ギャルゲー日記(仮)

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10月28日(土)

 ピュアメールおわり。

   愚かしさとアイロニーに満ちた世界。暴力的に拡散する可能性。かっこわるさ。irony of fate? と始まる主題歌がやけに意味深に感じる今日このごろ。
 嘘っ八のまがいものだ。わかってるさ。わかってるとも……
 ささくれてやさぐれた心にわりとヒットしてしまったのですが。キレイなものもホンモノも要らなくなるときがあってね。

 綾華。ああもう言う事きいてあげるから泣かないの。よしよし。ずっと側にいちゃるから全くもう子供なんだから以下略。
 君に勝利を。そうとも、君に勝利を与えぬ世界などまちがっているさ。
 にせEDENで持ち出されていたので、「星の王子さま」よりなんとなく引用。
 「なんの役にも立ちゃあしないよ。花はいじわるしたいから、トゲなんかつけてるんだ」
 「うそだよ、そんなこと! 花はよわいんだ。むじゃきなんだ。できるだけ心配のないようにしてるんだ。トゲをじぶんたちの、おそろしい武器だと思ってるんだ」
 「花が、なぜ、さんざ苦労して、なんの役にもたたないトゲをつくるのか、そのわけを知ろうというのが、だいじなことじゃないっていうのかい?」  「花のすることったら、ほんとにとんちんかんなんだから。」
 とにかくいい奴だった。電車の中のシーンはツボを押さえてますな。

 りん。綺麗にまとまってるというかオチがついている。かなりテーマ主義的。ラストシーンの笑顔が……。

 碧トゥルー。ああ、もうわやくちゃ。この粗雑さは味かも。不器用で唐突でなりふりかまってらんなくてさ。ほんとのこと言ってるくせに、どうしようもなく嘘臭くなっちまうことってあるよね。
 なんか途中で力尽きただけって気もしますが。
 ラストシーンが効いた。キスシーン(女の子から)。手をからめての。絵を見てるだけで来るものがある。
 経過もへったくれもない唐突さは逆にリアルといえなくもない。少なくとも、これまでのシナリオから得た情報を総合すれば、唐突に感じるのは主人公だけだろうし。
 みもふたもない自分語りがブレンパワードみたいだった。かっこわるい。かっこよくしろ、とは思わず。

 主人公は客観的には普通に人と付き合える人なんですな。これ、最初は欠点だと思ってたけど、そうでもないか。
 このへんの話は成瀬せりあさんの日記をどうぞ。

 僕としては、にせEDENに何も付け加えることがなくて困ってる。なんというか、語ろうとすれば語れるけど、あんまり語るほどのものでもない気がする。
 先にさんざんやられちゃってるせいもあるけど。

 語ってるところとして、Paper Company 0310を紹介しときます。「愛しい」って気持ちはわかる気が。

 テーマ的には悠美さんBAD。「求めていた他人に拒絶され、しかもそのことを受け容れる」というのがいちばん正しい終わり方。まあ、正しさなんてどうでもいいがね。

 テキストは全般にまあ並なのだが、時折ミョーにヒットするセリフが出て来る。うおおーって感じで。

10月26日(木)

 恥ずかしい告白のコーナー。

 ときどき長森が好きでどうしようもなくなることがあるんだけど、それはたぶん、長森が浩平のことを理解してない(浩平という人間のことはよくわかってると思うけど、アタマの中身は)せいだと思う。こっちの考えの中身ってあんまり問わないでしょ? 事情とか、理由とか。
 なんというか「事情を聞いてから決める」んじゃなくて「それで自分はどうしたいのか」ってのが行動の軸にある。長森的には、絶対的な受容とか許すの許さないのじゃなくて、それでもやっぱり一緒にいたい、というキモチをどうすることもできなかっただけで。でもやっぱり終わりにするのはいやだ、という思いさえあれば、それ以上の理由も理解も要らない。知ったこっちゃない。ある意味ものすごく勝手。きっとばかなだけなんだけど。また言ってしまった。観鈴も理解を必要としない人種で、僕は「おまえわかってんのか」って肩をつかんで揺さぶったりしたくなるんだけど、そこは怒るか泣くかするところだろうってまあ思っちゃうんだけど、そのへんはやっぱり本人の勝手だとも思うわけで。


 因果につきましては「高度6000キロメートルの地球儀」とお兄ちゃんの「事後的な仮構」云々のあとで言うのはまあパクリなんだけどさ。
 ところで僕に気になるのは「原因」がそれ自体として(客観的に)どのようなものであるかではなく、それを扱う手つきとか語り口とかそれに対して人間の置かれた位置とか態度。
 僕は一般論としてやるつもりはなくて、麻枝的世界とはいかなるものか、ということを少し語ってみたい。語るというか電波ヒゲの制御が甘いので思考がダダ漏れになってるだけです。まとめられないらしい。

 ある場合(たとえば科学者とかユダヤ−キリスト教の世界観にとって)は、原因を知る事はすなわち、われわれに理解と納得がもたらされ、世界が神の理性と正義と必然性のもとに動いていることを悟ることである。が別の場合(ギリシア悲劇とか)においては、因果を悟ることはすなわち、世界の理不尽と己の盲目とを知らされることを意味する。オイディプスは自らの眼を突いて旅に出ますさがさないでください。でも娘はいっしょがいいです。
 このへんはジョージ・スタイナー『悲劇の死』(ちくま学芸文庫)から。

