忸怩たるループ  2003年11月
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Sunday, 30-Nov-2003

 『宇宙(コスモ)なボクら!』4(完結)。日渡早紀はほんとうに久しぶりに読んだ。未来のうてなの最初のへん以来。やたらと恥ずかしかったり他愛なかったり女の子が可愛かったりするようなものが描けるとは思わなかった。もう真っ赤になって怒るしさー。主人公の女の子はやっぱりすぐ泣くんだけど(男の子も時には)、ひとりで泣くシーンは覚えてないので、寂しい感じはしない。その涙はきっとあたたかい。
 あと、女の子の笑顔は破壊力で計るんだよ、とは白河ことりの言葉ですが、この作品の涙目も破壊力でいえば相当なものです。ギャルゲーでもないのになんでここまで。

 えらく直球のいい話かと思ってたら、最後の「ジャーン!」でひっくりこけました。いい感じに肩の力が抜けてます。あと、一世一度の告白シーン、つい間抜けなことを言っちゃって、軽く吹き出したりするのもお約束。見習い魔女の使い魔といえば頼りになる年上にきまってる、そしてお母さんはやっぱり魔女だったのです! そして何より、魔法というのは事後的なもので、実現した後になってから、アレがそうだと思い当たるのだと知らなければなりません。

 中学生の恋愛で(しかも主人公は1年生だ)、キスまで行かないレベルでえんえんとやってんのな。しかも魔法だの使い魔だのわけのわからん理窟を言いつつ。そういう青さがもう、眩しいったらありゃしない。

 なんかD.C.と並行して読み進めることになったのだが、えらく相性が良かった気がする。

 『フルーツバスケット』13。透君が寂しそうにしてると夾くんが来てくれるんですよう。夾くんには透君の行動なんかはすっかり読まれてて、なんですかあんたは透君のお兄ちゃんですか。まあ同じ家に住んでるし。ちなみに他の巻では、10巻で浮き輪かぶせて引きずってくところと12巻で手を引っ張って立たせるところが好きです。

 あとは、「何言ってんだ!? どっから出て来たんだ!?」。つい突拍子もないことを口走ってしまう、というのはあるもので、突拍子のなさというのは普通ならわかりにくさでもあるのだけれど、かえって、かれら独特の感じ方がよくわかる。12巻の「降臨」とかもだけど。
 そういえば初期には、透君が由希の優しさの感じを、独特の言い回しで表現するセリフがあった。これが出てくるのはたぶん、御影氏のサイトを最近読んだせいだけど。

 『桜蘭高校ホスト部』2巻。相変わらず楽しい、と言って済ませるのが正しい誉め方だと思う。須王先輩がやはり良い。実に愛すべきキャラクターをお持ちである。かっこいい時はえらくかっこいいはずなのだが、決してそのまま終われない、というのがもはやイキといってよい。

 ハルヒには性別意識が稀薄(「わからない」のではなく「どうでもいい」)で、だからホスト部の一員を平然とやっていられるのだけれど(部員以外には女の子であることは秘密)、周囲の部員は常にハルヒが女の子であることを忘れない、という点が良いのだそうです(そういう話を聞いた)。
 ちなみによくあるパターンとしては、普段は女の子扱いされてないキャラの「普段とのギャップ」として女の子らしさを出す、とかそういうものがあります。これだと男の子は、女の子の女の子らしさを見せられて初めて気付く、ということになる。しかし『ホスト部』においては、女の子を女の子として見ようとする意志が常に先行している。言い換えれば、「ギャップ」はたまに登場するのではなく(あるいは普段は隠されていてたまに表出するのではなく)、常に/すでに表現されている。こういうあけすけさは心地よい。
 あと、ハルヒには、あの坊ちゃん育ちの連中はいかにも子供に見えてるんじゃないか、とか想像すると楽しい。

 なんか掲示板の走り書きの方がよく書けてる気が。宇宙なボクらとか特に。



宇宙なボクら!/フルバ13巻/ホスト部2巻

Saturday, 29-Nov-2003

 D.C.わんこ。にょわーっ! いきなりそれかーっ! Here comes the machine,機械がクラスにやってきた!
 ……とは実は行かなくて、みんなには秘密なのであるが。しっかし楽しいねこれ。

 今までは好きっていう感覚しかなかったんですけど、こうして実物を観ると、やっぱり好き(・・)でした、というのが彼女の「好き」で、実物を目にするより先にそれを好きだという感覚が先行するのはロボットだから当り前で、ちゃんと当り前と受け取らなきゃいけない。

 記憶を取り戻すためには、いろんな場所に行ってみる、というのは正しい。記憶というのは場所に宿るものなので、頭の中に蓄えられている気はしない。少なくとも、感情を伴って思い出すには、どうしてもその場所へ行く必要がある、そういう場合がある。保坂和志がそんなことを書いている( )。だから、自身の内部にはない記憶を取り戻すことに、あまり不自然さは感じない。

 「美春」のバックアップについては、技術上の不可能性もあるが、まず意義のなさから却下される。何より当人にそうする理由がない。本質が実存に先立つのがかれらのありかたであるしそれは認めるべきだ。例えばマルチとむりやり対等になろうとしたりするのは好きになれないのです。どっちが偉いとかそういうんじゃなくて、単に別の存在本質であるだけで。

 それで、人間の美春さんに会ったとき、なんだか知らない人のように思えてしまうわけだが、しかしそう思ってはいけない気もして、音夢がずっと「美春」に感じていた複雑さが少しわかった気がした。

 嘘になってしまった、頼子のために。

 僕の好きだった頼子はやはりもういないのだと思う。思い出すのはReborn's DayのイヅタのハッピーEDで、そのとき主人公は、出田雪乃(リボン)と登校しながら、やっぱりあのイヅタはもういないのだとかんがえる。こんなときいったい何が失われたのか、僕にはわからない。失われたと述べる意味さえ奪われたような理不尽さを感じる。最初からそんな子はいなかったとか、そんな風に考えることはできない。だから僕は、彼女はもういない、と宣言しよう。そう宣言することによって、かつては確かにいたことになるだろうから。

 眞子。ヒネリも何もなくストレートに。だがそれがいい。



barrer

Friday, 28-Nov-2003

 D.C.音夢おわり。終盤はわりとどうでもよかった気がするが(というか普通)。それまでがあまりに興趣尽きなかったためかもしれない。でもやっぱり、話を収束させようとすると──キャラクターの言動に一義的な解を与えようとすると──なんというか「らしくない」感じがしてくる。そんな気がします。勝手な言い草だけど。エンディングも、ハッピーエンドの方はちょっとよくわからない(あえて解釈しようとするとメタくさいものになる)。
 僕としてはこの作品の持ち味を、最初にキャラクターを配置し(「役割を与える」のではなく、単にどのへんに住んでてどことどこを行き来するか、とかそういった)さえすれば、あとは時間さえ進めれば動きが生まれ話が進んでいく、といった感触に求めていたので、ヒロインの心情がすなわち核心でありそこへ向けて収束させる、というのは違和感がある。

 たとえばことりシナリオでは、ヒロインの事情だの真意(彼女にとっての)だのは、とくに核心というわけではない。唐突に出てきてあっさりとカタが付くし、それがふさわしく思える。いい意味で他愛ないというか。あんまり額面通りに、大それたふうに受け取るべきではない(現に純一はそうしない)ものとして描かれる。あとさくらについては、何だか色々と整理しきれないがどうやら浅く単純なことらしい、とうやむやのうちに納得させられてしまうような感じが気に入ってます。まあさくら自身、ドサクサ紛れを武器(むしろ防具か)にしてるようなところはあったし。

