忸怩たるループ  2003年12月
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12/31

 http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200312.html#29_1
http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200312.html#29_6

《いくらデイヴィッドが「まず第一に、それを信じてもらわなければならない」と言っても、まあ、やはりそれを単純に信じるにもいかないわけで。》

 別に信じる必要はないが、そう書いてあるのは事実。「何が書いてあるか」をあんまり無視されても困る。僕がこだわってたのはそのへんなので。

《単純に理解してしまうと、デイヴィッドは自らの記憶を再構成した「物語」を語ることで、「傍観者として振舞うしかなかった事態」に対する自分のエクスキューズを読者に共有してもらいたがっている、ということになる。》

 普通に読めばそうなると思われます。僕もだいたいそのように読んでいました。

 じゃ『隣の家の少女』について少し。ちなみに僕には、ちょっと理詰めにすぎて面白くない小説である。

 そしてデイヴィッドが採用したのは、ひとつには叙述の順序によるトリックであり、また読者と自分を同一視させるような仕掛である。後者については説明を省く。ええ、ようするに《現在のデイヴィッドは「自らの記憶の読者」なのだ》ということで。
 前者について。まず、『「見ることによる苦痛」という概念を発明し、それを「唯一の真正の苦痛」に仕立て上げる』こと。そしてこの転倒から語り始めること。そうすることによって、物語を、あたかもこの転倒が証明されてゆくプロセスであるかのように見せかけること。これがデイヴィッドのトリックだ。
 まあ、手が込んでいるわりに役に立たないんだが。そんな苦痛概念はやっぱり流通しないから。しかし、まさにその流通しがたい概念を発明することで、初めて語ることが可能になっていることを見逃すべきでない。いいかえれば、彼が語ることを容認した時点で、つまり読むことを選択した時点で読者もあるていど共犯になる。
 もちろん、「見ることによる苦痛」という概念自体が、《「聞き手にトラウマを伝染させること」への欲望》の所産だろう。僕にはケッチャムの手が見えすぎる。最初に「信じるか否か」という入信を試すあたりで、あとはもういっそ読まなくてもわかるくらいだ。

 あと、近代家族は抑圧と虐待の温床である。いやD.O.『家族計画』のめがねさんが「家族においては異常なルールが常態化しやすい」みたいなことをちょろっと言っていたような気が。『蝿の王』みたいな環境は必要ない。そういう意味でホラー。

 「善良で無力な傍観者」をもう少し巧妙化すると、伊藤剛いうところの「エヴァ=スミス論」。

「そんな都市伝説を信じているとは、まったく嘆かわしい。国家がテロに荷担するなんて、国際世論で正面から非難されるだけじゃありませんか」

──長谷敏司『天になき星々の群れ フリーダの世界』

 あー、そういえばクラエスのフルネームってフリーダ・クラエス・ヨハンソンだ。いや女の子がテロリストで固有性がどう、というので何か引っかかってたので。あとメガネとか。



12/30

 23日の二つ目の段落を復活させました。ここで、「ある意味かっこよかったので」というのはそっちのことだそうなので、そのへん整合とれないと気持悪い。
 なんで消しちゃったかというと、ひとつにはよこしまな楽しさを感じてしまったからなんですが。本気で信じてるわけじゃなくて、単なる可能な反論として書いちゃったし。たとえば「本当に子供じゃなきゃいけないのか?」という冒頭のセリフで、すでにジョゼが疑問を感じていることがわかる。また、ジャンとジョゼの兄弟は転職組である。おそらく「公社」生え抜きである技術者とかヒラ課員とかは思考停止してるように見えるけど。このあたりは後述します。

 http://bbs10.otd.co.jp/1004176/bbs_plain?base=460&range=1

《根本的なところで、宙ぶらりんという事が分かっていない気がする。
「現実よりも現実的でグロテスクな悪夢と解釈すればいいのか、それともろりぃな女の子が薬漬けで向こうから好きになってくれて守ってくれる萌え萌えハッピーな夢なのか」を宙吊りにした上で表現の強度で萌やすのが作者の狙いです多分。だから、そのシーンの含意が一意に定まるような描写はない。にもかかわらずきっちり読ませるのは台詞とコマ割の妙って奴でさ。そういう解釈不能性をただのヘタさとしてしか捉えられないのはかなり問題があるように思う。》

 ああ、全く。

 ひとつ言っておけば、我々はむしろあの義体少女に憧れたりしてるのではないかと。羨望つうか。視点(モノローグ)に忠実に行けば、女の子の側が同一化と感情移入の対象となる場合が多いだろうし。

 ついでにもうひとつ。
http://bbs10.otd.co.jp/1004176/bbs_plain?base=463&range=1

《ジョゼには恐らくあの組織に身を置く個人的な事情がある。それはジャンと一緒に公社に転職した理由で、エンリコを最低 だと罵った理由なのではないでしょうか。ラバロがジャンに問うた復讐でもあるかもしれません。》

 僕の知る範囲では、こうした点はどうも読み落とされがちである気がする。ので少し書いておく。

 ジャンとラバロの、「自分にとっては都合の良い組織です」「復讐のためには手段を選ばないのか」(2巻6ページ)という会話から、ジャンが(そしておそらくジョゼも)復讐の手段として公社に転職したことが示される。
 たとえばジャンは「殺し屋もパダーニャも大嫌いだ」と珍しく感情的な発言をするのだし(2巻93ページ)、ジョゼは「とにかく最低な連中さ」と、ヘンリエッタの前では珍しく険しい表情をし、彼女を恐がらせている(2巻38ページ)。

 単純に考えて、おそらくかれらは兄弟してパダーニャに復讐を誓っていて、そのためには手段を選ばないことも既に決めている、という推測が成り立つ。たとえばの話ですが。ジョゼの頭の悪さよりは、エンリコのような「連中」への憎悪の表白と取る方が素直な読み方でしょう。

 ジョゼがヘンリエッタに甘い──例えば、叱責すべきなのにそうしない──のは、公社にそこまで義理立てするいわれはない、ということなのかもしれない。ジャンは手段と割り切っているのだろう(完全にではないが。たとえばラバロへの罪滅ぼしか、クラエスに菜園作りを許可したりはする)。ちなみに冒頭「本当に子供じゃなきゃいけないのか?」「「公社」の技術者はそう言ってる」という態度が、既にして「公社」とかれらが心理的に距離を置いていることを匂わせる。

