▼ D〜その景色の向こう側〜
折に触れ突拍子も無い述懐が山のように出てくる。このあたりは「夢」の雰囲気によくそぐう。日本語としておかしいのはアレだが、夢の中で人がどんな風に考えるか、ということについてはかなり再現度は高い気がする。少なくとも僕はこういうのを夢で見たような気はする。
『青い鳥L'Oiseau Bleu』と『MOON.』のすのこワールドとこれで三大夢ゲーにしたいくらいだ。三つの中ではいちばん素のままで夢の思考が漏れ出ている気がする。つまり、覚醒した意識のままで鑑賞するのは辛いレベルである。自分の夢を思い出すような気恥ずかしさがある。どうしても厳しい、という時は一杯ひっかけてからやりましょう。僕もそうする。
▼ D〜その景色の向こう側〜
「えい、えい!」/ ぽかん、ぽかん。『D』といえばこれだろう。そのあたりの魅力についてはこちらを参照。甘いものの匂いで目を覚ますあたりが素敵だ。あと「必然的な不自然さ」はおかしかないです。たとえば、「男性が『ちょびっツ』のちぃのコスプレをしたときにつきまとう必然的な不自然さ」といった場合を考えよ。(例外はあるが。)
僕はシャルロットの名前しか覚えていない。そして名前を覚えていることなんて何も保証しない。知らないはずの相手の名前をきわめて自然に思い浮かべるようなことが重なると尚更だ。もちろん、この時間軸の狂った世界で(最後尾の車輛で出会ったとき以降の)記憶を共有している唯一の相手だ、ということもあるのだけれど、シャルロットだって僕の名前以外は思い出せないというのに、はたからは兄妹のごとく親しげに見えるほどに接してくれるし相手もできるということが何より有難い。そりゃ動力源にもなる。無根拠な親密さが先行している。それが正確に対称的なものだ、ということもやはり。
▼ アシモフ『ファウンデーションへの序曲』再読。後期ファウンデーションではイチオシというか、これと、『誕生』のラスト以外はいまいち。
むろんドース萌え。えらくかっこいいおねーさんである。二梃ナイフって! スーザン・キャルヴィンもとても好きなのですが(『われはロボット』初期のちびじゃりバージョンとか反則ですよ?)。街で出会った少年がぽーっとしてフラフラついてってしまうわけですよそら。アシモフは下世話なエンターテインメントと恥ずかしいロマンスに長けていて(『宇宙気流』をみたまえ!)、なおかつ理詰めの面白さもある。なんてこたわざわざ僕が言うまでもないわけですが。あと海外の作家としては例外的に女性キャラが魅力的です。『夜明けのロボット』でジスカルドの持ち主だったひと(名前忘れた)みたいな悪役でさえも。男性陣だのロボだのの魅力は言うにゃ及ばずですが。
▼ D〜その景色の向こう側〜
僕は生まれつきお酒が好きだ。というわけで『D〜その景色の向こう側〜』をぼちぼちと。不安と焦躁と恐怖に彩られてるはずなのだけれど、時折嬉しくて死にそうになる。
そして僕はいつか、どこかから来て、ふいにこの展望車のデッキの上に立っていた。お酒を飲みすぎたせいか記憶がない。とりあえず車内に戻ろう。僕の知っている人がいるだろうか? 僕を知っていてくれる人がいるだろうか?
そうして車内に戻ろうとすると、ちょっとした出来事があって、僕は不安と寂しさでどうしようもなくなる。なにより恐い。でも。
『13両目と同じく、がらんとした三等硬座車。/だけど、寂しくは無いし、人を求めて駆け出す事もない。/社内は、鈍い夢色のような安らぎで満たされている。//当たり前だ、だって、あいつがいるんだから。』奇矯な日本語が出てくるのは気にするな。「あいつ」とはたぶんこれから初めて出会う。妹の口ぶりを借りれば、そこで僕はひどく途方に暮れていたはずなのに、まだ名前も出てこないあいつの気配に、涙が出そうなほど安心している。
別のシーンから。『「ボーっとしてないで、はやく、こっちにきなさいよ。呆然は無能と同義語なのよ、みっともないわね!」//寂然は半刹那で破られる。//シャルロットの叱責に、お腹の中の熱感と光度が増す。//僕は、シャルロットの声を動力源にしているらしい。/脚がひとりでに動いてゆく。』女の子の声が動力源! いやもう。こんな具合にいちいち喜んでいるとちっとも進まないわけですが。
どーしてどこのレビューもこういう素敵なことに触れてないかなあ。
▼ 『存在と時間』例の個所の原文など。桑木務がそもそも「さきに」を「以前に」という意味で、あるいは「先に」と「以前に」の両方を意味しうる語として、採用してた可能性もあるわけか。実はうまく原義に対応してる、のか?