 ものごとの原因に対する態度について最初に「あれっ」と思ったのは、ONEの繭シナリオの、

「私は…本当の母親じゃないですから…」
椎名の母親の口から漏れたその言葉にすべては起因しているようだった。


 というくだりで、ほんとうにそれだけで説明が済まされているところだった。「あれ?」って思うでしょあそこはやっぱり。当然のように謎解きを期待してたし。
 で、なんか原因を知ったことが解決につながるかというと、もうひとつ切れてるし。よりよく現在を了解するためには用いられるが、過去に溯ることはもうしないので。
 因果話で例外的にちゃんとしてるのは七瀬なんだけど、原因を知ったからといって「乙女志望」から目を覚ますことはない。「夢」は、脱け出したり、目を覚ましたりするようなものではないのです。

 永遠の世界については、

 そんな子供の戯れ言のようなおぼつかない口約束が、現実にオレの存在を危うくしているというのか…?

 と語られるのみで、なぜそれがそんな力を持つのか、という発想はないわけです。理解と努力による克服の可能性ではなく、世界の理不尽と己の盲目と無力の感じに結びつく。
 Kanon真琴シナリオの、「一体そこからどんな物語が発想できるだろう」とこれはパラレルであろうかと。

 「謎解き」興味で引っ張ってるって言われるけど、どっちかっていうと「知ったところでなんになる」というゆえに説明はなされない。というより、説明すべき欠落とは意識されない。端的に欠落などどこにもないものとして映る。
 しょうもないものを持ち出した、というより、むしろこの世界ではどんなものでも原因となりうるがゆえに人はそれに盲目たらざるをえない。原因になりうるものはこの世界には無数にあって、そんなものはもうないもおんなじだ。どんなささいなことにも世界は平気で左右されてしまう。もはや何故とは問えない。たんに世界はここにあるだけだ、という以上に何も言えはしない。

 「オレとおまえの出会いは、いつ、どこだった」云々についてはお兄ちゃんのやつを参照。長森との最初の出会いが本当はどんなものであったのか、なんてことは結局問題にならずじまい。二種類の矛盾する答があるが、しいていえばどちらもその時々の浩平に応じたリアルである、というほかない。「真」を決定すべき動機を持ち得ない、ということか。

 逆に希望でもある。想い(と呼んでいいのかわからないけど)さえあれば、原因も過去さえも文字どおり後からつくることが可能だ、というのが舞シナリオな。

 明日の出会いさえ気付かずにいる季節たち。気付くことができないのが、明日の出会いの定義。木々の声や日々のざわめきに似た奇跡の足音。それは似てるのではなく、同じものであって見分けることは不可能。

 まだ知らない悲しみがあると言って、
           少女は泣き続けた
    そんな悲しみ、どこにもないのに
            (anemoscope)

10月24日(火)

 たとえば長森は「どうしてあんなことをしたの?」とは訊かない。
 AIR話につき注意。

 SUMMER篇について。

 僕がわりと共鳴するのはこれとかここの発言4とか平山さんの日記9/27あたりである、という話。意見の内容じゃなくて連続/非連続の感覚として。
 先に言っておくと死エロの10/15と(も)重なりまくりだ多分。というかこのへんリンクが今日の本題。以下蛇足。


 以下は検証を欠いた思い付きなのだが、
 麻枝准という人は、なんていうか、経過的必然性とか時系列的因果性とか直線的連続性ってあんまりリアリティを感じてないんじゃないかと僕は思う。一貫したストーリー(作品世界における客観的事象の連鎖)として構築するってのは、たぶんそもそもこの人にとってリアルじゃない。
 ハナシを構築するのがうまくない、とよく言われるけど、それはなんか技巧的な習熟によって克服できるものでも、されるべきものでもないという気がするんです。言ってしまえばそれが彼の世界だから。人前に出すために、作家にとってリアルじゃないもので装うことは、決して欠点の克服とは申すべきではありませぬ。

 SUMMER篇がただ受け手への説明のためだけに置かれたような気しかしない、というのは少数派ですかね。
 僕自身が、原因ってものをそもそも信じてなかったり、それを問うことに興味がないってだけかもしれませんが。あたしゃ因果論と目的論的な思考がなんかどうしようもなく嫌いなんですが。
 麻枝氏的には因果話は自分で書いてもリアルになんないとは思ってたんじゃないかとか、そのくらいは言ってもいいか。


 そこにあるものはもうどうしようもなくそこにあって、いまさら由来を確かめても何かが付け加わるわけじゃない。
 たとえば、「空にあって悲しみ続ける少女」ってのが先ずあって、それが現にそこにあってしまうからこそ、原因(過去)を問うことが逆に可能になる。ことを人間の内面に限れば、これは端的に事実だ。まあ、ほんとうは限らないかもしれないんだけど。

 フロイトは晩年の著作において「過去がうまく再構成されていれば治療的である」と述べている。過去のトラウマ(原因)は、それが客観的に真であるか(ほんとうに存在したかどうか)はもはや問えない。
 ユングの「元型」は、患者の現実の人間関係(実際の過去の原因)を問わないところに成立する概念である(信じないように)。患者の行動が現実の人間関係に対応しないときは、元型の存在を考えるべきである、とかなんとか。
 精神医学の現状はまた別として、そういう把握の仕方はあるってことで。

 かの「永遠の世界」にしたってべつに身近な人間の死に合ったからってそうなるとは限らないし、逆にいえば、さしたる原因もなしにああいう世界に落ち込む(または最初から居てしまう)ってことはあると思うんだが。

 過去の体験の意味は取るに足らぬことで変わってしまい、ほとんど任意の原因で日常も現実も根本的な変質をこうむる。そんなものが原因であるはずがない、という呟きを何度聞いた?

