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3月30日(金)

 咳は止まらず。痛い。喉が。時々内蔵とか吐き出しそうな気になるし。
 カフカ「流刑地にて」読む。面白い。なんか「キノの旅」にありそうな感じ。逆か。


3月28日(水)

 せきが止まりません。心臓がいたんだり指がはれたりはしませんが。

 病気のときに煙草を吸うとうまくない。このことからも、煙草が人体に害を与えることがわかる。
 病気のときに音楽を聴くと頭が痛い。このことからも、音楽が人体に害を与えることがわかる。

 休める日なので休む。いいかげん治れってば。ダンドーバツイチ((c)やざわさん)も読めねえし。


3月27日(火)

 春になると色々元気になりますよね。風邪とか鬱の虫とか。なんで人間は元気にならないんでしょ。


3月26日(月)

 あうーイブちゃんに羽根がー。ぱたぱた。ところでイブなのかイヴなのか週によってまちまちなのですが。
 まさかジャンプで「泣き虫サクラ」というフレーズを目にしようとは。

 ひきつづき風邪。熱の次は咳。これが意外と応える。眠れない。


3月25日(日)

 切通理作「怪獣使いと少年」読了。
 金城哲夫の故郷喪失者としてのメランコリー、佐々木守の傍観者的な距離感、上原正三の「鬼」として見られる視線を引き受け内面化し怨念と化す力学、そして市川森一のキリスト教的な苛烈な内面性・観念性に圧倒される。この本にはストーリーがあって、救いも逃げ場所も周囲とのつながりも徐々にどこにもない、ということが徐々に徹底されていく風がある。
 ウルトラマンはどうにも孤独だ。僚友にも、家族にも、守るべき子供たちにも理解されない。ほとんど麻枝准の世界である。
 しばしば彼にしか見えない敵と戦うことになり、彼を理解する者は存在しない。時には精神の正常さを疑われる、時には裏切りとみなされる。自らの正しさを信ずることさえ許されず、次から次へと根拠を奪われてゆく。

 「優しさを失わないでくれ。たとえ、その気持ちが何百回裏切られようと」

 子供たちにかばわれる無抵抗な宇宙人を殺さなければならなかった男の、それが最後の言葉だった。何百回裏切られようと! 何を言われていたのか、あのころはまるきりわからなかった。

 現実には隠蔽されているものを、あるいは眼にすることのできる現実よりはるかに強いなにものかを見せてくれる。三角形の第四辺氏の法月綸太郎についての文章を思い出した。

   80年代までの批評的達成をかんがえれば、作家の内面と作品と受け手を連続して語る筆者の態度はほとんど小学生の感想文レヴェルにともすれば見えるのだが(浅田彰のいうように笠井潔と竹田青嗣と加藤典洋が中学生の文学青年レベルだとすれば)、そそれでもWeb上に出回ってるものとは、足の使い方も参照される映像作品の質・量も比べ物にならない。ってあたりまえか。まじめに調べなきゃあかんよなあ、とわりとなさけない感想を抱いたり。  


3月24日(土)

 風邪。熱。一日中寝て過ごす。こんなときこそONEの長森シナリオでもやるべきかと思ったが、思っただけ。

 頭も心もめいっぱい、ってのはいいフレーズだ。知恵熱ってのは萌えるかもしれない。


3月23日(金)

 落としてきた「恋愛CHU!」主題歌無限リピート中。素晴らしい。全く以て。

 あたしの心あげる リボンをかけて 君の心ください

 ああ、等価交換なわけね。人間は交換するの好きだからね。好意とか悪意とかを交換することそれ自体が目的。としか思えないことが、いろいろあるから。横山潤さんが昔書いてらしたような。

 風邪。38度。こんなときに限って休むわけには行かなかったりする。


3月22日(木)

 ガンパレの小説とバカのための読書術と牧野信一を回収。かわりに、かどうかは知らないが某氏から保坂和志「世界を肯定する哲学」、BT「ESCM」、ROBERT MILES「DREAMLAND」、水森しずく「嫌いにならないでね」を貸し付けられる。


3月21日(水)

 午前3時までからふね屋でウパーと話す。ウパーとは北京原人語で「大切な人」という意味である。友人、恋人、家族、みなウパーの一語にて表せられる。

 なぜかイデオン接触篇を見て寝る。やはりひどい。それとも、発動篇の別物ぶりを讃えるべきだろうか。

 ミンキーモモ「旅立ちの駅」。良い。なにより変だ。それにしても、ようこそようこといい、どうして首藤剛志の駅員は変なのだろうか。
ところで北原京人ってペンネームは 喫茶店で長話とか、カラオケ言ったり酒飲んだり。
 


3月20日(火)

 三日ほど京都に行ってきます。特に何をするとでもなく。


3月19日(月)

 SenseOffパーフェクトドラマを聴きおわって、なんとなくOP「sacred words」の歌詞を読み返しているうちに気付いた。ああ、つまり1番を直哉が、2番を成瀬が歌ってるのか。
 今更ですかひょっとして。

