忸怩たるループ  2004年5月
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5月31日

 『AIR』終了。この気持ちは誰とも分かち合う気はないの。

 記憶についていえば、製作者が相手にすべきなのはプレイヤーの記憶でありそれが全てだ。例えばキャラクターとは記憶される対象であって主体ではない。怜悧だ。



5月30日

 『AIR』、AIR篇。
 こうして観鈴の側から見ると、往人さんはどうかすると夾君(高屋奈月『フルーツバスケット』)のように素敵だ。まあ、どうかするとたまに。そういえば、観鈴の頭を鷲掴みにして引き止めたり首根っこをひっつかんだりするのが妙に幸福感を誘ったのだが、無意識にそういう連想が働いていたということか。

 《それと、同意してくれる人は少ないかもしれないけど、麻枝氏のキャラってのは、どんなに現実離れした性格設定であっても、細かい部分から「生きている」実感を与えてくれるところが魅力だった。真琴が深夜に水瀬家の面々と焼きそば食いながらふと不思議そうな表情するときとか。観鈴が晴子さんとふたりで話してて、たまに関西弁っぽいしゃべり方をするときとか。そういう細かな部分ってのが、生命力を与えていた。》(http://www.exa5.jp/c11/log/52.html)。いいこと言うねこの人。というか、観鈴がたまにそんなしゃべり方をするのも忘れてた。



5月28日

 『AIR』DREAM観鈴篇。いろいろな意味で、完璧。読み返して気付くのは、随分と重要なことを尽く忘れ去っていたことで、何かの防衛機制でも働いたのかと疑いたくなるくらいだ。むろんそんな美しいものではなく、単に僕が薄情なだけだろう。

 そしてSUMMER。ところで、死エロにもあったし保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』でも似た話は出たが、過去と回想は異なる。誰かに思い出されるのではなく、それが可能な人物も居ない。プレイヤー以外には誰も知らぬ、現在形で提示される過去。例えば『MOON.』におけるMINMESでの経験が、記憶されもしないし思い出されもしないように。こうした点が例えば『SNOW』等との(『うしおととら』や『からくりサーカス』でもいい)本質的な差であるが、このことの意義はもうひとつ認識されていないように思う。いや、少ないとはいえそれなりに語られてはいるのだが、僕自身がつかみそこねているということか。とある知人は(DREAM篇含めて)『ブギーポップは笑わない』だと言っていた。誰も全体像に辿り着くことはない。CPG2001年三月号のインタビューにあった《ぎりぎりのバトンパスで繋いでいく、という感じですか(笑)。登場人物すべてがぎりぎりで踏みとどまっていた、というか、頑張り続けたんだよ、ということでしょうか。そして、後から振り返った時に、どれだけ凄いことをしたか……というか、頑張っていたんだよ、ということを理解するというか……。》というのはどうもブギーポップの話に聞こえるわけで。「後から振り返る」のはキャラクターには不可能で、それは我々の役目だ。
 つまるところ、渦中にある人物には事件の全貌は把握できない。このあたり、麻枝准の音楽の好みからして「自分には理解不能なまでにデカいもの」への憧れを見てとるべきやも。

 結局のところ柳也の『翼人伝』は伝わることはない。翼人の存在も忘れ去られる。残るのは法術の片鱗と、伝言ゲームの果てとしての曖昧なイメージだけである。つまり意味内容に関しては。血は残る。語られる内容は原型を留めなくとも、語るという行為は残る。語り伝えられるという事実性は語られる内容に先行する。

 《一般的には、凡庸なフィルムメーカーは「一望俯瞰的」な物語に固執し、怜悧なフィルムメーカーは「断片から全体を想像する」物語にこだわりを示す。》(http://movie.tatsuru.com/html/otoboke9.html、『ロスト・ハイウェイ』評)。つまりは、これもひとつの定型。しかしここの『ロスト・ハイウェイ』『マルホランド・ドライブ』評を読んでると、どうもAIR篇の予告でも聞かされてる気になるね。



5月26日

 『AIR』観鈴ルート。まあ、まだ分岐してないけど、気持ち。対人距離感が破壊されるねこれ。電話しようとした手に噛みつきますか。ひとの口についた牛乳の飲み跡を指でぬぐって舐める、とか、今何した!(ブレンパワード)的な。たぶん長森だって浩平にそんなことはしない。そもそも昨日今日知り合ったばかりだ。

