忸怩たるループ  2004年6月
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6月27日

つまり、先日立久恵峡に行ったんだけどちょうど伊吹邪甲麝香草の花が咲く頃で、という話。いや花の見分けなんて付きませんが。なんか途方も無く珍しい花(花だけでなく各種の生物も)が何種類も見られるところらしいんですが。

 メモリンク。
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~qjy/qjy101-150/qjy131/qjy131.htm
http://www.pref.shimane.jp/section/keikan_shizen/model/sonota/

 峡谷なんでまあ岩でも見に行くかなと思ったら、むしろ植物に圧倒されて帰ってきました。うっかりするとこちらまで苗床になりそうだ。岩肌の苔だけでもえらく種類があって。遊歩道がまた岩肌スレスレのところを通るもんだから。



6月26日


 油断するとレディパールばかりやってしまう。頭を使いたくもなければやる気も出ないときはRPGに限るのである。いや勿論好きな作品なんですがこれ。

 あまり他人に甘えない女の人と甘えるのが下手なくせにすぐ泣く女の子がいて、もう少し言うと片方は気さくで友達も多いけどひとりでも生きていける人で、もう一方は自分はひとりでも生きていけると思ってるくせに寂しがり屋でおまけに泣き虫というあれです。つまるところこのテのタイプはといえば、楽しいことならともかく厄介事は一人で背負い込みがちで、見てて寂しいわけです。だから、うるさくつきまとう子がいなきゃなんないわけ。楽しいことを一人占めされるのは笑い話で済みますが、その逆となると水臭い。

 具体的には、イドリーさんは淋しいヤツなので(《誰にでもやさしく好かれやすく、友達も多い。/けれどもサフラン曰く「1人でも生きていける人、屋根がなくても生きていける人」》)なのでこいつは見てて寂しく、クーが無闇とつきまとうのは実に救われる気がしますがなんでだろうねこういうの。



6月23日

 むせかえるような湿気。そう気温は高くないし風はあるので不快ではない。ちょっと山間部の朝靄みたいな。まあ実際には排気ガスやら何やらが停滞して煙霧になってるらしいのですが。なんか盆地(いわゆる「海の底」、知ってる中じゃ重慶とやっぱり京都)にでもいるみたいですよ? 湿度がむやみと高いなかを泳ぐように自転車を走らせていると、なんだかサカナにでもなった気分で、安部公房『水中都市』か『MELTY BLOOD』を思い出しましたですよ?

 一度だけ行った重慶は夜について朝に出発したぎりであるが、それでもその朝はえらく印象的だった。
 長江の三峡下りだった。道路からはるか下の川面の港まで、粗末な、恐ろしく長い石段がのびていた。眼下の長江は茶色に濁っていて、辺りはなんだか重油臭いような気がした。石段じゅうにたくさんの中国人が待ち構えていて、階段を下りる人をちょっと支えたり荷物を持ったりしていくらかの金をせしめようという魂胆らしかった。ちなみに、船までの岸壁の道の両脇には乞食がずらりと並んでいる。物売りは少ない。三峡地区は中国でも最も貧しい地域のひとつだと後で聞いた。これが豊かな地域になると物売りがメインになるわけだ。多分。
 ともあれ乗船し(これからこの船で二泊するわけだ)、出港まですることもないのでデッキに出て朝の長江の港を眺める。朝靄なのか何なのか、涼しいけれど湿度はとても高い。川の片方の岸には工場か何かの煙突が並んでいた。港では観光船やら輸送船やら(食材とおぼしき鳥やら獣やらの檻がいくつも見えた)が出港を待っているふうだった。輸送船のひとつでは、デッキで男が一人丼から何か(たぶん麺類)をすすっていた。長江は茶色く濁っていた。僕はRPGに出てくる工業都市を連想した。LUNAR(2)かFF7あたりの。そのくらい自分の普段の現実とは異質な感じがしたのである。



6月22日

 僕夏を再開。8/7まで。貴理が!