 一応、エヴェレット物心平行論にリンクしとこう。

 どうでもいいけど、ゲームの成瀬シナリオが終わるちょっと前までは、中島敦「木乃伊」みたいな話かと思ってました。外れてよかった。

 時間を逆行した転生、ってのは昔からあるネタなのか。


3月18日(日)

 ブックオフに似た古本屋で「現代の文学16 小島信夫」(講談社)を発見。「馬」が入ってるやつ。100円。

   村上春樹「若い読者のための短編小説案内」(文藝春秋社)の「馬」論を再読。
 これを「いい話」としてとらえる(感じる)あたり村上春樹はただものではない。当たり前か。

 以前、村上春樹の「馬」論をかなりONEっぽく感じたのだが、それは村上春樹のせいだったらしい。

 切通理作「怪獣使いと少年」も100円だったので買う。サブタイトルは「ウルトラマンの作家たち」で、金城哲夫・佐々木守・上原正三・市川森一の四人の脚本家についての本である。
 あれらの脚本を書いていたとき、かれらは20代だった。そんなことに愕然としたり。

 あ、帯の推薦文、竹田青嗣だ。なくしたときのために書き写しておく。

「リアルな現実から隔離されたまま、「怪獣映画」に夢中になって成育したオタクの世代。ここには興味深いパラドクスがある。「怪獣映画」の作り手たちはいわゆる戦後世代の「大人」たちであり、この「大人」たちが現実から負った深い傷の痕跡を、新しい世代は少年期の夢の世界像として受け入れたのだ。それは彼らのうちにどのような「夢」と「現実」を育んでいたのか。この本は、「戦後社会」や、「高度消費者会」といった社会像から疎外され、夢の怪獣たちとひそかにどうかしていた世代によるはじめてのマニフェストである。その声は、現代社会の新しい深層意識に手を触れかけている。」


3月17日(土)

 カフカ生原稿からのはじめての翻訳・評論より「訴訟」(「審判」)。訳されているのは最初と最後のみ。途中で投げ出すよりは飛ばして最後だけでも読んでくれ頼むから! ということらしい。別に問題なしだそうで。

 前説として過去のカフカ解釈を批判してるのだが(ソンタグ「反解釈」みたく解釈行為そのものを)、なんかONEをめぐる言説と被るね。色々と。

 おそらく現在もっとも「深層の意味」の座を占めているのは「受け手の欲望」ではないかと。作品を深遠な哲学なり作家の心理になりに帰すのも、受け手のニーズの満たしに帰すのも、作品論的には同じようなものだ、と思うのだけれど。


3月16日(金)

 いや、あれはあなたのことじゃなくて自分のことを言ってたんです。と言う必要があるのかどうかわからないけど、言った方がいいかな? それとも余計かな? とか悩み出すとわりと止まらない。そんな経験はありますか?
 僕はよくある。思うに、ある対象(この場合は「自分の行動」ね)について色々と考えている場合、「自分がその対象について考えている、ということ」はあんまりにも自明です。そして人は、あたりまえのことはつい書き忘れる。初歩的なミスですが、僕はけっこうやる。いきなり「ところで僕は今キーボードを打ってるのですが」とはわざわざ書かない、そのくらい意識に上らないわけで。
 考えがまとまったとき、そのときの自分がいる地点は「結論」です。ところが、いきなり結論を呈示しても他人には何のことだかわからない。他人に向けて書くためには、自分から見てどうでもいいくらい遠いところとか、今の自分には、あたりまえすぎて忘れるようなこととか、そういった点こそを忘れないようにしなけれあなりません。僕はよく忘れます。
 まあ、このテのことは、自分が気にしてるほど他人は気にしていないのが常ですが。あと実は、言葉のゆきちがいなんてそんなに致命的ではありません。多少の言葉の不備ではどうにもならないくらい、人間ってのは他人に見透かされるものだと思う。Web日記の上でさえ。そうでないなら、それまでずっと言葉を間違って使い続けていたのであり、いまさらちょっとやそっとでは悩むに値しない。
 埒もない。


3月15日(木)

 平沢進「ハルディン・ホテル」を延々リピート。たまに「金星」。

 今木は近年音楽というものをあまり聴かなくなって(単体では)しまっていたので、ああ、こんなときに音楽ってのは聴きたくなるんだなあ、となんとなくしみじみ。いや音楽ってのは今木はよくわかんないので、ヒラサワの声が聴きたいとか。まあ、悪くない気分だ。
 すでに聴いても何も受け取らないほど聴き飽きた曲が聴きたくなる時は、ってことですが。鑑賞とは無縁の行為として。

   平沢進はデトネイター・オーガンで知りました。


3月14日(水)

 漱石「坑夫」。

 「人間のうちで纏ったものは身体だけである。身体が纏ってるもんだから、心も同様に片づいたものだと思って、昨日と今日とまるで反対の事をしながらも、やはりもとの通りの自分だと平気で済ましているものがだいぶある。のみならずいったん責任問題が持ち上がって、自分の反覆を詰られた時ですら、いや私の心は記憶があるばかりで、実はばらばらなんですからと答えるものがないのはなぜだろう。こう云う矛盾をしばしば経験した自分ですら、無理と思いながらも、いささか責任を感ずるようだ。して見ると人間はなかなか重宝に社会の犠牲になるように出来上ったものだ。」