          □

 で、タイトル画面に何か出たわけですが。

 自転車の補助輪、という喩えは以前からずっと考えていて(D.C.に限らず他の作品についても)、だからちょっと驚いた。以前にというのはたとえば『ONE』の七瀬シナリオの「乙女」(参考)や椎名との恋人ごっこについて考えていたころからそうなのですが。もっとも、あまり気に入らない喩えだったのだけれど。
 そういうわけで、夢で逢いましょう、と終わってくれるのは有難い。あるいは、むしろそれこそ、「卒業」しても変わらないよ、というべきか。何にせよ、魔法の時間が終わろうが終わるまいが変わらないものの方が僕には重要だしかれらもそうだろう。

 魔法の終わりが宣言されたなら、そのとき魔法は「なかったこと」になるのではない。むしろそのときようやく、魔法が確実に存在したことになるのだ。「終わり」を告げることはすなわちあの「魔法の時間」の存在を明確に刻印することです。卒業と学園生活の関係みたいなものだ。
 だから、いずれ投げ捨てられるべき梯子、みたいな言い方は気に食わないのです。補助輪云々はばーちゃんの謙遜だとしても。僕は補助輪の存在など忘れたように自転車に乗るが、かれらの恋のはじまりついては覚えておきたい。

 まず、あるはずのないものがある。しかしそれはいずれ消え去り、世界は正常へと復する。ただしその「あるはずのないもの」のおかげで、(本来ならありえなかったかもしれない)幸せや平穏がもたらされる。D.C.の各シナリオから、そうした共通性をとりだすことも可能だろう。
 ここでのばーちゃんとの会話は、どうしたってばーちゃんがようやく成仏できた、とか、そういう話である。直前が音夢シナリオだったので、桜の樹の下には死体が埋まっている。埋葬の花に埋もれるように桜の花びらに埋まってゆく感じがする。そういうわけで尚更。
 そして、「あるはずのないもの」の典型はたぶん幽霊で、例えば映画『ゴースト〜ニューヨークの幻〜』や『シックス・センス』。ちなみに『ゴースト』は、音夢の観ているドラマの祖形だ。
 散ることのない桜が散るまでの過程はひとつの「弔い」であり「鎮魂」ではないかという気がする。別に人間の死とは限らなくて、たとえば桜は願いを叶えるけれど、その願いはといえば、どこにも届かず横死したような、いわば成仏しそこねたようなそれであるかもしれない。


 補助輪云々の喩えが気に入らないのは、ちょっと消極的すぎる気がするからである。まあ、ばーちゃんの言いかたには謙遜も入ってるんだろうけど。むしろ、ひとつの出会いには無数の魔法が動員されていい。複数のメッセンジャーが天湖を恋人のもとへ導くだろう。ある種のことがらには迂回的にしか接近できないのであり、それは正統な手段だ。少なくとも、もともとそういう条件のもとで二人が出会ったという事実性は変えようがない。
 ついでにいえば、「夢」は、脱け出したり、目を覚ましたりするようなものではない。それが正しく無意識の発露であるなら、現実の振る舞いをかえって規定するようなものであるはずだ。ハルヒとキスしたのが夢だったとして、キョンにはやはりトラウマである。

 以下は蛇足だが、

 《「この世界は確かに生きにくい。夢を語ることも難しい。叶えることそのものは奇跡に近い」
「当たり前から逃げたい。普通は嫌だ。働くのは面倒だ。なんてツマラナイ。オモシロクナイ。このセカイ」
「わくわくするような冒険がしたい……思い当たる節があるんじゃないのか?」
「だったら本物の夢を見せよう――花は1年中枯れず、奇跡が起き、人を超えた力を持つ者があらわれる夢を……」

 というのは随分と谷川流くさいと思った。というかEMP。



“THE     SHOULDN'T EXIST”

Thursday, 27-Nov-2003

 D.C.音夢。たぶん中盤あたりだろう。読み終えるのがもったいない感じである。書き手の力量が水準以上なので、肩透かしのないことを確信した上でハラハラできる。書き手の力量がうかがえるのはたとえば「夢」や「回想」の扱い方で、凡庸な書き手なら「現在の心情」やキャラに振られた「役」を説明したり正当化したりするためだけに使ってしまい、したがって平板化してしまう(加藤直樹や打越鋼太郎はその意味で退屈だ。『久遠の絆』の場合、「夢」「回想」にあたるのは「前世」であるが)ところだがそうなっていない。むしろ逆に、現在を揺るがし規定していくような運動性がちゃんとある。このあたりの議論は保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』(草思社)p190-194、あるいは死エロのこれを参照のこと。
 いちいち大袈裟にやらないこともあって、このあたりは妙に悟った(あるいは成熟した)書き手であるように感じられる点である。妙にといってはあれだが。こういうのは好ましく感じられる/どうにも好きになれそうにない。愛憎並立。なんつうかあれだ、「もののわかった大人が好き」だけど「大人は判ってくれない」のです。今のところ前者寄りの印象ですが。



D.C.(音夢)

Wednesday, 26-Nov-2003

 D.C.萌先輩つづき、というか最後まで。ちょっとでこぼこしすぎてますね。なにも無理して山とか谷とか作らんでも。
 それはそうと、音夢の存在が身にしみてありがたかった。

 わんこは後回しにしなければならないらしい。残念だ。

 SNOW桜花シナリオやらD.C.やらで何かが引っかかっていたが、そうか、『シックス・センス』だ。

 D.C.ことり。こっちは無理がない。まあ、そうたいしたことにはならない。最近の口癖かこれ。考えてみればけっこう無茶というか、少女マンガ的な憧れのシチュエーション(全校生徒の前で云々、普通は男女逆である気もするがまあよい)があったような気もするのだが。まあ中学生だし卒業時のどさくさに紛れてといえなくもないし。

 プレイの合間に思い出していたのはしのぶさんの那美さんについての文章の第二段落あたり。もっともD.C.に出てくる連中は恭也と那美さんほど人間ができてないから(しょせんは中学生である)、ちょっとした裏技があるのだけれど、あまり重要ではない。

 あとはひらしょーさんのことりシナリオへのコメントにリンクしておけば充分な気がします。

          □

 反在的で実によろしい。二人は出会い恋をしました、というそれだけのことの裏には、いくらでも「あるはずのない」ものたちがいて支えている。いずれはなしでやっていかねばならないのだけれど、なかったら何も始まらなかったかもしれない。たとえば、一方的な思い込みや勘違い抜きに恋は始まらないだろう。スタンダールのいう結晶作用はつまり錯覚である。
 だいたい外見が6年前と全く変わらないなんてありえない。コレットさんじゃないんだから。魔法というのは本来ありえなくてそのうち解ける。けれど「なかったこと」になるわけではない。このへん、ちゃんと「けれど」でつながっている感じがする作品だと思う。一面的な結論を出さないというか。



D.C.(萌、ことり)

Tuesday, 25-Nov-2003

 D.C.さくらシナリオ読了。良い。理想といってよかろう。何も言うことはないので、何も言わない。
 あと、正直ちょっとこの作品を甘く見てました。ごめんなさい。まあなんつうか、世界観(「設定」ではなく、本来の意味で)という面でもちょっとした仕掛けがあったのだが、特に大上段に構えるでなくさりげなく示される。ほんとうに必要なことしか語られない。そう、たとえば、自分のいまの気持がどんな因果によるものかなんて知ったこっちゃない。また、問題の本質は浅くて単純なもので、あの年頃ならばひとつしかなかろう。あとは語るほどでもない、または彼らの等身大のスケールで語るには無理があるので無理には語らない。


 会話について。
 実は真面目だけど、からかいのセリフとして言ったのに、しかし真面目に返されて、恥ずかしくて、楽しくて。
 簡単な言葉のやりとりにだって、その程度には色々あるもので、特定の意図や意味には染まらないのが実際の言葉というものだ。ズレているようでちゃんと成立している。こういうのが、キャラクターがそこにいてしゃべってる感じ、というやつである。

 あと、なんか知らんけどぱんだはうすの『青い鳥』を思い出した。きっと思ったより「夢」の成分が意外と濃かったせいだろう。
 ともあれ、夢の終わりは二周目の始まりなのである。
 タイトルに偽りなく、ぼくらが向かっていたのは唯一の確定的な「終わり」であるよりは、今一度始めるためのスタート地点であったわけである。妙な話だが、このいつまでも桜が咲きつづける島の出来事は、どこか「未生の夢」といった風情があるように思う。神の名はアプラクサス。

