ギャルゲー日記(仮)

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6月18日(日)

 その分類(6/18)ナイス。

6月17日(土)

 「殺竜事件」読了。水晶のピラミッド? あと解決篇のアタマは伊集院大介かと思った。
 なんか痛々しいなあ……。

 あと電撃hp買う。秋山瑞人「イリヤの空、UFOの夏 遭遇」。秋山瑞人が普通の電撃系(古橋秀之『タツモリ家の食卓』のあとがきを参照)書いてるよー。萌えー。あんまりらしくないですね。でUFOで夏でなぞの転校生ですか。ぱっと見現代(あるいはちょっと昔)日本のようで、さりげなくシェルターだの半島との戦争だのといったファクターが説明抜きに普通に出てくるのがよいです。しかし挿し絵のセンスがひどい。
 円山夢久がスチーブンスン『さらわれたデービッド』を薦めてた。たしかに面白かった記憶はある。そんなわけで引っ張り出す。こんな時だけは実家ってのは便利だ。

6月15日(木)

 ブリ大根の作り方を教わってしまった。落とし蓋ってそういう意味があったのか。
 「ぱらパラ」はディテールがとにかく良い、というお話。使い回しテキストに埋もれてるので発掘する必要がある、というのが難点だが。というか発掘作業が楽しくなって来ている。
 言ってはなんだが、使い回しの文章をスキップし続けるのだって、たとえばKanonの序盤に比べれば忍耐というほどのものを要しない。同じ文章を読まされた方がましな場合というのはある。まあ「ぱらパラ」は描写範囲が狭すぎるとか、言いたいことはいくらでもあるのだが。与えられるもので満足しないと幸せになれないのである。

6月14日(水)

 「ぱらパラ」中。林檎〜。
 わがままで短気な幼なじみの世話を焼くのが楽しくてしょうがない。わがまま聞いたり愚痴聞いたり。性格と行動パターンを読み切った上で対応したり。通常とは逆パターンですか。「しょうがないなあ、浩之ちゃんは」ってのをこっちがやれるんですよ。
 ほら好きな相手のために苦労するヨロコビってあるじゃん。迷惑をかけられる特権(森岡浩之『星界の紋章』ハヤカワ文庫)とか。ギャルゲーにおいてはこうした愉しみはヒロインに独占されていた。だがついにプレイヤー並びに男性諸氏の手に解放されるときがきたのですよ。
 むろんヒロインの悩みを解く役目というのはいくらでもあった。だが二つの点で不十分だったと言わざるを得ない。ひとつには、男性の側が自然体から一歩も出ずおよそ労苦と呼ぶに値しなかったこと。もうひとつは、語るに足る悩みしかあらわれず、したがってそれを支払うのがほとんど自明に正しいと思えるような労苦しかあらわれないこと。「自分がそうしたいからそうする」という気分のためには、些細などうでもいいことのために苦労することがかえって必要なのだ。しかしだからといって弁当を作ってあげたりするわけにもいかないのがオトコの辛いところで(「デアボリカ」のアズライトのような例もあるが)、まあ毎朝起こしに行ったりするところだけは「久遠の絆」をいかな僕とて認めざるを得ないのである。
 健気で可愛くていい子に一方的に好かれるばかりのギャルゲー界に「好きになる」とはどういうことかと問いかける野心作。これでゲームデザイン/システムに足を引っ張られさえしなきゃねえ。まあVNと思わなければどうということはないのだが。WHITE ALBUMとか東京九龍とか、あのへんに近い。

6月12日(月)

 RainyBlue、蒼依ED。
 真黄とおまけシナリオだけで満足しておけば幸せだったかも。つまり、それだけでRainyBlueには好意的になれるわけですが。

 どうも前作SilverMoonの「ピアノ」といい今回の「絵」といい、スポットが当たるほどぎごちない気が。真琴シナリオのピアノ弾くシーンの入れ方なんかもうどうしようもないと思うんだけど。巴シナリオのは凄く自然でいい。
 ついでに言ってしまうと真琴シナリオ(と言うとKanonと紛らわしいですな)ってのはどうも退屈だ。眼鏡友の会/E.Cさんの持ち味は「流れ」ではなく「その場その場で足を止めて打ち合う」ことだと思っている。ヒロインになり切って書くタイプは他にもいるが、たとえば久弥直樹ならキャラを自分にひきつけてしまうか、単純な同化を行ってしまうのだが(それゆえクライマックスはただヒロインの「過去の告白」というモノローグ形態をとる)、この書き手のばあいはあくまで自分と違った存在としてである。だから主人公の言葉を面と向かって否定するような、あるいは定められた方向性を感じさせないダイアローグが可能になる。えらく体力使いそうな書き方してるなー、といつも思う。こっちも手を抜いて付き合ってられないのである。
 RainyBlueの主人公についても、そのような状況に投げ込まれた人間が起こしそうな心理反応をほとんど猟奇的なしつこさでその場その場の再現を行っているようで、何か大局的な流れだとか俯瞰する作者の視線をまるで感じさせない。これは凄いことなのだが、まあ、単なるしつこいウジウジ(無目的なのだから当然そういうことになる)と区別がつかないし、意図不明どころか不在の、単にそこに強度を持って存在することのみを目指す表現であるので、こうした純然たる表現物に不馴れな人間には勘違いされてしか受け取られまい。
 ただ、良くも悪くも「一生懸命なり切っている」という感じなので、緊張が切れるといくらか破綻するだろうし、空回り(日吉亮とか)も起こすといった。
 あと、本当に可能だと書き手にリアルに信じられるようにしか描き得ないので、それが生み出せなかったばあいはともすれば性急で作為的な手つきが露呈してしまうといったところ。
 いっそ立ち直れないまま終わってもいいじゃん、と思うけどさ。Memories Offのみなもシナリオなんてそうよ。