 これが文学作品である以上、ここに展開されているのは無性格論といったものではなく、自己の同一性と連続性と何より「いまここにいる」という実感がすでに失われている心的状態であるのは言うまでもない。のかどうかは知らないけど。
 「人間はなかなか重宝に社会の犠牲になるように出来上ったものだ」というフレーズに感心した覚えがある。
 人格ってのは内面的同一性よりは社会的(倫理的)要請の問題である、ってのはそういう感じ。

 ついでに言えば「キャラが立っているかどうか」ってのは受け手の要請(欲望)でしかないわけで。俺たちはまず、きちんと一貫したキャラに好感を抱きがちだ。つまりそれが「いい奴」の定義だから。どんなキャラか、以前に、キャラが立ってることで好感デヴァイスが入る。

 キャラを独立した自律的な統一的連続体としてとらえる、って発想が、あまり馴染めない。他人を完全に理解できない程度には、キャラも理解できなくていい。他人を理解できない程度には作品も理解できなくてかまわない。まあ、いろいろ考えるのは楽しいのでやるわけですが、自分の楽しみのためにやってるわけで。わからなくても好きにはなれますし。

 「キャラが立ってない」ってのは「このキャラは社会的に正しくない」ってことなんじゃないかと、最近は考えなくもないです。  電子図書館にリンクを張っておくのがお約束か。


3月13日(火)

◆三和土さん、

 たまに、期せずして反応めいたことを書いてしまうことがある。逆もある。日記や掲示板で似たような経験をした人はけっこういるだろう。SenseOffとAIRに同じ名のキャラが登場するのに比べれば、たいした偶然とはいえないが、しかし。
 たしかに自分の思考が周囲にダダ漏れになってるような気がするね。自分が他人の考えを読んだ覚えが(比喩的にさえ)ない以上、残る答はそれしかない。なるほど。
 昨日のは同じ日付のアレへの反応ではありません、ということで。どうぞお気になさらぬよう。いや、読み返してちょっと偉そうだったので。
 いっそ消すか反応として書き直すべきなんですが。こんなときは。

 内田氏のサイトからそれっぽいのを探し出して昨日の日記にリンクを付け加える。
 ほかにも、アメリカ人が見知らぬ人間にフレンドリーな笑顔を向けるのは「私は危険のない人物ですよ」といちいち示す必要があるから、とかそんな話をどっかで読んだ気が。
 岸田秀「性格について」(ものぐさ精神分析のどれかに入ってたと思う)では、「他人の行動を期待通りに操りたいため、人間は性格なる概念をひねりだした」という感じだったか。これをひっくり返してみた。自分を他者の統御可能な存在としてあけわたすために、人格という概念がある、とか。だから人格(自分は何者か)というのはむしろ実践と倫理の問題である、ということ。自身の人格的統一というのがしばしば「他人の期待を裏切りたくない」という情熱(善意)に支えられているわけ。ほんのささいな、なんら実害のない逸脱でさえ「雪でも降るんじゃないか」という不安をひきおこす。

 思考はダダ漏れ。話す言葉はぜんぶ借り物。決まりきった天気予報の言葉とか、他人に不安を与えなくていいんじゃないかとか。そういう方向で。


3月12日(月)

 ああ、遠野さんに首輪……。背高いコ 萌え……
 脳内検索してもP5の藤原綾(169cm)くらいしか出て来ませんが。「どこか所在なげな立ち姿」(なるほど)となると。
 今木はあるキャラに対し「こうしたら、こう反応するはずだ」的なことを考えることがかなり苦手で(無理してやることもあるが)、たとえば「遠野さんに首輪」という題で一日中必死に考えてみたりしていたわけですが、というか本当は1日どころではないのですが、これがいっこうに思い浮かばない。「?」「いや、?じゃなくて……」とか、「……なるほど」(深く納得されてしまった)、とか、本編からそのまま引っぱってくることしかできない。何か人格というものが独立して存在し個々の反応がそれに従って行われる、という発想にどうしてもなじめない。でとりあえず既存のものから引っ張ってくるわけですが。ことばの意味は用法のことでありイギリスには憲法が存在せず従って法とは判例のことでありキャラクターとは個々の反応のことでありましてや他人をなにか一つの統一体として理解するなど何のことやらよくわからないのであり長森だって浩平の思想信条内面事情など理解する必要を認めずただ実際の言動に対してのみコメント/リアクションするではないか。ああ、猫飼ってるからか。
 現実においては、できるだけ相手に予測可能な行動をする、というのはひとつの倫理でしょう。「あいつは何を考えているかわからない」「何をしでかすかわからない」という言葉があります。社会的な人間とは「自分がいかにわかりやすいか」を示し続ける人間のことです。自分がいかに、カンタンに理解でき行動の読める人物、したがって危険のない人物であるかを示す。
 これは「自分は何者であるか」という問題ではない。「自分だったらやりそうなことをする」という約束を暗黙のうちに交わし、それを守る努力を怠らない、ということではないか。
 人格とかその人らしい反応ってのはだから倫理と実践における問題であり認識とか存在とかの問題ではないというか内田樹のサイトのどっかにそんなことが書いてあったような気がしますが別のとこだったかもしれません(後日追記:たぶんここ(1/16))。で遠野さんみたいによくわからない人は社会的に失格なわけですがそのへん萌え。
 で名雪に首輪ってものすごく恐いんですけど。そんなことしたら一生彼女の影におびえて暮らさなければならない気が。差し出した瞬間に。よくわかんないけど。

