忸怩たるループ  2004年3月
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シエルグッドED。ロアのために。
 そういえば、こっちのほうが設定語りの調子がよろしい。それで捨て難い。



(Thursday, 11-Mar-2004)

シエルED(トゥルー)。

 人を殺してしまった、という夢はよく見る。こんなのはたかが夢で、つまり試験に落ちる夢とか遅刻する夢と大差ない。ともあれその夢では殺人の瞬間は見ないし誰を殺したのかもわからない癖に人を殺してしまったという認識だけが存在する、そんなシーンにいきなり放り出されるのが常である。志貴くんの状況に即していえば、いきなり雨に濡れてベンチで途方に暮れているシーンだけがあって、それがずっと続く。もちろん先輩は来ない。最悪なのは罪悪感なんて欠片もなくてさ、ただレールを外れるのが恐ろしいばかりなんだ。もちろんオチはなくて、夢は夢に相応しく連続性を持たず、何事もなかったかのように関係ない(起きたときに思い起こすかぎりでは)シーンに移るだけだ。つまり遠野志貴には罪悪感があって、それで彼のことは好きなんだと思うよ。



(Wednesday, 10-Mar-2004)

 『ハムレット』(福田恆存訳・新潮文庫)が面白くて仕方ない。「ええい大悪党! 手帳にはっきり書きとめておいてやる(手帳に書き込む)」。しばらく笑ってました。シェイクスピアはあまりに包括的であり、種々の次元の多様な経験にいかにも敏感に同時に反応するので、それは悲劇に徹するのはむろんのことコミックリリーフ(喜劇的な息抜き)の域に止まることさえよしとしない。笑いの要素は、「よくいった、もぐらどの!」に至って寧ろグロテスクな世界の片鱗となり始める──いやもう惚れる。やりすぎ。
 こういうやりすぎっぷりがトルストイのお気に召さないんだろうなーとは思う。レアティーズのシスコン! そしてオフェーリアの墓穴の底でとっくみあい! 馬鹿だ……。

 この世の関節が外れてしまったのか、それとも脱臼してんのは王子のアタマなのか。

 ポローニアスはふつーのいいひとだと思う。

 それにしても、まさか野阿梓『兇天使』(ハヤカワ文庫、絶版)より面白く読める日が来ようとは思いもしなかった。ええと、『兇天使』はハムレットを下敷きにした作品で、だいたい聖書に対する永井豪『デビルマン』みたいな感じです。シェイクスピア入門としても結構いけると思う。『シェイクスピアとエリザベス朝演劇』(文庫クセジュ)とセットでどうぞ。



(Tuesday, 9-Mar-2004)

 『リア王』読了。やっぱ道化退場後はイマイチ。エドガーじゃ足りない。

 なんで『リア王』かといえば、『嵐が丘』の最初のへんでちょこっと言及があったのと、中公世界の文学の解説でヒースクリフを語る際にエドマンドが引き合いに出されたのと、あとヒースの荒野つながりとか、まあそのへん。そういえばマクベスが三人の魔女に出会う場所ってヒースの荒野でよかったかしら。

 『リア王』の筋の乱暴さや人物の心理の説得力のなさは誰もが言うところである。新潮や岩波の文庫の解題なり解説なりをあたれば、シェイクスピアの種本のひとつに『原リア』と呼ばれる作品があって、そっちでは現代人にも随分と納得の行く(おそらく当時の英国人にとってもそうであったに違いないのだが)心理的必然性が用意されているそうだ。シェイクスピアはそれを、敢えて言い訳の効かない愚かさにしてみせた。なんでだろう。まあ、三人姉妹の末っ子が正直さゆえに父親の不興を買う(そして最後に父親は改心する)というのはよくある童話のパターンで、とくに説明を要しないかもしれないが、結末の改変ぶりを思えばあってもよさそうに思える。ところで僕の記憶にある民話では、二人の姉が美辞麗句を重ねるのに対し末っ娘は「肉料理にとって塩が大切なようにお父様を大切に思います」とか言ってしまって勘当されるのだけれど、こっそり身をやつして料理女として自宅に就職して、塩を全く使わない肉料理を出して(むろんとうてい食えたものではないわけだ)その言葉の正しさに気付かせる、とかそういう話だった気がするが、どこで読んだのやら。
 ええとつまり、リア王わかりません。面白いとは思うけど、それはなんというか奇妙というか気持悪いというかいっそグロテスクな悪夢というかそんな感じです。ヤン・コット

