忸怩たるループ  2004年2月
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 『嵐が丘』後半を一気呵成に読み終える。ゆっくり読もうと思っていたのだが、結局貪るように。しかたがないよ、『嵐が丘』だもん。で朝方に読み終えたはいいが、それでやっぱり今日は昼過ぎまで眠れずじまいで、そのまま部屋に入って鍵をかけてメソジスト派みたいに祈り続けでしかし訴えかける神はといえばもはや感覚なき塵と土、たまに神の名が出たと思えばわが父なる悪魔への呪詛と区別がつかない、といったふうでさ、いや嘘ですけどね。それにしても河野一郎訳は読みやすかった(ついでに永川玲二訳は頼れる女ですから。)。河野訳の内容解釈にはところどころ不満がないではないが──もっとも、そうでない翻訳などめったにあるものではない──なんというか、頭に入りやすいリズム。
「……ヘアトンと家族部屋にすわっていると急に、いま外に出ればキャシーに会えるような気がしてくる。家を出ても、あわててまた帰ってきてしまう始末なんだ。必ず嵐が丘のどこかにいるという確信があったんだ! かつてのキャシーの部屋で寝ても見たが──飛び出してきてしまった。とうてい寝てはいられなかったのだ。目を閉じるとたちまち、キャシーが窓の外に現れるか、鏡板を引きあげるか、部屋の中へはいってくるか、それとも子供の時分よくやったように、あのかわいい頭をおれの枕にいっしょにのせてくるからだ。おれはどうしても目をあけて見ずにはいられない。……

 それにしても狭い人間関係。その割に無闇と話がでかくなる。セカイ系? そういえば「英語で書かれた三大悲劇」(『リア王』『白鯨』とともに)と呼ばれることもあるのですが、悲劇とセカイ系はどう違うんだろう、とちょっと思った。

 中公世界の文学で読むメリットはもうひとつ、『嵐が丘』のあとにE.ブロンテの詩だの解説だのもいっしょに収録されているので、あとどのくらいで『嵐が丘』が終わるのかわからない点だ。これは河出の世界文学全集もだけど。しかしやっぱり、そろそろ終わりそうだな、というのはよくわかる。そうなるとますますやめられないわけだ。

 なんとなくだけど、『るろうに剣心』人誅篇が好きな人は読んでおいて損はないと思う。ヒースクリフってのはある意味では雪代縁みたいなやつでさ。

 ヒースだの荒野(ムア)だのという文字の並びを見てるとバーネット『秘密の花園』が読みたくなったのでまた読もうと思います。ところで龍神天守閣はさしずめドラゴン・ハイツといったところか、なんてね。ワザリング・ハイツを「嵐が丘」と訳すのであれば。



(Saturday, 28-Feb-2004)

 嵐が丘つづき。永川玲二訳(集英社文庫)から河野一郎訳(『嵐が丘/詩』、中公の「世界の文学」)に乗り換え。あー、たぶんこの訳者ヒースクリフ好きだわ。15〜16章の長台詞とか。なんか涙なしには読めない。泣くぞもう。
 永川訳は申し分なく正確なんだけど、ちょっとセンテンスを短く切りすぎるので。

 ちなみに手持ちの翻訳は五種類になりました。あとの三つは、三宅幾三郎・松村達雄訳(河出の世界文学全集)、田中西二郎訳(新潮文庫の旧訳)、阿部知二訳(岩波文庫)。どれもブックオフで100円。阿部知二以外はどれもいい訳です。『白鯨』といい、どうして岩波文庫の訳はこう。

 原文が気になる人はプロジェクトグーテンベルグで検索するが吉。

 そういえば、こちらで引用されてるのは阿部知二訳だと思うのですが、鴻巣訳に乗り換えられたわけですね



(Thursday, 26-Feb-2004)

 で、『月姫』を復習中。ああ、「ギャル、設定を語る」も、志貴とアルクのわけわからん鬱陶しい押し問答も、もはや苦痛にしない私がいますよ?

《「わたしの実家はパン屋さんでしたから、すっごく朝が早かったんです。(略)」
 なんとパン屋!
 有彦は視線があう。
 あいつも今、部屋にカマドがあって、その白い指で小麦粉を練って焼いたりするシエル先輩の姿を想像したに違いない。》

 ええいこのオトコノコどもが! というか、「なんとパン屋!」て。志貴くんも随分とまっすぐに育ったもんだなあとか埒もないことを考えました。

 で、『嵐が丘』も再読中。プリブラやら遠野家ルートやらそのへんからの連想で、これは「両家の親が滑稽なほどあっさりと死去し,年端も行かぬ子供たちが家の主人となって神話的な恋愛劇を繰り広げるのはどこか恋愛ゲームのようだと思った」という言に引っ張られてるんだけど。ちなみに『月姫』はちょうど「陣取り」を思い出したところで、