 平山さんとしのぶさんはAIR美凪篇についての文章をUPしてらっしゃるし、夏町さんとこは矯烙の館だし、まったく、今日はなんて日だ。

 遠野さんシナリオ(みちるシナリオ)はオレの中では普通の、それこそ「いちょうの舞う頃」レベルの「いい話」だと思うのですよ。大作じみた外観を裏切って、ほとんど「ささやか」と評していいくらいの。ささやかな悲劇。ちょっとした奇跡。ありきたりな救済。何も特別なことは起こっていない。それが好ましい。これは比喩なんだけど、なんつうか涙が温かいんですよ。「おしまいの涙」(歪曲王)。
 BADルートは、ほんの一歩でたどりつけるはずだった場所にいけなかった、別にどうともない普通の場所にさえたどりつけなかった、簡単にできたはずなのに駄目だった。だから自分のこと最低だと思って彼女泣くわけでしょ。泣けば泣くほど苦しい。

 あやふやな記憶に頼って書いてますが。


 私の「矯烙の館」についての文章はこのへんとか。これこれは「化石の歌」にからめて。「化石の歌」にはあんまり好意的ではないらしい。たぶんセリユをお持ち帰りできないのでやつあたり。動機ってのはえてしてその程度のものです。

 SenseOffのOPとEDの曲調の落差はすでにして何事かを語っておりそれに比べれば単体での音楽性などどうでもいいんです。僕は音楽を聴くような風流な耳は持ち合わせていない(ラダマンティス)ので。いやたとえばReal Seasonが当時一頭他を抜くシロモノである、というくらいのことは嫌でもわかるわけですが。そりゃ酒の素人でもすごい日本酒のすごさとか嫌でもわかるでしょう。


3月11日(日)

・自分の高橋直樹氏への反応がこういうパターンにはまってる気がしてちょっとアレです。やっぱ誰かが言っておいた方がいいことではあるのかなあ。
 あと内田樹が石橋貴明について「誰もが暗黙のルールとして口にしないことを顕在化させる機能」という評価をしてたので。やっぱ業界のメインの潮流から異質な人ってのはいるべきだしそりゃ。


・ああ、「機械の耳」のことをすっかり忘れていた。あのときあんなものを書く必要はなかったかも。まあいいか、眼福っていってもらえたし。


・思い出した。フェミニズム=マルクス主義といえばフェミニズム=マルクス主義=精神分析ってのがあった。ちなみに後者は18禁。鳥山仁という最近「Renaissance」のシナリオ書いた人の。乱舞界にインタビューが載ってます。興味ある人は古本屋でナポレオン文庫などを探してみるが吉。


3月10日(土)

 新聞によると積雪は29cmでした。

◆爆裂消球

 岡村賢二のサッカーマンガ「GOAL」('87、少年サンデー)には爆裂消球という「消えるシュート」が登場する。その原理は以下のように説明される。
 一枚のコインを用意しよう。まず、白黒に塗り分ける(サッカーボールみたいに)。親指とひとさし指ではさむ。しばらくじっと見る。そして何げなく端を指で弾いて回転させてみたまえ。消えたように見えるはずだ。
 白と黒のコントラストが焼きついた目には、いきなりの回転は消えたようにみえる。
 という説明の信憑性はともかく、「人間の知覚パターンをすりぬける」というタイプの魔球に僕はいたく感動した覚えがある。これに比べれば元祖の消える魔球なんて面白くもなんともない。まあ「消える」というコンセプトの提出は凄いんだけど。

 甲野善紀・養老孟志「古武術の発見」(カッパブックス)では、古武術でいう「速い」動きは、物理的なスピードはあまり関係なく「人間の知覚パターンをすりぬける」動きだと語られている。そのための身体運用としては「身体感覚を組み替える」こと、各所の筋肉の「他方向異速度同時進行」とか、そんな話だったと思う。
 ここで疑問に思うのは、全身の筋肉をぜんぶ意識して「このへんはこう動かそう」という風にやってるのか、ということだ。
 そこで内田樹が登場するわけ。こういうストーリーはもちろん嘘だが、まあそうしないと書けないし。