「原文を知らずに単一の訳文だけで云々する」ということをやってると、なんか江戸時代あたりの、オランダ語だけをたよりにがんばってたひとたちの苦労が偲ばれますな(適当)。
▼ ハズレでした。「さきに」とひらがなで書かれると自動的に「さきほど」「以前に」という意味にとっちまうんだよなあ。「せんに」的に。「先に」と書いてあったなら外さなかった。あと、せめて、「先に明らかにされ、また答えられるであろうところの」ぐらいにしないか。
▼ 『Fate/stay night』デモムービー(アニメ)。アーチャーかっこいー。
はじめのへんで曲とシンクロして剣戟の火花が散る部分は「おおっ」と思ったけれど、ぜんたいに動画的にはたいしたことないです。動きの質がどうもよろしくない。
『機神咆吼デモンベイン』デモムービー。なるほどこっちは「後期オープニング」だね。じっくりとこう。
ちょいと「昏さ」が全面に出すぎてて(耽美的といってもいい)、序盤の雰囲気に合わない気もするが。何より主人公の美質が「深刻になりすぎない」ことだと僕は思うので(ちなみに虚淵主人公はといえば、どっぷり深刻さに沈み込んでしまうわけである)、ちょいと違和感がある。
▼ 「カテゴリー」という語は僕には吉本隆明『固有時との対話』を否応無く思い出させる。「……若し場処を占めることが出来なければ わたしは時間を占めるだろう 幸ひなことに時間は類によって占めることはできない つまり面を持つことができない わたしは見出すだらう すべての境界があえなく崩れてしまふやうな生存の場処にわたしが生存してゐることを……」。むろん「類」=「カテゴリー」である。「すべての規劃されたものによって ひとびともわたし自らも罰することをしないこと」……。
『固有時との対話』は、『ONE』の「永遠の世界」ノリで読むとわかりやすいと思う。
▼ http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0401.html#23p1
「超訳」を試みる。つまり原文も他の訳文もまったく参照せずに、日本語→日本語へと書換えてみる。まず原訳文。
「存在論の基礎概念が生い立った地盤について、ことにカテゴリーの明示の適切さとその完璧さに関しては、さきに明らかにされ、また答えられたところの存在への問いを導きの糸として、古代存在論が、改めて充分に、解釈されねばならないのです。」
A案:
「存在論の基礎概念が生い立った地盤について、とりわけカテゴリー(概念枠)の明示の適切さとその完璧さ、といった論件について述べるためには、我々はまず古代存在論を充分に解釈しておく必要があります。その際に導きの糸(鍵概念)となるのは、「存在への問い」です。この問いについては、さきほど、それがどのような問いであるか明らかにし、また答えておきましたが。」
「その件につきましては、先方の都合をお伺いしませんと」みたいな文だと思う。語り口調の訳なので書き言葉の文法には必ずしも従わないと推定。ポイントは「まず」を補うこと。「Aのようなことがらについては、Bをきちんと解釈しなければならない」というのは、意味的には「Aのようなことがらについて述べるためには、まずBをきちんと解釈しなければならない」と取るべきか。あるいは「〜に関して述べるならば、〜を解釈する必要がある」とか。いや前後の文脈とかまるで知らないからわかんないけど。
▼ 実をいえば、「概念枠」だと「カテゴリー」よりは「パラダイム」になる気もする。本当は「概念分け」くらいにしたかったところ(日本語としてすわりが悪いのでやめたけど)。