 どうにも木琴が気になるので、D.C.屋上ルート/鍋/先輩。個人的に逆らいにくい流れである。もちろん祁答院唯香は萌えです。効率よく願望充足でパラダイスでそれは結構なんですが、あまりに何も引っかからないのもどうかなと。鍋の歴史の講釈がいちばん面白かった気がします。



D.C.(さくら、萌)

Monday, 24-Nov-2003

 10日17日21日のリンクミスを修正。

 D.C.さくら篇を中断して(一気にやるのもったいないねこれ)、『宇宙なボクら!』2。狙ったわけじゃないですよ? 
 少女が魔女やってる場合はたいてい「先代」がいるので(それはもうベルセルクだろうとどれみだろうと)当り前っちゃあ当り前なんですが。

 SNOWのあさひの一人称は、彼方さんが聞くぶんには「ボク」なんだけど、あさひの視点だと「ぼく」という表記になるのが新鮮だった。つまり見た目女の子だという先入見がカタカナ表記を要請するので、あさひ自身についてはまた別なのである。




Sunday, 23-Nov-2003

 D.C.をぼちぼちと。のっけから他人の夢を見せられてどうしようという気になっていたら、純一の対応に安心できた。俺って詩人(ポエマー)、という自己突っ込みが入らなかったら読むのやめてたと思う。どうやら純一にとっても他人の夢であるらしい。

 いきなり読者を他人(この場合は視点キャラ)の夢に付き合わせしかも当事者たることを強いるような作品に比して、あまりに有難い配慮といえよう。そしてかわりに、「決められた夢を見るだけの、できそこないの魔法使い」として出発する。オッケー承知したってなものである。
 

 で、さくら。しかし昨日『宇宙なボクら!』に手ェ出したと思ったらまたそういうタームが。
 お兄ちゃん、と呼んでくる割に、ひとを諭すようなセリフがけっこう似合う。「話をするしかないのかな?」「話をすることが出来るんだよ」。お兄ちゃんと呼びつつも間違っても敬語なんか使わないというか要は偉そうで、生意気な妹なのか先生なのか単にガキなのか判然としないが、不快ではないのは確かだ。こうした複雑さは嫌いじゃない。たぶんこういうのが、さくらは他でもなくさくらである、と感じさせるから。いやもうベタ惚れっすよええ。

 つまり、すべてが揃っていても恋愛感情だけが足りなくて、それが、最後の魔法が必要な理由。古来より魔女といえば惚れ薬、色恋沙汰にはお膳立てがあって当然だし、それは時に積極的に必要でさえあるだろう。


 音夢が恐い。というか、世界が足元から崩れてゆくようなこころもとなさ。いったい何が待っているというのか。他人が見てる夢のようさ、どうして僕はここに。なんというか、たとえばの話だけど、自分が実はとうに死んでいて、いまここにいる自分は幽霊なんじゃないか、とかそういう感じ。柴田元幸にそういうエッセイとも小説ともつかぬものがあるらしいが。

 怪異のあと、まるでなにかを埋め合わすように急速に戻ってくる日常。これだ。

 夢。夢。夢。寝て見る夢も、起きて目指す夢も同じ。世界は夢に溢れている。そんな感じになってまいりました。しまったそう来るのか。



D.C.〜ダ・カーポ〜(さくら)

Saturday, 22-Nov-2003

 『宇宙なボクら!』1。そうか、パンチラはそのように避けるのか(p16)。
 ……じゃなくって。

 うわーうわーうわー。なんかその一撃はヤバい角度で入ってしまった気がするんですが。二度と起き上がれない倒れ方とかしそう。
 タイトルから想像しにくいのですが、普通の女子高生(いや中1なんだけど)が魔女とか言ってる話です。使える魔法は今んとこ、夢の中で飼い猫(使い魔だそうだ)と会話することだけだそうです。そのへんからお察し下さい。そこ、イタいとか言うな。だがそれがいい。
 そのへんから何となくお察し下さい。
 そういえば『西の魔女が死んだ』は未読だった。宿題にしとこう。

 『蛇神さまといっしょ』再読。もちろんSNOWやってて思い出したせいである。いやほら龍も蛇も似たようなものであるし少なくとも縁がないとはいえなくもないわけで、たとえばこちらの「legend,願いを叶える龍神」などを見るに。だから何だって気もしますが。

 以前読んだ時も思ったのだが、個々のシーンといい構成といい、もはやエロゲーに出てきても違和感がない。いやまあ、いっしょに花火やってるだけでそれ系の定番という気になるのはやはり僕が毒されているのだろうけれど、たとえば過去のエピソードの挿入の仕方といい、それこそあの「日常」といい。このへん、男女逆転させて荒川工にシナリオを担当させれば何の違和感もなく成立しそうである。いや荒川工を持ち出すのはこの場合反則なのだが。

 もっとも、違和感のなさは、この作品があまり桑田乃梨子らしさを感じさせないためかもしれない。だいたい、女の子がそこそこ女の子らしくモノローグったりするあたりでおかしいのだ。個人的な印象論なのだが、男の子がまるで少女漫画の女の子みたいにモノローグっちまう格好悪さが、桑田作品のキモである。

 ただそこはやはり桑田乃梨子なので、常に「なさけなさ」みたいなものがつきまとい、読者を感傷のうちに閉じ込めない。一応は、人と人ならざるものの恋、ということになるんだろうけれど、蛇神さまといっても近在の田畑の水利の面倒を見るのがせいぜいだし、人間のほうもそのへんの田舎くさい女子高生である。人間なんて百年かそこらで死んじゃう、なんて問題が出てくるくせにえらく地味である。特筆すべきは絶対に「たいしたこと」にはならないことで、だからこれも、終始いかにもたいしたことなさそうである。

 そういえば最後は桜花シナリオっぽい終わり方か。『ふたたび赤い悪夢』といい、こういうのは定番で、ポイントは、言った人間がその意味を(相手にとっての)理解していないことである。



宇宙なボクら!/蛇神さまといっしょ

Friday, 21-Nov-2003

 SNOW感想ぐる。
 なんか『機甲戦記ドラグナー』みたいな評価の割れ方だなあ。成立事情はガンダムWかSEEDの方が近いけど。あと、ドラグナーのファンというのはけっこう肩身が狭かったと聞く。
 まあ、何もかも見馴れた光景だなぞとは言わないが、先例のない話でもあるまいに。つまり、サンライズ/ビジュアルアーツという単位で考えれば、だけど。あとKeyのスタッフが文体監修というのは、(メビウスのスタッフによる)パクリ云々とは明白に異なる次元の話だと思うのだが。
 あと、パクリと騒ぐのはつまり、ネタとして騒ぐのが目的なので、真面目に考えようとは最初からしていない。だいたいゼクス・マーキスを見てシャアだシャアだと騒ぐようなものである。当然の反応だがそれで終わっては間抜けである。

 SUMMER篇とLegend篇の現代へのつながり方の差異はけっこう誰でも気付くらしいが、旭シナリオと真琴シナリオの異質さについてはあんまり言及がないね。曽我さんは述べておられるのだが。まあ、麻枝准において過去と現在が素直につながることはありえず、トラウマとは決して当人には言語化できないものなのですな。たとえば久弥直樹はこのことを決定的に理解しないから、思い出せ、と煽って思い出させるような表現をしてしまう。MOON.やKanonの姉妹しかり、月宮あゆしかり。あるいは、久弥直樹においては「過去のトラウマ」は、ヒロイン自身によって言語化できる水準にある、といってもよい。SNOWに久弥直樹を感じるのはこの意味で正しい。もっとも久弥直樹がヒロインに素直に身投げさせるということはありえないので、ヒロインの内面が絶望に支配されたとき、現実の客観性に足を掬われる、ということになるだろう。みさき先輩も栞も、取るに足らぬ出来事に出会ったおかげで、どうにも死ぬに死ねない心境になってしまうのだ。あとたぶん、幼い日の澄乃っちとの結婚ごっこはもっと中途半端に途切れたまま現代へ持ち越されるのではないか。久弥直樹が「中断」をいかに主題化してきたか、ということはここではいちいち検証しないけれど。そもそも久弥直樹ならもっと病的に少女(の内面)にこだわるオーラが出てるはずだ。