 短距離のトレーニングについて面白い話を聞いたことがある。短距離の理想的な足運びは、できるだけ足を前に出してひっかくようにする(体重移動しつつ)、というものなのだが、これを実際に実行するにあたっては「常に真下に向かって足を踏み出す」ようにイメージするのが実は適切であるそうだ。足を前に出そうと意識してはいけない。
 イメージするのは「実際の姿」であってはならない。「嘘」でなければならない。嘘を信じている(信じているかのように体を動かしている)者が、もっとも正しく身体を運用しうる。今木はこういうアイロニカルなありかたに非常に萌えるわけですが。

 「どうすべきか」という正しい認識を持っていることと、正しく行為しうること、は別の次元に属する。実際の行為は、つねに自分がしていると思っているのとは違った姿をとる。逆にいえば、嘘しか知らなくても、正しく行為しうる。正しいフォームのなんたるかを知らず、自分がほんとうに「ただ真下に足を置いているだけ」だと信じていようといっこうに差し支えない、といったことがありうるのではないか。

 自分の外部に自分の身体を操る者がいる。自分で自分の体を動かしているのではない。これは現代の常識に照らせばもちろん嘘だ。だが古武術的に「正しい」動きに至るためには、いったんはそこを経由するほかない。かどうかは知らないが初心者はよく言われるそうで。

 ここで危険な類推を試みるなら、「自分の頭で考え」たり、「自分の言葉で語る」といったことを意識的に目指すことへの疑義をさしはさむことも可能だろう。長いセンテンスですね。
 自分の言葉で語ることはほんとうに自分の言葉で語っていることになるのだろうか? 言いたいことを言えば、ほんとうにそう言っていることになるのだろうか?

 あのホラ、元気出してほしい人に「元気出せ」っつーのも芸がないし。なんか元気が出るような話を聞かせたり、とにかく何か別のことを語る。そういう迂回路は誰だってとるでしょう。
 「正しいこと」はむろん正しいわけだから正しいのですが、「正しいことを言うこと」は正しいとは限らない。てかその「正しさ」を実現しえない。勉強しろって言われて勉強する子供はいない。煙草の害を精緻に論証したら、タバコ者はふてくされてもう1本火をつけるでしょう。これは相手が子供であり理性がないからだと述べてもやはりその通りといえばその通りなのですが(そしてそのように罵倒すればますます事態は悪化するばかりですが)、むしろ僕には「正しいことを言うこと」が「言われている正しさ」と無前提に連続する、と信じる無邪気さが耐え難い。
 どうでもいいですがカントは備忘録に「ランペのことは忘れなければならない」と書いたそうです。書いている内容は正しいのですが、やってること間違ってます。たんに正しいこと(言いたいこと)を言うのはこれに似た愚を犯しているような気がしなくもない。それはそうとしてカント萌え。

 たとえば作家は実際には自分のアタマでキャラを生み出しているのであり、すべてはつくりものでしかないわけですが、キャラがどこかに「いる」、という嘘を信じていることが多い。キャラが勝手に動くなんてよく言われるし。もちろんそんなことはありえません。
 だが、そう信じていたほうが、萌やすか萌やされるかという戦場では勝利を呼ぶかもしれない。あたかもそう信じているように振る舞うのでも同じく。
 作り手が「こうやればこう萌える」というふうに意識していると、意識化による切断がいわば受け手に悟られる。「こいつはこういう過去をもったこういう設定のキャラ」と全部アタマで作ってると、なぜか結構バレる。気がする。
 要するに狙っているのがミエミエになり鼻であしらわれる、ようするに受け手にキャラを「見切られる」のは命取りになりえます。まあ、どんな技が来ても受け切るプロレス野郎な受け手もわりと多いのですが。

 で僕が何を書きたいのかというと桜野みねね「ヒーリング・プラネット」の話なんですが。
 主人公の少女はおおむね何も考えてない。人の話聞かない。
 最終回に至ってようやく「思ったことをそのまま伝える」手紙を書こうとします。こっから先はネタバレなので書けなくてどうしようという感じなのですが。
 読んでいて感じるのは、彼女のやることなすことすべてが、何か、明らかに別のことを実現しているということです。なにしろ何も考えてないし。

 「まもって守護月天!」は、「想っていることがいかにそのまま伝わるか」(そしてそれがいかに困難であるか)という描き方だ。そして思うにそこで桜野みねねは絶望したのではないか。何に? なんていうか「伝心」というコンセプトに。想いをそのまま伝えることに。たとえば、相手に幸せになってもらいたいという気持ちと、相手が実際に幸せになれるかどうかは、あらゆる努力にもかかわらずついに本質的に連続できないのではないか、といったふうに。当たり前といえば当たり前の現実ですが、それに真に絶望しうるのはひとつの才能です。まあ、もとから僕の憶測にすぎないわけですが。しかしそれにしても「ヒーリング〜」は読んでて異質です。


 もちろん、「想いをそのままぶつける」という行為が意味をもつ場合もある。しかしそれはつまり、単に想いの内容を情報として伝える、というにとどまらないことをやってしまっているということです。やはり、想いと行為の間には歴然とした次元の違いがある。
 それはそれとしてさとりちゃん萌え。とただ言っただけではやはりあれなのでこんなものを書いてみた。読んでしまった人はごめんなさい。あと読み返したら爆裂消球云々は要らないことに気付いた。


3月9日(金)

 松江も昨日から雪です。雪かきしました。これ30センチくらい積もってねえか?