《……そして棚板いちめんに、上塗りのペンキを引っかいて落書きがしてある。書いてある文字は、しかし、みんなひとつの名前のくりかえしで、それが大小さまざま、ありとあらゆる書体でならんでいる──〈キャサリン・アーンショー〉ところどころでそれが〈キャサリン・ヒースクリフ〉になったり、〈キャサリン・リントン〉になったりする。
 ぼんやりと疲れた頭を窓にもたせかけて、キャサリン・アーンショー──ヒースクリフ──リントンと、くりかえしつづりを追っているうちに、いつしかぼくの目が閉じた。ところが、ものの五分としないうちに、ぎらぎら光る白い文字の列が鬼火のようになまなましく暗闇に浮かびあがり──たちまち無数のキャサリンがあたりに充満してしまった。この目ざわりな名前を追いはらおうとしてぼくがはっと目を覚ますと……》(『嵐が丘』、永川玲二訳)

 というのを思い出したりもする。奈須きのこは読んでいたかもしれない。

 月姫とか神話的とかいう単語の並びに押されてでとりとめのない話をすると、それは弥沙子(『ヴェドゴニア』の)のことで、彼女には伊藤惣太というのは王子さまで(これは本当にそんなことを言っていたはずだ)、だから神話からそのまま抜け出て来たようなお姫様であるリァノーンとお似合いの一対に見えてしまう。だから三人でいると、ただの高校生にすぎない自分だけが仲間外れだ。これは考えるまでもなくおかしいので、彼女と伊藤惣太こそが同じ高校に通う生徒で、夜魔の森の女王のほうが異分子であるのだが、そんなことは思いもつかない。だからどうってわけでもないけれど、忘れぬうちに書き留めておく。



(Tuesday, 24-Feb-2004)

《「どうして殺したの?」
「わたしがあの人によって何か酷い目にでもあっていたら納得いくんですか。友達を殺されてたら? 強姦でもされてたら? 大事な何かを奪われてたら? それで全部納得すっきり解決おめでとうですか? 馬鹿にしないでください。人を殺すってのは、そういう事じゃないですよ」》



 わりと脈絡がないが今日は『月姫』のネタバレである。

 http://bbs10.otd.co.jp/1004176/bbs_plain?base=505&range=5を読んでるうち、琥珀さんについて色々書こうとしたのだけどまとまらなかった。だいたい書いてて、琥珀さんのことなのか佐祐理さんのことなのかそれとも幽なのかさっぱり自分でも分らなくなる。
 なお、復讐の動機についての琥珀さん自身の証言は『語らずの眸』の「現在・2」に引用されている。まあ、他にやる事なかったからなんとなく、と形容してもあながち間違いではあるまい。いずれ動機などは事後的かつ遡行的に構成されるフィクションであり、またひとしく憎悪し殺意を抱き犯罪計画を立案してさえ、実行するかどうかはまた別の話だ。ひとは自身の動機を知りうるものか、そして知りえたとしてひとに伝えられるものか。このあたりについての議論は京極夏彦『魍魎の匣』や西尾維新『クビツリハイスクール』を参照されたい。

 ともあれ琥珀さんがどのような言語化を選んだかは知ることができる。何でもいいから行動原理が欲しかった、なんて、生きがいを求めるおじさんみたいなこと言っちゃってさ。いや、欲しかったというのは不正確で、わけじゃなくて、それがなかったら彼女はいま動いていないというだけの話だが。理由は存在さえすればよく、目的でさえあればなんでもよかった。べつにに恨みはなかったし、復讐が実現することを望んでいたわけでもなかった。自分で仕組んでいながら、自身の復讐が計画通りに実現していくのが不思議でしょうがなかった。なんでまた、わたしみたいな子供の思い通りになるんでしょうね?

 理由がなきゃ何もできないってのも子供ですが。あまり甘えたことをぬかすんじゃありません。だいたいそんなの理由になってやしない。君の気持なんて勿論わからないけれど、君が、右も左もわからない子供だってことはわかるさ。志貴はイイヒト属性にもほどがあるので、琥珀さんはいちど戯言遣いのお兄ちゃんあたりに嫌味ったらしく叱られたほうがいい。どうせ馬鹿とか言われたら怒るに決まってる。埒もない話だけど。あと、琥珀さんについてはこちらも。琥珀さんのことを子供だとか思えるようになったのはもちろん曽我さんの文章を読んだせいで、いや琥珀さんが子供だっては見りゃわかるけど、遠野志貴もやはり広すぎる屋敷をもてあました子供でしかなかったから落差が認識できなくてさ。

 ついでにこちらを読み返すと、そういえば『嵐が丘』も年端もいかぬ子供たちが家の主人となってしまう話だった、とつなげたくなる。奇跡が起きたなら魂と説明しよう。



(Saturday, 21-Feb-2004)