 ジョゼに「矛盾した立場の苦悩」や公社と一体化したかたちでの「偽善」を読み込んだり、ジャンに「公社の正義への同一視」を読み込んだりするのは、かれらを「公社」の内部に閉じ込めすぎた見方といえる。



12/29

 相田裕『GUNSLINGER GIRL』1・2巻を読む。ネットでガンスリ評をいくつか読んだのと照らし合わせて、気付いた点をいくつか。




12/28

http://www2.realint.com/cgi-bin/tarticles.cgi?kenseikaien+297

《たとえばですね、こう考えてみてください。あなたは自分の妹や姪や娘や恋人がカルト教団にでも誘拐されて手足を切り取られて機械に変えられたうえ、クスリを大量に投与されて薄笑いを浮かべながら「教祖様のためならいつでも死ねます」とつぶやきライフルをぶっ放して人を殺しまくるように改造されたとしたら、それでも彼女たちは幸せだから良いのだ、といえるでしょうか? 「公社」がやっていることはそういうことだと思うのですが。》

 いや、誘拐じゃないし。もちろん拉致(書評を参照)でもない。あと「手足を切り取」ったのはまず、どこぞの凶悪犯とか、ほかならぬ当人の家族とか、生来の病気とか、そういうものだったりしますが。どちらかといえば。
 これではまるで社会福祉公社が、無差別誘拐を行い、五体満足なあいての手足を切り取って改造しているようだ。もちろんこれは作中の事実に反する。べつに公社を擁護する気はないけれど。

 誰かにとって身近で大切な(大切にできる)人であるのなら、「公社」に引き取られる、という展開はありえない。あの少女たちのことは、普通に暮らしている人間にとっては他人事でしかありえない。よって、普通に暮らしている我々が、「自分の妹や姪や娘や恋人が〜」と考えることは、まず作品(設定)によって禁じられているというべきだろう。
 ついでに言えば《殴られようが死にかけようがいつもハッピー》というのも、字義通り受け取ると実際の描写とは異なり、やや引っかかる。まあ修辞的表現というやつなんだろうけど。

 それでも一応考えてみると、例えばアンジェが自分の娘だったら、「幸せだから良いのだ」どころか何も言えないはずだ。まさか「生きていてもらっては困る」と言うわけにもいくまい。我々は我々が見捨てた者に対しては何も言えないので、こういう「何も言えなさ」に読者を追い込むのが、ガンスリの意地悪な(あるいは優しい)ところかもしれない。
 また、遠いイタリアのお話だとか人種だとか言い出す以前に、どうやっても他人事でしかない、という位置にあらかじめ読者が置かれてしまうという作品の機制に言及すべきだろう。
 あと、「悪い奴が悪そうに見えない」ことが問題なら、「義体少女たちが普通の女の子みたいに見える」ほうがよっぽど問題だろ、とか。

 まあ実際どっちでもいいさ読者の立場なんて僕にはさ。実際には、フラテッロの双方とかエミリオあたりに感情移入して読んでるわけだし。



12/27

 http://www.globetown.net/~maxi/shuukannshohyou7.htmについてのつづき。『隣の家の少女』への言及の不正確さについて。

23日に付加えて言えば「隣の家のことにすぎない」という言い方も適当とはいいがたい。、ケッチャム『隣の家の少女』の主人公はたしか、隣の家で起きている出来事の内部にむしろ飲み込まれてしまうのではなかったか。そして内部にいるにもかかわらず、なぜか(善意に満ちた・無力な)傍観者として振舞ってしまう。
 まあ、たとえばここまで書いておいて、あの(善意に満ちた)主人公を『GUNSLINGER GIRL』のジョゼさんと比較することは可能だろう。もちろん海燕氏はそうやっていないが。

 《我々にとってまさにその隣の家の少女そのものだ。我々は心のどこかで彼女たちの悲劇を「隣の家」のことにすぎないと感じ、安眠剤がわりにでも気安く読むことができる。》とか、《ジョゼが北朝鮮の人間であり、ヘンリエッタが日本からさらわれた少女であったとしたら》という言い方を見るに、「「隣の家」のことにすぎない」というのはどうやら、「遠いイタリアで読者には関係のない世界だから」という意味らしい。
 こうなるとなんで『隣の家の少女』を持ち出すのかさっぱりわからない。

 「我々」には「隣の家」どころか本の中の話でしかないし、ケッチャムの主人公にとっては隣の家のことに「すぎない」どころではない。そもそも、「われわれにとって「隣の家」のことにすぎない」などという言明は、意味内容を欠いたでたらめな記号の組み合わせではないのか。
 ちなみに『隣の家の少女』の原題はTHE GIRL NEXT DOOR。「ドアのすぐ向こうの」というニュアンスが(も)考えられる。



12/24

《草むらに寝ころんで 逆さの星くず 目を凝らしてた
 流れ星見つけたよ でも 願い事がわからない》(ポケットを空にして)

 とりとめのない話をすると、映画『ロック・ユー』は、西欧中世の平民の若者が騎士を目指す話なんだけど、そこで繰り返される「人は自分の運命を変えられる」という言葉は、英語では"A man can change his stars. "となる。いかなる星の下に生まれようと、という言い方が普通に現れるわけだ。
 ついでにいえば、主演のヒース・レジャーの本名はヒースクリフで、姉の名前はキャサリン。むろん『嵐が丘』に従って名付けられた。本当についでなんだけど。そういうことってあるんだ。



12/23

《僕自身はといえば、「GUNSLINGER GIRL」の内容をオブラートにつつまれた悪夢だと感じている。ジャック・ケッチャムというカルト的なホラー作家に、「隣の家の少女」という傑作がある。主人公の少年の隣の家でひとりの少女が徹底的に虐待され、その人格までも破壊されていくさまをかれの視点で克明にえがいた戦慄的な長編である。ヘンリエッタをはじめとする義体化少女たちは、我々にとってまさにその隣の家の少女そのものだ。我々は心のどこかで彼女たちの悲劇を「隣の家」のことにすぎないと感じ、安眠剤がわりにでも気安く読むことができる。》(http://www.globetown.net/~maxi/shuukannshohyou7.htm

