ギャルゲー日記(仮)

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9月27日(水)

 AIR話。ネタバレ注意。
 なんで麻枝氏がオレん中で宇宙人扱いなのかとか、そんな話。

 なんつーか「これは人間のための物語じゃないな」というか、そういうのが第一印象としてありました。人間の側からスッと高みにカメラが引いてしまう。「わが子よ……」って語ってるのが誰だったのか明らかになったりするあたりから。で、そこから「さようなら」になる。よく憶えてないんですけどね。激情にかられてアンインストールしてデーブデータ抹消しちまったし。うむ、まあ、色々とあったのだ。

 比較するとたとえば「銀色」ってのは人間のオモイとか願いとか人間模様とか、結局はそういうもののための作品であると思うわけです。よくわかんないけど。

 
 最後の子供二人が(作品内設定的に)何者かとかそういうのには興味がないし、何よりも直接に示されていることばの次元からはじめるべきだ。
 彼らには過酷な日々を。そして僕たちには始まりを。さようなら。
 その言葉がすなわちあの二人の子供によって示されているもののうち、もっとも確かなものだろう。
 あらかじめ別れを告げられていた物語。
 示されるのが、それまでのすべての物語とドラマへの別れである、ということ。それまで描かれていたのが何者であろうとも(たとえば「家族の絆」というテーマだったとしても)、それは別れを告げられる/告げられていた物語の内部のできごとにすぎない、ということ。
 こうなってくると、あの執拗さも一種の悪意に見えてくる。

 怒る方がまだ話はわかるというものだ。地上の人間としては、あんなものを評価したり肯定したりする理由はどこにもない。地を這う蛇には空飛ぶ鳥の心はわからない。とかなんとか。

 いったいそれに別れを告げてどうしようというのだ? どこへ行こうというのだ? 読者は見送る側に立つことは形式上許されない。別れはこちらがわから告げさせられるのである。
 あと、「悲劇を繰り返さない」などという人間的な決意とは無縁だろうし。

 まあ、わかんないし、わかるべきことともあまり思わないのだけれど。
 僕の覚えている限り、麻枝氏が最初に言ったのは「次は自分のやりたい世界観をやる」ということだったと思う。何のインタビューでしたっけ。
 世界観といっても、(通常誤って用いられているような)「設定」という意味だけではなかろう。世界とはどのようなものか、というひとつの(純化された)認識であろうかと。このへんは作品の感触から遡行的に考えてますが。
 そして認識である以上は、「何が言いたいのか」(何を主張しているのか)と問うことはできないわけです。

 「認識」を語る作品形式としては、たとえば悲劇という劇形式がそうですね。多分。あと「猫の地球儀」も「認識」派か。

9月26日(火)

 言いわすれたけど僕はAIRのテーマが「家族」であるかどうかはどうでもいい。要は七瀬シナリオにおける「乙女」とかそういうものだと思う。必ずしもそれである必要はない任意のなにかであり、にもかかわらず当人とっては固有で切実たらざるをえないもの。そういうものにこだわらざるをえない、という部分にかえって人間の本質があるように思ったりなんかするわけです。
 僕には「こだわってしまう」(意識してしまう)という事態とその形式だけが重要なので、こだわりの内容/対象それ自体は興味をひかないんですね。
 「家族」だとか「乙女」だとかいうことば(概念)それ自体ではなく、置かれた文脈が問題だ、ということ。いきなり簡潔になったな。

 麻枝氏の作品に僕がひきつけられるのは、人間の自然な感情とか、それに基く自由な振る舞いとか、そういうものをたぶん信じてなさそうなところですね。少なくともそういうのに興味がないんでしょう。意識性というか人為性というか意図というか、そういうものを描く。むろん一般に、いかなる感情も学習されなければ身に付かない、ともいえるのだが、やはり程度と描き方いうものが違う。
 たとえばONEの恋人関係にしろ、七瀬と浩平はどうしても「乙女」と「王子様」という範型を意識的になぞるよりほかなく(さもなくば恋人としての感情も自覚も生まれないだろう)、椎名とでは「だから今から合図したら、恋人同士になる」という決め事が先行する必要があり、長森とやり直すためには「恋人らしい」状態を杓子定規になぞってみせる必要がある。始終手袋なんかしてては教科書がめくりにくいしだいいち暑いのだが脱がない。もしかすると脱げない。それが自然体であると感じるのは、そうした、生理的な感覚を無視してでも、「型」をなぞらなければ、自分の感情自体が基盤を失ってしまううとどこかで感じているからではないか。「たぶん、これがオレの自然体なんだろう」「そんなの気持ち悪い人だよ」。
 こういう点、僕は非常に引っかかります。ゾクゾクするといってもいい。

 何らかの感情はつねに/すでに演技・仮面であり、それぬきの「素の自分」などありえない。と断言するには色々と微妙なのだが、まあそういうことにしておいて。「幼なじみどうし」という仮面を外された浩平が直面した虚無。(剣道を失った七瀬とパラレルであることを今更述べる必要があるだろうか?)
 かれがそこから帰還するためには、傍目にはどのようなばかげた自己劇化(自分の行為への身勝手な意味付け)に映ろうと、それを徹底せざるをえない。Hシーンの身勝手ぶりはすげえっすよ。熱にうかされた異常な思考とはいえ、というか長森との関係を完成させるために、主人公に熱出させるというイイワケを用意してまで持ってこなければならなかったわけでしょう。しかも付き合っちゃう長森。ばか。
 「乙女志望」の間抜けっぷりとこれはやはりパラレルなわけな。で付き合う馬鹿は浩平。馬鹿ふたり。