 『D〜その景色の向こう側〜』終了。メルもえ。いいお話でした(ホロリ)。目隠しされてえ。いや、手じゃなくて布のほう。暗闇では眼を開けているとかえってパニックになるから、って、気が効くとか優しいとかどころではない完璧超人ぶりがもう。



(Friday, 13-Feb-2004)

 ああヴィクトリカ、ヴィクトリカ(まちがい)。そんなわけで桜庭一樹『GOSICK』(富士見ミステリー文庫)読了。

 まともなレビューはこことかこことかで。

 言っておくと、粗がけっこう目立つ作品である。勘弁してくれってレベルのものが複数ある。でもまあ、そこそこ幸せになれたのでよしとする。いやヴィクトリカはもうちょっと可愛げなくてもいいのにとか、まあ不満の九割はそんなところなんですが。

 ヴィクトリカはもちろん女の子で(男性名だそうだ、公用語はフランス語)、退屈のあまり相手が関心のないことの説明を始めて、「君のような凡人に説明していたら、よけい退屈になってしまった」と言って打ち切るような子である。「デモベのアルたん、ただし使命感皆無、みたいなっ!」それ最悪。
 ところで富士見ミステリー文庫である。よって彼女は探偵であり、今回は冒険もするが基本的なモードは安楽椅子探偵といってよろしい。しずるさん? 人を殺さぬ殺人鬼(奈須きのこ)がいるくらいだから、冒険する安楽椅子探偵だっていていいだろう。
 チャームポイントは、「ほどいたターバンのような」見事な金髪、探偵の小道具たるパイプ煙草、そして老女のようにしわがれた声(!!)。まああれです、ひらひらの服着た女の子がぷかぷかパイプくゆらしてるだけで絵的には勝ってます。あまつさえ居場所ときたら、名門の学園のその図書館塔のそのまたてっぺんの植物園、と来たもんだ。身分は学生というか生徒、探偵たるもの働かずに食える身分(ランティエ)でなければならない。あと「やられた」と思ったのは彼女の声。

 彼女はえらく勝手なひどいやつであり、甘えんぼさんでもあるわけだが不平だの無理難題だのはつまるところ甘えであり、甘えるなと返すかわりについ付き合ってしまうのが惚れた弱みというやつである。
 ワトソン役はもちろん男の子で、東洋の島国の帝国軍人の三男。つまり転校生で留学生。噂好きのクラスメイトのおかげで「春にくる死神」の役を振られてしまったせいもあり友達少ない。彼が、休みがちなクラスメイトであるところのヴィクトリカに授業のプリントを届けに行く役なのも、セシル先生がこの転校生に友達ができるようにと気を回したためだ。うわナイスシチュエーション。

 さてヴィクトリカはホームズの系譜を引いていて(さらに遡れば『ザディッグ』だけど)、いつも会うなり一弥くんの一日の行動を言い当ててしまうのだけれど、それは同時に彼女が彼をいかによく観察しているか、ということでもあってぶっちゃけこの助平とか。いや確かに塔の上の姫君は退屈なんだろうけど。

 いやほら『木曜の男』のヴィクトリア駅のくだりを書き写してた読みたくなってさ。あと大戦間の欧州といえば『D』もですが。

 “In other words, I love you.”?



(Tuesday, 10-Feb-2004)

 で、こういうことを考えていると、つまりセリオの中にちびセリオがいて、とかわけのわからん想像になってしまうので誰かどうにかしてください。そういうマンガ見たような気がすんだけど。ちなみに具体的に思い浮かべるばあい、ちびセリオにはたいてい耳としっぽがついてます。なんか狐っぽいやつ。だから属性を混ぜるなって。

 「女の子」を介在させる必要は必ずしもない、と書いてしまうのはダニール・オリヴォーというロボットとスーザン・キャルヴィンという(もと)女の子のことを考えてしまうからで、ダニールのポジトロニック・ブレインの中に女の子がいると想像しようとすると難しいし、僕が女の子に感情移入するのとスーザンのそれとは違うしさ。むしろ外側のダニールの方がわけもわからず内部の指令に従っている、ということになる。ダニールには外界が見えている、と考えるのは甘いので、ならばカメラは被写体を「見て」いることになる。とかそんなことを考えてこんがらがってしまった。
 まあ、暗い部屋の中にいる女の子に感情移入するのと、人型ロボット(電子頭脳の内部ではなく、動き回っている筐体めいた部分の)に感情移入するのとは実は似ているんじゃないか、という話。

 もうひとつ。
 http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/kuru/BBScom.html

 いったいチャイニーズ・ルームの中にいるのはどっちなんだい? スープだろうがルームだろうが中にいるのが異性でなければならないことは確からしいのだが。

「多分両方だと、僕は思います、ゲーデル先生」



(Sunday, 8-Feb-2004)