まあ、「存在論の基礎概念が生い立った地盤について」なんだから、基礎概念のさらに基盤となる部分の話らしいので、「カテゴリーの明示の適切さとその完璧さ」は、「そもそもどのように概念分けして基礎概念を立てるべきか」ということだと思った。違うかもしれないけど。「カテゴリー」はなんか伝統的な哲学用語だった気もするし。アリストテレスとかカントとかそのへん。
ちなみにB案:
「存在論の基礎概念が生い立った地盤はいかなるものか、とりわけ、それについて論ずる上でいかなるカテゴリーを準備すべきか、といった問題に答えるためには、古代存在論からはじめる必要がある。その際に導きの糸となるのは前出の「存在への問い」である。」
意訳どころではないですな。あとは「カビの生えた古代存在論に今こそ新たな息吹を吹き込むぜ」的なニュアンスを受け取っておくべきかのう。
ちくま学芸文庫版の訳は美しいですね。西研が『実存からの冒険』で薦めてた。京都を去るときに売ってしまったのだよなあ。
▼ ええ、ひらしょーさんのルソー話は良いと思います。
せっかくなのでこれとかこれとかこれとかこれとかこれにリンク。コメントは特に思いつかないというか、なんて言ったらいいかわかんないけど好きです。ええと、言葉を思いつくのを待ってたらいつまでたっても触れられそうにないのでこの機会に。
むりやりコメントするなら、書いてる人間よりさきにもろもろの概念をあてはめて読んでしまう、そういう(よくない)読み方を僕はよくやっちゃうので、ひらしょーさんみたいな読み方を身に付けたいところです、とか。あーなんか違う。
▼ 『やどかりタイフーン!』フィルED。おもったよりちゃんと作ってあったのでちょっとおどろいた。
海賊船の副船長が女ってのはどうなんだろ。勘弁してくれよめがねさーん、な感じのお目付け役的ポジションなわけだが。それはもう物語の冒頭からして、船長に罰掃除をさせたりするくらいに。昔は光りモノがあんなに好きだったのに、いまや買物に誘っても船の備品をねだられる。苦労かけてるねえ。えーと、ハウザー艦長とシモーヌ? 「めんどくさいのは全部フィルに任せよう」というご無体な選択肢が出たりするあたりでお察しください。
というわけでコンプ。まあまあ楽しかった。
あと、海賊だけあってお酒飲むシーンが多い。酒場を借り切ってテーブルの上でダンス、もちろん意中のあいつと、とかそういうシチュエーションは大好きだ畜生。
あとは、うん、そんな感じ。
▼ 早見裕司『少女武侠伝 野良猫オン・ザ・ラン』(ENIX)
「世界一の発明なんだろ? なんで、服ぐらい自分で着られるようにできてないの?」
「おじいさまがいらしたときは、いつも、着替えさせて下さいました。アンドロイドは、手がかかるように、あるべきなのだそうです」
ロボットと子供は、誰かがメンテナンスとエネルギー補給をやってやらなければ機能を停止してしまう。だから、おそらく世界初の人間そっくりのロボットは少女型で、背中に六つもボタンのある服を着ていて、ボタンは誰かにとめてもらわなくちゃならないから、日常的に誰かが気にかけることになる。もちろん水淵讃はそんなことは考えなくて、ただ、ほっとけない子だなあ、てなもんである。設計思想の勝利といえよう。
ところで、アシモフのロボット物をおっかけてると、ロボットがどんどん手がかからなくなってく過程なので、ありていにいって寂しいです。
▼ 『やどかりタイフーン!』はミーナ。おにいちゃんは、やっぱりおにいちゃんだったのです!