 何もかもがいっぺんにやって来る。で途方に暮れる。まあそれだけのことなんだけど、良い。
 途方に暮れたきりで一日が終わってしまうのである。

 ええと、岡野史佳『君の海へいこう』を思い出しました。ヒロインのほう。


 以下蛇足。
 だれかを好きになったかもしれないとおもうときってのはまず不安でね。強気になれる材料を探したり、そいでいてやっぱり不安になったり己の身勝手さばかり身に沁みたりと劣等感の材料ばかり数えてしまったりだ。ひとりで落ち込もうと思ってひとりになれる場所を探したことが誰だってあるだろう。実際なかったとしてもあったような気はするだろう。まあ、そんなのだ、要はストレートに途方に暮れてるだけなんですが、飛びつくべき結論もとりあえずの答もないまま日が暮れてしまうのを見て妙な清清しさを覚えたのでした。あっしもトシですから。



6月21日

 だからうっかり『マップス』読んじゃうと一日は頭の中がダード漬けになっちゃうんだってば。わかってたけど。ダード・ライ・ラグン。龍の末裔。龍にとっては龍の姿こそが正常であり、だから、外見上ヒューマノイドの彼にとって自身の姿は「怪物」にほかならぬ。

 もちろん龍であるからには姫君をかっさらってしまうものである。で変わり者の姫君は龍に惚れちまうんだこれが。でも物語の必然として、「やはり姫君は勇者に返さねばな」、と龍たる彼は述べるのである。ああもう。

 文庫版10巻は外伝集で、未読のものもいくつか。「最強の者ども宇宙をゆく」は初読。姫君はとうとう龍を捕まえてしまったので、姫君と龍はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。こういうのがあったらいいなとは思ってたけど、本当にあったとは。



6月20日

 長谷川裕一『マップス』を文庫版で読む。いや、翼人伝承会と聞くとどうしても銀河伝承族を連想してしまうのでつい。
 ちなみに伝承族の外観は惑星サイズの生首。脳の大きさもそれに見合ったサイズ。連載当時からひとつ鮮明に覚えているのは、かれらの体(ほぼ頭部だけなんだけど)は巨大だが神経の伝達速度には限界があるので、リアルタイムで反応しつつ行動しようとすると冗談のようにタイムラグを生ずる、という点だ。にもかかわらず通りすがりの地球人と普通に会話できるのは、かれらが実は未来予測に基いて先行入力で喋っているからである。そして、あまりに精密に未来を予測できるため、かれらにあって「予測された未来」と「現実に起こったこと」の差は存在しない。

 再読して気付いたこといくつか。
 「十の魔物と七つの軍団」って、「七頭十角」あたりからのネーミングなのかしら。青き円卓に集いしアンチクロス。
 エヴァ劇場版で綾波の巨大な顔が水平線に、って絵はアマニの最期が元ネタなのかなあ。
 頭脳体−宇宙船ってのは『歌う船』あたりからの発想だろうか。つうか「歌う船」出てくるやん。

 レンズマンの向こうを張ろうとした、という作者の言に納得。言われてみればライ族(龍の一族)の頽廃っぷりはデルゴン貴族のそれに似るか。



6月19日

 『僕と、僕らの夏』。もちろん、僕も僕らも、もう何も知らぬ子供ではないわけで、だから子供っぽく振舞ってみたくもなるし、たとえばメンツは男女二人づつなのに、ペットボトルを回し飲みという暴挙に及んだりするわけだ。でも、そんなことができるというのがそも特別で、夏というのはそういう季節である。かもしれない。

 『Sultan』、ロッタEDを確認。特に言うべきことは見当たらない(いい意味で)。好き嫌いでいえば二番目に好き(バッドエンドの次)。かくも過不足ない(あるいは抑制が効いた)代物は珍しい。

 ちなみにこの作品、王太子の日常がえらく所帯じみています。つうか義務は増えたが生活レベルはそのまま。税を民に還元すると、王族が贅沢するような余地はないんだそうです。メイドも二人しか出てこない。食事も普通。王太子が夕食の準備を手伝ったりする。リアリティ何それ食えるんか、という潔さである。本作において、主人公に王族っぽく奢侈の限りを尽くさせた所でシナリオ上得るものないので賢明な選択である。メイドに叱られる王女様というのも(まあメイドさんが心労のあまりキレちゃったんだけど)ギャルゲーならではといえよう。要するにムダな(自己目的化した)本物志向とは無縁の正しいギャルゲーだっていいたいわけです。DALさんと似たようなこと言ってますねこれ。



