ギャルゲー日記(仮)

もどる


4月28日(金)

 「スレ違いと暗合」についてかろうじて該当しそうなのは、杏代舎ホームページに間借りしてたころのかもです。ONEの「絆」観について、一方的な思い込みをあえて正さなかったり、言葉が意図とはちがった受け取られ方をしたのがポジティヴに働いたり。というのはTo Heartの智子シナリオに先例があって、とかそんな話を。恥ずかしくてもう他人には見せられないのですが。 >横山さん

 いまやしのぶさんのONEレビューの澪がらみで、一方的な思い込みとかスレ違いとかそういうのがONEのキモじゃないかって話は雪駄さんがしてらしたような。掲示板かなんかで。(またいいかげんな言及をする)

4月27日(木)

 「ふざけるな」云々はどうも感情論で、読み返してみると反応になってない気がする。見当はずれでお気持ちを害されたのだとしたらすみません。>雪駄さん

 わけもわからず苛立って手近な対象にやつあたりするのはもうやめよう。それともそういうのを楽しみにしてますか皆の衆。

4月26日(水)

 あそこからどんな技があるんでしょう? ってそりゃメキシカンローリングクラッチホールドに決まってるじゃありませんか。背骨イッちゃったかのような音は実は腰が鳴っただけで。グキ。
 何のネタかわかんなかったらRattyくんに聞いてください。>中将氏

 中将氏には、「E.G.コンバット」(秋山瑞人・電撃文庫)に眼鏡っ娘出てるぞーってご注進したほうがいいのかしらん。ほわっとしててマイペースであるいみ最強で料理とお茶と電子戦にかけては右に出る者はいない。お約束っちゃあお約束だがそこはそれ書き手次第。
 ついでにペスカトーレなんかPantserくん向けかも。以上私信。
 EGはイカニモ理系の人が喜びそうな設定とワカりやすくお約束で盛り上がる展開(今んとこ)でお薦めです。落ちこぼれ部隊に新任教官と来れば万古不易の黄金パターン。っても実際に読んだことあるのは「黄金の鹿の剣闘士」くらいかも俺。

4月24日(月)

 雪駄さんとこからここの日記のONE評を見る。きわめて身勝手な感想を述べさせてもらうなら、言いたいことを誰かがかわりに手際よく言ってくれたので肩の荷が降りた、といったところ。
 以下引用。

「問題となるのが外傷体験や抑圧された記憶ではなく何よりも「日常」なのであってみれば、続くゲーム本編で描かれる世界をトラウマによる神経症と見るのは明らかに不正確であって、それは寧ろ日常性・自明性の喪失という分裂症的な世界である。すなわち、まずそれまで当たり前だった世界が何らかの出来事(例えば妹の死)によって崩壊した時に、かつて在ったが今は失われたものとして「幸福な日常」という観念が事後的に仮構される(無論それは意識にとっては、先験的に与えられていた「幸福な日常」が何らかの出来事によって喪失したと表象されるだろう)。従って「幸福な日常」は常に過去にしか存在しないのだが、同時にその過去は思い出せば身を切り裂くような辛い記憶でしかない(例えば妹の死)。こうして「日常」はメビウスの輪のように閉じた構造をとり、主体にとってその「幸福」だけが与えられるということは決してない。これが『ONE』における「日常」の構造であって、「永遠の世界」とは恐らく、しばしば言われるような並行世界やインナートリップではなく、このねじれをゲーム前半の「日常」の描写からあくまで地続きで表現するための手段であったと思われる。」
……
「何事も起こらない幸せな日常とは、(略)要するにボケれば突っ込んでもらえる気心の知れた世界ということである。この作品におけるシナリオへのギャグの盛り込みぶりには、プレイヤーを楽しませようというサービス精神と言うには明らかに度が過ぎたちょっと異様なまでのこだわりが窺えるが、それは阿吽の呼吸で交わされる冗談がまさに「幸福な日常」を構成する要素であるからに他ならない。実際、冗談として企画された「くじ引きによる当選者一名様に、意中の彼女に告白する権利を進呈」なる「極悪な催し」にハメられた浩平が、「ずっと前から好きだったんだ…オレと付き合ってくれ!」という何のひねりもない「告白」を口にし、長森がそれを真に受けてしまい突っ込んでくれなかった時、「何事も起こらない日常」は崩壊を始めるだろう。浩平の苛立ちの原因はここにある。
 かくして「何事もなく繰り返される幸せな日常」は失われ、苦痛に満ちた過去の記憶が取って代わる。今や前面に押し出されるのは「幸せな日常」ではなく、それが「悲惨な過去」と裏表にねじれて繋がった構造であり、同時にこのねじれの総体から排除されている「主体」は作品内に居場所を失う。ゲームの存続すら危うくしかねないこの異常な事態は、従って浩平の存在がこの世界から消滅するというおよそ非現実的な描写に行き着く他ないのだが、しかしプレイヤーはそれを非現実的と感じるどころか、寧ろその時、何かしらひどく現実的なものを垣間見てしまう。一度も描かれることのないまま作品に現実感を与えてしまったこの途方もない不在、それが「永遠の世界」と呼ばれるものであることは、最早や言うまでもない。」

 一時期「どこかにこういうのがあるに違いない」と思って何晩も検索かけて結局みつからずけっこう絶望した覚えがあったりするのだが、救われました。  

4月23日(日)