 たとえばSenseOffの三條美凪にとって、自身の苦しみの由来が、本人にどれほどよくわかっていたとしても、それは何者にも結びつかない。

10月23日(月)

 悠美シナリオをやったらなんかフラグが立ってしまったのでSilverMoon(R.A.Nソフトウェア)の芥川女史シナリオを立ち上げる。序盤は約束組手のごとき会話がかわされるも徐々に足を止めての武骨なブン殴り合いというか手四つでジリジリ張り合う。切れ味の鋭さも組手の華麗さもないが生々しい緊張感がある。亮がピアノを弾くシーンなんかほんとうにフッと力が抜けて自然に出てきた感じですごく好み。
 あれを作為的と評し真琴シナリオを自然と評するのは僕にはわからないのですが。もともと、何か意図なり決意なりに沿った言動よりは、当人も思いもよらぬところでふっと出てきてしまうものにリアルを感じるわけで。
 眼鏡友の会/E.Cさんってのは、すごく律義にキャラになりきろうとしてるなあ、という印象がある。なんつうの、願望や実感の投影とか自分の一部ではなく、想像力を駆使して一から組み立ててるような。それで破綻を見せなければ図式ばかりが前面に出るといった印象もないってのは珍しい。あまつさえ自然にさえ。まあ、勝手な印象論ですが。


 とか言いつつもピュアメールを立ち上げてまた悠美ルートをやってしまった。見てないメッセージとバッドエンドを確認。このゲームでそんなことする気になるとは思わなかったな。
 「しばらくは涙が止まりそうになかった。」
 効いた。これは効いたな。ありきたりといえばそれまでだけど、なんつうか、僕はもうそんなふうに泣けるところまで辿り付けていたんだなあ……と。「歪曲王」のラストの涙みたいな。
 悠美さんは笑ったり拗ねたり忙しかった。見ていて可笑しかったが、たぶん僕も似たようなものなんだろう。
 思い付きレベルの「契約」に基く、冗談とも本気ともつかない恋人関係。それを演じている自分に戸惑いつつも、居心地はそう悪くはない。
 こんな時間をもう少し積み重ねていけば、いつかは僕も、心から笑ったり泣いたりできるんじゃないかという気がする。
 でバッドエンドで主人公は泣くわけです。自然に泣けてくる感じで。うまいのう。
 このルートには主人公が過去のトラウマに直面する場面も己の過去をヒロインに語る局面もない。これはライターが違うため、という原因がむろんあるのだろうけど、それとは別にひとつの解答としてアリだ。「治る」ために必要なのは、傷口をじっと見つめることでもなきゃ、道を戻ってつまづいた石ころを捜すことでもない。
 僕はもう治っていたのだなあ、と。現在もなお問題状況が客観的に継続しているのでもなければ、「問題に直面する」必要なんてないのだ。
 病とは現在の複合的な状態であり、病原体という「悪」が一意的に原因であるわけではない。たいていの病原体は常にそのへんにいくらでも存在する。まして後遺症程度なら、まともなメシと空気が先決。
 作品のメイン部分に対するアンチテーゼとして読んでしまうのはさすがにやりすぎか?

10月22日(日)

 ピュアメール、悠美さん。
 あーちくしょー、かわいいなーもー!
 カンペキ。何も言うことなし。

 始終ニヤついていました。
 あなたねえ脅されてるのよ立場わかってる? 生意気だわ。
 でもきっと悠美さんのほうがわかってない。
 なんか調子狂うのよね……
 きっと、それでいいんだと思うよ。

 なんか奇妙で、よくわかんないけどくすぐったい心地よさに満ちた関係。たまらないなあ。

 なんていうか、初萌え。
 このシナリオに入ったとたん、ココロが水を得た魚のように動き始めるのがはっきりとわかった。時に声を挙げて笑い、恥ずかしさにミモダエし、笑いながら少し泣き、幸せな気分で終える。
 まあ、やるべきことをきっちりとこなしてるだけなんですが。 言葉の端々にあらわれる気持ちの揺れとか、自分でもよくわからない気持ちとか、そういうのがちゃんと描けてました。思わず自分語りしちまって照れてフォロー入れたり。こういうのが「らしさ」ってもんじゃないかなと。
 今までのがどうも、あらかじめ自分で用意した台本を心まで忠実になぞってるみたいで、非常に気に食わなかっただけに。効いた。
 まさかあのEDテーマが幸せに聞ける心境になるとは。こんなのピュアメールじゃない(笑)。


 はい話かわります。
 今木にとってELYSIONというゲームはですねえ。ジェーンというキャラがえらく気になって仕方がなかったりするものでして。いつも明るくて、毎日神様へのお祈りを欠かさないとか、まあそれだけのキャラ紹介がなんかの雑誌に載ってたんですけど。言い忘れたけどゲームやってません。
 だからしのぶさんの日記読みつつもジェーンはどうしたんだろうとかぼんやりと思ってたりしたわけです先日まで。