 KURUKURU'S CATALOGから冬弓舎公式サイトをたどって内田樹の研究室へ。てかここんとこずっと読みふけってる。
 昨日までは日記をちょびちょび読んでた。
 キーワードは「パフォーミング・アートとしての学術論文」「合気道」「能」(このふたつは本人が実際にやってる)「物語」「レヴィナス」「フロイト」「政治」「商売」「嘉納治五郎」。
 そうですね、平山さんとか夏町さんあたりを読み尽くしてどうしよう、という人にはおすすめしなくもないです。とりあえず武道と物語つながりで。

 で今日はSimple man simple dreamを制覇。目次を勝手に作った。いや、それぞれちゃんとタイトルあるんだけど、それとは別に個人的なメモとして。
 適当に興味のある話題を拾って読むが吉。まずは18あたりから読むのがオススメ。僕は10、20あたりから読んだ。あと24はややゴツい。まあ、基本的に頭がそんなに良くない感じ(誉め言葉)で書かれているので、論理力に自信がなくても読める。あるいは徹頭徹尾レトリックなのでロジカルな人には読めない。

 20のネタを割ると、「益体もないこと考えるな」と言わず、「それはすばらしいことなので、どんどん考えましょう」と言うべきだ。そう言われると考える気がなくなる。ゆえに、哲学的な問いは「高尚なんだよ」という嘘が必要である。人を苦しい問いから解放するためには。
 そんな感じです。

 人に優しい嘘を。あらゆるおはなしは嘘である、ということについて。

 武道において理想的な身体運用は「自分を操り人形だと思う」ということであるらしい。はるか上の方の誰かが自分の身体を操っている。そんな風に動くといわゆる無拍子というか「おこり」を消すというかそういうことになる。
 思索においても、自分の外に「完璧な思想家」という嘘を想定し、そこに帰依するように考えていくと、自分のアタマだけで考えるよりもいろいろと得るものがあるそうな。この人は「レヴィナスは完璧である」という「嘘」にもとづいて思索する。レヴィナス先生にとってタルムードがそうであったように。


3月8日(木)

 それはハッピー・レッスンというのでは。6人全員押しかけ義母兼先生。
 ちなみに、血のつながらない母親で先生、を略して「血のつながらない先生」と言うらしい。

 バトロワについては、そこは笑うところというか突っ込みどころではあっても、まともに批判するような対象だなんて誰も思ってないからだと思ってました。


3月6日(火)

 苦情は別に。むしろ面白いし。口を挟むようなことじゃないし。相手に不満があれば別ですが。しいていえば、某氏にはこっちからちょっかい出してるので、それ逆です、とか。まあ、はたから見れば求愛ダンスになりかかってるな(3/16追記:今木の行動が、です。他人の行動を評した言ではありません)、という気は多少。
 しかし、どうも例の反応はよくわからない。

 ありていに言って戸惑ってますが。誰かの意見を聞こうとも思いませんが。


3月5日(月)

◆月のTRAGEDY

 近くにいてもあなたのところへたどりつく道はどこにもない。違う軌道を回り続ける地球と月にとても似ている。そんな歌がありました。たしか「天地無用!」というアニメのエンディングかなんかだったと思う。

 うさぎはみんなのママでした。どうでもいいが、フィオレは私だ。あと衛も。クズ星どもは知らん。あれは、14のガキに依存しきっている情けない男と、彼に花を渡したいがために戻ってきた青年の話です。

 「まもって守護月天!」の主人公の母親は、人助けをしなければ生きていけない人です。もっと人助けするために子供を置いて旅に出ました。だいじょうぶ離れてても思いはとどく。月に向かって祈るの。息子には忘れ去られました。絶望的にまちがってます。名前はサユリといいます。なんだかできすぎのような気がします。

 母=月とかそういう連想から9巻「月が届ける想い」を読んでました。MOON.のことをぼんやりと考えながら。背景に月が出てくるたびにやけに意味深です。それにしても痛い。色々な意味で。

 「弟がさびしがるとは思わなかったのか?」「考えたことなかった」とかそういう会話がなければたぶん読んでない気がします。嘘です。シャオがかわいいからにきまってます。あとキリュウ。

 作品中では、さまざまな想いが過剰にモノローグで語られるのですが、それは一方では、「いかに届かないか」ということがえんえんと描かれる、ということでもあります。
 当初は「月がかならず帰ってくるように」あなたのもとへ帰ってくる、と繰り返し語られます。ですが月は永遠に同じ軌道をさまよい、決して触れることはない距離を保ち続けるものです。で後半はどんどん「距離」が主題となっていくわけです。ちょっと嘘臭い理屈ですが。
 ここではむしろ、月にしろ何にしろ、それをどんなイメージなり概念なりに結合するかは一意的に決定できない、という当たり前のことをいっておく。