6月18日

 DALさんの最近の日記を読んで、そういえば『Sultan』(light)は三人ほどクリアしてそれっきりだったことを思い出した。ので四人目はフェレースEDまで。そういえば殿下は射撃が得意だった。
 以前はいい按配だと書いた。ヒバリもいないし、蛇も出ないつまり天使も悪魔もいなけりゃ救いも破滅も無エ。ただ、起こるべきことが起こる。それこそ日が昇って沈むくらいにあたりまえのことですよええ。嫌になるくらい節度を保っていて、たぶん知的といってよい。《…「節度」! 私の非常に好きな言葉だ。知的な者とそうでない者を分ける境界線と言ってもいい……》(『冒険王ビィト』)。よくもわるくも。グラン・ローヴァ物語のラストが許せない人には薦めません。まあ、最後の最後で冗談のような抜け道が出てくるあたりは嫌いじゃないけどさ。
 もちろん、罰を受けることは赦しを得ることであり絶望とは誰も罰してはくれないということである(山川方夫『煙突』に、「絶望とは、誰も自分をわざわざ手にかけてはくれない、ということではなかったか」みたいなフレーズがあったような気がする。ちなみに『煙突』は、昼休みのたびに屋上に行って誰かとそこで親交を暖める、という甚だギャルゲー的なシチュエーションが萌え)、僕としてはフェレースはもちっと苛めたいのであんな風にすんなり幸せにしてやりたくはない、というのはある。作品のほうはきっちりとしてるのだがこっちが複雑な気持ちになってしまう、というのはよくあることだ。つまり人間を相手にするのといっしょでね、向こうは整然としたものだがこっちは頭ン中くちゃくちゃなのさ。いや単に猫耳に弱いだけですきっと。

そういえば、どうでもいいのですが、『とある魔術の禁書目録』のインデックスたんが怒ると主人公をガジガジするんだけど(それも頭から)、あれ妙に記憶巣を刺激すると思ったら『グラン・ローヴァ物語』のイリューシアがサイアムによくやるやつか。ずっと引っかかってた。

 ああSultanの話な。ついでにハーレムEDも確認。といえば通常のギャルゲーなら、通常なら個別にしか攻略できないヒロインを一挙に、というのが常道なのですが、本作において正しく後宮入りするのはサブキャラのみで、通常攻略対象は微塵もからんできません。このあたりも、実に節度というかビィクールな代物というか。



6月16日

 僕と、僕らの夏。紆余曲折を経てSpecial Merge版で進めてます。いや結構悩むんですけどね。どうせなら発表順に全バージョン制覇とか考えなくもなかったけど。ちなみに14日の時点ではPCオリジナルバージョンでやってました。
 夕食にイワナの塩焼きが出たりする。で次の日だかの昼食は取りたての枝豆にトマト、それにザル一杯の蕎麦。あとビール。ぬう。ザル一杯の、というのがとてもよい。



6月14日

 夏なので『僕と、僕らの夏』。AIRも再プレイしたことだし、これでようやく心置きなく取り掛かることができる。実をいえば昨年秋から放置したままで、どうもAIRの記憶を薄れゆくにまかせたまま他の夏ゲーに手を出すことにためらいがあった。どういう理窟かは自分にもわからん。

 あと、ダムってのは実際見ると凄いですよ。建設途中のほうがいい。『グランディア』の「世界の果て」の壁を見る思いがするから。僕が見たのは長江の三峡ダムで、三峡が失われるにもかかわらず、あるいは、その效果を疑問視する意見を聞いていたにもかかわらず、建設途中のあれを見たときは圧倒されたものだ。「僕は懺悔しなければならない」。



6月13日

 AIR総合スレッドまとめ(仮)FAQ oldを読む。労作。どうにもこじつけというか穿ちすぎに思える部分も多いが、というかこのテの辻褄合わせは結構バカにしていたのだが、反復される表現がいちいちチェックされているのは良い。

 あと、佳乃がどすこいどすこいと言っていたのは何だったのかとか、そんな疑問にも答えてます。やや受け。そして観鈴は佐祐理さんとほぼ同じ体格だ。



6月12日

 望月花梨『純粋培養閲覧図』再読。導入を紹介すれば、何年も前に僕が「夏の終わりは子供の時みたいに家で遊んで暮らしたい」と言ったら、毎年一緒に学校を休むようになった女の子がいて、だから二学期の始めはいつも二人して学校を休む。夏休みの続きみたいに。僕は心の表現が苦手な子供で、他人に共感する能力も欠けていたから、ただ女の子の言う事を聞いてばかりいた。