 リアはだめにんげんだしコーディリアは阿呆としか思わないが、my poor fool,こういう救いの無さは嫌いではない。
 リア王の悲惨がギャグと紙一重だってのはシェイクスピアもわかってて(というか、シェイクスピアはしばしば悲嘆と悪ふざけをごっちゃにしてしまう、といった批判をされてきた。一方ではコミックリリーフを単なる息抜きから劇の本質的な構成要素へと引きあげたとも)、だからこそ道化がリアを嗤う、といわれても、だから何なんだと思う。道化は単にリアの無自覚ぶりを、つまりはかれの主観と客観のギャップを観客に呈示するためのものであるというべきだろう。客に笑われる前に笑い物にしておく、という言い方ではかえって道化の役割を卑小化している。当人にとって大真面目な悲嘆の極みが、他人にはまったく滑稽で愚かな笑い事でしかない、というギャップをまず見るべきだ。
 ややきわどい例を出すと、ホラー映画でいちばん恐いのは、「自分の話を誰も信じてくれない」(自分にとっては切実な恐怖なのに、だれもが「はは、そんなことあるはずないじゃありませんか」ととりあわない)ということであって恐怖の対象はむしろ何でもいいくらいだ。

 そういえば件の解題にはトルストイが『リア王』(というかシェイクスピア自体)を評価してなかった、という話も載っていた。参考。うわ粘着。いいぞもっとやれ。

 真実は伝わらない。思ったことをそのまま言っても伝わらない。まともに機能するのは「心にもない嘘」だけである(きちんと通じる善意はエドガーの嘘だけだ)。忠誠が受け容れられるのは別人に変装したあとである。前言撤回は間に合わない。真実は遅れてやってくる。忠誠は役に立たない。親子の情愛は役に立たない。おのれの心情(道徳感情)に忠実に行為することによっては、死と悲惨を避けることはできない。こういうのは嫌いじゃないけど、ちょっとわかりやすすぎる。



(Monday, 8-Mar-2004)

 アルクED。それにしてもグッドエンディングは存在意義が見当たらぬ。所詮零など霞の試作。
 トゥルーEDはなんか『冬のソナタ』思い出した。性別は逆だが。

 あと、ひたすらアルクについて説明する先輩がまるで天野さんのよう。しかし世話になりっぱなしやな。これからもっとお世話になる。

 「ごーるっ」なんて『おにいさまへ…』のサンジュスト様そのままで行けるような気もしますが。原作では自殺してるとは思えぬ、前のめりの死に様であった。というか観鈴ちん、真っ白に燃え尽きてません?

 第二焼野。封印空間。真面目に註釈しようとするとついでに魔界都市にも言及せねばならない。常人なら即死級の瘴気漂う場所を平然と歩き回るツワモノってのは菊池秀行パターンだし。



(Saturday, 6-Mar-2004)

 デモベ私註3更新。ライカ篇9話のみ。ちょうど『リア王』読んでたら何やらタイムリーなネタがありましたよ。

 アンチクロスの性格設定はある程度実在のローマ皇帝の評判を反映しているような気がする。というかモンタネッリ『ローマの歴史』(中公文庫)の。カリグラは普段はむしろ冷静な常識人(逆上すると手が付けられないけど)。ティベリウスは陰気であったが人材登用に優れ、ティトゥスは珍しく悪い評判がなく、ヴェスパジアヌスは叩き上げ。

 たとえばの話であって僕自身の意見がそうであるかというと微妙なところなのだが、『終ノ空』ならざくろ視点を最後に回すのが一番美しい。『月姫』はアルク。表(アルク・シエル)→裏(遠野家)って順番だと、志貴くんがどんどん身内の事情に閉じこもってくような感じになっちゃうので、どうもよろしくない気がするのである。あと、アルクェイドのトゥルーEDはどうしても先生のことを思い出してしまうので、『月蝕』につなぎやすい気が。『月姫』でプレイヤーがシナリオ見る順番を制御する必要がどれほどあるのか疑問ではある。

 だが例えば文庫版の『パーム』(伸たまき)が「星の歴史」から始まるのはまちがっていて、『お豆の半分』を先に読むべきだと思う。僕じしんの体験としては連載で「星の歴史」を先に読んでしまったわけだけど、それが「すでに語られていた事件の再構成である」と後から知ることになってさえ、やはり順番には意味がある(ことがある)。


 選ばれなかったあの娘がかわいそう、的な感覚は『Kanon』よりも『痕』に遡るべきだと思った。



(Friday, 5-Mar-2004)

 『リア王』(福田恆存訳・新潮文庫)が面白くて仕方ない。
 悲劇を読む愉しみは実のところドリフのあれに近い。「志村、後ろ、後ろー」である。もっとも、たとえばテーバイ攻めの七将なんかは、後ろを見れば何があるか知っていても、行動を変化させない。知っていることと知っていないことは同じなのである。認識と行為の間にはアイロニカルな深淵が存在し、破滅と死が待ち受けるのがわかっていて、べつに死にたいわけでもないのに、進むのをやめられない。またエイハブ船長もそうだ。白鯨を追うことがばかげてもいれば間違ってもいるとも彼は知っているし、引き返せという忠告を受け容れそうにもなるのだが、やはり引き返すことができない。

 そういえば有沢まみず『インフィニティ・ゼロ』(電撃文庫)の主人公は、りあ、というのであった。物好きな両親がリア王にちなんで付けたのである。ヒロインがいぬちっくな小娘で、りあさん、りあさん、と呼ぶのが萌える。ところで「犬周期と猫周期」というのは、彼女がとっさに思いついた出まかせに違いない。