 なぜ月なのか、とはMOON.をやった人間が誰しも思うことでしょう。たとえばこれを読めば、月=母であるといってもまあよさそうなのですが、実際のところあまりそうは感じられないのではないか。ほんとうにそうであるなら、月にまつわる描写は、何も知らなくてもなにかしら母性的なものとして感受せられなければならない。包み込みあるいは呑み込むような息苦しさとかそういうの。だが、だがそれを感じさせるのは地下の花畑のほうであったりする。

 月には別の役割が振られているのではないか、と述べることも許されるでしょう。てか本文にあくまで立ち返ろう。

 で2chで読んだことをヒントに述べますが、 「なんに見えるかね?」とまず敵は訊く。郁未は「月」と答える。郁未にとって倒すべき/克服すべき相手として認識されるのが月である。ここで実際に敵が月の姿をしていたかどうか、という議論は不毛であるのはいうまでもない。それがもっともふさわしい姿だと表現上選択された、ということだけで充分です。では本文で語られる月の第一の属性は何か。 それは「見ていることしかできない存在」であるということだ。このモチーフがのちの麻枝准において執拗に反復されることを想起せよ。こうした点を一足飛びに飛ばして、MOON.の月は太母であり呑み込む母であり云々、と述べるのは妥当か。まあそれ言ったらユング自体がすでに話にもならぬオカルトであり精神分析なんてまともに扱ってるのは文学くらいであり精神医学においても主流でもなんでもないだいたい証明も反証も不可能な非科学的なたわごとの体系であり治療効果もあやふやなくせに金ばかり取り、といった話にいくらでもなるわけですが。
 フィオレに銀水晶が「花」に見えたように? だがこれについては作品内のレベルで充分に解決できるし、外在的な体系を借りる必要はない。

 桜野みねねのデビュー作は「マザードール」といって、先日連載終了した「ヒーリング・プラネット」のプロトタイプです。ラストはとってつけたような和解というか「結局は母と子はお互いが好きなんだ」というどうしようもない締めで。おそらくそれは作者も気付いてて、というkとかどうか知りませんが、ヒーリングでは男の子は悪いお母さんのもとに帰って、寂しいままです。
 何も解決しない。何かが克服されたわけでもない。ただ、女の子には自分がどうしたいのかが今は少しだけわかる。何も変えられないけれど、気持ちを伝えたくて手紙を書く。悪くない終わり方です。少年が死に自分が何かを克服だか成長だかするよりはましです。

 素面で書いてますよ。


3月4日(日)

 國暉酒造の酒蔵一般公開に行く。新酒まつりだとか。しぼったその場のまだガス入っててピリピリする酒を飲ませてもらいました。イェイ。しぼったその場の酒というのはつまり、目の前にもろみの圧搾機があり、それに付随したタンクがあり、その中から直接掬ってってことです。ああ、つまり、しぼりたての酒ってのは発酵時のガスが残ってて微炭酸風味。え?日本酒ってしぼるものなんですかって? もろみというものをしぼるんです。しぼりかすが酒粕。詳しくはそのテの本をあたるなりネットで調べるなり。
 國暉酒造のもろみの圧搾方式は3種類。袋取りとふねしぼりとやぶた式連続圧搾機によるもの。「袋取り」は布袋の中のもろみから自然にしたたり落ちる。ふねしぼりは昔ながらの酒槽。最後のは機械で圧力をかける。後になるほどたくさんしぼり取れるが質は落ちる。酒には材料をいかに無駄にするかで味が決まる面があり、たくさんしぼりとるだけならまだしも、融米造りとかいって米をとかしこむようにするときわめて効率的に酒に変換されるのだがひどい味になる。こうなると酒粕も残らない。安い純米はそれだ。
 飲ませてもらったのは機械圧搾した直後のものだったのだが、あまりに鮮烈なうまさだ。これで酒槽とか袋取りとかだったらどうなるのだ。
 長期保存と利用可能性のために致命的に劣化する情報。受け手に届かせるというためだけにどれほどのものが失われることがありうるのか、考えてみるにはいい機会だ。作ってて絶望的にはならないのだろうか? ま、やれることはやってるだろうけど。歴史が違う。
 店頭でこれを再現できているのは「陸奥男山あらばしり」か「しぼったその日の一番酒」くらいであろう。しぼりたて云々という酒はいくらでもあるが。まあ強烈といえば強烈な味わいなのでどっちがいいとは一概にいえないのだが。ということにしておく。
 「なぜ安い酒ができるのか?」というパネルに「このような作り方(融米とか)では、淡麗辛口(薄っぺらくて味気ない)にしかなりません」とあった。かっこいい。

 それにしても「蔵しっく館」というネーミングはどうか。内容的には文句のない施設なのだが。
 先月以降、ちょっと新酒を買い過ぎ。京都行けないかもな。今月は。

 酒粕もらって帰る。なんかこれ、そのへんで売ってるやつと全然味が違うんですけど。


3月3日(土)