 この言及のしかたでは『隣の家の少女』という作品に対して、ちょっとあんまりな気がする。

《つまり、なにかを見る(、、)ことによって苦痛をおぼえることもあるのさ。それこそ、もっとも残酷で、もっとも純粋な苦痛だ。やわらげる薬も、眠りも、ショックも、昏睡もないのだから。
 苦痛を目にし、苦痛をとりいれると、人は苦痛そのものになってしまう。
 ……
 まず第一に、それを信じてもらわなければならない》(『隣の家の少女』)

 ようするにケッチャムは、「傍観者であることの苦痛」を主題化しているのであって、それを「隣の家」のことにすぎないとという気安さの話として紹介するのは、ちょっとあんまりな気がする。

 もちろんケッチャムの主人公の苦痛など自己欺瞞にすぎず、やはり気安さと呼ばれてしかるべきものだ、という通念的な批判は成り立つ。ただ、この場合は、作品が描こうとしているものをはなから否定していることになる。
 けっしてそのような批評に異を唱えるわけではないけれど、このばあい、例示や紹介として挙げるには批評的にすぎるとはいえる。「まず第一に、それを信じてもらわなければならない」と書いているのだけれど。

 「公社」のような組織が仮に存在するとすれば、その実動メンバーは何より「考えないこと」を叩き込まれるはずです。自分の仕事に疑問を持たないこと。命令されたことは果たすこと。自身の行為と結果を切り離すこと。たとえば、核ミサイルのボタンを押す要員は、自分の行為とその結果を切り離すように思考することを訓練すると言います。彼らがすでに「公社」の一員としてそれなりのポジションを占めている以上、根本的な部分で思考停止(に近い状態)に陥っているのは必然です。でなければ彼らは少女たちと出会うことはなかったでしょう。

 いちいちセリフを字義通りに解釈しすぎている気はします。あるいは一面的すぎる。
 たとえば、「同情」と「善行」は同列に語れない。「同情」という語は否定的なニュアンスで語られるのが常ですから。同情なんてやめてくれ、とか、そんなのただの同情じゃないか、とか。それは利己的な心情と欺瞞の謂でして。
 あと、「善行を積みたかったのか」も、それが自分勝手な思いというか自己満足であることを自覚した物言いと解するのが自然かと。どうせ誰かを選ばなければならないのならせめて。なんぼなんでも本気で純然たる善行だと信じていたとは考えにくいので。

 12/30追記。繰り返しになるけれど、上では若干舌足らずな気がするので。
 何かのインタビューでそういうのがあった気がするんですけど、核ミサイルのボタンを押す係の人は、核爆発による惨禍と「自分の仕事」を決して関連付けないように思考訓練する、という話です。家族を養うための仕事であり、命令に従ってなすべきことをするのが自分の仕事である。そう考えることができなければ、辞めるかクビになってる。それが成り立っている以上、人員の選別はすでになされているわけです。われわれの目に触れるのは大抵そのあとになります。
 「公社」の二課で今なお仕事を続けているメンバーについても、少女たちをあんな風に扱うことについてはともかくも納得している者だけが、読者の目に触れるようになっている。さもなくば単にイレギュラー扱いになる。そのくらいのことはまず考えられていい気がしますが。



12/21

 さよらなすのこちゃん。あと、夏胞子の意味もわからなくてごめんなさい。お礼も言いたいのだけれど、それはすでに勝手な話であるし。

 鷺澤萌と長野まゆみの区別もついていなかった。そのころはといえば、草創まもない角川ルビー文庫を楯にどうにかセカイとタタカっていて、たぶんひとしなみに敵だと思っていた。女の子が読んでて普通に容認されそうなものを読むのは敗北と同義だった。昔の話だ。もちろん理論武装は中島梓『小説道場』で、これは今でもたまに後遺症が出る。

 ともあれ、合掌。



12/20

 『ロック・ユー!

 えらく楽しい映画でした。とりあえずチョーサー萌え。あとアルゴスの黒太子エドワード萌えー。そして中世はロックだ! ついでに、いま明かされる『カンタベリー物語』誕生秘話。だいたいそんな感じ。ごめん嘘。

 ぼくは、この映画が楽しかった、ということをとにかく伝えたいのだけれど、あんまり当り前に楽しいのでかえって説明しにくい。ストーリーは王道であり、ディテールはゆきとどいていて、サブキャラはいちいち立っている。エピソードはいちいち気が利いていて、時にクサく感動させ、時にニヤリとさせ、時に「おいおい」と突っ込ませる。決定的なシーンでは「ぐっ」とコブシを握り締め、先の展開なんてわかってても固唾を飲む。特訓シーンは何度観ても笑いがこぼれるし、勝利のシーンでは思わずガッツポーズ。そういう、当り前の乗せ方が十全に出来ている。
 あと、実在の有名人をからめるのはやはり燃えます。西部モノならワイアット・アープ、伝奇モノなら柳生十兵衛、英仏百年戦争の時期ならジェフリー・チョーサーに黒太子エドワード。佐藤賢一『英仏百年戦争』(集英社新書)とか読んでると幸せかも。



12/19

魔法だの使い魔だのわけのわからん理窟に支持されつつ進むのは幸せなことですが、わけのわからん理窟に人が支配される姿を見たいわけではない。魔女つながりで言うと『マクベス』の魔女の予言みたいな代物であってはいけないわけで。
 個人的な好みからすれば「人が観念をつかむのではなく、観念が人をつかむ」(柄谷行人「マクベス論」)というのはそれはもう燃えるわけですが、中学生にはまだ早い。

 ああもう、そこで金星人とか魔女とか言ってしまう彼らがいとおしいなんて、当り前じゃないですか!