 このへんMOON.に溯ったりKanonとAIRに敷衍したりしていくらでも遊べるのだが、きりがないなこれ。
 むしろここでは、上述のような視点を可能ならしめるものは何か、と問うべきか。要するにそれは「傍からみてオカシナことである」点だ。俺用語では「交換価値に乏しい」になる。
 作品の意匠としても、間違っても「病による死」なんていう社会的交換価値の高いものは持ってこない。普通なら信じられないような(妄想的な)世界観であることには必然性がある。それが何の暗喩であるのか、と問うよりは、なぜ暗喩として受け取りでもしなければ受け入れがたい(僕にはそうではないが)カタチを取っているのか、と問うべきだ。
 「永遠の世界」ってのは浩平自身にとってさえ馬鹿げた妄想としか思えない。Kanonの真琴や舞にしろ、それがどんなにばかげてみえるかは作品内で強調済みだ。AIRにおいては橘氏の常識的には完全に正しい応対を参照。
 作家がとうに気付いている、どころか意図的に強調さえしている、そうした部分をそのまま繰り返すのが「批判」なり「ツッコミ」になりうると信じている馬鹿はどうにかしたいのだが。そしてそうしたツッコミを否定することは作品の弁護にはならない。「しろはた」のKanonレビューとか。
 あとなんつーか「ファンタジー」って呼んでしまうと、この性質の特異さが消されてしまう気がして、ちょっと不安なのね。

 いや、よく病気モノ(というか加奈)と比較して、どうしてもっと普通に一般的にやらないのか、という声があるわけだが、まさにその一般流通しがたいナニカに基いている、という点がかえって本質的である、ということ。
 逆にいえば、病気モノだとなんで「ここは感動しなきゃ」という義理みたいな感覚が出るのか、ということでもあるね。「そんなばかばかしい話は信じない」という選択肢はないわけだし。フィクションなんだから「お話」で済ませればいいんだけど、ちょっと現実に近すぎる。
 その話なり世界なりを自分の意志で共有した者だけが共感すればいいはずなのに、病だの現実的な死だのを持ってくるとそれが許されない。僕はそれが気に入らないんだよ。
 公共的にすぎて、個としての感情を十分に所有できない、というかね。「誰にでも言える悪口」とか「誰にでも言える正論」に対して持つ不満に似ているかな。

 横山潤さんの「白々しさ」ってのを読んでちょっと書いてみたくなったのです。

9月25日(火)

 AIRぐる。
 あー誰だよ横から審判ヅラして勝ったの敗けたの幸せだの幸せとはいえないのと。あんたがどう思うかはどうでもいいんだよ。余人の立ち入りを許さぬ聖域をそこに認識できるかどうかなんだよ。中身については理解も肯定もする必要はないよ、晴子さんだってしないし。ただ、そんな場所の存在を認めるかどうかなんだ。
 もちろん「認めない」ってのもありだけどさ、頭から存在の可能性を考慮さえしないってのは、想像力の欠如。
 通念と反したものが提出されているのは一目瞭然なのだから、それはすでに作品の前提だ。そこから始めようではないか。肯定否定はともかく。

9月18日(月)

  あなたはどうやってそれがその作品の「テーマ」であることを知ったのですか?
 テーマに合わせて作品の形態(演出)を批判する、という行為がなぜ成立するのかわからない。仮説に合わない観測結果は間違いだ、と述べるようなものではないかと思う。せいぜいがひとつの見地の提出でしかない。もちろん、理論を抜きに観察が成立しないことなど重々承知してはいるが、そこまでは行かない次元の問題にみえる。

 じゃAIRのメモというか回顧録。
 かのりん。でっぱーつ。とうつきー。ってあたりがたまりませんね。あと、胸さわったり尻さわったり透けてたり。お茶飲んでるくらいでおおさわぎするところとかいいと思う。
 しかしなんか薄皮一枚隔てたもどかしさというかどうでもよさが漂う。まあ普通の娯楽ってことなんだけど。姉さんは最初はどうかと思ったがだんだんよくなる。メス持ち歩いてる理由とかうまい。
 コンプしたあとこれやるといいかもしれない。幸せだ。
 ただ佳乃シナリオに関しては唯一、聖姉さんの『「最初にあの羽根に触ったのは、あの子じゃない。私なんだ」「母親は空にいると教えたのも私だ」「それなのに、なぜあの子が…」「あの子だけが、罰を受けなければならないのだろう」』って所はクるものがあった。何かこう、すごくわかる。理不尽の思いがあり、やがて小さな罪悪感に変わる。そうなってしまえばつきまとい続ける。そのメカニズム。妹の喜ぶ顔を見ると、ほんの少し許されたような気になるのだろう? でも許されるわけにはいかないと感じているのだろう?