 若し彼女の横に居ることが許されるのなら、僕のようなものにも神様が信じられるような気がする少なくもそのふりくらいは。人間らしい真似だってもっとうまくやれるかもしれない。普通の人間のように笑ったり時に悲しい顔をして。その裏側で凍り付いているもうひとつの顔をすこしずつ忘れていって。彼女はあたりまえの人間のように僕をみるだから僕はそのとおりのものになってゆく。もともと僕はその程度のものだから。

 みたいなことを書いてはUPしようか迷って結局やめてというのを何度か繰り返していた。発売前の時期にですが。
 僕にはこういうのは自分語りっていうより好みのフィクションを作ってる感覚。自分のこととして語る必要はなく、そのような感性がありうるということだけが重要な気がする。
 少し違うけど、わかる、といいたいわけです。

 吉本隆明「エリアンの手記と詩」読み返したり。秋であった!

10月21日(土)

 AIR話ですか? 「しろはた」の「猪木暗黒神話」内の記述が瞥見の価値ありかと。へぼレイ鳳凰篇なんか読んでる場合じゃありません。
 グレート巽の風貌が妙に女性的なのはそういうコトかっ! とか、そういえばアイアン木場も片目だなあとか、色々。

 前田日明より前田日光(ヒカル)の名前を先に知ったという人はどのくらいいるのだろか。というか普通知らない。\
 おまけ。バキ総合サイト。平山さんの日記にも載っていましたが。

10月21日(土)

 ピュアメール、藍(調教&純愛)。
 あなた何様? 僕のお母さん?

 そうだ、そうでなくてはな。そう来なくては嘘だ。侵入し、支配を増そうとする。そういうものだ。
 どうも例によって図式の呈示、お題目の繰り返し、ちっとも描写の域に達しておらんが。
 どうでもいいが髪型とか好き。デコが。

 これはただの負債の感覚だな。好意なんてもんじゃない。それもまた悪くはないが。

 成瀬せりあさんの分析がよい。
 個人的には不快ではないといえば嘘になるが、閉じる世界に魅惑を感じないといえばやはり嘘になろう。嫌悪と魅力は時に矛盾しない。
 フィクションってのは別に人間の「あるべき姿」を描くものではないと思うし。「あってほしい姿」ならアリだが。

10月20日(金)

 ピュアメ、碧奴隷ルート。

 話にならない。
   碧の心理については「気付いていた」というより、無意識の同一視と願望が先行してると思う。それだけが現状を無矛盾に肯定する道だから。心理描写の有無を別にしても、あんまり心理と呼べるほどのものを持ち合わせているとは思えない造型ではあるね。言動の端々に気を使えよ。

 碧様ルート。碧様〜。私はあなたの子供となりあなたは私のうら若い母となる。

「そんなに奈川先輩がいいの?」
「最高だ」
 この会話いいね。
 藍の手から逃れる解放感込みってことで。

 でも主人公、あっさり楽になりすぎ。まあ碧様も才能ありすぎなんだけど「最高だ」でなぜか納得。そりゃ確かに素晴らしい。
 で、いいかげんその図式的な自己把握やめろよ>圭
 ワカりやすい図式って考え方捨てろよ。「コ・コ・ロ…」(アアル)の方がまだリアルだ。

 全般になんというか、いいことを思い付いたんだけど、思い付いただけ、みたいな。思い付きレベルのものをそのまま見せられるこっちの身にもなってくれ。何度も似たようなことを言うが。
 口先だけで信用ならん作品、という印象はかわらず。ちゃんと気い入れて少しはその気になって書いてますか? ノリが悪いなどうも。やる気なさげに図式をなぞってるような本文がな。この書き手の表現はどうも「安易」「陳腐」の二言ですべて語れる気がしてきましたわよ。どっかで見たようなパーツを適当に繋げただけ。あと、たとえば怒っている人間に「俺は怒っている!」って言わせても読み手には怒りの感覚は伝わらないんだってば。
 なんつーか「お母さん」って呼んでしまった後の描写がシナリオライターの腕の見せ所たるべき(関係性のリアリティあふるる描写)部分だと思うんだけど、たぶんできないんだろうな。思い付いただけで描くことから逃げてるな、と、そんな感じ。
 でも「いい子ね」って言われたときはちょっとゾクっと来ました。たまーに気に入るセリフが出て来るので、もうちょっと気合入れてくれればなあ、と。


 どのルートでもいえることなのだけど、ある時期から、「A.W」という名のもとに発せられる言葉は、碧にとってはあたかも「自分の心の声」であるかのように感じられてくる。好きになった相手に同化し自分を同一視してしまうからかもしれないし、深夜のしかも文字だけのやりとりであるせいかもしれない。
 ここからはまあ余談だが、誰も子供時代を飛ばしていきなりオトナになることはできないし、誰だって最初は初心者だ。それを忘れて他人の未熟や幼児性や子供っぽさを(まるでこの世には一度たりとも存在してはならず、最初から存在させないことが可能であるかのように)批判することはできない。非難する奴はそれこそ子供じみた潔癖症か全能感(「最初からうまくやれる」)の持ち主ってことだ。少しは自分の生理的嫌悪感とやらを疑いたまえよ。
 おそらく、きちんと他人との距離感を保ったまま恋をはじめることはたぶん不可能だ。そいつは定義に反する。他人との距離を容認することは、いずれ辿り着くべき場所ではあるけれど、いきなり到達することはできないし、最初からそこにいないからといって責めることもできない。
 非難に鍛えられることも時には有益であるけれども。