 

《「君はスローン・スクエアの次はどうしてもヴィクトリアだというけれど、僕は反対に、その次にはどんなことが起こるかわからなくて、ほんとうにヴィクトリア駅に着いたときは九死に一生を得た気がする。だから車掌が、ヴィクトリア、と叫ぶのは無意味なことではないので、それは僕にとっては勝どきなんだ。ほんとうにヴィクトリア、つまり人間の勝利(ヴィクトリー)なんだ」》(チェスタトン『木曜の男』、吉田健一訳)

 そう、「人間は魔法をつかって、ヴィクトリアというとその通りにヴィクトリアにつく」。だが魔法が切れたら世界の関節は外れてしまって、直すには別の魔法が要る。というわけで『D〜その景色の向こう側〜』つづき。
 一体次に何が来るんだ? まさに、「自分の言動と現実との因果関係が把握できない。自分の言動に対して現実がどんなリアクションを返してくるのか予測ができない」。悪夢の法則は見つかったかと思えば崩れ、法則など無いと思えばまたありそうになる。知っているはずのないことを知っているから脅え、知っているはずのないことを知っているから安心する。そのくせ、どんな奇妙なことを言っても信頼できる相手は信頼できるので、寄る辺ない不安と人間への絶対的な信頼の対比はなかなかに美しい。そしてまた、同じように反復されるから安心とも変化するから不安ともいえないのであって、一概によいとも悪いともいえない、というのは当り前だけど誠実な描き方だと思う。まあ単にラブコメ的な展開が混入してるってだけなんだけどさ、こういうシチュエーションで持ってきてちゃんと機能しているのは受け手としては有難い話ではある。

 薦めるとしたら、たとえば予定通りの駅に着くことこそが人間が魔法を使った結果で、さもなくば何が起こるかわからない、という感覚を理解ないし想像できる人に。といっても難しいことではない。たとえば英語をほとんど知らぬままにロンドンの地下鉄に乗ることを考えてみるがいい。ほんとうに予定通りに着くことができたらそれこそ九死に一生を得た気持がするだろう。そして、見知った言葉(日本語)が通用しない程度には、見知った物理法則や因果律も通用しないような場所(たとえば夢の中がそうだ)にいると考えてみるだけでいい。

 あと『木曜の男』については、佐藤亜紀検察側の論告』の評がよいので出来れば読むように。


 ところで、「ぽかん、ぽかん」とか「ぺしん、ぺしん」とか「ぱた、ぱた、ぱた〜」(足音)とか。このあたり効果音抜きでただ文字だけで表現されている、のが個人的にはツボです。なお銃声とかはSE使ってます。使い分けてる。ちっちゃな女の子の足音の幸せそうな響きなんて文字でしか表せません。



(Saturday, 7-Feb-2004)

 『D〜その景色の向こう側〜』を少しずつ。ネタバレなので気をつけなさいよ莫迦。


 たとえば、探していた女の子にふいに出会うと彼女の息は甘い匂いがして、クリスマスケーキをつまみ食いしたねとイルマリは考える。助平。麻枝准のファンは匂いフェチです。

 女の子は常に/すでに物語のヒロインであり、男の子は間抜けなサンタであり、クリスマスには人それぞれひとつだけ奇跡が起きるのです。ああ。こうでなくてはいけない。何がいけないんだか知らないがそう思わせる。

《「…平気じゃないのは、貴方のほうよ」
「僕?」
「そうよ、莫迦な事ばっかり考えてるんだもの」
「間抜けなサンタは、女の子の願いを見抜けなかったのよ」》

 つまり男の子は不安なのであり女の子も強がっちゃいるがやっぱり不安そうなのであり、ええとだから、そうだ、手をつなげばいいじゃないか。うわあめっさツボやん。立ち止まっていると凍り付いて動けなくなるような不安には、他人の手の温もりが正しく対抗せねばならないのです。
 もちろん、強く握りすぎてはいけない。

《「ぬくもりと柔らかさが掌に残る程度に指を緩めて、それでいて、誰にも引き裂けないほどの適度な力で掴んで、僕と一日中、手を繋いでいるのが当り前に感じるように握れっ」》


 ……そんなむちゃな。
 もちろん手を離してもいけない。

《「ぬくもりと柔らかさが掌に残る程度に指を緩めて、それでいて、誰にも引き裂けないほどの適度な力で掴んで、私と一日中、手を繋いでいるのが当り前に感じるように握りなさいよ!」》

 あんたらやっぱり兄妹じゃよ。

 なぜそうなのかはさっぱりだがともかくも絶対的に安心できる関係であることだけは確かで、根拠も因果も見出せない不安には、やっぱり根拠も因果もしれぬくせに確固たる安心感が対抗するのである。



(Tuesday, 3-Feb-2004)


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