 遠野さん。のことを考えるとわりと脳が溶けます。へにょー。ズレた会話にとことん弱いのか俺。あの眠たそうな瞳がたまりません。膝枕といいメシ作るのといい俺のアタマをかき抱くのといい、あるいはBADルートでひたすら泣く泣く泣く泣くのといい、「母性」と「女性」(オトコが考えるようないみでの)が全開なあたりがこう。失われた「母」を自分の中に再現することによって補っているのか。ってのは江藤淳『成熟と喪失』にもあったが。
 麻枝氏にしては「自分の腹を痛めた」というフレーズが違和感ある。そういう自然的な基盤(血縁)ってなんか忌避されてきた気がするので。
 で、みちるが殴られたときのセリフが全部違うんだけど、誰かメモしてたりしません? 
 観鈴ちん。でっかいおむすびですねっ。ってあんたは名倉妹か。ナマケモノさんとは懐かしい。ああ、しかし君はどうしてそんな強さを身に付けてしまったんだいったい何がそれを必要とさせたのだ。畜生。だがそれを悲惨とはおもうまい。また「分かち合うこと」ももはや求めない。彼女は最後まで一人で背負い込んで、しかも幸せであることができた。なんてすごいやつなんだ。そう思う。
 人は能力によって、自負によって、あるいは誰かと何かを共有することによって、強くなれる。そんなのはたやすいことだ。だが、それらの与件を抜きにそれでも「強く」あれるか? 然り。
 最後まで笑ってる強さを知っていた彼女に祝福と感謝を。悲しみを捧げるには及ぶまい。見ろよ、やりとげた男の顔だぜ。男ちゃう。<だいなし

 SUMMER。なんかこー「マジじゃないだろ」というか。小手先で書いてる感じ。出来云々はともかく、切なさが足りない。
 「これを表現しなきゃ」という、言いたいことが喉につっかえるほどあるような、そういう切羽詰まった感じ? そういうのが足りない。なんかもー「口先だけ」って感じ。いったい連中のセリフにどんな実感がある? 「ありそうなセリフ」を並べただけではないか。
 いや、うまいことはうまいんだけど、それだけ。迫るものがない。
 

9月17日(日)

 ともかく生きてるので巡回です。でAIRのテーマですか家族の絆とか本当の幸せとか。前者についてはあんまり重要とも思えないのですが、まあ言いたいことはあって。

   「家族の絆」っつったって自明に存在する自然的なそれ(たとえば久弥直樹の描く「障害さえ取り除けばうまくゆく・もともとはそこにある」家族)と、意志的(意図的)にゼロからつくらなきゃならないそれとは大違いでしょうに。描き方の差が重要でしょうに。
 「幸せ」。「訪れる」ものでも「気が付けばそこにある」のでも「探す」ものでもなく「そうであろうとする決意」によって。しかも現実の客観的な条件を決定的には変更することができない場合において。悪者(障害)を退治すれば幸せになれる、といった発想の拒否。人はしばしば不幸の原因をみつけたがるし、そうした原因(悪者)さえなんとかすれば幸せになれるとおもう。いいかえればこれは、「不幸」はつくりあげられたものだが「幸せ」はもともとある自然の状態だという(無意識の)発想だ。これは拒否される。
 そもそも「家族」にしろ「幸せ」にしろ、そうであろうと足掻きつづけるほど遠ざかるようなものだ。と普通は思われている。だが、そうではない可能性もある。

 「血のつながった母」がいつも彼岸的な(超越的な)存在として生きた手触りを感じさせないことについても一考が必要だろう。というか死んでること多い。


 泣き要素ってのがどうも、数学や物理学の概念を中高生に教えるための子供だましの説明、みたいな匂いがするんですが。てめえ本気じゃねえだろ。パーツ扱いだし。そのへん嫌な人の方がたぶん僕には近い。正確には等価なのだが。
 遠野さん(特にバッド)のフェミニンな魅力全開なカンジとかもろツボですけどね。

9月16日(土)

 AIR終了(CG100%)。
 麻枝准を超えるのは、やはり麻枝准だった!(『法月綸太郎の新冒険』裏表紙ふうに)
 てめえやっぱり今まで人間のふりしてやがったな、とか。今までのはジョークだったというのですねぇ? とか、そんな感じ。
 まあ地球人のふりした宇宙人ってのはたとえば谷川俊太郎みたいな人がいたりするわけですが。空の青さをみつめていたり幸せについて語りさえしたりするし。

 きみたちとぼくたちの問題なんだ。きみたちの種族と、ぼくたちの種族と。
 空にあってずっと悲しみ続けていたもの。人間たちの行いを見ることしかできずに。月。
 ナマケモノさん。

 泣けたら楽だろうな、と思った。笑いとか涙に落着できればそれはひとまずの心にとっての結論ということになる。つまり安心できる。笑いも涙も感情の表現なのだが、表現することができないような恐ろしいものを抱えこまされた場合。あと脳の容量も足りない。
 「泣いて済むタイプではない」(9/10)という感想に同意。美凪と観鈴はそれぞれ別の理由で。

 詳しくは書かないがこの晩はちょっと死ぬかと思いました。泣いて決着をつける(あるいは嘲笑う、あるいは理解しない)ってのはもう、カラダを守るために必要なんですな。

9月15日(金)