初対面で「おにいちゃん」と呼んでつきまとってきます。ロザミィ? 耳が長いです。とんがり耳とアンドロイドに弱い水玉螢之丞を心の師と仰ぐ私は当然のようにとんがり耳とアンドロイドに弱いので、抵抗不能です。
もちろんこっちには「おにいちゃん」と呼ばれる覚えはなかったりするので、しかし向こうがあくまでそう呼びたがる以上、我々はそこで「嘘」をつくことを余儀なくされます。嘘をやめる道はふたつ。ほんとうのおにいちゃんになるか、おにいちゃんをやめるか。だが、もうひとつ道はあって、それは「思い出す」ことだ。
▼ それはそうと、『沙耶の唄』をそのうちやらねばならない。対幻想と共同幻想は逆立するが故に。
吉本隆明の何がエラいって「個」と「集団」のあいだに「対」という概念を置いたところでさ、といったことを柄谷行人が書いている(『畏怖する人間』のどっかにあったと思う)。「三人いれば社会学は可能だ」というのがある種の社会学のテーゼである。「三人」は既に社会であると豪語した連中にとってさえ、「二人」は社会ではなく、だがむろん「個」でもない。人間は「個」や「集団」のレヴェルのほかに「対」という次元も持ち合わせている。『ONE』の七瀬シナリオを参照せよ。
つまり『火の鳥 復活篇』だとまだ「個」のレヴェルで、対幻想までいかないので、そうした差異こそが検証されなければ面白くない。先行作品との類似を言い立てるのみで終わるのはあまりに不毛だ。あと個人的にはイーガン『しあわせの理由』あたりを絡めたレビューが欲しいところなのですが。
▼ 『やどかりタイフーン!』はドジッ子エミリア。ええとこのお嬢さんが「自由な生き方」に憧れて家出した挙句に海賊船に拾われてしまう話。ぜってーコイツ、海賊船の船長さんにさらわれるのとか夢見てたに違いないという。そのテの夢物語がそのまま実現しちまうのは嫌いじゃないです。なんか大昔の少女マンガみたいだった。
「……もしかして悩み事とかあるんじゃないですか?」「なんで、そんなこと思ったんだ?」「わたしとお話してくれるからです。わたしとよく話すのは……もちろんわたしを不安にさせないためだろうけど……」。意外と鋭い。悩み事があるとつい多弁になるのはよくある話だけど、しかし言い当てられた方としては「よくある話」ではすまない。あと、そこで「もちろんわたしを不安にさせないためだろうけど」とフォローするあたり、いい奴である。けっこう苦労してきたのかもしれない。故郷の町ではけっこうな人気者で、井戸端会議みたいにたむろしてる婆ちゃんにも人気だったりするところがいい。
ちなみに船長さん(視点キャラ)はパツキンのいい男です。どこの王子様かというくらい。まあ、子供のころ漂流中に海賊に拾われて、それで気がついたら海賊になってたそうなので、生れはええとこのおぼっちゃんでもおかしかないんですが。
まあ、海賊(でも実は生まれは高貴かも)のおよめさんになりたい人にはよろしいんじゃないでしょうか。ロマン。航海星はそれじゃない、とか、ボケとツッコミで星の話になるのも良し。
▼ 心理テスト。
A:女の子に追われているロボットがいます。それは誰?→XAZSA
B:メイドさんに追われている女の子がいます。それは誰?→レミット
C:女の子に追われている男の子→青(プレーンブルーの国)
D:男の子に追われている女の子→思いつかない
それにしても、アニメ『ヤミと帽子と本の旅人』は随分と追いつ追われつであったことよ。あれはどうも、追っかけている方の肩を持ちたくなる。リリスと葉月ならリリス。葉月と初美なら葉月。ガルガンチュワとジルならガルガンチュワ。リツコとガルガンチュワならリツコ。
つまり「女の子」とか「男の子」と書くとき、たいてい具体的なキャラが念頭にある。というかそれ心理テスト違う。
▼ アイアイサー! つうわけで『やどかりタイフーン!』をちまちまと。お気楽極楽海賊稼業。伝説の秘宝に呪われた一族に幽霊船。板子一枚下は地獄とくらあ。
海賊だの海洋冒険モノだのとしてはけっして出来が良いとはいえなくて、お話などあってなきがごとし。何もかもお約束。ちっとも面白くないんだけど、こういう他愛ない代物は嫌いじゃないです。ギャグはギャグであることに意義があるので、出来はどうでもよろしい。雰囲気和めばそれでええんちゃう?