 誰かが書いていたが、観鈴は相手が大人と子供──つまり年齢的にも立場的にも上と下──ならソツがない。彼女はけっこう頼りになるヤツなのである。

 あと、観鈴の頭を鷲掴みにしたり首根っこをひっつかんだり。いいなあ。



5月25日

 『AIR』佳乃ルートおわり。うまい。特に音響面。白穂がいきなり自己紹介を始めるのを除けば、興醒めするような局面もない。

 美凪の場合は「空にいる少女」とは幼い頃から親しんだ絵の「天使」であり、佳乃の場合は、聖に聞かされたところの死んだ母親である。当初において、これらと観鈴や往人の「空にいる少女」はそれぞれ等権利の存在を主張する。主人公とヒロインの接点の実際の生じ方としては尚更そうである。

 高屋奈月『フルーツバスケット』の場合は、本田透が母親に聞かされた話があり、それが十二支の皆さんへの思い入れにつながったり、慊人を神様だと合点する結果になったりする。羽根というギミックを除けば、美凪や佳乃の「空にいる女性」の話は、つまりかれらが聞かされたお話だけを考えれば、透君が母親から聞いた話と大差ない。まあフルバは終わってないのでとりあえずここまで。



5月24日

 『AIR』の舞台はたしか瀬戸内の海沿いの町であったはずだけど、僕の実際に知る範囲で似た風景を探すと、木次線沿いのとある駅の周辺である。海からそう遠くはないが、どちらかといえば山の中だ。だのになぜそんな連想が可能かといえば、『AIR』の画面からは海が執拗に排除されているからである。あの堤防だか塀だかの向こうが海だろうと車道だろうと絵的にはそう変わらない。まあ、バス亭や山道のシーンではかすかに海が見えはするが、その程度である。あの夏の迷宮を描くについちゃあ、海が開けていたりするとヤバいのである。
 こういう話は前にもしたように思う。読み返したらえらい悪文だったので(いつものことだ)リンクはしない。まあ、悪文というのはこれはこれで便利なのだが。自分で読み返すぶんには当時の気分に立ち返ることができるし(つまりそうでもしなきゃ読解不能なわけだ)ね。他人の文章についても同じ。

 ともあれ佳乃ルート。読みやすい。あと、「とても素朴な信仰だった。」というフレーズで麻枝准判定が出ます。『ONE』で七瀬について「とても元気そうだった。」というのがあるやん。
 佳乃の部屋には百科全書や文学全集が置いてあって、聖のおさがりだな、となんとなく思った、というのがよい。もちろん佳乃だってそのくらい読む。パジャマ姿を見られるのが恥ずかしい、と佳乃は言う。そういえば数日前までは観鈴の寝巻姿をしょっちゅう見ていた気がするが。

 それにしてもポテトは良い。



5月23日

 美凪EDを両方とも。バッドエンドルートの方が随分と読みやすい。あと、ひたすら泣き続ける遠野さんがエロい。うわ、という感じで。

 感想? 「家庭というのは親密さを核にした求心的な共同体ではなく、『そこをいかに傷つき損なわれることなしに通過するか』が喫緊の問題であるような、無理解と非人情をサバイバルの手段とする、離心的な場である」。家族ネタに対しては万能のテンプレ。



5月21日

 AIR日記美凪篇。それにしても往人のモノローグが酷い。麻枝涼元がそれほど巧いわけでもないのに(少なくともこの作品に関しては)、この差はちょっと。
 よく考えれば商店街でも会ったことはあったはずなんだけど、みちるが出現するのはいつも駅前なもんだから、そこから連れ出したら死んじゃうような不安があったものである。かの『さよならを教えて』をもじって言えば、彼女は駅前で生れ、駅前で育ち、駅前で朽ちていく生物なのだ。ちなみにパターンとしては、難病で余命いくばくもないヒロインが連れ出されるのに似ている。または、もうすぐ消える幽霊と遊園地に行くようなものだ。

 そして、あまりにフロイト的な罪悪感。死んでしまえと願った相手がたまたま死んでしまったときにひとは罪の意識を感じる。まるで自分が殺したような気がする。理窟は様々につけられるが、とにかくそういうことになっている。厳密には、相手が死んでしまったから、そのように念じたような気がしてくるだけだ。妹がどこかに行ったわけじゃない。妹はここにいるらしい。では、わたしはどこに行ってしまったのだろう。ここでは、彼女の罪はむしろ自分自身を抹殺してしまったことなのである。