 ナゾくんがなんか最近霧間父娘のラブラブっぷりがヨイヨイというのでパブリック・エナミー・ナンバーワンなぞを読み返していたのですが、「恋と革命」って太宰なんでしょうか。そういえば冥王と獣のダンスでも「惚れたが悪いか」使ってたし。どうでもいいですね。わりと太宰の学生向けの説教みたいな印象があるけど。

 僕としては佐祐理さんを理解しているつもりは微塵もなくて、というか実をいえば中学時代の佐祐理さんくらいをイメージして書いてますあのへん。ゲーム本編の時点ではもうほとんど治ってる。ただ僕が見て苛立つ。この苛立ちは不当でありかつ過剰なものだ。ひらたくいえば自己を投影してるわけな。投影つっても現在の自分と共通する部分ばかりでなく、たとえば貧乏人は金持ちに偏見を持つとかそういうのも含めて。まあ、過不足のない他者の(あるいは自己の)認識なんて我々の経験から乖離した絵空事だ。と小林秀雄もいっている(正確にはちょっと違うが)。
 たとえば(古典的な)恋愛は「結晶作用」という名の錯誤をどうしても必要とする。他人を過不足なく/何も投影せず/ありのままに認識しているうちは、憧れも恋愛もありえない。というかそれ定義。

9月12日(火)

 だらだらと吉本隆明「悲劇の解読」(ちくま学芸文庫)を読んだり。

 「批評が批評であることは苛立たしい索漠でありつづけること、言葉の砂を口に押しこまれるような体験に身をおくことにちがいない。けれどこの体験を持続してゆく歳月のうちに、対象への視線が微妙に変容してゆくことがわかる。ここでいう変容の意味は〈立場〉とか〈理念〉とかの変容ということではない。対象である作品への臨み方の変化のようなものをさしている。かつては作品には驚くべき明確な手触り、鮮やかな光線が、陰翳や輪郭に沿った情操と一緒にあったのに、次第に骨ばかりに崩れて、どんな肯定的な空間形式も、延長性もない廃虚のようにおもわれてくる。ついには空虚そのもののように手ごたえもなくなり、ただ言葉だけを祭礼の寄付金のように募りつづけるようになる。それでも批評は持続されねばならない。何のために? それでどうするつもりなのだ? それともこんなことをしていても仕方のないことを批評はしているのか?
 この問いにおいて批評は、はじめて何かをしているらしいのだ。何か歴史的な事象のようなものに、ただ言葉の予感、それも必然的に衰弱の表象を伴った予感によって、参画しているらしいのだ。それはただ対象となった作品を、批評が枯死させていることで識知される。じぶんを枯死させている言葉だけが、作品を枯死させることができる。批評は死につつある言葉、しかも自覚的に死につつある言葉だ。」

 ブラーヴォ。方法論の怠惰な適用作業だとか、定まった見地からなされる信念の表明だとか、そういうのが「批評」だなんて称されたりするのが通例のこの世界に比して、なんたる正しさ!

9月11日(月)

 たとえば「美人」の定義は「誰が見ても美しい人」であるといっていい。「好き」という感情はそれが生じた瞬間にすでに「誰にとっても好ましいだろう」という確信ないし予期をほとんど定義のように含んでいる。これはむしろ、人は他人が好きになるであろうものにしか「好き」という感情を抱かない、と言い換えたほうがよい。「欲望とは他人の欲望である」とジラール(ラカンだったかもしれない)もいっているではないか。
 内面といったものを捨象すれば(というか内面性なる概念を相対化するためにこそこうした理論はあるのだが)、われわれは、他人が欲しがりそうなものしか欲しがることはできないし、他人が好きになるであろうものしか好きになることはできない。自由に何かを好きになったりならなかったりする能力は精神にはない。ただ他人の反応の認識/予期における錯誤は生ずる。これが個性を生じさせるがたんに個体差という以上のいみはない。あのどうでもいいやと思ってるものでも他人に欲しがられるととたんに惜しくなったりしますよね。ママレード・ボーイ。
 でもやはりキモチによって悩んだり喜んだり傷ついたりするのは当の本人以外の誰でもない。誰かにかわってもらうことはできない。カン違いでも苦しいものは苦しい。
 何が言いたいかっていうと9日の日記は受売りもいいとこなんですが。どこで読んだ何だったのかは忘れたけど。まあ誰が最初に言ったかなんてどうでもいいか。あーつまり、補足。

9月10日(日)

 智子さん誕生日おめでとう。ついなさんとこでえっちな絵をゲットだ! とか。で僕はこの保科智子っていうトゲだらけのウニみたいな(栗本薫『終わりのないラブソング』)ひとがえらく好きというかどうしてもほっとけなくってちょっかいを出してしまうっつーかああいう他人に対してすぐ身構えるような態度ってなんかすごく痛々しくて見ちゃおれんわけでもうどうしていいかわからなかったりします。ちぢめて言うと前半のつんつん娘っぷりがたまらんってことで。だからそこでフッと力なく微笑んで「藤田くんも、こんな自己中な女に構わんほうがええよ」とか言うんでない。構ってしまうではないか。あとアニメ版でエプロン着ける仕草とか好きです(挨拶)。
 こんな言葉が挨拶以外の何になるってんだ。

9月9日(土)

