忸怩たるループ  2004年7月
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7月27日

 夏なので『嘘つきは妹にしておく』再読。はてこんなに幸せだったかこれ。
 男の子が作る料理はチャーハンか焼きそばと決まっているのだろうか。つまり『狐。』2巻の高上昇とか『Kanon』の相沢祐一のことですが。
 
 あとはまあ、豆腐屋の大豆を煮る匂いとか、水と稲の匂いとか。



7月26日

 清水マリコ『ゼロヨンイチロク』(MF文庫J)読了。ああ、こりゃ『光車よ、まわれ!』とかそのへんだねえ。わけわかんないことは幾らでも起こる。謎は謎のまま──というか、説明されたらされたで尚のこと。「あなたたちはこんなこと信じちゃだめよ。頭がおかしいと思われるから」と龍子さんは言いましたとさ。

 そんなわけで児童文学系ライトノベルです。世の中には児童文学も書くライトノベル作家もいますが(はやみねかおるとか南房秀久とか)、そういうのではなく。
 因みにここで念頭に置いているのは、早見裕司の水淵季里シリーズ(『精霊海流』は微妙)や『世界線の上で一服』あたりですが。『わが家のお稲荷さま。』も児童文学っぽいといえばそうなんだけど、これはちょっと今回は絡めにくいのでパス。

 ただ、『光車』と比べて異質なのは、『ゼロヨンイチロク』の町はそんなに怖くない。『光車』の町というの基本的に不安と悪意に満ちていて、安全な場所やルートをいかにして構築し発見し確保するか、というのが急務の戦場であったように思う。このあたりの感覚は早見裕司『水路の夢』あたりのほうがよく出せていた。あるいはいっそチェスタトン『木曜の男』や村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』。

 まあそんなことより、清水マリコの描く男の子は良い。今回は明智くん。ちょっと早見裕司の水淵季里シリーズの陣内みたいな感じで。ちなみに今回の主人公(視点人物)は女の子なのでドキドキです。「明智君すごく男の子だ。私と体の柔らかさとか、全然違う」とか言いやがります。この色ボケ小娘が。だがそれがいい。

 われわれの見知った現実というのは諸力のたまさかの均衡の上にかろうじて成り立っているので、いつなんどき悪意ある力がオモテに出てくるか知れたもんじゃないのさ。もちろんそうなりゃ、ぼくらが知っている現実の法則なんて、向こうは気にかけちゃくれない。まして僕らの知識と常識に合わせて説明してくれたりもしない。敵だからね、何しろこの争闘は「みんなが知らないところで起こっていること」なんだから、「誰もはっきりと説明できないこと」が起こるのは当然なのである。

 まあ児童文学的といってもどういうことかよくわからんのですが。とりあえず、現代日本のガキの知力体力の範囲で話が展開するということで。魔法じみたことが起こったとして、間違ってもラテン語の魔術教書を読み解く破目にはならない。過去の知的蓄積とは切れている、というのはひとつあると思います。こういう言い方だと奈須きのこあたりも児童文学になってしまいかねないので何とも悩ましいんですが。笠井潔や菊地秀行と奈須きのこのあいだに断絶を感じるとすれば、実際の吸血鬼伝承や魔術の歴史との距離か知識量そのものかだと思うし。何の話だよ。

 たとえばバスを乗り間違えた時というのは物凄く不安なわけです。着くべきところに着かない。否、着かないのが当り前で、目的地にちゃんと着く方が一種の魔法のように思えるんですな。
《「君はスローン・スクエアの次はどうしてもヴィクトリアだというけれど、僕は反対に、その次にはどんなことが起こるかわからなくて、ほんとうにヴィクトリア駅に着いたときは九死に一生を得た気がする。だから車掌が、ヴィクトリア、と叫ぶのは無意味なことではないので、それは僕にとっては勝どきなんだ。ほんとうにヴィクトリア、つまり人間の勝利(ヴィクトリー)なんだ」》(チェスタトン『木曜の男』、吉田健一訳)

 0416リンク。
http://d.hatena.ne.jp/TakamoriTarou/20040724#p1
http://sto-2.que.jp/200407_3.html#28_t1
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/magazin/1067431693/n454-458