 こんなことでも考えてなければ退屈でやっとれん。

10月19日(木)

 ゲ購おそるべし。ここ

 ピュアメ4thは澤永奴隷ルート。どうしてそういう分岐のさせかたするかなあ。
 だからエロが捻り足りないってゆってるだろうが。

10月18日(水)

 ピュアメール2ndは碧破滅ルート。あっさり堕ちるんじゃない。二言三言の押し問答でどうにかなるんじゃない。ああもう。
 設定を生かしたアイロニカルな展開は良。

 彼には理解できない。惚れた男の前では他の男の悪口を言うのは当り前なのだが、子供には人間はいつも一貫した態度をとるべきものであり、言葉と心情は常に一致すべきものなのだ。ようするに言葉を常に真実として受け取ることしかできないのが、子供であるということだ。オトナは嘘吐きであり、何もかも真に受けるのはガキだ。
 何もかもが僕の手をすりぬけてゆく。しかもとりかえしがつかなくなってから、「そうではない展開がありえた」という可能性をつきつけられるのだ。好かれることも支配することもかなわず、どうやったって手に入らなかったあとでだ。しかもそれは、ゲームの分岐幅という端的な事実でさえある。
 単純な思い付きレベルの調教と駆け引きとも呼べぬ駆け引きであればそれも当然の結果なのだが、やるせなし。ところでリア王はただの馬鹿なガキだ。コーディリアは強情にすぎる。あ、今ちょっと電波が。
 何を誓わせようが脅迫のネタ握ってようが、そんなものは何の絆にもならない。関係なんて向こうがその気になればいつでも破棄されるものだ。
 ここへ来てそれか?「さようなら、ずっと好きだった人」か?

 なんというのかなー。パターンはツボにはまったんですよ。「どこでボタンをかけちがえたのだろう」ってヤツ。言い出せなかった遅れにとりかえしのつかない暴走。純愛ルートという道が現に可能であったりすると、なんか尚更せつなくってさ。SSDのハッピーエンドの逆。
 純愛ルートとのギャップそれ自体もいい。とりわけ思春期の人間には、世界とはそれだけの振れ幅を持っているし、性の位置は考えるまでもなく特権的だ。ささいなことで、世界はどちらにも転がる。

 とまあパターンとか図式とかそういうレベルでは好感度高いんですが、しかし「表現」「描写」の次元となるとどうしようもなく強度を欠くというか。力なき正義は無力なり。
 シチュエーションに何のひねりもないのは若いから(主人公が)仕方ないのか? でもちょっとはDEVOTE(13cm)を見習って下さいというか。


 ピュアメール3rdは衣里シナリオ。
 あ、今ちょっとツボに入った。うわ、そりゃ殺し文句ってやつだよ。女の子に手を引っ張られるってのはいいよね。
 ……
 なんだ、コイツも妹のこととなるとタダにいいお兄ちゃんか。下らん。というか毎日メシ食いに帰ってるのかこの人。
 ……
「人との繋がりを極力避けていた僕も……」
 はい? ああ、すっかり忘れてたよ。もとよりカケラも実感ねえしな。
 終了。
 やる気あんのかー!
 本気で言ってねえだろ。頭も使ってないだろ。あのなあ、せいぜいが図式の呈示どまりなレベルのテクストを読ませて、いったい何がしたいんだね?
 所詮は人数合わせといった。

10月17日(火)

 「ピュアメール」のチャット画面を見るたび栗本薫『仮面舞踏会』を思い出してしかたがない今日このごろですが、皆様におかれては以下略。
 で、澤永ED(並)。屑。
 トラウマ持ちの主人公を描くのにも才能は要る。頭で考えて書いてるなーとかいう以前に頭使ってないだろ。圭は自己のトラウマとそれにまつわる心理的傾向を自ら注釈するんだけど、そこは安易に説明しきれてしまうものなのか。何も残らないのか。自分で説明できて意識的に解決できる程度のくせに傷持ち気取るな。そういうのはやっぱり、自分でも名状しがたい衝迫としてあるんじゃないのか。ありったけの勇気と意志をふりしぼってもどうにもならない瞬間が一度はあるんじゃないのか。むろんその場所から脱け出すには現実の契機が荷担せねばならずそのためのイベントも用意されてはいるのだが、あんな適当な文面の手紙ひとつでどうにかなるのか。ああもう。頭で書いてるとか以前に頭使ってない、ってのを繰り返したい。