 「なんていうのかな、一言で表現すると「らく」って言うのかな? ほんと、気楽なの。でも、幸せも嬉しいも安心も「らく」には含まれていると思うんだ。」(STUDiO B-ROOM「ぱらパラ」マニュアル)

 監禁したり縛ったりって……。いや一瞬「そうかその手があったか」って。「女郎蜘蛛」(PIL)の蝶子さん肉奴隷ルートみたく。
 で佐祐理さん話ですがすごいことに気付きました。あの僕は連日「どうやったら佐祐理さんに嫌われるか」とか考えてというか単に悩んで過してたわけですがAIRとかやりながら。あのやっぱり甘えさせなきゃだめですよねまず。つまりきちんと自己正当化できる人間にしないと。自己正当化っつーと悪い意味で使われること多いんですけど、これができるのは健康な人間の条件だと思うわけです。
 あの嫌いに理由があっちゃいけねえとか書きましたけどこれなんつーか倫理的判断(〜べきである)であって事実として理由が必要とされてしまうのはしょうがないと思うわけです。あの「あるべき状態」を想定して「こうなれ」って言ったところで無茶です。往年のアニメーターはロボットの変形前と変形後の絵だけ渡されて「変形させろ」とか無茶なことを言われてたらしいんですがそのくらい無茶なので、「いかにしてそれは可能か」という条件を考えなきゃ役立たずの空語なわけで。
 あの他人を嫌いになるにはあの自分の感情を自然に自明に所有しうるための基盤がやはり必要なわけです。好きでも嫌いでも美しいでもなんでもいいんですけど、そうした判断には必ず「他人にもそう思えるはずだ」という判断が暗黙のうちに含まれる。そうでなくてはそもそも人間には何かを好きになったり嫌いになったり美しいと思ったりすることは原理的に不可能なんじゃないかとか思うわけです。少なくとも最初は。それを他人に否定されてムカついたりとかしてるうちに個性を認識するわけですが。しかしムカつくためには自分の感情の存在自体は信じられていなければならない。あの何の正当化もなしに感情はそれ自体で存在しうるとか思ってる人、それウソですから絶対そんなことなかったはずですから。自分がいまかんじているこの感覚が、日本語でいうところの「怒り」であると確信するのには何が必要か。言葉は最初はすべて他人の言葉です。
 話がそれてますか。
 あのね、佐祐理さんをこうね、きゅっと抱いてね、頭をぽんぽんってやって「よしよし」って言ってあげたりするわけです。夢としてはこう。ほら佐祐理さんはいい匂いするし。僕は基本的には頭は撫でられたい人間なんですけど女の子に。
 でテキが完全に安心するようになったら笑ってやるんです。バカにしたように。そうすれば怒るかな? それともやっぱり「そこは怒るところだ」って教えなきゃだめかな? とか考えてると非常に幸せですよ毎日。
 疲れてると甘くなりますね。

 えと以前に倫理的な問題と存在論的な問題は別とかいってますが、意図的に境位を見定めようとしなければ見えないくらいにはひっついてます。論ずるスタイルの好みとしての話だしあれ。

9月8日(金)

 AIR中。俺、のうみそ溶けるわ……。幸せで。このまま何も起こらずに夏の町でだらだらと過せたら。ドラマなんか要らないから。とかそんな風に願ってしまうのがすでに思うツボですか。

 百万回生きた猫の話。彼は最後に幸せをみつけて、というか失ってはじめて幸せだったことを知って、だからもう二度と生まれ変わらなかった。幸せってのは、そのへんの普通のメス猫と遺書に暮らすとか、それだけのものだったように思う。わりとメジャーな絵本にそういうのがあるんですが。なんとなく連想した。どうしてかわからないけど。
 ふつうに考えれば一度きりしか生きてなくて、その程度(と言ってしまうには抵抗があるが)の幸せさえ得られずに死んでいく、そういうただの猫の方が不幸なはずなんですが、にもかかわらずこの話はなんかこう、来るものがある。百万回生きてるからもう考えつくかぎりのことはたいてい起こってるし波瀾万丈なわけですよ。よく憶えてないけど。でもそんなものが幸せであることにそんなにものあいだ気付くことがなかったこととか、幸せになるまで忘却が訪れることが許されなかったこととか、そういうことがなんかラストというか読み終わったあとでいっぺんに押し寄せてくるわけです。

 シャボン玉がパチンといったときの顔が! 顔が!
 ふらふらしてたら遠野さんといっしょにあんな生活。楽園は、そこにある。宗教団体の施設の一室で少年と一緒にメシを食う。舞と佐祐理さんと一緒にメシを食う。あ、メシ食ってばっかりだ。
 ED流れなかった。優柔不断すぎたかのう。

 で人形とか言うとKEY THE METAL IDOLくさいんですが。Keyだけに。

9月7日(木)

 今日の日記はこれを前提に。

 なんで今頃佐祐理さんについて吐き出してるかというと、づしの森のMK2さんの日記2000103あたりが直接の原因とおぼしい。僕としてはあそこに書いてあることは今の(ゲーム時点での)佐祐理さんにはもう合わなくなってると思うけど。