そしてどんどん大所帯になるフルゲイル号。『天地無用!』でも『家族計画』でも『ビ・ヨンド』でもいいのだが、なんかこう、メンツが増えていくのはやっぱ楽しいですよ。
シャープED。クローゼットの中には、どピンクのフリフリ服があるらしいのだが、着ずじまい。畜生。
なんか『AIR』のみちるみたいな子だったなあ。
▼ http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200401.html#17_1〜
http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200401.html#17_2
ああ、つまり「担当官」という言葉ではなく、ジャンやジョゼといった個別の相手に対する。QX。
アシモフのロボットについては確かにそうですね。
以下は、もし興味がおありでしたらどうぞ、ということで。
「一般化」の行き着く先は二種類。「心にかけられたる者」(創元SF文庫『聖者の行進』『究極のSF』所収)か、『ロボットと帝国』。過激なやつは『ファウンデーションと地球』。
また参考として三浦雅士「サイエンス・フィクション、または隠れたる神」(講談社学術文庫『私という現象』所収)を挙げておきます。
▼ あややややや。というわけでリンク修正。そして14日の記事にリンク追加。
▼ http://d.hatena.ne.jp/herecy8/20040118#p3
こちら(http://d.hatena.ne.jp/kaien/20040114)と二つ並べてリンクされている意味はよくわかりませんけれども。
失礼しました。herecy8さんが「海燕氏の議論には、同意できる部分よりも同意しづらい部分の方が多い」ということは理解しております。混乱を招くような言及ですみませんでした。
14日の記述を若干修正。
▼ わりとどうでもいいネタとしては、ザンボット3のパイロットたる子供たちは、幼少期から洗脳されてたりします。戦闘に抵抗や恐怖を覚えないように。もちろん当人の了承なんて取ってません。あと、汚い大人に子供が一方的に利用される話としては、Vガンダム。
マシーンブラスター。少年たちは、ある日突然に拉致されて、巨大ロボットのパイロットに仕立て上げられる。鋼鉄ジーグ。父親に知らぬ間に改造されていた主人公。まるでショッカーのような手段を使う正義の組織。そんなものにもぼくらは馴れ切っている。これはみようによっては商業主義の原理にかなう。視聴者たる男の子たちはロボットに乗って戦うことを夢見ている。しかし、「戦うことを選んだ責任」なんてものを、視聴者たる男の子たちに負わせるべきでない。だから、選択の余地なしに戦いに放り込まれるような状況を、用意してやらねばならない。エヴァもそのへんは継承してた。
ガンスリ。少女たちに感情移入して担当官のお兄さんたちに萌えるのが正しいんじゃないでしょうか。罪悪感抜きで楽しむとしたら。少女たちには罪がない。お兄ちゃんを好きになった責任さえ取らなくていい。つまり、罪悪感抜きで楽しむ方法としての話だが。
ごめん。真面目な話をすると、たとえばエッタの視点に感情移入して読むなら、悲恋モノになっちゃうのは当然かと。
GUNSLINGER GIRLについては、どうかすると相田裕は「少女と銃」が嫌いなんじゃないか、と思うことがある。ありえないんだけど。富野由悠季がロボット嫌いな程度には。ザンボットを例に取れば、そこにはロボット・プロレスの快楽の追求と同時に、巨大ロボットという存在への違和感、少年をロボットに乗せて戦わせてしまうことへの違和感がしばしば浮上するのは周知の通りである。
ようするに伊藤明弘のマンガで女の子が銃を持っていても違和感はおぼえないのだが、たとえばGUNSLINGER GIRLのコミックス1巻の口絵は、ある種の違和感を狙って描かれているように思われる。
▼ いずみのさんからお答えがありました。ありがたや。
印象論ですが、相田裕は(「少女と銃」というモチーフを描くにさいして)快楽原則に従うより、禁欲的というか違和感を押し出すというか、そういう方法を取っていて、読んでるとまるで、ロボットアニメが嫌いな人(たとえば富野監督)が作ったロボットアニメでも観てるような気分になることがあります。べつに相田裕は少女も銃も好きだとは思うけれど、そうした自分の好みを表に出すについちゃあ、それなりに違和感なり屈託なりがある(まあ常識を知ってれば当り前なんだけど)だろう。そんな気はします。
▼ アニメ版では(相田裕のお墨付きで)『エルザ・デ・シーカの死』の前史を描写しているらしい。野暮な話だと思う。
あらかじめ失われた少女の姿を、知的にまた直感と想像力によって再構成する過程こそがおもしろかったのに。まあ、すでに原作を知っている人は知ってるから、別のことやるのは正解なんだけど、アニメしか知らない人には(勝手な話だが)ちょっと気の毒である。