 このツカミだけで全部許す。そっから先は、ありそうなことがきちんと起こるだけである。良いことです。
 それにしても、「母」「夢」「記憶」「夏」と来るとどうにもエロゲーにありそうな感じだ。

 宍道湖自然館ゴビウス行った。イワナ(ゴギ)とか見た。三匹食うと龍になるやつ。ちなみにヤマメ六匹(未遂)だと神奈。あとは求愛ダンス(トゲウオ)とか婚姻色にひとしきり萌えたり。

 夜は螢を見に行った。その川は記憶と違ってすっかりコンクリの護岸で整備されていて、これは駄目かと思ったがそうでもなかった。田んぼにも結構いた。やはり理想は螢舞う水田でオプションに浴衣綾波(略)。ちなみに100mほど向こうでは工事の音がうるさかったし(道路の敷設だろうか)現場のライトは目を射たけれど、まあそういうのも嫌いじゃない。



6月10日

 『ウィルヘルム・マイスター』のミニヨンが萌え泣きっ娘である点についてこのへん(リンク先ネタバレ注意)で触れられていたわけですが。12歳でズボンしか穿かなくて故郷を思ってひきつけを起こす。主人公を思うあまりひきつけを起こして泣く。かのシーンのゲーテの筆は精妙を極め、もはや萌えを通り越してエロいと思います。それはさておき、泣きはともかく萌えについてなら、ミニヨンについては以下の点を言い落としてはなるまい。何が「なるまい」よ。
 http://210.159.192.206/608595/bbs_plain?base=240&range=1より、「発育が抑えられています。/額と鼻が魅力です。/階段を跳んで上がり下りしたり戸棚の上でじっとしてたりします。/無口だったり余計なことまで喋ったりします。/仏語伊語交じりの片言の独語で話します。/いつもむき出しの床の上で寝ます」。正体は猫だったりしませんか。あと主人公のことを「お父さん」と呼びます。

 再掲。
《……何分にも長い年月に亙つて書いたものだけに、一貫した趣向がない、文軆も一様ではない。全軆の意味を捕へる鍵のないことは、ゲーテ自らも他の所で云つてゐる。しかも大天才の豊穣で多方面な材幹は、この一篇に於て十二分に窺い知ることができるのである。女性描写の面白さから云つても、マリアーネと云ひ、フイリーネと云ひ、テレーゼと云ひさてはアウレーリエと云ひ、皆後の世の範とするに足らぬものはない。殊にあの幽玄不可思議な可憐の少女ミニヨンに到っては、眞個天才の所産である。『この國を知れりや』の歌は、自己の天性と相容れない國に遣られた者の悲哀を永久に語るであらう。なほこの作はさう云つたやうな劇的工夫に於て大いなるばかりでない、人生と藝術とにおけるゲーテの深邃な思想をも窺うことが出來る。」》(森田草平「譯者の序」、『ウイルヘルム・マイステル 上』國民文庫刊行会、大正14)
 「なほこの作は〜ばかりではない」って、ゲーテの深遠な思想より女の子の話が先ですか。

 岩波文庫上巻の解説によれば、ゲーテはロッテよりもグレートヒェンよりもミニヨンが好きだったそうですが。
 あとメモ。そもそもゲーテにおける少女とは何なのか。この謎を解きたいのなら意を決して『ファウスト』を読むべきである。



6月9日

 CLANNADはまだなのですがNETANNADには手を出した。CLANNADを未プレイだった時、既にプレイを始めていた折原さんこと無口さんが「俺はもっとMOON.っぽいゲームをしたいんだ!」と永遠を探し求めていたのを思い出しました。当時はまさかそんなものが今更と思っていましたが、ここにありました。なんて話を聞いてはチェックせぬわけにはゆかぬのです。
 いい感じにB級。頭もセンスも悪い代物であるが、妙に読むのがやめられない。負け。でも、フタを開けてみればニトロプラスでした。その正しい男の子的なノリは違う。いいけど。



6月8日

 そういえば矢吹駆がどれほど萌/燃えるかについては佐藤亜紀『検察側の証人』に詳しかった気がする。『群衆の悪魔』を貶しつつ。要するにヤツは石ノ森章太郎のヒーローである。サンスクリット語! かてて加えて、ブギーポップのように口笛を吹いて現れ、綾波のような部屋に住んでやがる。そして言霊を駆り呪いさえも行う(京極堂が『魍魎の匣』でやったやつ)。つうか現象学探偵はオカルト探偵でもあるのですが。『大地の歌』のCDは三枚買った。