 さくらが桜花の転生だとか言っている人は、たとえば法月綸太郎『頼子のために』と『ふたたび赤い悪夢』を読んでみるべきだと思った。別に考えを変えろとは言わないが、シーンの意味を一義的に決定してしまうのもどうかと思う。そもそも、それは我々が決めていいのか。ちなみに法月綸太郎の両作は(本当は『頼子のために』『一の悲劇』『ふたたび赤い悪夢』の三部作。ちなみに「家族」が重要なモチーフだ)、「傍観者」(探偵)をいかに物語に巻き込むか、という点で、あるべき芽依子シナリオのための参考となろう。何かおかしなこと言ってますが。



SNOW

Thursday, 20-Nov-2003

 SNOW桜花篇つづき。最後まで。以下ネタバレ。



 咳をしだしたあたりから、もう、どうなるのかはわかっている。あとは見届けるだけだ。
 だからそれは、わかりきっていた、付け足しみたいなラストシーン。

 よかったじゃないか。悲しむことはない。よかったじゃないか。
 もう馴れた。

 それでも離れたくはなかったし、何かが取り戻されたという気はしない。本当いうと何もかも知ったことじゃない。別れたくなんてない。受け容れなどするものかよ。僕は少し怒っているんだ。あの子は単なる不当な被害者のまま終わるのですか。とりかえしなんかつくわけないじゃないですか。
 それでもこれは二番目くらいにはいいことで、あの過去が存在するなら、これ以上は望むべくもない。それとも僕は何かを見落としているのだろうか。
 要は複雑なのです。

 最後まで充分に筆を費やしてくれたのは有難い。不幸の坂道を一直線に転げ落ちるような展開は好きでない。時には踏み止まる、というとおおげさだが、たまには立ち止まることもあれば、嵐なら台風の目に入ることもあるだろう。あるいはノイズも入るだろう。僕が有難いといったびはそういうことで、たぶん、少しばかりつっかえながらの方が、かれらがきちんと描かれているような気がするから。
 まあ理窟からすれば当り前で、個々の人物やシーンを丹念に描けばストーリーの流れは阻害される、しかしそれをやらなければ人物は駒でありシーンは歯車でしかなくなる、というだけのことではあるんですが。

          □

 少し寝て、起きて、ラストシーンには何も言うことがない、というのに気付く。
 弔いも救いも必要とするのは生きている人間だけだから、最後の「おかえりなさい」は彼方さん(たち)のためのものである。さくらが桜花の転生だとは信じないが、だからこそが同じ言葉はちょっとした奇跡というやつで、しかし子供なら誰でも言い張りそうなことでもある。必要なのは言葉があることだ。あと、さくらと桜花は別で、そうわかっててもやはり桜花のことは思い出す、という当り前さはいい。

          □

 KanonやAIRとの比較は避けて通れないらしい。まあ、よく言われているように、似ているが明らかに異質。また、闇雲なパクリや盲目的な改変とは一線を画す、自覚的かつ方法的な作品といえるだろう。
 このあたりについては詳述しない。実をいえばこれとかこれ(「1.SNOWとAIR」のみに限定)に付加えることはあまりない。後者についてはそれをAIRの「欠点」と呼ぶ気にはなれないが。

 似ているおかげで、麻枝准の歪みっぷり(作家性と呼んでもいいけど)が逆照射されるようなところはある。あるいはSNOWの健全さ(凡庸さと呼ぶ向きもあるかもしれない)が比較によりいっそうはっきりするだろう。言ってはなんだが、両方あるおかげで色々とわかりやすくなった気はする。あと、模倣における逸脱というよりは、ついていけなかったので普通にしました、みたいな感は否めない。まあ、後発の作品が常に先行作品を乗り越えねばならぬというものでもないし、下手に革新性を狙うより、むしろ地に足がついた等身大の物語へとスケールダウンしてみせるのは一つの正解だろう。昔話になるが、『イデオン』以降しばらく、無駄に悲観的で衝撃的なエンディングを用意してしまうロボットアニメがけっこうあったものである。

          □

 久しぶりにAIRを起動して、あまりに遠い対人距離感にほとんど呆然とする。なんでこんなに。ひとつには、かれらには対等な個と個であるよりほかにどんな関係もない気がするからだ。SNOWの感想を漁っていると、ヒロインとの関係が対等でないことに不満があったりするらしいが、それは正しくもあり間違っているので、たとえば澄乃は彼方さんよりだいぶ年下で基本的に幼いけれど、澄乃に頼る局面もやはりあって、上下はひっくりかえるものだ。大抵はそういうもので、こうしたものを対等と呼ばないなら、不断に対等であることはずいぶんとつらいことではないかと思う。というのは曽我さんのこれ(2002/6/7)とかこれを前提にしてますが。



SNOW(桜花)

Wednesday, 19-Nov-2003

 SNOW、桜花篇。パーフェクト。


 悔しさのあまり畳をぺちぺち叩く澄乃とか! 遺言のこして気絶するシャモンとか! ああもう。

 それはそれは柳原望のマンガのよーなポジティヴな世界がくりひろげられております。子供に邪魔されてえっちなことができないとかそういうのも含めて。細腕繁盛記といえば『さんさんさん』です。「登場人物は肯定的に書かねばならない」というのは保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』のことばですが、SNOWには「こうであってはいけない」という筆致で描かれる人物は出てこない。


 それ、古い子守唄ではありえねえんですが。あまつさえ、ら抜き言葉。このへんに突っ込むのもいいかげん飽きてきた。



SNOW(桜花)

Tuesday, 18-Nov-2003

 SNOW話。うちのSNOW話は常にネタバレなので注意。注意と書いてないときも。


 しぐれ篇最後まで。

 どうでもいいが、「大成敗」といえば『黄金勇者ゴルドラン』である。レオンカイザーの必殺技。合体前が黄金「将軍」レオンだけに。

 「そもそもしぐれは現代人である彼方の言葉を半分も判ってないだろう.現代日本語がネイティブでない人と誤解をほどきながら喋っていてそれを特別気にしない彼方さん.」

 さて、しぐれの常識はたぶんいいとこ百年前どまりで、ようは現代のことなど何も知らない。あるいは単語レベルで話が通じない。もちろん我々は事情を知っている。しかしそれだけに、いくら山中で修験者のように暮らしてたからってそれはないだろう、と思わず言いそうにもなる。だが彼方さんはそんなこと一言もいわない。そうやっていちいち説明してやりながら話すのは、まったく特別なことでもなんでもない、というように続けていく。そこにどんなエクスキューズも出てこない。たとえば桜花はちっちゃい子なのでポリタンクを知らない(「ぽりた?」)。当り前だ。じゃあしぐれは? このあたり、いちいち理由を必要としないのは、なんというか憧れる。