 あと僕としても、馴れて風化してなぜ一人称が「佐祐理」なのかもときどき忘れるくらい日常に埋没してしまえば、それで構わないと思うんですけどね。ゲーム見た感じじゃもう、時がそのうち解決する程度にはなってると思うので。別に今更道を引き返して躓いた石のところまで戻ったり傷口をじっと見つめたりする必要はない。もうあのままでいいと思う。というかナゾくんの「えんえんとボケとツッコミを続ける」というのは圧倒的に正しい。ただ僕が見てて苛々するだけ。
 マルチは好きなんですけどね。あれはもともとそういう存在だし。なんの抑圧も危うさもない。「人間に喜んでもらう」ってのは円滑に機能するための条件にすぎない。
 マルチに対しては僕は「人間」に対する基準とか感性とか適用できないので。あれは単にああいうものとしてそこにいる。あと、マルチの前には対してはどうしても半分くらい「人間一般」というスタンスで立ってしまうらしく、人間が勝手に作り出した存在に向かって嫌だの気持ち悪いだのってことは言っちゃいけないだろ、という気になる。思うのは勝手だけど言ってはいけない。
 むしろ「RISE」のななこの方が思想的に気に入らなくて、単に人間のかんずる「気持ち悪さ」を解消するために、ロボットに反抗だのわがままだのといった能力属性を付け加えるのは、ロボットに対してそんなことまで望むのは、ほとんど罪悪だと思う。

 まあ今木はどっちかといえばセリオ者なんですけど。
 優しくしてくれるならそれだけでいい。行為さえあれば充分すぎる。心までは望まない。柔らかい手とか暖かな膝とか静かな声とか、そういうものが与えられる以上に望むことはない。もし僕が正当な手続きで誰でも(少なくとも人格に関わりなく)できるようにセリオを手に入れたとしても、やはりそれは途方もない恩寵のように思える。とか書くとヴェイユくさいですか。「労働の条件」とか。
 ああ、皮算用どころではないわな。

 んーたとえばNOeLやってて適当に代歩とかの悩み聞いて寝かしつけ(NOeLというゲームの目的はどうもヒロインの愚痴を聞いて安眠させてやることらしい)てると、何かが赦されたような気になりますねえ。
 「ぱらパラ」の八房林檎というわがまま娘は僕には実にいっしょにいて精神的負担の少ない相手でした。とりたてて気を使われることもなく、またこちらが気を使っていることを気付かれることもない。ゲームだから俺は疲れないし。

 初めてビ・ヨンドとか雫とか痕やったときも、というか「同級生」のつぎにやったエロゲーってそのへんなんだけど、そのときは「どうしてみんなそんなにオレに優しいんだ?」という強烈な違和感がありました。そんな私も今では立派なギャルゲーマーとして花でも摘むように自然にヒロイン陣の好意を享受し続けているわけですが。理不尽な好意にさらされ続けるのは当初はむしろ気が重かったのですが、ある時「僕はギャルゲーキャラに好かれてもいいんだ!」 と悟ったので。ギャルゲーやってて初めて、好かれるのは単純に気持ちがいいってこと実感しましたよ。それまでは好かれるというのは重荷を押し付けられるというか返済不能な借金を抱え込まされるとかそういうものだと思ってましたから。しかも気付かぬうちに。まあこういう感覚は半分くらいですけど。というか誰しも多少はそうなので、これは単にギャルゲーというメディアの特質として、気持ち良さだけを受け取れるみたいなのがあるんじゃないかとか。

 いや今では他人の好意を重荷に感じることなんてこれっぽっちもないんですが。たとえばメールを貰いっぱなしでもわりと平気だ。というかアタマが「おへんじモード」に切り替わらないとメールの返事ひとつ書けないってのが実情なんだけど。掲示板とかも。まあ、それをあまり気に病まなくなったと。他人とマトモに話せなくても生きてさえいればいいじゃん、とか思うし。

9月6日(水)

 「物事の裏には意図がある」における「幼なじみ」および「デッサン」に関する記述をSenseOffの「シナリオ構造」に敷衍して論ぜよ。

9月5日(火)

 SenseOffリンクに追加。GORRYさんとこと重なってないのって高橋直樹氏のとこだけかな。と思ってた矢先にふとぽんぽん狂詩曲を覗いてみたらビンゴ。

 わりと反復されるモチーフとして「ただ一人世界の外側に立たされてしまうこと」(美凪、透子、成瀬、ベルトホルト)、みたいなのがあると思うのだがそのへん誰かやってませんかね。

   

9月3日(日)

「来い。おまえのすべてを否定してやる」(和月伸宏「るろうに剣心」)