6月5日

 「本当にそんなことしてもらっていいんですかっ、ありがとうございます」、というコメントに萌え。というかその口調は名倉妹だ。



6月3日

 江洲さんの、《誰かが指摘してゐたやうに「理路整然と惱む」感が》云々、の誰かの指摘ってのはこれかなあ。

 またぞろ高屋奈月『フルーツバスケット』がヘビーローテーションの日々。かおるさんに言及されたあたりがきっかけか。まあ原因とは事後的に見出され遡行的に仮構されるようなものであるわけですが。それにしてもマルチと透君が同じ声ってのは悪い冗談である気がする。
 あと昔の自分のフルバ話がいやに面白い。あまりに久しぶりに読んだので、少女マンガへの違和感を保持していたせいもあろう。最近は夾君は素敵ですとかそんなんばっかしですね。どうかすると往人さんと区別がつかないぐらい好きです。ところでロラン君はディアナ様とキエル嬢を好意という点ではあんまり区別してないそうです。
 それにしても、コミックスで一気に読まないとかなりどうしようもないねこれ。14巻の「いつも 一緒」ってのが10巻の会話の反復だって気付くのに結構かかった。

 透君はときどき何も見ていない(要するに虚ろな)目をする。もしかしたらそのうち壊れてしまうんじゃないか、というのは10巻あたりから心配させるように描かれていて、だから僕は心配。リンというのは一面では透君の、他人には決して言えないし触れられたくない部分、いまだ対象化/言語化できないトラウマ、フタをしてしまっておいて、常に監視しておかなきゃヤバいもの、等と連動するキャラでね。あるいは、透君というのはなんか切羽詰った感じがする奴である。彼女は他人を赦しているわけでも肯定しているわけでもない、いや少しはあるんだけど、それには透君の不安やら恐怖やら絶望やらが背景にあるってのは当り前の話でさ。いまでも母親の死は夢に見るし、夢から覚めた後でも扉の向こうを確かめずにはいられない、ということが毎晩のようにあるのかもしれない。

 あと「宴(宴会)」という語が繰り返し登場するくせ後になると意味が(ネガティヴなそれに)すり替わってしまうあたり食えない作者だと思う。明らかに当初からそう構想していたに違いない。それと、基本的な構想はたぶん細部まで固まってるけど、ページ数の割り振りは決めずに書いている、というのが強味だと思う。

 『フルーツバスケット』の開幕はとある夏の一日だが、9巻あたりからの夏が妙に既視感を誘うというか要はギャルゲー臭い気がするのはなぜだろう。

 上で出した「何も見ていない目」ってフレーズには元ネタがあって。《夜 寝床に入る前に/誰でも一度は悲しそうな目つきをする/兔のような蛇のような/何も見ていない目つきをする》(谷川俊太郎「誰でも」。全文はhttp://member.nifty.ne.jp/TATSUYA/tanigawa.htmlで読める)
「誰でも何か悲しいことをもっている/それを誰にも黙ってかくしている」「誰でも何か許されぬことをもっている/それを許されぬままでもっている」「誰でも何か口で云えないことをもっている/何と云っていいかわからず/ひとりでそれをもっている」、とまあフルバのキャラをいちいち思い出しながら読んでいただきたい。もっともフルバの少年少女は乾いた笑いやら残酷な目やらとは無縁だが。

 あと、「そよかぜ 墓場 ダルシマー」。

《ぼくはマルクスもドストエフスキーも読まずに
モーツアルトを聴きながら年をとった
ぼくには人の苦しみに共感する能力が欠けていた
一生懸命生きて自分勝手に幸福だった》

 麻枝准かと思った。助詞にしろ内容にしろ。



6月2日

 「仲良し空間」と聞いて真っ先に連想するのはある種の星矢本だったりする。あるいはAPCとか。固有名を挙げると生嶋美弥とかハーデス蘇河仁とか。きっと当時の少女マンガを参照すれば何か見つかるだろう。

 『エア・ギア』がかなりの程度に車田マンガであることに最近気付いた。というか最近読んだ。咢の好きなマンガがリンかけってのは単なる偶然やネタではあるまい。




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