 嘘を暴くという選択は苦手で、だからバッドエンドを先に見るはめになるのは仕方ないのです。そういう終り方もありだろう、致し方ない。

          □

 Legend篇は語り直しとなる。とりあえず、今度は選択肢がたくさん出てきて、嬉しくて仕方がない。なるほどゲームにはこういう幸せがあるわけだ。
 ほとんど悲しいことの気配さえなく済んでゆくさまには、もはや笑うしかない。ひとしきり狂ったように笑っていたように思う。この感覚は説明しがたい、って前にも書いたなこれ。まあ要は解放感なんだろう。けれど、何から解き放たれたのかはよくわからない。あと俺が今まで言ってた不平不満のたぐいは忘れてくれると有難い。僕の悪口など信用するなよ。貴族の娘が山だしの女中のような言葉をつかってたからって何だってんだ。いやまあ、気に入ってなかったシーンがこっちではほぼカットされてたってのもありますが。芽依子が他人の言動の裏読みみたいなことを言ったり姉君様のモノローグが説明的に挿入されたりする(そしてキャラの言動の意味が一意的に決定される)のが好きでないのです。あと「龍神人間」はねえよなあ。いやだから蒸し返すなよ。
 まあ、白桜と彼方さんの差異を純粋抽出するには、Legend篇はあの程度にとどめた方がわかりやすい。あれはあれで方向性としてはひとつの正解だろう。少なくとも、こう来るとあれば致命的な欠点にはならない。

 白桜様とて自分たちの信仰を「龍神信仰を復活させましょう」なんて言っちゃう他人事ぶり(自分の神に対してそんな言葉遣いはないだろう)だし、たぶん龍神云々への実感の無さとかは白桜と彼方のあいだにそんなに差はない(村人たちの願いが吸い込まれてゆくところの反応は共通)し、村に対してだってひとしく新参者だ。違いがあるとすれば菊花との過去なんて持ち合わせていない、どうせ夢だと思ってる、しぐれのことが好き、とかそうした事情により彼方さんはここで極めて「正しく」振舞う。つまり、過去や性格もあれば傍観者の気楽さもある。


 それだ! それが正解だ。 二者択一には第三の道を。あんまんとぜんざいは一緒に売って甘味処にしよう。みんなが幸せになる道を考えないのは思考の放棄にほかならぬ、と『悪魔のミカタ』の部長も言っていた(It/ドッグデイズの終わりかた)。

 もっとも、不幸を断ち切れば幸せなことだけが残る、ともやはりいかぬのが現実で、かわりに最後、彼方さんだけはえらく寂しいことになる。それでも、ひとつだけ残るものがあるのは優しいというより必然で、なきゃ終わらんのですよええ。

 ブラボー!


          □

 あっさりと何かがリセットされる瞬間というのがある。ほんとうなら深刻かつ悲惨な状況になるはずが、ほとんど笑いごとで済んでしまう。どこかで誰かが鈴蘭の「わはー」について(ぼくは水月はやってないけれど)そんなことを書いていたのをふと思い出す。たとえばそれは、時の流れの無限遠点にのみあるはずの救いが、いきなり目の前に現前したような気になる体験だ。他者性とはそうした祝福のことである。祝福ばかりとは無論かぎらぬが。
 こんな言い方は作品を不当に誇張している。あるいはこう述べることで不当に作品を矮小化しているのかもしれない。まあ、ホンネを言うとどっちでもいいのだが。読者とは勝手なものである。

          □

 おまけの蛇足。
 しぐれが緊張して、歩くとき右手と右足がいっしょに出てしまうのを主人公は笑う。ところで明治政府によって「廃止」されるまで、日本人の歩き方はといえば右手と右足が同時に出るナンバ歩きだったと聞く。『寝ながら学べる構造主義』によると、著者の内田樹氏は1950年生まれだが、子供のころに、ナンバ歩きをしたために教師に厳しく叱責される生徒を目にしたという。日本の歴史全体からすればごく最近まで、現代のわれわれのような歩き方は、訓練によって身に付けるべきものだった。
 緊張すると右手と右足がいっしょに出る、という表現はよく目にする(最近はあまり見かけないが)が、これは案外もともとは、緊張すると地が出てしまう、ということだったのかもしれない。
 ちなみに猫山宮緒『今日もみんな元気です』だと、緊張して歩き方を忘れた少女がその場にへたりこんでしまう。前述の思い付きが正しければ、こちらのほうが現代人にふさう表現といえるだろう。もちろん、しぐれは現代人ではない。こういう古典的な緊張ぶりはしっくり来る。



SNOW(しぐれ)

Monday, 17-Nov-2003

 SNOW。多分しぐれ篇。まだ話は動いてないっぽい。

 良い。今まででいちばん。
 どう良いのか語ろうとすると、なかなか難しいのだが。

 例の抱っこシステムにしても、重要なのはそれそのものではない。それが単なるネタに終わらず効果的な演出であるためには、プレイヤーとそれからキャラクター自身に対し、なんというか優しい、そうした雰囲気が醸成されていなければならない。

 たとえば澄乃との思い出の中で、幼い澄乃は泣きながらあんまんを食べている。泣き声と咀嚼音が交互に響くのはどうにも間抜けで、おまえ泣くか食べるかどっちかにしろ、というと食べるのをやめて全開で泣き出すので、やっぱり食べてていい、ということになる。悲しみに一意的にシーンを支配させない、そういうバランス感覚は好ましい。

 SNOWの魅力について語るなら、ストーリーやテーマといった「深い」部分よりも、こうした作品の表面的な手触りのような、なにか浅い部分についてこそ語るべきではないか、という気がする。だがこれは語りにくい魅力だ。
 ところで、「深い」だの「浅い」だのといったいいかたが出てくるのは、たぶん吉本隆明『悲劇の解読』のせいである。

 《作品には浅いところから波紋のようにひろがってくる声もあれば、深いところから井戸の底に誘いこむような声もある。浅い声はスムーズに入ってきて快感のように滲みてゆくので、もしかすると気がつかないままに過ぎてしまう。意味や価値をみつけるまえに、作品の肉感を伝えたまま消えてゆくようなものである。
 作品「走れメロス」の最後のところで(……)「勇者は、ひどく赤面した」と書かれたとき、作品に意味や価値が与えられたというより、ただ作品に肉体が与えられただけなのだ。これは作品の浅い声だが、もしかすると太宰治の文学はこの浅い声にあるのかもしれない。かれがしきりに〈心づくし〉と呼んだものは、読者がそれを受け取ることを拒否しても、なおただ作品の肉体でありつづける浅い声をさしているようにみえる。効果でありながら含羞や皮肉や軽口のように曲線を描いて流れてゆくものに、読者は最初の印象が過ぎたあとにすでに感染しおわっている。》(吉本隆明「太宰治」、『悲劇の解読』、ちくま学芸文庫、p18)

 それは確かに本質的かもしれないのだが、《……かれの文学かもしれないのだ。だがそれはあくまでも浅い声である。それがかれの作品の声のすべてでない限り、もっと深い声のほうへ文学を超えて誘われてしまう。》

 「心づくし」については『如是我聞』を。ああもう、太宰は東京の言葉を知らぬ、とか、貴族の娘が山だしの女中のような言葉をつかう、とか「閉口したな」も「もう少し真面目にやったらどうだね」もやっちまったよ。ちくせう。

          □


 語り口とか、バランス感覚とか。上の引用部分でいうと、太宰治がメロスに赤面させるようなあれ。ひとつにはキャラクターの造型でもあろうけれど、やはり語り口について触れておきたい。僕がSNOWについて語るとしたら、真っ先にこうした部分を強調しておきたいのである。

 曽我さんの感想から、「しぐれ編の文章は可笑しすぎやしませんか」というのを紹介しておきたい。あとはこちらの短いコメントを。



SNOW(しぐれ)、浅い声

Sunday, 16-Nov-2003

 で、SNOWやったり巡回したりしてるうちにフラグが立ったので、『メメント』を観る。われわれにとっては『あの、素晴らしい をもう一度』や『仄かに見える絶望のmemento』で有名な、前向性健忘を扱った作品だ。ちなみに前者は『メメント』より前の作品である。

 つまり、自分が自分であるためには「謎」が必要で、主人公にとってそれは、「妻を殺した犯人」であるわけだ。探偵のアイデンテティは犯人が保証する。前向性健忘でありつつも、彼が「自分」を保つことができるのはそのためだ(と内田樹がどこかで書いたような気がする)。
 字幕ではカットされているが、テディはレナードを最初に「ホームズ」と呼ぶのである。というか吹替ではそうなっていた。