7月23日

 『我が家のお稲荷さま。』を読むと『タツモリ家の食卓』を読み返したくなるのは何かの仕様ですか姉さん。で再読したら思ったより似てた。いや設定だのシーンだのキャラの役回りだのじゃなくて適度に気の抜けた文体が。具体的な技法でいうと、カギカッコの台詞のあとで、ちょっと他の地の文とは浮いた感じのなんか註釈みたいなのが入るやつ。たいてい改行せずに主語やらの説明を欠いた形(多くは敬体)で。って言われても困りますか、これが何か気持ちよくてつい読み返しちまう。
 えーと、下みたいなやつ。

《「んんー」ぜんぜん聞いてません。》(『タツモリ』1巻32頁)
《「はっはっはっはゲフッ」いいのが入りました。》(同33頁))
《「んんー、なんでかなあ」よくわかりません。》(同35頁)
《「今日は何拾ってきたの?」うっ、なぜそれを。》(同63頁)
《「うん、見たらわかるよ」だんだん自信が出てきました。》(同65頁)

 で、『狐。』だと、

《「(略)おい、どちらにする?」
  ……って言われても困ります。》(『狐。』1巻58頁)
《「……」そういうことは早く言ってほしい。》(同115頁)
《「……ふうん」よく分かってません。》(同154頁)
《「………」事実なのでフォローできません》(同187頁)
《「ぐぇあ」首にイイのが入りました。》(同228頁)
《「ぜひ来てください」真剣。お菓子大好きです。》(同232頁)
《「………………いいんだ。菓子は……いりま……せん……」断腸の想いです。》(同237頁)

 こんな感じ。何かの定番なんですかねこういうの。他には知らないのですが。



7月17日

 『我が家のお稲荷さま。』2巻。相変わらず幸せな代物でね。会話とは意味伝達を超えて堅固。日常とは妖怪変化を超えて実体。いや正直会話については何か狙われているとしか思えなかったいい具合に力の抜けた文章が心地良い。ああ、行儀の悪い文体。それだ。

 この巻で夏休みが終わってしまうのでちょっと寂しい。



7月15日

 MLN。前半の山中サバイバルが面白かった。あとは、キャラクターについて語られるべきことはほぼ済んでるし、伏線を回収してケリを付けるってだけですが。やはり一筋縄では行かなくて、二千年の孤独は関西弁で語られたりするのである。さみしかってん。

 相変わらずセンスが悪い(いい意味で)というかやりすぎというか。前の二冊はちょっと普通すぎたのだなあと改めて思ったり。



7月13日

 夏祭、薫子ED。ブラーヴォ。あははははっ! いや、別に普通だけど、良いです。



7月12日

 夏祭、みやの。なるほど田んぼに落ちてみるのも悪くない。おふろに入ってやり直し。
 あと麻由シナリオだと、麻由がもう川に落ちるような子供ではないってあたりがこう。
 
 とりあえず曽我さんの あたりにリンク。あと更科氏のこれ

 手紙とか電話とかそれなりに語りたくなる小道具はあるが、語るのも不粋。いい意味で他愛ない話。 



7月11日

 『夏祭』(ディスクドリーム)

 「私は、私自身を、言語活動において同一のものとしているが、そうすることは、私自身を一個の対象物として失うことに過ぎない。私の話す歴史の中で現実化されることは、実際にそうであったことによって限定された過去ではない。というのは、そのような過去は、もはや現在ではないのであり、そうであったことについての完璧な内容でもないからである。しかし私がやがて或る時までにはそうなっているであろうこと、そのような前未来、つまり現在、私がそれになりつつある未来にとってのそれ以前の未来が、私の話す歴史の中で現実化されるのである。」(『エクリ』、竹内迪也訳)