 ヒロインには自分の過去を語るものらしい。ONEはやっぱり変。

 自分で自分の心理を説明するんなら、RainyBlueかWHITE ALBUMかPrismaticallization(含みゆ)くらいやんなきゃ。ああMemories Offもメランコリー入るとただでさえ駄目なテクストがますます駄目になるしなあ。ダメ系主人公について一家言あるというのはどうかと思うが、しかし「同じ系統」と言って何かを言った気になるのはそれこそ味噌も糞も一緒ってやつだろう。
 RainyBlueのあれは、ツラい悲しいと思い続けることに自らしがみついて、しかもそのことに自覚的で、わかっちゃいるけどどうにもならない、いやどうにもならないなんてのは嘘で結局僕はしがみついていたいだけなんだろうな、でもそう思い続けなきゃ、思い続けなきゃ? なんだそれは云々、というあたりが実によかった。ありうべき心的反応と内的過程をほとんど猟奇的に徹底してシミュレートしてる。
 これは「頭で書いてる」という印象を恐らく与えてしまっているのですが、作為を感じさせると言うなら、主人公の心情がすでに「自身の作為を自覚する」というものである以上、責められるべき点とは思えない。
 しかしどっかのレビューサイトで「自分を俯瞰する自分が出て来るから」という理由で「この書き手は頭で書いているからよくない」という結論に持って行ってる意見を見かけたときには情けなくて泣きたくなった。自意識ってコトバ知ってる?
 もうひとつ、いきなりヒロインに死なれても、プレイヤーはヒロインとの時間を共有してないので共感できない、なんて意見をきくけど、それは違うと思うんだ。いや「共感できない」のはかまわないんだけど、一意的に作品の側の不備に帰するのはちょっと。ようするに「問題ない」とか「逆に共感しやすい」って人がいるわけで。ある人が共感(感動)できなかった理由として述べているまさにそのことが、別の人間にとっては問題ない、あるいは逆に共感(感動)できた原因として機能している、という事態はうんざりするほど多いのだ。人は自分の感じ方を如何様にも正当化出来る。あるいは何を言っても理由にならない。
 SilverMoonのGEO時代の回想がただのお笑いというかほんとうに妄想になってしまった自意識過剰といったたいへん気まずいものであっただけに。

 あ、ひとつ気に入ったとこあったぞピュアメール。
 澤永がなんか碧に嘘ついて主人公の家に遊びに来るんですけど、そのことを問い質したならば、
 「碧、嘘つく子だから……」
 ブラーヴォ。なんたって「嘘つく子だから」ですよ? 「それは嘘」とかじゃなくて、いきなり友人を嘘吐きに仕立て上げる。あんた碧のたった一人の友人だろ。なんていい女なんだ。惚れ。

10月16日(月)

 ひどいよー

 気が付いたらピュアメール買ってた。なにかしら負のエネルギーを帯びた作品が欲しくなってたらしい。
 体験版やって以来、碧さんにはそそられていたのだが。お詫びのメールの口調といい、告白したあとの言い訳といい、たまらないものがあった。
 いや奈川はどうでもいい。EVEだEVE。厨房らしいハンドルだこと。
「謝ったほうがいいよ」「どうして? 私悪くないのに……」素晴らしい。ああ、だめな子だばかな子だお子様だ。愛しくてならん。
 僕もあの生々しい口調はたまりません。なんでここまで書けんの?
 はやくも宴に集う愚か者どもに愛を感じはじめているらしいです。こいつらほんとにどうしようもねえ。

 AIRというか麻枝話は死エロとづしの森(含掲示板)と平山さんと夏町さんとこに行って下さい。あ、あとコレも割と。

 好みのキーワードが出揃ってきたなあ。
 どうにもならなさ。一方通行と空回りと滑稽さと齟齬と距離への絶望。共有への不信あるいは拒絶。認識の外部へと逃げ去る相手。どうしようもない遅れ。どうしようもないズレ。当人に忘れ去られたのちに果たされる約束。自分が忘れ去っていたにもかかわらず発動する盟約。いつも盲目の位置に立たされる者が出る。

 たとえば「滑稽さ」ってのは「認識が共有されないこと」とイコールだ。当人には至って切実でありながら他人には笑うべき事態のことだから。

 麻枝准について考えているとどうしてもSenseOffになる。あそこでは、誰とも共有できない世界を一人一人がかかえている。たとえば「見る」ことができても「見られる」ことが不可能な事態として。
 なんか非常にコレを思い出すのですが。もしチューリングに会うことがあったら聞いてみてくれないか。

10月15日(日)

 かなわ ない なあ。物語駆動。

 これを思い出した。

 ユングの弟子フォン=フランツ「永遠の少年」(紀伊国屋書店)を読んでて面白かったのは、著者にいわせれば、「永遠の少年」という、本人も意識していないような「おはなし」(元型)に、実人生がまるごと規定されている、ということで。もちろんユング派にいわせれば元型は客観的な実在物なんだろうけど。
 AIRよりは『猫の地球儀』と「銀色」の第二章を想起させる、か?

 「高度6000キロメートルの地球儀」「物語駆動の愛」にもリンク張っとこ。

10月14日(土)

 的確

10月13日(金)

 なんていうか、そういうこと言うから「正確」って呼んじゃうんですよ。
 もちろんmk2さんの日記の「作為」云々も読んでますよ。ネズミーランド。

 陸奥九十九に本性を指摘されたレオン・グラシエーロみたいな気分。

10月8日(日)

 本日はとりとめもなし。

 エピクロスについては岩波文庫『エピクロス〜教説と手紙』を立ち読みしたきりなのですが、「眼と耳と舌と性の官能における快と幸福を離れては、わたしは何を「真」「善」「美」と呼んでいいのかわからない」とかそんな感じの断片がえらく心に残ってます。私にはわからない、という言い方がなんか好きで。

 あと、しのぶさんの文章から連想するのはニーチェの「われわれが芸術をもっているのは、われわれが真理によって台無しにならないためである」(権力への意志)か。これは言葉面だけの連想だけど。
 「正しさ」に負けないために、とかそんなことを僕はよく考える。らしい。