 それはそれとして、たいへん面白かった。超自然的な設定など何一つなくとも、記憶というファクターをいじるだけで、世界はずいぶんと刺激的になるものである。それを観客に(わかりやすく)擬似体験させるアイデアも、えらく見事に決まっている。ちなみにちゃんと普通に、中盤のサスペンスあり最後にクライマックスあり、と飽きさせない、ちゃんとした娯楽として成立している。



 「記憶」と「メモ」で思い出したので引いておく。

《チャールズ・ダーウィンの名言に「研究者は自分にとって都合の悪いデータを記憶できない」というものがある。(ダーウィンはそれゆえ、自説と背馳するデータは必ずノートに記録した。)》(http://village.infoweb.ne.jp/~fwgh5997/diary/yogiri/yg0111.html)、11月16日)

 つまり、探偵=犯人=フィルムメーカーという構図。

 内田氏の『ロスト・ハイウェイ』評も参考に。



メメント

Saturday, 15-Nov-2003

 清水マリコ『君の嘘、伝説の君』(MF文庫J)読了。
 Reborn's dayってこんな感じだったかも。
 中途半端な田舎育ちには、ああいう町の描写は効く。あと「弁当くさい教室」とか細部に喚起力がある。

 なんだろうなあ。大して印象に残らないくせに妙に忘れ難いような、何かとそういう作品だ。

 


 SNOW。ふたたび現代に戻って参りました。生き返る。

 バス亭ED。すまん旭。そう思うのは二度目だが。そして、つぐみさん。むぎゅー。



君の嘘、伝説の君

Friday, 14-Nov-2003

 SNOW。うちのSNOW話は全部ネタバレだと思ってください。


 試練のLegend篇、後半戦。

 それは罰というより呪なので、かれらがこれからどうなるのか察しがつきはじめてから、「いつはてるとも知れない呪」というフレーズが頭から離れなかったのはもちろん、『グリーン・レクイエム』のせいである。

 さんざん文句をつけたが、幕切れはけっこうしみじみとしてしまう。

 たとえば、話の辿り着く先が、澄乃の彼方さんへのお話である点。澄乃が語っている伝説はたぶん誤って伝えられたそれで真実とは異なるのだが、そんな場所に行き着けるのは、やはり時は過ぎねばならないので、そうでなくてはいけないと思う。

 だから、しぐれさんが今でも羽衣をつけたまんまである、というのはあんまりな話なのです。というか、あれが羽衣だと気付いた時には、殴られたような衝撃を受けた。

 わたしは、鳥ではありませぬ。また、けものでもありませぬ。

 どうも雪を降らせているのは彼女であるようなのだが、それは本人にも判然としない部分であるらしい。そう聞いたとき、かえって妙に腑に落ちた。まあ、そういうものだろう。このあたりの機序をいちいちここで解説しないのは、うまい具合に抑制が効いている。語りすぎない。


 ちなみに、さっき読み返したが、Legend篇冒頭はけっこういい。なんかこれ、冒頭と最後のへんは別の人が書いてませんか。

          □

 とりあえず、《「天よ。どうかこの状態を理解してくれ…」》はないと思った。手短に言い過ぎです。切れかかっていた感情移入の糸がとうとう限界に。

《「…怒ってる」
「天が怒って雨を降らせてます」
「天は、願い事を聞き入れてくれなかったみたいです」》

 というのも、深刻なシーンであるはずなのだが、「〜てます」「〜てる」「願い事」「みたいです」といちいち引っかかる。その口調はどーよ姉君様。このあたりの言語感覚はもう少し何とかならなかったものか。

 いくら金髪ツインテール巫女が出てくるような代物だからって、セリフの質がながいけんのギャグマンガじゃ困る。そのうちギャワーとか言い出しそう。ザコキャラや悪党のセリフについては今更何も言わない(いくらなんでもそれは都合よすぎとか、悪党らしくいかにも説明的であるとか)が。

 伝奇/時代モノとしては、ひたすら及び腰。なるべく具体的な言及を避けてボロを出さないようにする感じ。見るからに、必要なエピソードを繋ぐだけでイッパイイッパイ。知識も才覚も舞台設定への愛着も敬意もない。アトラクだって祝詞の文句くらいはこさえてたのに。固有名詞が少ない(というか個物の名詞が。あたりさわりのない総称でお茶を濁す)のもマイナス。喚起力を欠く。チャンバラの描写は論外。そこで修羅とか言われてもね。「主人公は剣の腕が立つからひとりで盗賊を全滅させてよい」という貼紙を見た気がした。あまつさえ、鳳仙に下手に凝ったセリフを吐かせるんじゃない。あと鳳仙に他人の心情を説明するだけのセリフを吐かせるんじゃない。キャラクターを何だと思ってる。
 なんかねえ。これをSUMMER篇と比べるのはねえ。SUMMER篇はそれほど好きってわけじゃないけど、ちゃんと読めるレベルだから。



SNOW(過去篇)

Thursday, 13-Nov-2003

 いいんです僕は旭に幸せにしてもらいますから。というわけでSNOW。

 身長をいちいち意識させるシステムがこう。俺を駄目にする。

 しかし、「みわ〜」って言わない。「ふわ〜」って感心しない。ピュアガのSNOWデモでは旭の口癖はそれでした。ちなみにデモでいっちゃん気に入ってたのが、彼方さんがビデオカメラか何か持ってて(旭に問われて「これはビデオを撮る機械だ」と説明)、そこに旭がまとわりつくとこなんですが。彼方さんが、「撮ってやるからどっかその辺で……」って言いかけるんだけど、旭がカメラなんて見たことないもんだから「ヘンな形してて面白そうなのだ」とまとわりつく。聞けよ人の話。で改めて彼方さんは「どっかそのへんで踊ってろ」と言い渡すわけです。で旭はなにしろ旭だから、「踊る? こうかー」と本当に踊り出す。どうしてこういう幸せなものが本篇に出てこないのか。

 過去篇を避けたのは、たいしたことのない話が読みたかったからです。
 俺のお嫁さんになってくれ。

 女の子の旭がえらく好きだった割に、終わって見れば兎の方がしっくり来たのは何故だろう。たぶん彼方さんが10年前と同じ行動をとってしまうあたりから、もう女の子だか兎だかはどうでもよくなる。
 人間になりたかった理由は一緒にいたかったから、ということになっていて、だから一緒にいられるなら人間になるなんて疲れる真似はしなくてもいいわけだ。
 ここで例えば沢渡真琴という子は狐とはどうも連続してなくて、会いたいというのも憎悪へとねじれていて、だからもう片道切符のとりかえしのつかなさがあるのだけれど、そういう手の込んだ不幸は演出しない。
 まあ言ってしまえば澄乃篇にしろこれにしろ女の子が不幸になりだすとあからさまに雑で(個々のエピソードはともかく、持って行き方が)、女の子の不幸に血道を上げてる感じはしない。

 とか考えていると、曽我さんによる旭篇の感想を読んで、ああ、そういうことかと思う。旭の語る幸せな記憶は10年前のことで、彼女はそれを自分で語ることができるのだから。

          □

 どういうわけか彼女たちだけが、これを期限つきの何か、たとえばいつかは醒める夢のようなものであることを知っているらしい。

 SNOW過去篇(途中まで)。うう、書き手の力量の差が歴然としてるなあ。もちろん某SUMMER篇と比べて。その言語感覚はあまりに酷い。特にセリフ。ふざけるな、もっと真面目にやれ。気持ち悪くてかなわん。所詮はエロゲーだが、それでもAIRの後だ。
 とにかく読者の引き込み方とかまるで考えてないくさい。メリハリとか、叙述の順序とか、視点のとりかたとか、いろいろと工夫してもバチは当たらないと思うのだが。まあ、あまり手の込んだ料理は好まない人もいるだろうけど。
 