▼ いずみのさんの旧日記をつらつらと読み返す。相田裕は『非萌え系の出自を持った作家で、度々「ギャルゲー的な萌え」に対する批判を隠さない人でもあります』(2003-11-03)とのこと。『萌えを否定しつつ、ロリ漫画を描きたいというジレンマを解決するために彼が取った決断は、「最初から洗脳されてることにしてしまえ」でした。』
相田裕の萌え批判ってのがどんなのか気になる。
追記:いずみのさんの旧日記の該当記事がはてなに転載されています。
返答をいただきました。
▼
http://d.hatena.ne.jp/herecy8/20040114#p
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20040114#p2
http://d.hatena.ne.jp/maspro/20040114#1074013222
ジャンルや定型についての意見としては、herecyさんのそれが適切かと思われる。そらマジンガーもゲッターもザンボットもガンダムもボトムズもイデオンも「少年をロボットに乗せて戦わせる」ための作品でしょうよ。例えばその延長上に『新世紀エヴァンゲリオン』もある。そう語っても間違いじゃない。ただそうやって(「少年とロボット」とか「美少女と銃器」と)ジャンル的な符牒ないし出自と割りきってしまっては、随分とあまりの端数が出る勘定になることもあるだろう。ならないこともあるが。端的にいえば、例えばLeaf『雫』をはじめとするいくつかのギャルゲー(東浩紀的な意味での)には当然『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を考えるべき──少なくとも同時代的な現象──だが、もちろん前者にはまず巨大ロボットは出てこない。
あとこれとかこれって要は佐藤心批判なんでしょうか。或はサイボーグ・フェミニズム的な批評とか。前者と後者ではけっこう差がある気がしますが。とにかく、いったいどういうものが「深読みのしすぎ」なのかとか、そのへんさっぱり示されないまま通じ合っちゃってるのが気持悪い。いや、だいたい見当付くけどそら。でも違うかもしれないし。まあ別にいいんだけど。ひとつだけ言えるのは、小難しいこと書いてる人ってのは、自分がGUNSLINGER GIRLという作品に見出すようなものは、偶然に結果的に出てきたものであって一向にかまわないだろう、ということぐらいだ。
で、たとえばこの書評なんて、現代の萌え世相(そんな日本語はない)への批判意識がバイアスになって過剰な読み込みを行っている、と僕なんかは思ってしまうのですが。たとえばGUNSLINGER GIRLという作品の「背後」に、マルチやら観鈴ちんやらの悲劇的でpity(伊藤剛)なキャラの系譜を無前提に想定するような思考は批判されなくてよいのか。僕はあんまり批判する気はありませんけど。
いや、ここのkaien氏の発言は一般論としては正しいと思いますけどね。
▼ こちらからファンタジー職業適性診断。ドラゴンでした。引きこもりですか。そういえば滝本「竜」彦というではないか。というかそれは職業なのか。一体どうしろと……。
とりあえず、ゴーッ(火を吹いてる)。
▼ 昨年末ごろの『GUNSLINGER GIRL』騒動についてのリンク集を置いておく。というか多分に偽史的な粗いプロット。やはり、アニメ化にまつわる騒動の余波と評すべきか。
当時しきりに思い出されたのは、出口汪『現代文入門講義の実況中継(上)』(語学春秋社)の第一回に使われていた、外山滋比古の文章である。「……読書から受け取られるものは、心理的には見えているところと、見えていないところに分かれるが、後者の見えないところは意識されないから、読者は、光の当たるテクストの部分だけでつくるパースペクティブ(展望)の世界を奥へ奥へと分け進んで行くことになる……」
□
アニメ放映当初。
・http://d.hatena.ne.jp/kaolu4s/20031014#p2
・http://d.hatena.ne.jp/waguma/20031009
わりとこの段階では「真面目に考える/無邪気に何も考えない」の二項対立で済んでいた気味がある。
新展開。
・http://www1.odn.ne.jp/~aae04190/column/moe1.htm
「悲恋ものとしてのガンスリ」。倫理的な批判への反論。
・http://www.globetown.net/~maxi/shuukannshohyou7.htm
「悲恋ものとしてのガンスリ」批判など。年末の騒動の震源。位置付けとしては上の反論への再反論めく。