 ただ、僕はちょっとそういうのが好きすぎる気がするので、自制したくはあるわけで。好きなモノにこだわりすぎると、なんか固まっちゃう気がするからさ。


 たとえば『灰羽連盟』のことを思い出すのだけれど、「笑わないで、聞いてくれますか?」 と言われたとき、正しい返答はもちろん「笑わない」なのですが、そう言いつつ実際には笑ってもいいわけです。で、「やっぱり笑ったー」と怒られておけばよい。もちろん、笑わずに済めば、それはそれで結構な話である。コミュニケーションには、矛盾する答のどちらでも正しい、ということがあります。
 むしろ、言っても言わなくてもどっちでも許容されるからこそ、金星人とか言えちゃうわけで。僕が最近考えているのはそうしたことです。舞先輩の場合だと「魔物」と言わなきゃならない、という切実さがあって、それはちょっと疲れます。嫌いではないけれど。



12/18

宇宙(コスモ)なボクら!』/『D.C.』その他の話。

《ある種の人々のとって愛というのはすごくささやかな、あるいは下らないところから始まるのよ。そこからじゃないと始まらないのよ。》(村上春樹『ノルウェイの森』)

 ちなみに村上春樹は一時期集めていたのだがほとんど売ってしまって、現在手許にあるのは『若い読者のための短篇小説案内』きりなので、上はこちらからの孫引きとなります。本当はこういうことやっちゃいけないのだけれど、ぶっちゃけ金が無い。
 ちなみに、しのぶさんが「すごくささやかな、あるいは下らないところ」というので意図しているのは『ONE』の七瀬シナリオにおける「乙女」であるわけですが。

 ただ、「下らないところから始まる」からといって、「そこからしか始まらない」とは限らない。そういうこともあるのではないか。まあ、対照実験やるわけにもいかないから、確かめようがないのだけれど。


 D.C.のことりの話がけっこう好きなのですが、彼女の力は、もともとなくてもどうにかなるようなものらしいのだけれど、たとえば人を好きになったり、いくらか生き易くなったりするための理窟として機能しているあたりが好きです。理窟であるからには理窟に過ぎなくて、そういう所も含めて。「それ抜きでやっていけない」というほどのものでは実はないのだし、それなしには出会いなどありえない、というほど唯一無二のものでも多分ない。
 でも確実に、「彼女達が笑顔でいる時間が何%かづつ割合を増している」、ようなものではあるわけで。それはたしかに、まあ何というか、世界を少しだけ善いものにするような何か、であるような気がします。

 日渡早紀『宇宙(コスモ)なボクら!』にしたところで、「魔法」のおかげなんかじゃないやい、と言おうと思えば言えるので、そのあたり、あんまり切羽詰った感じはしなくて好きなのです。

 あるいは、こがわみさき『しあわせインベーダー』でいうと、そこで金星人いわんでええやん、別にいってもええけど、という、どっちでもよさが心地よいわけで。
 そこにはただひとつの正解があったりしない。リアクションは常に複数が用意されている。用意されているというか可能である。金星人とかまんぼうとか言っても別にハズレってわけじゃないし、それだけが正解ってわけでもない。そうしたユルさはあった方がいいように思う。よくわからないけれど。

 色恋沙汰については逆向きに考えることも可能で、たとえば恋人といえば椎名繭であり結婚といえば沢渡真琴であるのだけれど、どちらもいわゆる恋愛とか男女の関係と呼ぶには違和感があるのは衆目の一致するところだろう。もちろん、これも恋ですのよ、という答もあるのだが。
 たぶん、恋人とか結婚とかいう言葉があるおかげでようやく成立する関係というのがある。例えば椎名とのそれは「恋人ごっこ」にすぎなくて、実際に成立している関係性には別の言葉のほうがふさわしく思えたりするのだけれど、しかしそれでも、そういう言葉は役立っているように思う。椎奈はどう思う?



12/17

 昨日の補足説明。不要かもしれないが一応。

 《猫や犬を登場人物の心理の説明に使っている小説が日本文学には山ほどある。たとえば武田泰淳の『風媒花』という小説には、野良犬の小犬が出てくる。この小犬は、人間がゴミを捨てるために掘った穴に落ちて死んでしまうのだが、そのやるせなさは、作中人物のやるせなさと完全にシンクロするように作られている。
 私はこういう身勝手な(、、、、)仕掛けには我慢がならなくて、小犬を道具に使うんじゃない! と思う。》(保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』)

 この怒り方は昨日の引用部分での<僕>の怒り方に似ていて、思い出したのはそのためです。ちなみに村上春樹のほうが萌え。メタファーに使う使わないという倫理よりも、正確かどうかという認識ないし事実性をそこで問題に挙げるところが、ちょっと出てきにくい感じ方であって面白い。いちいち描写が具体的だし。

 いや、日本の小説はそんなひどいものばかりじゃないよ、とは言いたくなるけど。それとも最近はそういうのばかりなんでしょうか。

 確かに、『あぐね』読んでると、こんな当り前のことがいちいち言われなきゃならないとは、という気にはなります。
 もしや近頃の小説はよほど泣きギャルゲーのようなものばかりであるらしい。回想なり前世なりを現在の説明に使い、キャラの役割(属性)を固定化するエピソードばかり積み重ね、夢を使って現在の状況を解説する。昨今では小説といえば片山恭一であるわけだし。「なぜ、一気読みできる小説はつまらないのか?」「「感傷的な小説」は罪悪である」なんて項目を見ると、こういう裏読みはよくないのだろうけど、『世界の中心で、愛をさけぶ』の売り文句が「一気に読んで泣きました」(12/18訂正。正しくは「泣きながら一気に読みました」であった模様。ありえない。)であったことを想起せずにはおれない。つうかタイトルといいオビといい、正気か。

 それにまあここだけの話、ギャルゲーの話すんのにあまりに使いやすいってのはどうよ。保坂和志の小説作法なんて、これとあんまり変わらないし。

 ちなみに、以前も書いたかもしれないが、「回想はやめて時系列で書く」というのを転生モノにあてはめると、「前世を思い出す(『久遠の絆』)のはやめて転生を時系列順に追う(『デアボリカ』)」となる。このばあい勿論、前者はキャラクターの役割が固定的で、プレイ時間の経過はそのままかれらの役割の固定と強化を意味するが、後者においてはむしろ、キャラクターの役割や立場の変容こそが主眼となるわけだ。まあ小説じゃないからどっちが優位ってわけでもないですが、「転生モノ」とひとくくりにするのは要注意だろう。むろん、これら二作品に限った話でなく。