 それはそれとして、龍神さまといっしょ。わりと幸せ。いや、なんかこう桑田乃梨子『蛇神さまといっしょ』を思い出すもので。ああっ! 神様が泥酔して吐いてるっ! とかそういうノリが。いやなんつーの、重くならない。こういうバランス感覚はいい。

 しかし白桜のモノローグがまるでなっちゃいねえ。あと龍神(菊花じゃないほう)のモノローグがいきなり出てくるのはバグの一種だと思う。



SNOW(旭〜過去篇)

Wednesday, 12-Nov-2003

 SNOW澄乃。
 ああ、やはりそう来るのか? 勘弁してくれ。やだよう。

 わかってたけどさ。
 澄乃ルートとでも言うべき流れに乗ってしまった以上、終端まで付き合うのは確定済みなのだし。
 ここはヒロインの不幸を鑑賞するモードで。
 ずいぶんと芸が無い持って行きかただな。ふーん、こういうところは雑なんだ。

 何かの前フリ、それだけなんですか? 澄乃をあんなことにしておいて。いきなり底の浅いマネをしてくれる。

 参考のためここで、神尾観鈴について、then-d氏「私的AIR論 恋愛ゲームを遠く離れて」における彼女のパーソナリティーへの言及を参照しておこう。
 付加えれば、悲劇の説得性とはその担い手により選びとられた道をいうので、たんに不幸がふりかかってくればよいというものではない。
 ようするに、あんまり考えて作ってるように見えないのである。

 ラスト、冒頭の反復になってるあたりは、少しこみあげた。澄乃の両手に雪が積もってるアレとか。

 誰かを背負っているときに自分に見えるのはせいぜい両手くらいで、相手の顔なんか見えない、という当り前のことを意識できるのは良い。



SNOW(澄乃)

Tuesday, 11-Nov-2003

 久々にPrismaticallization。ほんの少し。
 みゆと雪乃に対して、荘司はまるきり書き言葉で話しかけたりするんだけれど、彼女たちにはそれが最適なのであるな。




Monday, 10-Nov-2003

 そういえば堂島コウは「妹を宇宙人にさらわれた『お兄ちゃん』」であるのだが、彼は妹についての記憶を失っている。にもかかわらずコウにとって、それは今の自分の基盤である。
 たぶん自分にとって思い出せずはっきりと語れないようなものだからこそ重要に感じられるので、重要なのに思い出せないとか、だいじなことだから言葉にできない、なんてのは逆なのだ。そんなさかしまにもぼくらは馴れているはずなのだが、意識的に作品化できているものは少ない。
 本人には思い出すことも他人に語ることもできないことが決定的なので、だから舞について語るのは祐一でなければならないし、真琴について語るのは天野さんでなければならない。そうした存在がいなければ、語り手がそれをやるだろう。観鈴ちんにははっきりと思い出すことも明確に語ることもできないのは確かだ。もちろん往人さんもそれは同じでさ。

 ところでトラウマというのは、本人に思い出したり語れたりするようなものではないそうである。自分自身で語れるようなものはトラウマではない。《トラウマとは、フロイトが教えてくれるように、「私」には記憶されておらず、それゆえ「私」の言語では記述され得ず、「私」による解釈を逃れるものである。》(内田樹『ためらいの倫理学』、角川文庫、p204)

 有名な話だが、フロイトが彼のヒステリー患者について発見した「抑圧された記憶」は、実際にあったことではない。「偽りの記憶」である。ようするに嘘だ。それは分析者と被分析者が共同的に作り上げた「物語」である。そしてそうした「嘘」によってのみ迂回的にアプローチできるものをフロイトは「トラウマ」と呼んだ、まあそういうことになるか。

《「トラウマ」というのは、被分析者(分析主体)によっては決して言語化できないが、その主体のパーソナリティ形成に決定的に関与しているような経験のことである。

つまり、トラウマというのは、「それが何であるか」を名指すことができない、ということによってはじめて「トラウマ」として機能するのである。

カウンセラーに「思い出せ、思い出せ」と煽られて、「あ、思い出しました!」というようなものはそもそも「トラウマ」とは呼ばれない。

 ……

抑圧があるとき、その抑圧の「下」には何もない。

すくなくとも、抑圧している当の分析主体が言語化できるようなものは何もない。

私たちに言えるのは、「抑圧している当の分析主体が決して言語化できない経験こそ分析主体にとってもっともリアルな経験である」という事実だけである。》(http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3949/03.10.html

  エロゲーにおいては、トラウマ癒し系と呼ばれたり、或は思い出だの過去だのを主題化した作品は数多いが、この意味でのトラウマとそのリアルを正しく扱っているのは麻枝准くらいのものである。

 きゃいきゃいと騒ぎつつSNOW。ぼちぼちと。もったいないのでゆっくりやる。

 たぶん澄乃っちルート。っち?
 それはシャレになりませんよつぐみさん。
 うう、人の情けが身に沁みるぜ。というかなんでそんな自明に力を貸してくれますか。たとえば「カタいこと言うな、友達だろ?」という類の理由さえない。しのぶさんがとらハを引き合いに出したのがちょっとだけ理解できる気がする。そこに選択はない。
 そんなわけで、あれよあれよという間に細腕繁盛記モードに。開いた口が開いたままである。

 ……どうせこのままじゃ済まねえんだよなあ。



トラウマ/SNOW

Sunday, 9-Nov-2003

 SNOW開始。
 幸せすぎて死にそう。
 何かとこう、ゆきとどいてるなあ。そんなところに凝るか、と突っ込んだり笑ったりしながらプレイできるのは、よいものである。
 有名なのは「抱っこシステム」だが、ああいうノリの演出は色々あるのですな。これが意外なほど楽しい。あと、システム自体より、いかにもこういうシステムを思いつきそうなノリがたぶん楽しさの原因だろう。うまく言えぬが。
 これは細やかな配慮でもあれば、なんというかネタとして笑える部分でもある。それが矛盾せず同居しているのは心地よい。

 まさか本当に転がってくるとは思わなかった。あまつさえ風に飛ばされてどっかに行ってしまったり。ふざけてます。いい意味でふまじめというか。厳粛さは病気だとヴォルテールも言っている。自然がわれわれを少しばかりふまじめに作っていなかったら、われわれの人生はもっと悲惨だったろう。

 ああ、ほんとにその場で食ってる!(イベントCGを見ながら) い〜や〜っ! そんな三大欲求を順番に満たしてくようなのはいや〜っ!(それはもう楽しそうに)
 大騒ぎ。



“龍神村へようこそ!”

Saturday, 8-Nov-2003

 うえお久光『悪魔のミカタ11 It/ザ・ワン』を一気呵成に読み終える。うわ面白い。凄い。い良し!

 ちなみに今回は、小学生の子供が活躍するホラーアドベンチャーです。神さま、助けてください。ぼくの家には吸血鬼がいます。ぼくの家だけでなく、ぼくの町は吸血鬼の巣窟です。わお。このシチュエーションに燃えなきゃ嘘ですな。
 状況は絶望的です。小学生が町内で戦う話ということで『光車よ、まわれ!』と比較しますが、龍子さんみたいな頼れるお姉さんがいたりしない。頼れる大人もいない。外の世界に知らせることは禁じられている。そして彼は子供たちのグループのリーダーであり、友達に頼られることはあってもその逆はない。

 頼れるものはただひとつ、ひょんなことから手にした、堂島コウについての記録だけだ。小学生の堂島コウはいかにして闘争を組織しそして勝利したか、というその記録。そして、会ったこともない相手を「心の師」と仰ぎ、それを唯一の恃みとして、三鷹昇は戦うことになる。

 だからこれは何より、11歳の三鷹昇が11歳の堂島昴の背中に追いつこうとする物語だ。堂島コウとは何者であったのか、という謎を追い求める物語だ。一方では冷徹に子供たちを組織し、そして一方では、妹が宇宙人にさらわれた、と繰り返していた少年の背中へと追いつこうとする物語だ。記録を通じてしか知らない、顔を見たことも声を聞いたこともない相手への一方的な思い入れの物語だ。そしてその背に追いつくとき、ひとつの特殊な出会いが実現することになる。それは同時に、われわれ読者が、堂島コウというシリーズ主人公と出会い直すことでもある。