上への評としては、「ここでは、GSGをリアルな(もしくは、現実の縮図としての、リアリティーのあるモデルの)ドラマとは認めず、従ってGSGという物語内部に対する議論を無意味なものとしている。亀の背に地面が乗った天体モデルで、星の運行を予測はできない。フランス書院文庫と同じレベルということだ。で、消費の為の属性として、義体・洗脳を選ぶことは政治的に正しくない、という結論。」(http://www.mg.st36.arena.ne.jp/rev/diary0312.htm#1225_2084)など。
・http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/200312
ポリティカリーにコレクトな。あとラウーロについてとか。
・http://d.hatena.ne.jp/Kuroneko/20031227#p1
重点の置き方が疑問。議論にかまけてテクストから離れすぎたか。ただ、ラバロ大尉についての分析は他と一線を画す。
・http://bbs10.otd.co.jp/1004176/bbs_plain?range=-5&base=463
バランス取り。
例外はあるが、今回の傾向として、キャラクターを「公社」の内部に限定して(「公社」やフラテッロのシステムという見地から)考えようとすることが挙げられよう。たとえばジョゼやジャンの「転職」前の経歴は普通なら物語的な興味をそそりそうなものだが、そうなっていないのが個人的には違和感があるところ(ラバロが問う「復讐」とか)。ジョゼの罪悪感とて、個人的な目的のために他人を犠牲にしている、という以上に複雑なものではない気がするが。
・http://www43.tok2.com/home/nekomachi/
『GUNSLINGER GIRL』のファンサイト。用語事典が良い。当り前だが、よく読んでいる。
▼ GUNSLINGER GIRL同盟の用語辞典(エレノラさんの手帳)がえらく出来が良い。よく読んでいる。「ヘンリエッタ」の項の《義体改造には本人の同意は必要ないのかもしれない》というのは目からウロコ。そうか実はまだ「かもしれない」としか言えんのだ。うっかり「本人の同意抜きで」というのを大前提に考えがちだが、むしろ基本的には(少なくとも書類上は)本人の同意は得られたことになっている、と見做すのが自然かも。実質的に大差ないにしろ、作中の事実として確定してるか否かは分けておかねば。
▼ http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200401.html#02_2への反応というか与太。「三原則」について。
周知のように、「ロボット工学の三原則」はあくまで設計思想であって、「ロボットが主体的に守るべき法」のことではない。それはロボット自身にとっては、言語的な規定ではなく、可能な発想と行動を限界づけるものだ。かれらはとにかく人間を守ったり、人間の命令を聞いたり、自分の身を守ったりするのである。そういう風にできている。かれらが三原則に違反しないのは犬が言葉を喋らないのと同じであって自然史的な条件に属する。自然史て。言語的な規定はあくまで技術者とそれから一般向けの説明のためのものだ。
技術的にどのように実現されたかは不明だが、三原則の文言への違反は、プログラム上の(?)所謂「禁じられた処理」と厳密に重なるように作られていて、万が一行われてしまった場合は、プログラムが停止した上にハードも損傷させてしまう仕様となっております、くれぐれも無理なご使用はお控えください。
あくまで私見だが、ロボット三原則によるかれら自身への規定はむしろ、flurry氏が理解するところの「条件付け」に近い。たとえばロボットは、相手がロボットだとわかっていても、人間そっくりの外見だと、危害を加えることが困難になる。
ちなみに、実際に人間に危害を加えてしまったロボットは──やむをえず看過しただけでさえ──言語障害を起こしたり、発狂してしまったりする。
あと、アシモフのロボットは、しばしば、フェルミがリコを「アイギスの楯」と評したような反応を持つ。というか、三原則の第一条を説明するためにそのへんのモノを投げつけるシーンがあったような。
ちなみに「公社」の技術者は、《第一条 義体は担当官に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、担当官に危害を及ぼしてはならない。/第二条 義体は担当官にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。/第三条 義体は、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。》くらいのことは、「譜面」とやらを書く際に念頭に置いている、かもしれない。言語的な規定か否かってのは立場によって変わるんじゃないでしょうか。