 萌え文章。書くべきですか? 妄想に満ちたやつ。どうもこう、自分の言ってることが間違ってたり論理的にアレだったりするのはわりと平気でも(つーか馴れざるをえない)、自分の妄想のセンスがつまんないとかそういうことを発見するとかなりダメージくいますよね。でもやる。
 今木はここんとこづしの森というところのなんだかやたらと中島梓を想起させるMK2さんの日記に夢中であるわけですが、たとえば一人称が僕とか私とか俺とかでなく今木になってる時点でかなりアレかなと思うのですが、まあ僕にとって文章を書くということはコピー&ペーストと若干の置換作業といったものなので、あ戻った。自分の言葉でとか実感に基いてとかそういうオブセッションからはともかくも自由なのですが、それだけに駄目だったらダメージくうかというとそうでもなくて、いいものを書かねばならないという強迫からも自由です。向上心ないし。強さ正しさ美しさ面白さ、そういったものを人は目指すべきではありません。それが当人を幸せにするよりは多く苦しめている場合には。ありもしない基準に振り回されて自分を見失うのは、こう書くと矛盾するんだけどよろしくない。およそ自分の意志がなにごとかをなし得るということを信じてはなりません。また意志というものは単に諸条件がたまさかに重なった結果のもので、要するに人がある意志をもつことは単なる偶然であってそこにどんな意味も意義もない。それが果たされなければ人は不幸になる、そうかもしれませんが、むしろ、自分の意志なんてものにとらわれるから不幸になると言うべきだと思う。こう述べたところで事態が何一つ変わるものでもありませんが。「矯烙の館」はそういう意味では僕には実に安息をもたらしてくれるゲームでした。それはぼくの意志でしたことじゃない単なる弱さだ。別にいいじゃない、人生なんてままならないものよ。でも、どうしても受け容れられないんだ。受け容れなくていいのよ、流されるだけで。

 で萌え妄想ね。舞と佐祐理さんと三人で一緒に暮らすとか。妄想でもなんでもないですねゲーム内容そのまんまで。つーかナゾベームくんの受売りだ。
 でも僕は佐祐理さん嫌い。一緒に居たくない。つーか目の前にいたらはっきり嫌いって言いますね。もし仮に同性の友人とかだったら。まあ傷つくだろうけど。でもたぶん彼女は自分が他人に好かれていると知ったらなんか詐欺でもしてるような気になってどんどんどんどんヤバい方向に行ってしまいそうな気がするので嫌いって言ってやるべきなんです。だから嫌い。普通に目の前にいたら遠巻きに眺めるだけですけど。ある臨界点を超えたら嫌がらせくらいはするか。仮定の順番間違ってますか。
 あと一緒にいると激しく疲れそうだし。少しあたりさわりのない言い方をすると、いたたまれなくなる。
 で舞と二人きりが希望。舞に一人占めされたいので。嘘。舞一人でいい。俺はいらない。
 ビジュアルファンブックのスタッフコメントのあとだといいかげん後知恵なんですが、と書いても何が後知恵なのかたぶん読んでるひとにはわからないんだろうけど、舞ってべつに不幸に見えないんですよね。「残光」をバックに舞の中学時代とかの絵が流れるんですが、あれそんなに痛ましいとかいう感じはなくて。ただ少し淋しいんだけど、どっちかっていうと甘やかな感じで。いや何が言いたいかってえと舞はそれなりに自足してるような気がするなあと。
 でも三人で暮らすという妄想にしないと何も出てこないようなのでそうします。佐祐理さんは娘としてなら置いてやらなくもないです。普通は逆ですか佐祐理さんがおヨメさんで舞が娘で。でも佐祐理さんは娘に決定。ぜひ思い切り甘やかしたい。甘える以外のことは何もしようと思わない子供に仕立て上げたい。自分のことしか考えない完全に他罰的なガキに。おわり。

 じゃあ戻って佐祐理さんに面と向かって嫌いって言う話ね。誰かにはっきりと嫌われる、それも利害関係とか抜きに純粋に、そういう体験はなんつーかあった方がいい。
 アンタ自分が嫌いなんだろ。わかってます。佐祐理はばかだからよくはわかってないかもしれないけど。その通りだ全然わかってねえよ。あんたのは自分が嫌いなんじゃない、自分が許せないだけだ。あんたはしかるべき理由があって自分を好きになれない認められない、そんな風なのを「嫌い」とカン違いしてる。あんたにとって重要なのは「理由」の方で「嫌い」じゃない。好き嫌いにゃ理由はあっちゃいけねえ。あんたは単に自分が嫌いって言うべきところで理由をくっつけてるんだ。自分が嫌いってのは他人が嫌いってことだ。他人を嫌う自分を存在させたくないからそんなふうになるんだ。あんたはまず身勝手で甘ったれな理由で他人や世界を責めることを覚えなきゃならない。他人を嫌うこととか怒ることとか、そういうことを覚えなきゃなんない。
 てなことを言ったら元も子もない。彼女に知られては理解させてはおシャカだ。ほんとうのこととか正しいこと(と信ずること)を口にするのは有害である場合がある俺はそのくらいわかってる。
 それで今何を考えているかというとどうやったら佐祐理さんに嫌われたり怒らせたりできるかってことをそれなりに必死で考えてるわけですがさっぱりです。間違っても彼女が黙って耐えたりしないような仕方で。まずは冷たい拒絶を態度にできる程度にはなってくれないかなと。嫌ですとかそんなこと言われたら私だって怒るよとかそのくらい言える人はいいんです。
 馬鹿は死ななきゃ治らないって言うしなあ。いっそ転生でもさせるしか手がないか? で舞と一緒に赤ん坊を育てる。ああいう生い立ちの少女がいたという事実はカンペキになかったことにしたい。俺の記憶の中だけにして。ビ・ヨンドって優しいゲームだよな。


 いや、違う。我々が思うほどこの世界は悲しくプログラムされちゃいない。(大槻ケンヂ「小さな恋のメロディ」)