 あと、現在を説明するためだけに回想や夢を使うような不届きな作品は、実はそんなに思い当たらない。せいぜい『ピュアメール』ぐらいか。あれの冒頭はひどい。



12/16

 思い出したのでメモ。

《アレゴリーに意味を一義的にむすびつけて、受け手に感情的ないし生理的な反応を喚起させるようなもの、あるいはそういう「無邪気な受容」をする受け手の態度を「象徴的」(水っぽい)、アレゴリーそのものが自走してナンダカワカラナクなるのを「超現実的(シュルレアリスム)」っていうんだと、僕は(花田清輝を)理解しています。

「村上春樹がわかる」っていう本によると、『ねじまき鳥クロニクル』の中で、<「このような理念なき政治はやがてこの国を、潮の流れのままに揺られ、運ばれる巨大なクラゲのような存在に変えてしまうことだろう」>と語った綿谷ノボルに対し、<僕>が<ある種のクラゲにはちゃんと骨もあるし、筋肉だってある。(中略)彼らは触手や傘を使って美しい動き方をする。潮の流れのままにただふらふらと揺られているわけではない。決してクラゲの弁護をするわけではないけれど、彼らにも彼らなりの生命的な意思というものはあるのだ>として、<不正確なメタファーを使ってクラゲを侮辱するのは間違ったことだ>というシーンがあるそうです。》(http://210.159.192.206/608595/bbs_plain?base=560&range=1

 ちなみにこのとき「水っぽい」のは『嬌烙の館』である。元長柾木はけっこうそういうの多い。『sense off』はよくわからないけど。あと最近だとCROSS†CHANNELも水っぽいね。で、上記引用部分での「超現実的」にあたるものとして、たぶん『ONE』あたりを彼は意図していたんじゃないかと思うけど。
 最近のでもうひとつ挙げると、アレゴリーというかイメージが自走してしまうのが『デモンベイン』のライカ篇で、「青空」のイメージのもつ意味あいが、劇的に(とりかえしのつかない)変容を見せるのが、ひとつの見所となっている。

 保坂和志は「猫を比喩として使わない」(『書きあぐねている人のための小説入門』)と書いていて、ほかに「回想」や「夢」もなるべく使わないように薦めるのだけれど、それというのも、「回想」が「過去」ではなくたんに「現在の説明」になり(参考)、「夢」がたんに「現在の心理の説明」になってしまいがちだからだ。夢を夢として書くことは否定していない。猫を猫として書く、猫といったらもう猫しかない、という水準で「夢」を描く(あるいは「回想」でさえ)ことまでは否定しない。そう僕は読んだ。というかまたぞろこういう話

 さてデモンベインの話にもどれば、そこでは回想=記憶は現在を説明するようなものではなく、現在形で暴力的に噴出する何者かである。そして現在はそれにたやすく屈することなくがっぷり四つに組み合っている。互いを喰らい合おうとするかのようなダイナミズム。たぶん個々の題材そのものは陳腐といってさしつかえないのだが、決してひとつの結論に安住しようとしないこの動きには、ほとんど異様な迫力があるといえよう。
 このあたり、「殺愛」というフレーズを先に目にしていたこともあって、実をいえばもっとシチュエーションに醉った代物を予想していたのだが、キャラクターの心情の組み立て方がえらく律儀で、地に足についた感じのものになっていたのが意外だった。



12/14

 僕がここここで「突拍子のなさ」という言葉を使えるのは、これを読んだからです。みなもちゃんについて付加えることができたのは、ほかにこちらの話を既に知っていたためでもあります。
 こういうのを書き忘れるのはよくない。



12/13

 CHIMAY(ベルギーのトラピスト・ビール)うまい。ベルギービールは初めて。醸造と発酵と熟成の何たるかを実感できる。なるほどビールとは醸造酒(ワインや日本酒と同じに)であったのだなあ。おかげさまで世界が広がりました。
 本式には聖杯状のグラスで飲むのか。



12/11

 12/8の話はつまり、悠歌さんが目を閉じねばならない理由かも。
 何かに固有性を感じるためにはその何かは不透明に感じられなければならない、という話を書いたことがあって、いま読むとどうにも読むに耐えないのでリンクはしないのだけれど、その人のその人らしさや自分の自分らしさやある作品の作品らしさ(他者の他者らしさ、とひとまとめにできる)といったものは、不透明さにかかわっている。「らしさ」だの「リアル」だのといったわけのわからない語を使ってしまうことからもそれは知れるように思う。少なくとも僕は、何と言っていいかわからない時にそういう言葉になる。「ありそう」というのも。

 《「トラウマ」というのは、被分析者(分析主体)によっては決して言語化できないが、その主体のパーソナリティ形成に決定的に関与しているような経験のことである。//つまり、トラウマというのは、「それが何であるか」を名指すことができない、ということによってはじめて「トラウマ」として機能するのである。》
 《私たちにとってもっとも「リアル」に映現するものは、「リアルなものが現前することを抑圧している当のもの」である。》(http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3949/03.10.html

 むしろ、決定的に関与するためには当人に言語化できてはならないのかもしれなくて、自ら眼を閉じることによって不透明さを獲得する、というのもありだろう。悠歌さんについてはそういう話だと理解してます。そういうことは他人(康介さん)に言語化してもらわなきゃいけない、というのも含めて。

 たとえば、目を覚ましていることがそれだけで何かが間違っているような気がすることがある。いや、別に大した話じゃない、単なる現実逃避として眠りがある(そういえば名雪に対してそんな説が出たことがあった)。ソフォクレスをもじって言えば、いちばんいいのは目を覚まさないこと、次にいいのは、目を覚ましたからにはすみやかに眠ること。もっとも、夢見が悪かった日にゃ目もあてられないが。

