元の鞘におさまってくれた方が助かる、ぐらいのことは古泉くんじゃなくても言いたくなろう。まあ、そのへんどいつもこいつも難儀な連中で、つまり僕の基準では愛すべきキャラクターということになる。

 あと、構成といいノリといい『学校を出よう!』にむしろ戻っている気がするわけですが。たぶんそのせいで気に入ってる。


涼宮ハルヒの溜息
(Friday, 3-Oct-2003)

 それでは、トム・ソーヤーのペンキ塗りの場合はどうか(挨拶)。また、規則に従っていると信じていることと、現に規則に従っていることは別のことでなくてはならない。
 それを行う者(プレイヤー)の「内的な状態」(意識)を根拠に何かを述べようとすると、必然さまざまな問題が出てくる。ああ、きょうも「ゲーム」の話なんだ。

 東浩紀のノベルゲーム論で指摘しておきたいのは、プレイヤーの主観やら意識(内的な状態)を考慮しなくとも実は成り立つ、という点だ。
 「文章を読んでいる時間」が最も長いこと。これは時計で計れる。複数の分岐とEDをもつこと。誰の目にも明らか。プレイヤーの現実の体験は一回きりであること。自明の事実。かれが「現実の体験の一回性」といった意識を持っていようがいまいが。シナリオの水準でプレイヤーの体験が作品内に取り込まれていること。まんま書いてある通りだ。
 主人公のキャラクターが漁色家として設定されていないこと、ストーリーが純愛物であること(これはシナリオの水準で既に可能だ)、を指摘しておけば、プレイヤーが本当に運命だの何だのを感じて感動しているかどうかは問う必要はない。《しかし作品の表層、すなわちドラマの水準では、主人公の運命はいずれもただひとつのものだということになっており、プレイヤーもまたそこに同一化し、感情移入し、ときに心を動かされる》(『動物化するポストモダン』)という言い方で判るのは、「同一化」も「感情移入」も、実際に「心を動かされる」かどうかとはまた別の問題である、ということだ。「ときに心を動かされる」としか言えない。だが、視点なり、プレイヤーがどのような資格で物語に参与しているかなりについては、言及が可能だ。で、小説のメタフィクションでは読者はしばしば歓迎されざるものだが、ゲームのメタフィクションでは作品に歓待されるのがプレイヤーというものだ。これは作品の形態論だから、ノベルゲームのプレイヤーが実際にのめりこんでいるかどうかは検証する必要がない。当り前だそんなのやってられっか、とりあえず既に存在するものとしておこう。
 ともかくも既に感情移入が存在するものとして、「こういう感動を可能にするためには、こうなっていなくてはならない(そして現にそうなっている)」という言い方による回避。あるいは、ここでプレイヤーは何者として感情移入しているのか、という説明。


 英gameは「遊戯」とも訳せるから、コスティキャンの定義付けは、「遊戯全般」から「ゲーム」を抽出する作業──「ゲーム」「トイ」「パズル」といった内部分類を行う作業──と言い換えができるかもしれない。ところで、こうした分類はいくらでも精密にできてしまう。用語をいくらでも抽象的にしていいなら、好きなものに好きなように当てはめることができるというものだ。あらゆる大工道具は何かを修正する。ハンマーはくぎの状態を、のこぎりは板の形を。じゃあものさしは? 物の長さに対する我々の知識を修正する。にかわつぼは? にかわの温度を修正する。くぎは? 箱の強度を修正する。こうした言い方で何が得られたことになるのだろうか。ところで、あらゆるゲームには「資源管理」が存在する。間違っちゃいないけどさ。

 書店で本を選ぶのは、限られた予算(ただし、ストレスを感じすぎない程度の制限)の中ならなおさら、もしかすると本を読むのと同じくらい楽しいものだ。まして本などネットで註文すれば済む昨今、書店へ行くのはそれだけで目的になりうる。かくて積ん読という事態が招来されるのであるが。