リコについては、CFS症候群の症状がこんなの(思考力の障害、抑うつ等の精神神経症状)らしいので、あれはもともと、自分で考えて行動するといったエネルギーに乏しいためかも。むしろ、わずかばかりの自発性こそが、義体化/投薬/洗脳/教育によってかろうじて得られたものかもしれない。あと前歴考えると、洗脳のための投薬っていちばん必要ない気が。二話とか見るに。そういえば記憶残ってる。
▼ どこまでが「条件付け」でどこまでが「本来の感情」かは決定できないし、どこまでが「本来の自分」であるのか、と問うことにすでに意味がない。リコのジャンに対する態度は、子供が無条件で父親を慕うようなものかもしれない。何より、ぼくらは連中の生活の全てを見ているわけじゃないしさ。ジャンに殴られたときにリコが笑ってたかどうかなんて知らないよ。エッタとトリエラの前では笑ってたけど。珍しく。
▼ ちょっと思い出すのが長谷敏司『戦略拠点32098 楽園』(角川スニーカー文庫)の「合金(アマルガム)」という言葉なのだが、発掘できない。その楽園は、偽善と欺瞞と美と安らぎと死者の魂の救済と、もしかしたらいくらかの真正の善意とやっぱり悲しみのアマルガムで、作家はそれを淡々とした筆致でしかし鮮烈な美しさのイメージを印象付けている。むろん、肯定したり否定したりといった価値判断は作品の任ではない(キャラクターの役目ではあるかもしれないが)。作品はただ描写し表現するだけだ。
▼ 『ヤミと帽子と本の旅人』#1〜#12。ああ、こういうの好きだ。因果も理屈も知ったこっちゃない。時系列? 何ソレ。お姉ちゃん好きなあまりトチ狂った妹が、失踪した姉を求めて本から本へと旅をするのです。どうも何書いてるかわからんかもしれんが、観てもわからないから大丈夫だ。
そういえば望月智充はセラフィムコールの「飛翔する天使」でも時系列をシャッフルした叙述を行っていたが、今回は複数のサブタイトルに平然とまたがってやっている。説明のためのシーンなんて後回しでよろしい、まずは引きだ。このへんセンス悪いとVガン初期篇みたいになりますが、悪くないから大丈夫です。大丈夫と繰り返されると不安になるかもしれませんが。
無茶に趣向のヴァリエーションが富んでいて(つまり時代劇やろうがSFやろうが自由なわけで)、しかも思わず全力でツッコミを入れたくなるようなセンスが散見されること。これがまずは楽しい部分。
あとは、誰かを探して世界から世界へ、という話は個人的に結構ツボ。ついでにちょっとずつ法則性が見えてくるとか。星野架名『一月の輪舞』とかそのへん。知人にいわせると《『タイムマシーンにお願い(Quantum Leap)』とか、古くは『タイムトンネル』とか(ホント古いな)に通ずるものがあるように思う。『ヤミ帽子』の場合は完全フィクションの世界を彷徨う訳だが。》だそうです。
キャラについて。
葉月。「我はこの一姉に賭ける修羅」といった。凛々しい外見言動と裏腹に、お姉ちゃんが好きすぎる故のトチ狂いっぷりがもう! だめだーこの素敵星人!
リリス。変な格好した色ボケ小娘。これがまた良い感じに頭悪いんだ。中身がどうにも子供っつうかさ。こう罪がない感じなのよ。確かにタチ悪いんだけど、ええとその。ほんとか。
初美/イブ。見た目は聖女。あちこちの世界で、誕生から16歳までを永遠に経験し続ける謎の存在。「初美」は葉月の世界で葉月の姉として生まれ育ったときの名。実は諸悪の根源くさい。ひどいお姉ちゃんである。なんでそんなに好かれてるんだ、と問い詰めたいがわたしも好きなので仕方ない。
もし誰かを好きで好きでしょうがなくなって、それでも永遠に満たされないとわかってしまったら? たとえばその誰かが失踪してくれて、それを探して旅を続けることができるのは、いっそ救いだろうか。もちろん葉月はそんなこと考えなくて、ただ一途に捜し求め、やがて再会し、今度こそ全力で絶望することになるだろう。いや最後まで観てないので適当なこと言ってますよ?
それにしても、これといい、『D〜その景色の向こう側〜』といい『顔のない月』といい、列車が妙に印象的に出てくるのだが、CARNELIAN氏の趣味だろうか? オープニングの銀河鉄道みたいなシーンが好きです。列車内の三人が、一人ずつ順場にそれぞれ別の窓越しに見えて来るやつ。
▼ アニメ版ダ・カーポ最終話。ああ、そんなふうに悲痛に絶叫しないでくれ。アニメ版のさくらの方がストレートに感情を言葉にできるから、そのぶん幸せかもしれないのだけれど。でもたぶん、そんなふうにまっすぐ行かない──行けないのか行く必要がないのかはよくわからない──という点に原作ゲームの魅力はあってさ。でも桜の散るシーンは好き。そのとき彼女は、あの桜の樹に背を向けている。お願いして散ってもらうのではない、自分の意志で散らせるのだ、というデターミネーション。かっこよかった。
▼中学生日記は「スタンド・バイ・ミー」「サヨナラ、先生」「劇中劇」を観た。例によって凄いことに、くらいしか言葉が出てきませんがな。