5月19日

 例えば、るろ剣の人誅篇だとかに比べれば、星矢の姉さんに対するそれは影が薄い。僕自身についていえば、金ひかる「最後の楽園」(『星矢TOY BOX』、初出は『人身売買〈春の号〉』、だむだむ団)がなければ印象に残っていなかったかもしれない。時期的には原作が完結していないころで、つまり魔鈴さんが姉さんかどうかもわからない時期の作である。星矢のモノローグを主体に、聖闘士の修行時代から普通の少年に戻るまで(ちなみに星矢は戦いの後遺症で片足が効かなくなっている)を描いたものだ。カップリング的には紫龍とのそれなのだが、モノローグの主題はもっぱら(作中では既に鬼籍に入っている)姉のことだ。それは、あるいはアイオリアの死んだ兄や、やはりどちらかは死んでいるらしい一輝と瞬の兄弟のことと重ね合わされる。もちろん紫龍だって星矢とは血を分けた兄弟で、だからまだ星矢はひとりぼっちじゃない、とかそういうことを云うわけだが。当時も今もあまり好きとは言い難いが何故か記憶していた。ままならないもので、当時は相当に好きだったはずで今読み返しても魅力的な(時には今になってようやく理解できることもある。江ノ本瞳『WATER』での雨乞いの儀式の記憶のフラッシュバックの意味なんて、当時はてんでわかりゃしなかった)作品のことは、どうかすると存在ごと忘れていたりするから。そういえば片山愁『君がいた夏』もたぶん『Kanon』あたりが無きゃ今でも忘れたままだったかもしれない。ぼくたちは何だかすべてを忘れてしまうので、そんなふうに忘れられた記憶にも還る場所があればいいと思う。『AIR』の空だか大地だかのことはだいたいそんな風にかんがえている。いや、だから例えばの話。あとは一輝と氷河のディスコミュニケーションぶり(例えばえみこ山『A・DAY』)にイカれていたガキは、やっぱり「麻枝さんのシナリオは、キャラクターが同一化を希求しないというか、コミュニケーションがあらかじめ切断されていて、その切断面が剥き出しになっているところが、内向的なユーザーの気分にハマるみたいですね。」(更科修一郎)という評言の当て嵌まるイタい青年になってしまいましたとさ。がっくり。
 それにしても、弟そっくりの少女に惚れてしまうのはどうかと思う。ところで『WATER』は、兄さんはどうして僕そっくりの女の子を好きになったんだろうと考えてえらいことになってしまう弟の話でもある。修行時代といえばどうも修行している姿しか思い浮かばなかったのだが、島育ちの瞬は泳ぎがうまい、なんてのを聞かされるとやられたと思う。まあ普通に生きてりゃそういうこともあるだろう、というレベルでキャラクターを捉えなきゃ話にならない。そんなことを学習したような気がする。さっき。
 生嶋美弥のカミュせんせーはクソ可愛い。いや、10歳のカミュが12歳の弟子(のちの水晶聖闘士)とシベリアで暮す話があってね。雑貨屋の女の子にからかわれたりと大変なのさ。



5月17日

 AIR遠野篇つづき。だらだらと駅前楽園。遠野さんの口調は奇矯なのだけれど、それには特に裏がない、というのは喜ばしい。もちろん僕は神尾観鈴や芳乃さくらのことをかんがえているのだ。例えば真琴の「あうーっ」は実は狐の鳴き声なんです、とか云われると、どうにもせつないばかりで困る。

 ぼくは視線恐怖症の気味があるので、眼を閉じたグラフィックがあるとそれだけで心安らかです。というか萌えます。さもなくば瑠璃子さんやセリオさんの和やかな眼とか。そういや瞳孔同好会ってのがあったはずなんだけど。

 遠野さんの家がなんというか貧乏くさい平屋であるのを見て、妙に納得ゆく一方である種世界の残酷さを感じたものだ。そんな記憶がある。一家の安寧よりも大事なことなどないのだろう。それ以上の問題の存在する余地などないのだろう。あの家にだけは帰りたくない。夏のあいだくらいは、よそで寝泊りしたくもなるというものだ。そんなことを思った。



5月16日

 AIRつづき。遠野さんは良いなあ。そして遠野篇の文章は時折ひどい。いや、提出してくる視覚的なイメージはそれなりに好きなんですが。飯盒を炊く炎と一番星のコラボレーションとか。ただ、具体的な文章表現があまりに。まるで高橋和巳(『悲の器』以外の)のようにひどい。または柳美里のようにひどい。詳しくは柄谷行人『畏怖する人間』と中島梓『夢見る頃を過ぎても』を参照。

 駅前で二日ほど過すと、遠野さんの何が不自然だったのか判らなくなってきた。ぼくも老いたもので、今回のリプレイの初対面時には、あろうことか違和感をおぼえたりしたのである。
 駅前楽園は良い。楽園については何度か話した。それは真下耕一監督によるアニメ版『EAT-MAN』#11「楽園」とか、やっぱり真下耕一監督による『ポポロクロイス物語』の、ヒュウとピエトロの「海辺の楽園」であるとか、あのへんとも共通するイメージだ。以前も書いた。
 そして遠野ワールドが蝶・最高! 心の中でもうひとりのオレが止めろと叫ぶ。三人そろって世にも間抜けな図を繰り広げていると、対幻想と共同幻想は逆立するのだなあと実感する次第。または、女の子に蹂躙されるのは心地よい。