 「さよならを教えて」(クラフトワーク)は見つからず。404。10-0。本家掲示板に「日本海側の田舎町にも出回ってる」ってあったのに。島根じゃなあ。パソコンもないもんなあ。
 「デジモンアドベンチャー02 ぼくらのウォーゲーム!」はこの一年では多分いちばん繰り返し見たアニメで、それというのも京都に行くというか帰るたびに誰かが持ってくる。最後に見たときはDVDでインタビューも一緒に見た。もはや「もののけ姫」のとあるシーンで思わず「進化中に攻撃……」と口走ってしまうくらい。例のヤツは六本足で無表情で口から弾撃つ形態が気に入ってます。
 お母さんがいいです。「ダマにならないようにね」。あと猫。気に入ってるセリフは「ぼくらって、いまいちまとまりがありませんものね」。
 キャラのプロポーションとか動きが見てるだけでえれえ気持ちいいので。猫とか。よく見ると枚数そんなに多くなくてパターンの繰り返しなんだけど、むしろいい感じに間が持ってる。
 最初のやつの動きは凄いですけどね。

 でインタビューによると、一本目は「怪獣映画」、二本目は「何か奇跡の要素を入れる」ってのがスポンサー側の要求だったみたいです。ちなみにジェイデッカーは「心」ってのをテーマにしろとスポンサーに言われてたそうです。関係ありませんね。
 で、奇跡については、最初は抵抗あったけど、なんというか飛躍の要素があるのはフィルムにとってよかったんじゃないか、とかそんなことを細田守は語ってました。まあ、理詰めの面白さだけで押していくとちょっとアレかなと僕も言われて思ったり。で、やっぱり奇跡のあとでもう一度、最後のツメは人間の知恵と工夫でなんとかする、とかそのへんキモらしいです。

 わりと議論の余地なく見れば面白い作品だと思うので、あんまり語る必要を感じなかったりしますが。

 さらに「エピクロス哲学」(文庫クセジュ)も404。というかクセジュ自体見当たらないんですが。現在では市内でいちばんソレ系がそろってるはずの本屋に行っても。ちょっと前までは置いてた本屋はあったんですが潰れました。
 いや、オレもクセジュは「現象学」しか買ってないからそんなに文句言える立場ではないんですが。あれはリオタールが書いてるんです。同性同名の別人でなければ。訳者の松浪なんとかというサルトリアンは「メルロ=ポンティの弟子らしいがいったい誰だろう?」ってなコメントを残しています。時代を感じさせますね。どうでもいいですね。

◆はぴど

 「HEAVEN」(にっこり)

 「HAPPY WORLD!」(竹下堅次朗)買って帰る。というか近所の本屋では見当たらなかったのでようやく。略称は関西らしくはんなりと「はぴだ」。わかんない人は「ぱられるはぁもに〜」(シーズウェア)をやってください。好意はあっても善意はない女どもとの大変な日々が素晴らしいゲームです。じゃなくてはぴどの話だ。
 なんというか天使が降ってくるとかそういう話なのだが。神様は幸福と不幸を人間に配分しましたが、どうしても一人だけ、不幸のみを与えられた人間が出て来てしまうそうです。主人公はソレ。で、不幸を中和するために天使といっしょにいなきゃ命にかかわるようなひどいことに。
 この主人公はなんつーかどんなメにあおうがどんな過去を抱えていようが不幸にならないタイプで。強いなあ。自分で自分を不幸にしないタイプ。惚れ。つうかまごうかたなきいいヤツで。だから不幸というのは死ぬようなメに限定されちまうわけですが。精神的にまったく救いも癒しも必要としてないタイプ。だから突然降ってきた天使にも「こいつをどう面倒みよう」というのが真っ先に来る。そのへんが面白い。かも。デフォルトでは可愛いとさえろくに思ってません。裸見て鼻血吹くくらいで。

 むろんエル萌え。天使なので初めて受肉したあと、なんかふらふらしてるんですよ。重力に馴れなくて。まっすぐ歩けない。あと、とりあえず着せたジャージがうしろまえとか、わかってるなあ。応!

 この道具立てで何をやるかといえば、時々イヤなことがあって、時々いいことがあって。普通に幸せで、普通に不幸せで、ただそれだけのこと。これはそういうマンガです。信じないように。

 「ちょびっツ」と違ってこっちはいかにも作者がやりたいことをやっているといった感じの。
 で、エルちゃんの方が幸せそうなんですが。というかコイツを幸せにするために猛くんが頑張ってるわけですが、どっちかってーと。

 はぴどや「ラブひな」が天然であり(編集者は計算してるかもしれませんが)、「ちょびっツ」が計算の産物である、と言ったら若い人に通じなかったことがありまして。年寄り連中はわりと自明げに話してたんですが。
 たとえば「ぴたテン」読んでれば作者の人がコタロー君にしか興味ないのはわかるし、守護月天読んでれば、作者が女の子のキモチにしか興味ないこともわかると思うんですけどね。

 僕は久弥直樹は天然だと思うんだけど。麻枝准は意識的(イコール技巧的ではありませんが)。

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