 「緑玉板」に行く。
 ONEが出た直後、どこかのネタバレ掲示板で、ラストの「再会」を、「ヒロイン達の心がやがて癒される」ということのメタファーではないか、という意見を見かけたことがある。最近もどこかで見かけた気がするが思い出せない。
 ぼくとしてはメデタシメデタシで済ませたいところなのでいささかの感情的な反発を避けえないのだが、たとえばTo Heartマルチ篇に比していえば、受け手には「俺がマルチと再会できてうれしい」という感情を抱くことが形式上許されていないことは一考すべきだ。まあ、あんまり考えずに普通にプレイしていても、明らかに異質な感触をおぼえるはずだ。と思う。
 澪シナリオはこの際忘れるとして。

 「別れと再会」というコトバで何かが語れると思ってる人を見るたびにシメコロシタクなります。ロボットアニメを「戦争があって主人公が最後まで生き延びるアニメ」という風に一括するようなもんです。かような視点も意味も捨象した甚だ貧弱な形骸に因って人はいくらでも論を立てることができる。もともと「意味」を見ないところに「別れと再会」という抽象が可能なのだから、いくらでも書き手の好みで「意味」を付け加えることができる。そんなからくりは見飽きている。
 かれらは、それがいったい誰の眼から見られた誰にとっての経験か、ということを見ない。神のごとき視点から客観的な事象の推移を見ることから始めれば、誰にとっても存在しないことがらに終わりかねない危険があるのだが。同じような体験をしたところで、それをどう受け取るかは恐ろしく違うはずだ。
 なんての、作中人物にどのように受け取られているか、という部分を飛ばしていきなり「受け手にとっての意味」に持って行ってしまう。そいつは状況論、しかもアタマの中だけで組み立てられたそれだ。真面目に足と耳を使った形跡のない状況論なんてのは、世の中をそういうことにしておきたいという願望でしかあるまい。

 ロボットですか。そうだね、たとえばロボット工学の三原則を持ったロボットが円滑に機能するためには「人間」という存在がどうしても必要だよね。僕としては、たとえばセリオが円滑に機能するのを助けるためになら、私のようなものにも存在を許されるのではないか、と思うことがあるよ。
 まあ、ほんとうに時たまだけど。
 僕は自分の存在意義なんて別になくても生きていけるし、そんなものにとらわれないほうがいいとは思うけど、一つ選べといわれたら、「ロボットを円滑に機能させるため」ってのが理想かな。この論法がメイドにもあてはまることにはいくらか気付いてはいたが。
 アシモフが名義貸してた「ロボット・シティ」シリーズ(角川文庫だったか)が、たしかロボットしかいない惑星が舞台で、ロボットが三原則の履行のために人間を拉致するとか、そんな発端だったような。ありがちだけど。ロボットが円滑に機能するためには人間が必要なのです。メイドがメイドであるためにはご主人様が必要であるように。

 あのね「アルバムの中の微笑み」の桜木霞ってメイドがね、仕事させないとご機嫌ななめになるわけよ。たとえば、荷物を持ってやろうとしたりすると怒る。あれ好き。

 アシモフ「ロボットと帝国」。イライジャ・ベイリは死の間際に、家族でも恋人でもなく一体のロボットを呼び「私の死によって傷つくな」と命じ、ロボットがベイリ個人の死によって傷つくのを防ぐためにひとつのアイデアを示した。だから銀河帝国ってのは、ただ一人の男が、ただ一体のロボットを傷付けたくないがためにひねり出した口からでまかせがもとなのだ。ほとんどバイオレンスジャックである。ロボ萌え一代男の最後としてはこれ以上のものはちょっと見つからない。

 ELYSIONといえば、横山堂さんとこ(Paper Company0310)がみつからなくなってる。情報求む。あすこの「終ノ空」レビューは読めた。

10月7日(土)

 うー

10月6日(金)

 やっぱ「葉隠」っすか。外部からは観察不可能であり完璧に没交渉な想い。忍ぶ恋。打ち明けてしまうのは、オモテに表れてしまうのは、報いや証しを求めるのは、すでに弱さであり堕落である。通常の恋愛は同書において一種の頽落形態と規定される。なんかモズグズ様みたいかね。
 枯堂夏子は、恋愛とは「関係」ではなく(おのおの孤立せる)「状態」のことだといっている。

 まあ極論だが、「好き」というキモチが何か別の物にすりかえられることに敏感な意見として。

 対抗されてしまいました。ちなみにエロゲー版ドンキホーテのどのへんがエロゲーかというと、なにしろ騎士なので、第三者の邪悪なる教唆ないし強制とか、主人公がからまないやつとか、そんなのになるでしょう。というかどうやってエロ入れるかとか考えてたらまんま「機械じかけのマリアン」になってしまった。あとメイド出すと「騎士」はムリくさいので「紳士」にするとか考えるとますます。アリス風ファンタジー世界なら騎士にメイドでオッケーなんだけど。
 ドンキホーテ騎士やめる→愛あるH→EDという流れは絶対にほしいところですね。

10月5日(木)

 わーい
 キャラ談義なんかまったく同感。

 裏日本工業新聞(10/3)読んで気になったので『竜が飛ばない日曜日』(咲田哲宏・角川スニーカー文庫)買う。読了。
 まともな感想はよそに任せるとして、「ヒロインがみずぴー(当然メガネ)で太田さんなんじゃよー」といったところ。というかこれ中将くん専用? つうくらいかましてくれます。僕はめがねのえらい人ではないので眼力にいまいち自信がありませんが。
 作品中にONEの長森シナリオについて語っているような所があって、ちょっと先に言われてしまった感じ。P124なんですけど。まあ、あれでは半分なのでいずれ書くか。
 それと「終ノ空」の、学校のみんなが突然ワケわかんないこと言い出す、あれを思い出しました。