 どのあたりが麻枝准の文章かはだいたい判別が付く気がする。つってもまあ、空にいる少女とかそのへんの話が出る前後はたいていそうであるにきまっている。または神社のシーンとその直前直後。それが終わると、いきなり装飾過剰気味になるので違和感バリバリである。



5月15日

 「計画は全部中止だ/楽しみはみんな忘れろ/嘘じゃないぞ 夕立だぞ/家に居て黙っているんだ/夏が終るまで/君の事もずっとおあずけ」(井上陽水『夕立』)。

 『AIR』(言い忘れたが、エロゲーの方)リプレイ中。夏が終るまで秋葉のこともずっとおあずけ。

 それにしてもポテトは良い。奇天烈なヒロイン陣よりは奇天烈な毛玉のほうが実は馴染み易いのか。いや、うだるような暑さで見も知らぬ田舎であれば、こういうものもとくに違和感がない。夏の風景というのは日常的な意味連関をふと忘れさせる效果があるからね。そこでは空も風も雲も陽射しも、固有の意味をもって立ち現れるのだ。まして少女たちと来たら。《あえて言えば、夢の言葉(、、、、)として、それらの光景は現われた。夢の言葉は、現実の言葉のように、交換され合う(、、、、、、)必要を持たない。だからそれは、喩も近接も連合も、また差異としての価値も持たない。おそらくそのために、あれらの光景は、わたしにとっての固有の意味として、直接わたしの心象の世界を吹き抜けたのだと思える。》(竹田青嗣『陽水の快楽』ちくま文庫)



5月14日

 『AIR』リプレイ中。そういえば佳乃篇以外は一度しかやってないはず。
 いつまで経っても、あの冒頭のバス亭で眼を閉じたままでいるような気がします。夢オチ?

 MK2さんが以前に、観鈴がはじめて登場したときに驚いた、ギャルゲーで女の子が出てくるのは当り前だから驚くようなことではないはずなのに、といったことを書いてらっしゃったけど、その感覚はよくわかる。

 観鈴ちんと結婚して幸せに暮らしてえ。つまるところそれぐらいしか考えられない。SNOWやCLANNADで何かが取り返されるわけじゃない、そう考えてしまうのはとてもいやなことだ。

 月姫? 一日一ページも進まない。お兄ちゃんと指が触れるだけで心臓ばくばくですかああもう! もちろん読んでるこっちの心臓もただでは済まないのです。というわけであっさり逃げ帰る日々。



5月11日

 LADY PEARLが楽しかった。マップ画面見てるだけで。街の人に話し掛けるだけで。キャラのかけあい見てるだけで。

 女の子わんさかのフリーRPGである。主人公もライバルもみんな女性で、男の子はほとんど出てこない。女の子わんさかな作品というのは二種類あって、赤松健みたいな男性の視線をあからさまに前提とするものと、『あずまんが大王』的な、比較的男性の視線を感じさせないノリのものとに分かれる。この場合は後者。

 クーがとにかくいいやつ。あと、ますたぁにお薦めしたいキャラが三人はいる。

 あまり他人に甘えたがらないキャラがいて、それに対し、お節介でさわがしいキャラが色々と世話を焼こうとする、というパターンに弱いかもしれない。コタローくんと美紗さんとか。ある意味では往人さんと観鈴もそうなのだけれど。



5月10日

 京極夏彦『百鬼徒然袋──雨』再読。なんで谷川流の『ハルヒ』読んだときこれ思い出さなかったんだろ。「薔薇十字探偵の憂鬱」なのに。乙女回路の差か。あと『学校を出よう!』2巻のサナエの口調は待古庵のひとと同じなのね。だからどうってわけでもないが。



5月6日

 相も変わらず『月姫』秋葉篇をぼちぼちと。なかなか進まないのは、あまりに幸せだからである。あんたら中学生か。あるいは、それとも、育ちのよいひとは違う。

 遠野志貴がほんとうに倒れそうなときでさえ、翡翠はかれの体に触れようとはしない。一度プレイしたぼくらは、それがけして生理的な或は無意識的なものなのではなく、意識的な訓練によって獲得された態度だということを知っている。よく覚えていないけど。

 秋葉が兄と毎朝顔を合わせるのをどれだけ楽しみにしていたか、ということを琥珀さんが教えてくれるのだけど、『嵐が丘』読んだ後だとどうもネリーみたいである。

 同級生の誘いを断るのに手間取って、と秋葉が中庭の昼の会食?に遅れた理由を言うのだけれど、それで少し安心した。



5月5日

 立夏。つまり、夏がはじまる。
 また夏が来る銀色に光る。がいつまで経っても気分はあの2000年の(つまりAIRの)夏のままだ。あたしはこの一年間なんにもだった、と七瀬は言っていた。あんな感じ。ずっと。




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