 R.A.Nのページの「ご意見」の、 「ピアノのシーンは別に不自然な形で他のシナリオに付けたつもりは無いですし、何故かあの展開が自然に出て文章を書いた・・・という感触がありました。
やよいや、巴が自然に亮にピアノを弾かせたっていう感じでしょうか?」
 というコメントを読んで非常に納得したおぼえがあることを最後に付け加えておく。

6月11日(日)

 RainyBlue、ましろED。うう。
 足りぬ。

6月10日(土)

 RainyBlue、碧ED。うがー。
 会話は楽しゅうございました。

6月9日(金)

 BluelightMagic。というのはピュアガ98頁に載ってるキワモノというかいかにもダメダメな(好意表現)ゲームなのですが、ユキですか? ええユキですとも。もう表情とたたずまいと髪型とアクセサリー見ただけでロボ系な。いかにも人間的な深みとかを欠いた(まあ全員そうなのだが中でもひときわ)表情、ですかね。なんで説明読まなくてもそういう設定だってのが伝わるかってのは。あと青い髪ってのはキリコ・キュービィの昔よりそういう「人間じゃない」キャラのひとつの指標になっているのでは、とおっしゃったのは水玉先生ですが。
 しかし記事読んでみたら出るわ出るわ心なごむ設定がざーくざくと。いきなり従姉妹の三姉妹のところに居候するところから始まるのであるらしいのだが、その面子たるや、ツインテール/「お兄ちゃん」/必殺技は助走をつけて体重を乗せたダイビングヘッドバット、年上で世話好き/ボケ子さん/特技は行き先不明の突発型テレポート、そして当然のように主人公とケンカしてばっかりの同い年だ。たまに「長女」は「母親」になったりすしますね(ファーストkiss物語、ぱらパラ)。あとはまあ世界征服をめざす貧乏娘(六畳一間/パンの耳で生活/夢は世界征服してハンバーグをお腹一杯食べること)がいたり謎の組織があったりとか、髪型は茜、色は琴音、メガネ、いじめられっこ、アルビノ(おい)だとかいったイカニモなつまり構造から細部まで全部知っているようなそういう代物としてまたアイデンテファイしやすい特殊性により共同体への帰属意識にほかならない快感を与えてくれるでしょう。僕は安心したいのです。

6月3日(土)

 RainyBlue。
 1stプレイ、真黄BAD。つっても別に充分幸せなんだがなあ。で、やり直して真黄ED。
 少し泣く。ラストでは声をあげて笑う。しかしなんつーか、社会的だなあこれ。
 蒼依にグサッと来ること言われたり真黄に追い詰められたりとなかなか楽しかった。
 個人的に眼鏡友の会/E.Cさんの魅力ってのは、もう逃げられん観念しろ足を止めて打ち合え、みたいなところかのう。普通もうちょっと流して馴れ合ってダンス踊ってしまうのだが。要するにテンポとかリズムの欠如、なんだけど、かえって生々しいっちゅうか。
 ほんとうに一言一言その場で考え考え喋っているような(書いているような)、そういう実感。これは「こなれてない」って言い方もできるんだけど、得難い感触だと思う。
 音声はOFFにしてたんですが(いつもそうなんだけど)、音読するペースで読まないとまるきり入って来ないのな。というか実際に口の中で喋りながらプレイ。読みにくさの功績ってのはあると思う。

 個人的には、すんなりと馴染むような言葉にはかえって作為を感じる、と言っておこう。負荷や抵抗感が少ないものはすでにして作為の存在を意識せしめるに充分である。

6月2日(金)

 村上春樹『若い読者のための短編小説案内』(文藝春秋社)読了。
 小島信夫の「馬」についての個所がもろ「ONE」してる、というタレコミがあったので手を出した。「馬」ってのはONEに劣らず変な話らしい。不可解なガジェットを用いた変な話で、なおかつ癒しと赦しの物語らしい。しかしまた小島信夫である。

6月1日(木)

 江藤淳『成熟と喪失』(講談社文藝文庫)読了。というのは嘘で途中でやめた。小島信夫を論じているあたりがものすごく面白かった。遠藤周作のあたりから、なんつうかなまめかしさが減ってくというか、観念的に裁断する風が強くなる。吉行淳之介を論じる段になるともう駄目で読んでられない。
 まあ世間的にも小島信夫「抱擁家族」を論じた段ばかり話題になるようなので、そういうもんなんだろう。
 で例のごとくONEなわけだ。ここで「「神」(他人)の視線」と呼ぶかわりに「自然な自明性」と呼んでもいい。おのれの役割をおのれの意図的な努力による実現でよってのみ支えなければならないため、彼はいわば神のごとく、無限にヒロインに対し責任を感じ(あるいは妹への罪責感。「ぼくは、いい兄でありつづけたかった」)無限に救わなければならないかのようである。
 まあ、なんとなく立ち読みしてて87ページあたりからの議論が目に入ったから買ったわけだが。


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