 栞。栞っつってもいろいろいますか。美坂さん。ひねくれもん。彼女の発語はいささか屈折した理路をとおった結果生成物で、だからその真意は自分にしかわからない。常に自分に向けてしか話してない。思わせぶりなセリフってのはつまり他人に伝わることを期待してないからそうなるので、ただ自分になにごとか言い聞かせるような気分。まあ、相手の反応を見たいってのもないとはいわないが一方的に自分は「見る者」だ。相手(祐一)は事情を知らないが自分(栞)は知っている。だから一方的なひとりごとばかり言ってるヤツだってんです。何が起きないから奇跡っていうんですよだ。そんな言葉の重みなんかわかってやるもんか。ちょっとドラマみたいでかっこいいですよね。あーはいはい韜晦がお上手で。
 およそ遺された時間が限られているとき、人は残された時間のすべてを自分の意図で支配しようとする。旅行のスケジュールを分刻みで埋めて完璧な計画を立てるように。すべて事前のイメージ通りに。誰がてめえの予測通りにキレイに終わらせてやるもんかよ。あんたなんか奇跡でも起きて助かっちまえばいいんだ。あれが奇跡だったのかもしれませんね、と述べるときだから彼女は正しいのだ。死ぬに死に切れず、主体的な生の選択ではなくある意図の挫折としてそれを経験したのだから。あのときから、生存はすでに理解(意図への回収)を超えた外部性においてある。と書くとアレだがようは生かされてしまっているつうか。だから彼女は自分がなんでここにこうしているのかわからなかったはずだ。というか僕は栞と話してるとなんだかふわふわと言葉がどこにも着地してないような実感のなさとかそういう感覚がずっとあるつうか、薄皮一枚隔ててるような苛立ちがあるので。

9月2日(土)

 GORRYさんSenseOffメモリンクをお作りになっているのでリンクを貼っておきます。

9月1日(金)

 それにしても夏蜜柑という人のマンガはやたらと葬式とか病院が多いなあと思う今日このごろですがみなさまにおかれてはいかがお過しか。快楽天に2号ぶりに載ってたのでむさぼるように立ち読んだ。あとあずまんが大王も読めたので今日はことのほか気分がよろしいです。ところで僕はOVA「帝都物語」の辰宮由佳里(字あってる?)の「鳴滝さま、今日はなんだかとても気分がよろしいのですのよ」というシーンがえらくツボなのですが。そうそう夏で葬式といえば山川方夫に「夏の葬列」という短編がありまして、これを年端のいかぬ子供に読ませるのはどうかと思うのです。なんでそういう話の運びになるかというと確か公文式の教材になってたから。
 僕はそのころたしか小学三年生でとある田舎に疎開してました。都会から来た人間はぼくのほかにはもうひとりいるきりでたいそう心細かった。もうひとりというのはふたつ上のおねいさんで、なんか何くれとなくかばってくれてけっこう僕もなついてた覚えがある。ある日畑かなんかに出てたとき米軍の空襲があって、そのとき僕は一人ではずれた所になんか取り残されて芋の葉のかげに必死になって隠れてた。恐くて心細くてまあ泣いてたわけです。とにかく恐くて気が狂いそうでした。でそこにやはりというかそのおねいさんが探しに来る。おねいさんは白い服を着ていました。夏のお嬢さんにふさわしく。ところで白い服ってのは目立つんです。機銃掃射の絶好の標的です。彼女がそばに来たとき、というか正確には気が付いたら彼女に覆い被さるように抱かれていたんですが、そのとき僕のアタマにはひとつのことしかありませんでした。このままじゃ僕まで撃たれる撃たれて死んじゃうこの白い服をなんとかしなければ。それで思い切り突き飛ばした。彼女は向こうの方に数歩よろめいて、そのあといきなり、彼女の体がゴムまりかなんかみたいに弾んで、そこから先はよく覚えていない。要するに彼女は撃たれた。こうして回想している以上僕は無事だったわけですが。ともあれ彼女はその後助かったのかどうかわからない。
 それが15年がとこ前。で、ある日の僕の前に葬列が通りかかる。葬列だからこう、故人の写真があるじゃないですか、あれを見るとあのおねいさんに似ている。まあ、順当に歳を取ればこのくらいかな、という感じ。で僕は長年の罪悪感から解放されます。なんだあの後も生きてたのか僕のせいで死んだわけじゃなかったんだなと。解放感のあまり葬列の人間に話しかけさえする。「死んだの誰?」「ナントカさんとこのお婆さんだよ」「にしては写真がずいぶんと若い」「ああ、もうずいぶん前に気が狂ってしまってね、まともな写真が若い頃のしかないんだ。なんでも娘さんに死なれたのが原因だとか」
 ひどい話です。というかネタバレです。あと断りなしにあらすじ書くのはどうかと思った。これだから文学はやめられねえや。
 あと全然関係ないんですけどONE PIECEのアミウダケのスープの話なんかもよかったです。善意が引き起こす悲劇、悲劇で終わらせない意志。あと善意のカタマリのくせにどうしようもない薮医者で傍迷惑な存在でしかあれないところとか。ONE PIECEでここまで徹底してアイロニカルな断絶(意図と結果の)の構図が出るとは思わなかった。

 どうしようブギーポップ負けちゃってるよ。


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