 つまりは『D.C.』の萌先輩の話なんだけど、シナリオ的にどうも、メインヒロイン4人のなかではえらく見劣りする。というか、眞子や美春や頼子の話と比べてさえ。なんというか、どうでもいい。
 どうでもよさはストーリーが進むほどに感じられて来るので、初期においてはそのようなことはなかった。
 常に夢の中にいるような、むしろ望んでそうしているような姿というものにはある種の喚起力があって、たぶん、夢の中で誰かに会うことを現実よりもほんとうらしく(ほんとうであるべきだ)感じる、という感じ方そのものが既に彼女のキャラクターであるので、なまじっかなストーリーというか因果の説明に回収してしまうのはいただけない。修正されるとしたら尚更。むしろ、そうやって立ったまま眠るのは彼女の常態で、もうそのまま木琴の練習(もちろん現実の部活のためだ)だってしちゃうのである。《……いくらでもストーリーは考えられるが(略)、どれも最初に感じたリアルな気持に踏み止まっていない。ストーリーとは、最初にあったリアルなもの気持を強めるのではなく、むしろ忘れさせるように機能するのではないか》(保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』)。ちなみに保坂和志によれば、大島弓子作品(『バナナブレッドのプディング』から『つるばらつるばら』あたりの)はそれを忘れさせない強度を作品全体にわたって維持しているそうです。『つるばらつるばら』は白泉社文庫にあるのでぜひ参照されたい。その方がよくわかるから。

 あと、たとえば名雪についてもそうなのだが、ふと気がつくと相手は寝ていて夢の世界に行ってしまっている、というのはある意味気楽でよろしい。


 ……この面白さはしかし、わかりやすく因果を説明しストーリーを組み立ててしまうことによってかえって薄れてしまうのである。あるいは、きっちりストーリーを組み立ててしまうと、この「面白い感覚」以上の面白さにどうやってもならない。
 たとえば『ONE』の「永遠」がひとの心をつかむのは、それが「妹の死」という経験に回収し切れない何者かであるからで、どこまでも広がる海を見て不意に泣きたくなったが何に向かって泣けばわからないとか、そうした感覚こそが、この現実とは別の「永遠の世界」のリアリティを支えるのである。行き先は「ぼくの心の中の深み」であって、死んだ妹のことを嘆き悲しむのとはまた別の切実な感覚がある。どうもうまくいえないのだけど。
 もちろん本当は萌先輩にとっても、なにしろあのポケポケとした天然ぶりといい、ちょっと目を離すとすぐに眠りの世界に行ってしまうようなところは、夢の中で死んだ男の子と出会うという目的に解消しえないような、そういう部分はあるのだろうとは思う。

          □

 ええとつまり、保坂和志読んでたおかげで萌先輩の話ができた、という話です、今日は。
 僕としては、思いもかけず先輩の話ができた、ということこそが重要なのだけれど、たしかにこういう「最初の感覚」は失われやすい。筋道立てて話そうとするということはストーリーを組み立てるということで、説明するほどに当初の感覚は薄れてしまう気がする。



12/9

 梨木香歩『西の魔女が死んだ』(新潮文庫)

  人間は自分の見たいものを見る。見たいと望んでいたがゆえにありもしないものを見てしまう。あるいは、見たくないがゆえに目に入らない。こういうとき「見たい」というのは無意識の願望というやつで、自らの意志としてではない。あるいは、見る気もなく見えてしまったものをうっかり「自分」の側に回収しようとするから、そういう言い方になる。自分が何を選んでいるのかは知らないが、とにかくぜんぶ自分が選んでいるのだ、という主張。魔女の論理でいえば、これは望ましくない。嘘だというのではない、ただ、よくない。

 上等の魔女は外界の刺激に動揺しないのだ、と西の魔女は語る。外界の刺激とは、たとえば、自分の意志によらず見えてしまったものとか、自分自身による思い付きもそうなのである。不意にある種の確信が(天啓のように)訪れることがあって、魔女は自分の直観を大事にしなければなりません。でも、その直観に取りつかれてはなりません。なにより、あんまり取りつかれていると振り回されて疲れますから。

 ちなみに主人公は現代日本の中学生の女の子で、「魔女」はそのおばあちゃんでイギリス人。『D.C.』のばあちゃんとちょっとイメージが重なる。どうでもいいが、『君の嘘、伝説の君』『D.C.』『宇宙(コスモ)なボクら!』と、このごろは魔女と中学生ばかりである。

 掲示板に書いた感想


梨木香歩『西の魔女が死んだ』

12/8

 たとえば、作者が頭だけで作ったキャラだと存在感がどうも薄いけれど、実在の知り合いをモデルにするとなぜか存在感が増す、ということがある。昨日のはだいたいそんな話である。
 ちなみに保坂和志の説明(『書きあぐねている人のための小説入門』p91-93)は、情報の蓄積とかそういうのじゃなくて、実際に人間が他人を認識するようなしかた──欠落のしかたや曖昧さの生じ方──を、そのまま再現していることになるから、といったものだ。蓄積よりは欠落といった方が近い。

 もっとも、欠落と蓄積はある意味では同じことだ。たとえば現実の会話はしばしば飛躍する。飛躍とはつまり「あいだの情報の欠落」であるが、これは、実際の発語の脈絡とは別の、話し手が蓄積している情報から言葉が出てくる、ということでもある。

 『雫』を例にとりますが、いきなり「晴れた日はよく届くから」って言い出すでしょ? あれは飛躍というか唐突である。なんでそんなこと言い出すのかって情報は欠落している。しかし実はちゃんと瑠璃子さんなりに事情があって、そのへんの蓄積があるから唐突にもなるわけです(あと、言うまでもありませんが、瑠璃子さんはいわゆる電波を受信しちゃったような言動には実は乏しい)。

 そして逆にいえば、ある種の情報の欠落──飛躍とか、唐突さとか、突拍子のなさとか、辻褄の合わなさとか──が、キャラクターに独自の情報の蓄積を──作品に登場するまでの生活史の存在を──感じさせることにもなるわけです。ちなみに、やりすぎると麻枝キャラの口癖になる。観鈴ちんの口癖の裏に、彼女なりの生活史があるなんて誰も思ってもみなかった所にガツンと来るわけです。これを、キャラクターの存在感が事後的かつ遡行的に構築される、と表現します。
 ちょっと余談めきますが、ギャルゲーでは、ヒロインに「謎」があることが多い。これは「欠落」を見せることによって「蓄積」を想像させるということです。ようするに、ヒロインのちょっと唐突な(不可解な)言動から、欠落した部分を想像することが、キャラクターの存在感につながる。まず「謎」を見せるわけです。ところが前述の麻枝准の場合は逆で、謎解きがなされた後で、「謎」が既にそこにあったことになる。消すことに遡行的に構築される「謎」。戯言ですけどね。ゴーストバスターズに退治されるために呼び出されるゴースト。魔物。