◆E.G.コンバット、雪風など

 E.G.コンバット2nd&3rdと雪風とグッドラックをまとめて再読。わかりやすいパターンかもしれない。

 アシモフに「お気に召すことうけあい」(ハヤカワ文庫『ロボットの時代』)という短編がある。傍目にはロボットが人間に恋をする話----その実「人間を傷つけないために」人間に恋をしたふりをしてみせるロボットの話だ。第一条。つまりそのロボットは、とあるご夫人の自尊心を傷付けないために、彼女には冷たい機械さえも狂わせる魅力があるのだ、と思わせようとした。
 ここで当然、次のように考えることができる。もし人間がロボットを、独立した人格を持った対等な他者として見なすことがあったとしたら、またそのようにあってほしいと願っ(ているとロボットに知られ)たとしたら、ロボットはおそらく「人間と対等な関係」を演じてみせるだろう。人間の、「自分は奴隷の主人ではない」というプライドを満たすために。
 無垢で従順すぎるマルチとの関係は居心地が悪いかもしれないけど、じゃあ反抗や自己主張するロボットの方がいいかといわれるとなかなかに困る。そのように「述べる」のは、よりいっそう身勝手で、しかも自分の身勝手さに無自覚であるとしかおもえない。まあ、そう「感じる」のは仕方ないとしても。

 ありていにいって「人間と流体脊髄は対等」なんてのは欺瞞だし、よくて人間の側の希望にそれこそ従順なだけだ。ほんとうに対等だったら、人間の希望に反して人間のために自己犠牲を行う権利、人間を不快にさせてまで従順である権利、人間を奴隷の主人として精神的に台無しにする権利、といったものも認めなければならないわけだ。

 ただ秋山瑞人はわりと唯物論的で、つまりどんな主張も合言葉も呼びかけはしない。ようするに、特定の立場や心情に感情移入することによって理解しうる作家ではない。人間や犬や猫やロボットがどのように「ある」のかを描写するだけで、そこにどんな「あるべき」もない。たとえそれが「悲しいこと」だとしても、それを解決することも取り除くこともできないし、また特定の(人為的な)起源をもつとしても、いったんそうなってしまったからには引き返せないので、今更「そうあるべきではなかった」ともいいはしない。「鉄コミュニケイション」においても、人間と犬それぞれの言い分をたんに対置させるのみである。こうした資質を僕は非常に好ましく思う。

4月21日(金)

 愛情が昇華したんがオマージュや。ただのパロディと一緒にせんといて。(「こみっくパーティー」)

 おまえたちの真実は口から出れば偽りに変わり、おまえたちの善意は手に伝われば悪事をなす。(オネアミスの翼)

 自分の善意や誠意が伝わらないことで人はしばしば嘆くしときになにか不当なことのように言ったりする(こっちは善意にもとづいて正しいことを言っているのに……ってやつだ)。だがこれは逆に言いかえられるべきだ。人間は虚偽やごまかしを語りながらも自分の真心や誠意を信じることもできるし、わざわいと害をなしながらも自分の善意は信じることができる、といった。パロディを描きながらそれをオマージュだと信じることもできるし、ゲーム評論のたぐいなら、無理解と矮小化にみちた評を書きながら、作品を積極的に評価していると信じることもできる。

 だからシロツグは祈るしかない。由宇は内面的な確信だの実感だの愛情だのを楯にとる。

 実家に帰って「ゲド戦記」を読んだらなんだか猛烈に苛立ってしまった。あんたが内面的にどう思おうが何を決断しようが、そんなことをさも重要そうに語るのはやめてくれ、と思う。いっぽう、以前読んで失望したエヴスリンの「トロイア戦争物語」(「イーリアス」読む根性はない)はえらく楽しく読めた。

4月20日(木)

◆猫の地球儀

 秋山瑞人『猫の地球儀 幽の章』読了。読んでてやるせなくて、ただ悲しくて、結構どうしようもなくなってしまったのでござるよ。

 われわれは夢というと、実現するとかしないとか、あるいは夢を持つとか、そんな風な言い方をしますが、むろんここでいわれてる夢ってのは違う。夢によって生き夢とともにあるという猫の条件は、それを取り除くことも解決することもできないということです。それは主体的に所有され(彼方に)目指される「夢」ではなく、つねにすでにある不可避の出来事なわけです。それはもはや善悪を問えないのですが(自然現象の善悪が問えないように)、やはり悲しいことではあるわけです(時が流れるのが悲しいように)。

 あとはそう、この本のストーリーの背後に主体は隠れていないわけです。スカイウォーカーも大集会の坊主もスパイラルダイバーも、彼らの論理が物語を構成するような主体ではありません。誰もが出来事の中にいるにすぎない。何か統一的なテーマなり主張なりが引き出せるようなものではないわけです。ただここで「自分で考え、自分で決めろ」と言ってしまってはまるでわかっていないことになる。そうやって考えたり決定したり(そして行為し結果がある)することもやはり出来事の内部にある、むしろそういうことだと思います。

4月19日(水)

◆Rainy Blue

 蒼依が動くんじゃよー。あんたらがいると蒼依が動かんのじゃよー喋らんのじゃよーだからオレサマを蒼依と二人っきりにさせるのじゃよー、とそればかり念じてプレイ中である。ちなみにまだ一度もED見てない。人間キャラと話しててもいまいち楽しさ足りないのですぐ挫折する。


もどる