 デモベ私註を読み返す。ふーん、なるほど、知らんかったー、とうっかり感心してしまう。ほとんど付け焼刃でやってたからなあ。つうか付け焼刃じゃなかったのって古橋秀之と山口貴由ぐらいなんですが。それでもなんとかなるのがネットの偉大さです。だからみんな参考文献とか出典には気を使ってくれるとうれしいな。

 ところで、以下はデモベのネタバレだけど、これこれについてどう思う? これこれとか。これは東方聖堂騎士団カイラス・キャンプ(現在はページ消失)のコピペだし。どっかで読んだような文章ばかり並ぶので非常にヘンな気がしてくるわけですが。いや、うしとらさんのを除けば、ネットなんて概ねこんなもんですけどね。



(Thursday, 4-Mar-2004)

 デモベ三昧のかおるさんが「私註」に足りない所を補ってくれています。ありがたや。
 いくつかは気付いてはいたんですが、「めんどくさい」という気持に負けてつい項目を削ってしまうので、それはたぶん気付いてないよりよくない。反省。でも正直、ライカと姫さんのルートの註釈、誰か代りにやってくれませんかねえ。古橋秀之と仮面ライダーSpiritsとクトゥルーとクロウリーと山口貴由と平野耕太と聖書とシェイクスピアを押さえてればだいたいなんとかなるはず。

・「杉野はいずこ」を見落としていたのは不覚。我輩の節穴な眼をもってしても見抜けなかったのである! の直後のセリフですな。というか「このリハクの目を」も言及しておくべき(うしとらさんはやってたはず)なのだよなあ。撃つべしとルガーもそのうち追加。あしたっていつさ。
・鳥坂センパイは「まーかして」なので。せめて「だーいじょうぶ」とセットでないと。
・ヒダはパーフェクトだ。ふむ。これは思いつかなかった。せめて誰かがミラクルって言わなきゃとか。
・「脳筋」は「脳まで筋肉」の略で、古橋より昔からある言葉だった気がする。せめて「マッチョ」ってルビが振ってあったら項目立てするんだけどねえ。まあ鋼屋ジン氏が古橋から持ってきた可能性は高いので、そのうち追加しとこうと思います。
・「鉄風雷火」はめんどくさいから後回しにしてそのまま忘れてた。個人的には「破壊槌」(アトランティス・ストライクの形容、「破壊槌の如き超重量が、破壊ロボの装甲を軽々と粉砕し、迸るエネルギーが内部に雪崩れ込み、爆裂する――!」)も『ヘルシング』ネタ疑惑があるが、どうしようかねえ。
・アルルートでも『鬼哭街』ポスターが登場することあったのか。あったような気もする。
・殴ったね? じゃなくて「うっ……撃ったね!? 親父にも撃たれたことないのに!」で、これは現在製作中のライカ篇註釈に載る予定。
・CGではバロムクロスになってなかったような気がした。でも一応項目立てておくべきだろうと思う。
・『自由からの逃走』か『自由への道』か、それが問題だ。
・それにしてもちびアルはかわいい。

 ついで。
・「創意工夫あるべし」と「第二局面」は『覚悟のススメ』だと思うのだがどうか。項目追加すべきか検討中。
・というかこんなこと書いてるヒマあったら。

 『あ〜る』で思い出した。『OUT』誌でやってた『あ〜る』特集の元ネタ解析、あの衝撃がなきゃ今頃こんなの作ってないです。外道照身霊波光線とか。新潮文庫版『白鯨』のせいもありますが。それにしても、岩波文庫や河出世界文学全集で「註釈を最小限に留め」なんて寝言言ってる阿部知二は何を考えているのだろう。。阿部知二は翻訳もたいがいひどいが。

 で、デモベ三昧と目にしてただちに堕落三昧(マッドデモン)を連想しましたとさ。


 デモベ私註番外篇。
 ベルデュラボーについてはこちらを。九朔(クザク)はもちろん古橋秀之『サムライ・レンズマン』のシン・クザクを意識しているだろう。



(Wednesday, 3-Mar-2004)

 だからっ! アルクが志貴の通ってる学校に行くなんてのは、それはもうOVAエルハ第一期の世界なのであって!。
 クレセント錠って言葉は『密閉教室』で覚えました。

 話のなりゆきが悲しい気配を見せ始めると、目に見えてプレイが停滞する。トシだな。

 『グラン・ローヴァ物語』のラストが許せなくてね。



(Tuesday, 2-Mar-2004)

 いや、そら『月姫』のさっちんも「丘の上の王子様」くらいはいいますけどね。キャンディ・キャンディ?
 というかお姫様だしよう。ローマの休日かよ!
 ……というわけでアルクェイド篇を途中まで。なんかこれから悲しい別れがありそうな雰囲気で続けられない。



(Monday, 1-Mar-2004)


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