 ……いや、ここからの孫引きだけど。

 というわけで『夏祭』(ディスクドリーム)。「過去の行為を選択できるメモリーズプレイ搭載!」(パッケージ裏面より)である。
 夏祭の期間は三日間でゲーム期間もそれに同じ。たった三日のうちに主人公(視点人物)は、過去を堰を切ったように思い出す。それによって一本の物語ができる、というわけ。まあそれを言えば『オイディプス王』なんてたった一日のあいだに過去の因縁が招来され尽してしまうわけで、これは悲劇の古典的な規範にもなっている。劇中時間を可能な限りリアルタイムにとかそんな感じだった気がする。まあ『密閉教室』や『悪魔のミカタ』でも一日か数日で事件は始まり終わってしまうわけだが。ア・デイ・イン・ザ・スクール・ライフ。どうでもいいですな。せいぜい「リアルタイム性」なんて昔からあるしどこにでもあるし過去は極めて短期間にいくらでも出てくるってだけの話だ。
 実際のところは、「思い出」を主軸とした展開については『センチメンタルグラフティ』と『Kanon』、時期的に見て直前の『Kanon』から着想した、ということだろう。ただノリは随分と異なり、こっちは更科修一郎も書いているようにTVの二時間ドラマだ。なんというかギャルゲー特有の感じに欠け、そのぶん良くも悪くも判り易いといえる。交換価値高め。

 「回想の内容を選べる」というのは、当時より違和の声がよく聞かれた。しかし一ヒロイン一物語の原則により、思い出されるべき過去はヒロインの数だけ存在せねばならない。かといって、思い出されぬまま放置される過去があんまり多いのも後味悪い。
 これに対する解決法はいくつかあって、ひとつは『みずいろ』で、これは回想シーンを冒頭に持ってくることによって違和感を緩和した(『みずいろ』の冒頭は、モノクロの画面や語り口からして「過去」ではなく「回想」であることが明らか)。
 回想の中身を選択できる、というのは解釈次第では『ONE』がそうなるだろう。学園の日常が「永遠の世界」からの回想である、という解釈があったね。これは、乱暴な物言いをすれば、現在形で語られる過去ならば、その中に現在形での選択肢があらわれてもおかしくない、ということだ。むろん『ONE』の学園日常がそもそも「過去」や「回想」と一意的に定義されているわけでもない、というのが先に来るわけだが。

 こうした世界を実体論的に解釈しようとすると、どの過去を選択するかによって、見分けがつかないほど似ている「現在」が「実はどの世界だったか」ということが明らかになる、という多世界解釈?にならざるを得ないだろう。



7月6日

 これはどんなサイトであれ、閉鎖するのはひどい話だと思う。責められることではないけどひどいっ(畑亜貴「誰よりも何よりも」)って歌があってね。責められることでは無論ない。

《……僕は閉鎖というのは人がウェブで犯し得る最大の罪悪だと思っています。確かに人にはそれぞれ事情や言い分があるだろうし、万物流転の理に従って始まったものはいつか終わりが訪れもしようし、それを言やあ僕だってこのページをいつかはやめるという前提でやっている訳だけど、それにしても閉鎖は困る。……
 ……
「今存在することが当たり前であるもの」とは、或る存在者に関して「過去から現在に亘って存在してきたのだから未来においても存在する見込みが強い」という意味ではなくて、存在者は全て潜在性として時間的な厚みの中で存在しているということだ。なぜなら存在者が存在するためには一般者(原形式)の自己規定による囲い込み(指し示し)が先行する必要があるが、この時自己言及のパラドクスが不可避となる。それでも存在者が同一性を保って存在するならば、判断の或る部分を吊り下げてこのパラドクスを隠蔽(←我ながらまずい言い方)する必要があり、この吊り下げられた部分、つまり現存する存在者から排されつつ共存する潜在性は過去及び未来の名のもとに分配されるからだ。人が変化と呼ぶものは大抵様態の水準におけるそれであり要は表象だが、存在者の消滅は自己同一性の解体という質的に全く異なった事態なのだ――みたいな事を、かつて『ONE』という風景の中で数ヶ月を過ごしながら僕は考えていたのだけれど、要するに日常性の喪失と存在の消滅が等価(どっちが原因とか結果とかではなくまさに等価)だというのは、僕には極めて論理的で明快な事実に思えるのですよ。閉鎖が困るというのもそういう事です。》(astazapote、00/10/09)

 例えばアンリンクフリーという言葉を知った。日記の日付と一緒にそこのアンカーのURLを記したり、htmlファイルごとにいちいち文責とメールアドレスを明記したりするような作法は見習いたいと思ったけれど思っただけだった。信頼とは無条件の絶対的な信頼であり、救いとは救われる資格を問い選別するようなものではないはずだと思う。僕がそんなことを言い出したらきっとしのぶさんのせいです。パパゲーノの話が印象に残っています。




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