 情報の欠落こそが「らしさ」を生む、みたいなことは以前ちょっと書いたことがある。「普通に喋ってれば、話が前後したり欠落したりしてちょっとわかりにくくなって後から気付いて補足する、とかその程度のことは起きなきゃおかしいわけです。会話ってのは勝手な思い込みですれ違う瞬間が必ずあるもんです。そういう部分がキャラクターの存在感を支える」。

 これだけでは言い足りない気がしたのだが当時はどう書いていいかわからなくて、いまなら付加えることができることが二点ある(僕の頭から出たことではないのだけれど)。みなもちゃんは、話しててけっこう突拍子のない語が出てくることもあれば、夜空に向かっていきなり今日は楽しかったと叫んじゃうような所もある子でした。そういう唐突さはべつに配慮が足りないわけじゃなくて、主人公とはまたちがった感覚と視点であの世界を生きている、ということの当然の帰結であると自明に感じられた。それは彼女の好意と敬意が疑えないからであるのだが、もちろん僕のほうが好意的なせいでもある。さもなければ単に無意味な唐突さということになったでしょうけれど。

 保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』はあまりに根源的な入門書である(これは実践的であることと矛盾しない)。以下はすべて、保坂和志の書いていることを僕なりに要約したものになる。というかメモ。

 小説とは何か? 文字ではないものを文字で表現すること。ここで、「小説とは先行する小説の模倣と引用と変奏である」的な小説観は退けられる。たとえば画家はすでに絵画が存在するという条件ではじめるが、他人の絵を見て書いているわけではあるまい。三次元を二次元に変換する運動こそが絵画である。小説とは、もともとリニアでないものを、一文字ずつ順番に直列的に連なる「文章」という「線」へと変換する表現形式である(参考)。当り前のようだが、これが当り前にならないのが学問というものである。ここは門外漢として当り前に受け取っておく。
 たとえば、いわゆる「文体」はまずこうした変換の流儀のことであって、既存の文章を参照した言葉遣いの流儀ではない。少なくともそれは二次的なものだ。なればこそ翻訳を経ても作家の文体は存続し感受され得る。
 「会話」と「会話を記した文章」もまた別のものである。現実の会話をそのままテープ起こしして字にしても、「会話らしさ」は再現されない。たとえば現実の会話では、うまく言葉の意味が通じてなくて、停滞や歪みが起こるけれど、そのまま字にすると結構気にせずスラスラと読めてしまう。だから、たとえばセリフ以外の異物を入れるとか、スラスラと読んでしまえないような工夫をする。そうしなければ「会話らしさ」は再現できない。
 保坂和志は二つほど面白いエピソードを挙げている。ゴダール『映画史』によれば、『勝手にしやがれ』は編集段階で、時間内に納める方途として、とある会話シーンでは、一人の人物のセリフをまるごとカットしてあるそうである。しかし観ている人間はそれに不自然さは感じない。また、保坂和志『カンバセイション・ピース』は、一旦書き上げたのち、会話のセリフを三割がた削ってしまい、わざとつながりにくくしてあるという。



12/7

 ウィンディから聞いた話を思い出したので、書いておく。

 ウィンディというのはこの場合バーチャコールのオペレーターの人工知能である。初代がプリシアで二代目がウィンディ。三代目もいる。なんで代替わりしているかというと、初代はよく知らないが人間化(モニターから飛び出て実体化?)して男の子とひっついちゃったからであり、二代目は不調を来して業務遂行不能、という歴史がある。
 『バーチャコール3』で、プリシラには実は人間のモデルがいたという事実が明らかになる(『メガゾーン23』PART3みたいだね)。人工知能と人間の恋愛を支えるのはひとつにはモデルの存在である。どういうことか。
 プリシラには、実在の人間を模すためだけの、とくに用途の特定されぬ(無意味な)情報の蓄積がある。それが彼女(プリシラ)に自立的な人格を付与する、というのがウィンディの説明だ。もちろん、実際に接しているあなたには違いがわからないかもしれない。でも、実在の人間を模した情報を抱え込んでいるかどうかで、プログラムド・キャラクターに可能な粒度(細かさ)が根本的なところでちがってくる。あるいはなんと言うか、説明のつかなさ、みたいなものを豊富に持ち合わせることができる。

 《たとえば 入院患者に栄養を与える場合も、昔は点滴でいいとされていたのが、口から摂ったほうが治りが早いとか栄養になることが分かって、なるべく食事で摂らせることになったわけですね。言葉も、書き言葉のように厳密さにこだわり出すと、点滴のようなものになってしまう気がするんです。口から食べるということは、成分で説明できないものまで食べているわけで、 ふつう使っている言葉も、その説明しきれない部分を平気で使っている。》(保坂和志と野矢茂樹の対談

 説明できないような部分があり、それを摂取しまた交換するのが現実の人間である。現実の会話とは時に突拍子もない語が出てきてしかもそれが論理的に回収されぬまま続くものであったりする。また、これもやっぱり保坂和志の『書きあぐねている人のための小説入門』にあった話なんだけど、小説の登場人物は、プロフィールやデータをどれだけ細かく設定しても、それでリアリティが生まれるわけではない(むしろ逆だ)。だが、実在の人物をモデルにすると、あっさりした描写でちゃんと存在感が出る、ということがある。おそらくそこで小説家は、現実の人間から受け取ったものをきちんと定義しないまま出力する、ということをあえて行っている。
 たぶん、彼女が言っていたのはそのようなことだったのではないかと思う。

 が/そしてウィンディは実在の人間をモデルに持たない。一から作られた擬似人格であり、前述のような情報を持たない。特定の文脈を離れて自律的に振舞おうとすると(実際そう試みるのだが)、ボロボロと穴が出て困ったことになる。その場その場の文脈に解消できない残余を抱え込む(ようするに主人公に恋をする)のだが、彼女の存在の単純さ(大雑把さ)はそれを支えきれない。可能などんな行動によっても解消できないストレスが蓄積されるのみである。これは深刻な不調を呼ぶ。彼女はつまるところ、その場その場の文脈の中に閉じなければ生きられない。ひどい話である。もちろんハッピーエンドなんてない。