 基本的に今木はこのシリーズは最初の『魔法カメラ』以外はどうでもいい人です。いやまあ好みでいえば『ストレイキャット』は外せないけどあれはあくまで番外、僕が気になるのは「妹を宇宙人にさらわれ」「そのことを誰にも信じてもらえず」さらに「その記憶はなくしてしまった」という堂島コウという少年です。自分では覚えていないその体験が、しかし今の自分を基礎付けている、と彼は認識している。
 そのあたりは二巻以降しばらくなおざりにされていて、だから結構このシリーズを追っかけるのをやめようと思ったりもしたのですが。
 しかし今回は、このシリーズ追っかけてきて良かった、とけっこう本気で思いました。

 もっとも、言っておくと、この巻だけ読んでもたぶん大丈夫だと思います。基本的に新キャラの視点なので、今までのシリーズで既出の情報も「初めて知ったこと」として出てくるから。



It/ザ・ワン

Friday, 7-Nov-2003

 CROSS†CHANNEL二周目を再開。


 IMIT。なんというか、盛り上がってくると途端に萎える。どうしてそんな風に器用に自分の気持を言語化できるんだ。流暢すぎると思うのだ。そこで的確な人物眼を発揮されてもケッとかいう気分になるのだ。そうじゃないだろ? 都合よすぎるよあんたら。大川七瀬のネームじゃないんだから。

 霧ちんが太一の昔話をあっさり信じるとか、曜子ちゃんに太一の「切り札」があっさり通じてしまう(太一が「切り札」だと思っているものが、本当に意図通りに受け取られる)とか、どうも決定的なシーンで引っかかる。なんでそんなにあっさり通じるねん。自分について語れば自分について語ったことになり、相手について語れば相手について語ったことになるのか。この時点では、シリアスに盛り上がることと他者性の消去が同一に扱われている。

 もちろん、やがて太一は自身の一方的な思い入れだけで行動することになるので、ここは最初で最後のCROSS POINTであるわけですが。つまり、上の批判はここから先には必ずしもあてはまらない。
 まあ作品として云々はともかく、盛り上がるシーンではノイズ(主として視点キャラの意図にとっての)を除去しにかかるのがこの作家の癖であるようだ。気持ちよく泣けるように配慮されてんだから文句言っちゃいけないと思うけれど。




Wednesday, 5-Nov-2003

 CROSS†CHANNELの感想を漁る。もっとも、結局はここから辿れるやつしか見つからなかったんだけど。
 以下はネタバレにつき注意なのですが、


http://d.hatena.ne.jp/kimagure/20031102#p1

《とりあえず主人公がいーちゃん(by西尾維新)です。キャラ的には違うけど、本質的にはトラウマ背負って人の心を壊す術に長け、虚無で自分のことを 「人」だと思っていないところがそっくり。そういう主人公が(いーちゃんが「ヒトクイマジカル」で自分の人間性に気づいたように)循環世界の中でバッドエンド を見る事で「俺はこんなのは嫌なんだ」と自分の中の人間性に目覚めていく話だな、こりゃ。》

 いい感じにサクッとまとめられました。どうしてこのくらい短くできないかな自分。

http://f17.aaacafe.ne.jp/~renge/mon_2003_9.htm

《まず初めに。これは「青春小説」です。
中身は工夫されてますが、総合的に見ると間違いなく青春小説。》

 ってのと必ずしも矛盾しない。戯言遣いのいーたんを他人と思えぬ、そんな青少年はいくらでもいるだろうから。青年期の自意識にとって、自分は歪んでいると思うのは気持の良いものだ。わざわざ自分から言い出さなくても誰かが怪物呼ばわりしてくれる、というのはたいへん都合がよろしい。ちなみに、自分から言い出しても相手にしてもらえない、というのが太宰治。
 西尾維新を連想する人は他にもいるようだ。




Tuesday, 4-Nov-2003

 今頃になってねこらん(『野良猫オン・ザ・ラン』)を知る。少女ひとすじ14年、『水路の夢』『夏の鬼 その他の鬼』等の静謐にして幻想的な作風で知られる早見裕司が放つ、少女武侠伝。
 いろいろと、一生の不覚。にしても持つべきものは妹であり、僕は人に話振っといて忘れるタイプです。
 『夏の鬼 その他の鬼』は近所の書店に並んでたんだけどなあ。

 ちなみに、今のところイチオシは『水路の夢』。

 逝川高校文芸部は季里にとってはいい所である。だが、つまるところ水淵季里という少女を中心としたコミュニティで、それを認める人間しか入っていけない。『水路の夢』で高取集はそう指摘した。かれらにはけっこう痛い指摘だったはずだ。
 また、同作での水淵季里はやはり「水」に親しみを感じているけれど、玉川上水を心のよりどころとする一方で、神田川のコイを見て気持悪いと思ったりもする。たぶんこうした部分は天沢退二郎の『光車よ、まわれ!』あたりから受け継がれた感覚でもあるのだろう。
 だが、『夏の鬼 その他の鬼』になると、こうした両義性や不安の感覚が薄れていてるように思えて、若干の不満がある。問題が幻想的な界面に限定されているようで。僕としては、ひとりで電車に乗れるようになった、とかそういう他愛ない話として読みたい部分もあるので。

 もちろん『太陽雨』は読みたくてたまらないんだけど。




Monday, 3-Nov-2003

 きーにーなーるー。
 『動物化するポストモダン』はどうしたって文藝評論であると思うのだが。

 メモ。

 《いくつかの教訓が引き出せるとしたらひとつは、少なくともこの国では、「思想」というのは文学屋さんの商売だということである。明治以来、アカデミズムに物量で適わない、リテラリズムが拠り所にするのが「思想」という訳だ。ついでにいえば、アカデミズムが拠り所にするのが「実証」で、これには時間もそれを支える資金も、要するに権力も必要である。》(読書猿56

 《野暮と言えば野暮の極みのような理論構築癖にはどうしても抵抗があるんだけど、それを差し引いても学者(大学職員)ならぬ文学者の立場から発せられる「批評」という日本近代文学/文壇のお家芸的なカッコ良さはやはり歴然と際立つ。「わたしのいいたいことはいつもおなじである。<きみたち自身がそれをなしうるだけの水準と思想に達しないかぎり、専門外の一文学者がきみたちの領域に侵入する不快さを耐えるべきである。ようするにきみたちにはわたしのもっているなにかが欠けているのだ>と。そうはいっても、わたしはねばりにねばる耐久力と、文学から獲得した思想的な原則いがいに、なにももっているわけではない。」(『心的現象論序説』「はしがき」)なんて書かれたら痺れるなと 言うほうが無理だろ。》(astazapote)




Sunday, 2-Nov-2003

 『腐り姫』ざっと終わり。だいたい以前書いた感想の通り。一ループに一時間かからないバランスに気を使っているからだろうが、食い足りなく感じる。まあ、ほどよく抑制のきいたオトナの仕事なんでしょう。

 業界四方山話にリンク貼っとこ。




Saturday, 1-Nov-2003

 『腐り姫』起動。二周くらいするとみるみるやさぐれていくわたし。ああそうそう、これこれ。アレだきっと。会話によって相手の内面に切り込んでくようなのがだめなのだな。さらに過去を説明してフォローしたりすると最悪。そのへん麻枝准はストイックでよろしい。まあ、初期村上春樹的なデタッチメントかもしれないが。しかし僕は、コミットメントを決意したとたん、人形芝居の新ネタを見せるとかそんな妙なことを思いついてしまう、そういう連中のことをつい考えてしまうわけで。
 積極的に他者の内面にコミットしようとして、普通に会話して、それで成功できるようなフィクションのキャラクターたちのことなんて、知ったこっちゃないです。そもそも、さして面白いこと話してるわけでなし。





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