 ギャルゲーマーにとって真のゲームは、金と時間という資源を管理し、買うタイトルを選び、怒涛の鬼プレイで中身の情報を迅速に把握し、他のギャルゲーマーという競争相手と感想を交換し、ローカルなヒエラルヒーを高めようとすることだ。だからこぞって趣味判断を表明せずにおれぬわけだ。
 これも確かにひとつのゲーム(パワーゲーム?)に違いない。実際楽しいかもしれない。

 コスティキャンによるゲームの定義付けは、一般的に「ゲーム」と呼ばれているものの内部でのみなされている。そして、一方では「これこれは一般にゲームと呼ばれているが、実はゲームではない」という本質論を主張する。それってヘンじゃない? その対偶「これこれはゲームとは呼ばれていないが、実はゲームである」が排除されることになるわけだし。



(Thursday, 2-Oct-2003)

  。了解というのもおかしな話かもしれませんが。つまり僕がことを単純化して受け止めすぎていた──的外れともいう──わけで。
 ええと。
 i秋山瑞人においては世界設定含め全てはガジェットでありドラマのためのダシにすぎない(少なくともそれ以上たりえていない、不徹底な代物だ)。iiしかしそこで得られるドラマもたかが知れている。
 というのを論証したい人々だと思ってたんだけど。
 僕はその(i,iiの)通りでもいっこうに構わないんだが。
 あと幽については、むしろ何かの間違いでスカイウォーカーになっちまったフシはあると思う。半分くらい。わたしとしては、構造の「穴」から立ち現れるのは、「主体」ではなく、それこそまさに「夢」ではないのか、と述べたい。およそひとは(存在し得る範囲でなら)どんな観念にも取り憑かれうる。それが「既にある範型」(スカイウォーカーなりスパイラルダイバーなり)に辿り着いてしまうことが問題なのかもしれないけれど。

 あと、こういう話になのかなと思った。しかしこれってマルクスの学位論文『エピクロスとデモクリトスにおける自然哲学の差異』が元ネタになるのかねえ。なんか『マルクスその可能性の中心』の最初のへんで言及されてたけど。
《それは機械論的決定の及ばない領域を確保するのでなく(否、機械論的決定は宇宙をあまねく覆うのである)、「不断の/のべつまくなしの《はじまり》」を、無数の「穴」を導入することでそうしたのだ。》



自分の 感想を読み返したり。このころから唯物論的っていってら。

 ついでに三年前の覚書も晒しとこう。この機会を逃すと次はいつになるかわからない。しかし、もっとましな日本語が書けないのかねえ。われながら。

 あと、これはさすがにひどすぎるのでリライト。

《 われわれは「夢」というと、夢を実現するとか、あるいは夢を持つとか、そんな言い方をします。しかし『猫の地球儀』における「夢」はそうではない。
 それは主体的に所有され(彼方に)目指される「夢」ではなく、つねに/すでに(ここに)ある、不可避の出来事なわけです。夢によって生き夢とともにあるという猫の条件は、もはや取り除くことも解決することもできないし、だからそうした事態そのものについては、良し悪しを問うことに意味はない。

ストーリーの背後に主体は隠れていない。スカイウォーカーも大集会の坊主もスパイラルダイバーも、彼らの論理が物語を構成するような主体ではない。誰もが出来事の中にいるにすぎない。要するに、特定の立場(たとえば「真実を知るスカイウォーカー」)に立って作品全体を要約すると、いささか不当になる。秋山瑞人はたんに舞台をしつらえその上で役者を歩かせるのみで、そこに何か統一的なテーマなり主張なりが引き出せるようなものではないわけです。
 誰もが出来事の内部にいる以上、出来事を超越した視点から評価することはできない。しかし、だからといってこの作品から「自分で考え、自分で決めろ」(『新世紀エヴァンゲリオン』で加治さんが言ったように)といった見解を受け取ることは正しくない。そうやって考えたり決定したり(そして行為し結果がある)することもやはり出来事の内部にあるのだから。》



(Wednesday, 1-Oct-2003)


もどる