バーチャコール3

12/2

 D.C.(PC版)のすべての話を見てしまっているのだと思うとなんだか寂しいのです。

 サギーのこと。
 鷺澤美咲が真相を告白したとき、頼子の存在が嘘になってしまって悲しかった。僕は美咲なんて知らない。そもそも耳もないくせにさ。きっと猫舌でもないだろう、自分を猫舌と思っていない点は同じだとしても。あと、イヅタはやはり違う。

 barrerってのはここの「ゴーストバスターズ」評からとってきました。「消すことによって、何かがあったことにする」。そんなわけで、鷺澤頼子はもういないのです。こう述べるのは、あまり誉められた話ではないのですが。


 「私たちはどんな話でも信じます」

 《ゴーストは「ゴーストバスターズ」の出現によって出現する。ゴーストバスターズたちがTVCMで「私たちはどんな話しでも信じます!」という卓抜なキャッチコピーを撒き散らしたことによって、それまで私的領域に押しこめられていた「ゴースト」経験が掘り起こされてしまう。つまりゴーストは「はじめからそこにいる」ので はなく、ゴーストバスターズによって呼び寄せられ、発見されるのである。》(http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3949/movie/otoboke3.html

 そんなわけで、信じるのもほどほどにしたい今日このごろ。
 というか思い出しているのは『悪魔のミカタ』で、あれは吸血鬼はともかく宇宙人のことを誰かが信じてしまったら、けっこう困ったことになる気がするのですが。



12/1

 『みずいろ』OVA(ムービック版)

 うわ清香ちっこい! あと先輩かわええなあ。

 ヒロインでいえば雪希と日和がメインなのだけれど、サブキャラになっている皆さんも決しておろそかにされていない。これは彼女たちの物語にまったく言及がないことと矛盾しない。

 清香は喧嘩友達なのだけれど、相手が本気で悩んでいるかどうかには敏感であるように見える。雨の日、天気予報見なかったのとかちょっかいをかけるが、「うるさい」とつっけんどんに返される。そこで言い返すでもなく立ち去るでもなく黙ってそこにいてくれるあたりがいいやつだと思う。もしかしたら彼女は、一人で何か考え込むようなシチュエーションに覚えがあるのかもしれない(むろんないのかもしれない)。そんなことを思わせる。
 あとアニメなので健二と同じフレームに収まるシーンがあるのだが、椅子に坐っている健二と立っている清香の目の高さはほとんど変わらない。そうかこんなにちっちゃかったのか。ゲーム版にSNOWみたいなアングルシステムがないのは残念である。

 先輩はなぜか自由登校なのに毎日学校に来ているが理由は語られない。あと先輩は先輩だけあって雨の日についての知見を与えてくれるのだが、その時、彼女なりに何か抱えてそうに見えなくもない。しかしそこで何かが明かされるということはなく、大事なことを教えられたような気になるだけで終わる。
 二人してそれぞれの傘をさしながら歩くとき、先輩だけは、時折アクセントのように傘をくるりと回す。滴が垂れるのを嫌ってかもしれないがいかにも自然な所作で、雨は雨で当り前であり、じっと耐えるものという発想はなさそうである。

 彼女たちの「物語」に中途半端に言及するのではなく、ただ彼女たちの普段のありようを叮嚀に示す、という配慮がなされている。もちろん、なぜ清香がその種のことに敏感なのか、なぜ先輩が雨の日に(たぶん珍しく)自分から意見を述べたのか、そんなことは少しも説明されないけれど、おかげでかえって、我々には見えない部分や語られない部分でもちゃんと彼女たちは居て暮している、といったことを自明に信じさせてくれるのである。いやホント。先輩のシナリオやってない僕が言うんだから間違いない。あと先輩は先輩と言及されるだけで名前も出てこないのだが、彼女がどんな人であるかについちゃあそのテの情報は関係ないのである。(12/7追記:これは記憶違いで、最初に一回だけ「麻美先輩」というフレーズが出ます。あと、キャラのフルネームが言及されることは先輩に限らず基本的にない、まあ普通に喋ってれば当り前ですが)

          □

 以下は曽我さんの感想の存在が前提になる。あまり意識せずに書くように努めたがもちろん無駄でした。

 この種の要約はきまって不当なのだが、話をするためには限定が必要で、だから、この作品はひとつには、雪希があの日の日和の背中に追いつくまでの話である。ついでにいえば、日和お姉ちゃんはそんなこと意識もしてないけれど、雪希が自分の一人前になった姿をお姉ちゃんに見せるための話でもある。もちろん雪希はとうにしっかりした子になっているのだけれど、お姉ちゃんにはまだ見せてないし、いざあの日のまんまのお姉ちゃんを目の前にしてみると、あの日の不甲斐なさをやっぱり繰り返してしまいそうになる。もちろん今度は間に合わなければならない。

 雪希の「白馬の王子様」という夢は日和の「およめさん」に比べれば随分とカタチになってなくて幼い(または日和がませている)のであるが、しかし日和にかかれば「いっしょだね」ということになる。そんなとき、日和は最初から自分と雪希が同じ位置にいるもんだと思うという意識さえなく思ってるけれど、雪希にしてみれば、自分の夢を自分のかわりに具体的にカタチにされてしまったともいえるし、そんな場所に日和は最初からいてそこに引き上げてもらったような気がしているかもしれない。雪希はどうにもそんな負い目をひとりでいくつも抱え込んでいそうに見えるので、いっそこちらが化けて出そうなくらいだ。健二も日和もそんなことは気にしてないだけにいっそう。原作ゲームでは日和の幽霊は雪希には見えないのだけれど、この作品では雪希にこそ見えなければならない。

 幽霊とは成仏できない思いのことであり、しかし日和の幽霊が出てきた理由は幽霊自身の口からは語られなくて、雪希がその役を果たす。お姉ちゃんにかわりに言ってもらってたのは昔の話である。

 絵の演技の細かさについていえば、たとえば幼い健二が急いでスニーカーを履くシーンは足元を映さずに上半身だけでそれとわかるように描かれている。とかそのへんも既に書かれているけれど。あと女の子の口の形とか幸せですよん。こういうのいちいち言っちゃうのは野暮なんですが。


みずいろ(OVA版)


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