 個人的には「想い」とか「願い」って言葉は嫌いです。行動しなきゃ意味がない、という意見はもっと嫌いなんですが。いや、なんだろ。想いとか願いってのは存在しさえすればいいと思うんですよ。「通じる」ことなんてなくても。通じるかどうかで「想い」に値札を付けてほしくない。意味があるとかないとか、価値とか、そういうのが嫌いなんだろうと思う。僕は。
 通じなかった/届かなかった/わかりあえなかった「想い」を否定したくないから。もちろん通じてほしい、そう願うことが「想い」の本質ではあるのだけれど。なんかやっぱり、それだけじゃないっしょ。
 まあこの作品においては「想い」ってのは、人と竜のゲームのルールのひとつなんですが。そういう点ではちょっとシステマティックな感じで面白い。

10月4日(水)

◆ヤツは空にいる

 お目出たき人→ドンキホーテ→Kanon舞シナリオ→連絡船奇譚→うしおととら→AIR、という経路で連鎖中。というのはいくらか嘘で、KanonとAIRはわりと藤田和日郎作品をよく連想する。いやたしかに、うしとらって感動系のお話が腐るほど出て来るけど、そういうのじゃなくて。

 しいていえばKanonはネタ的な類似(しいて挙げれば「連絡船奇譚」「おまえは其処で乾いてゆけ」か?)、AIRはテーマ的にいくらか。つーかわりと「愚か者は宴に集う」の「満足する死とは何か?」ってのがアタマん中リフレインしてちょっと困った。それで19巻ひっぱりだしてみたらさ著者コメントに「やせがまんって、どうしていけないのかな」なんてフレーズがあったりするし。麻枝准という人のシナリオは「無理して(=意識的に)笑う」というシチュエーションがやけに印象に残る。ONE長森シナリオでの浩平の残したメッセージとか、LastRegretsの「もう泣かない」というリフレインとか。なんというか普通は「自然な感情の発露」が人としての正しいあり方だ、という見方があると思うんだけど、そうはならない。

 「うしおととら」で気に入っている点のひとつは「世界はどうしようもなく不公平だ」っていう所から始めていることだ。理不尽な運命を強いられつつも、それを使命として受け入れるのが、あの作品で推奨される生き方のように思う。もとより「自分のせいじゃない」のが当り前なのだ。ちょっと危険思想な気がするが。
 思い起こすにサンデーで読んでる最中にツボだったのは、それが「他人には見えないし、話したら笑われるようなこと」(当事者にとってどれほど切実であっても)である点だったような気がする。当時の僕にとって「妖怪」とは「他人とは共有できない世界」を意味していた。ちょいと理解者が多すぎるんだが。そんなわけで終盤に理解者に忘れ去られるってのはなんか納得がいく。
 しかしこれも家族ネタてんこもりだなあ。基本的に嫌い。斗和子さんと「ブランコをこいだ日」は非常に効くのですが。なんというか、当り前に家族やっている姿ってのは心理的抵抗がキツいようです。即自的なのはだめですが対自的なのはオッケーっつーか。サルトリアンなのか俺。「家族」というものが人間にべったりとまとわりついてるのが嫌なので、ちょっと距離を感じさせてほしいということですね。家族感情とか母性愛とかが何か絶対的な基盤があって自明に存在するようなものとして描かれていたりするとマジ嘔吐もんですよ俺も。
 他人のはずなのになぜかどうやっても家族みたいなスタンスになってしまう、ってのは好きだったりしますが。「私ってどうしても、お母さんか妹になってしまうみたいです」ってフレーズで撃沈したし。(『アルバムの中の微笑み』の桜木霞)
 いや、分析は間に合ってるよ。

 さすがに衾=空にいる少女ってのはネタすぎですが。そいつは空でずっと待っていた、というフレーズは好きです。  

10月3日(火)

 平山さんの日記に「原田宇陀児氏の日記を読む」とあってちょっと驚く。昨日(の朝)、僕も久しぶりに全部読み返したばかりです。更新されてたし。
 ああ、更新されてたのを発見してついでに、ということだったらそんなに驚くような一致でもないのか。
 ちなみに僕はあれは読んでてうしろめたいばかりです。何を投影してるんでしょうな。

 最近はガンガンの「ヒーリング・プラネット」がいいらしい。ああまた安易な癒しを、とか言われそうですが、ここはひとつジャック・ハンマーのドーピングを許容する刃牙のような感じで許していただきたい。読めばいい。それで癒されると思うんだったら迷わず読むべきだ。とかなんとか。
 なんで加藤くんの蹴りが効いとるですか。やっぱり自然鎮火するまで放っておかれたのが応えてるんでしょうか。つーか放っとくな。死刑囚は最悪殺しちまっても問題ないから便利だけど家屋は。それと先週ドリアン氏が平気そうだったのを見てキグナス氷河の「薄皮一枚凍らせたにすぎん」ってのを思い出したんですがいいかげん年寄りですか。

 だからヒーリングプラネットの話。あれ、何がいいかってヒロインが人の話きかないところで。しかもそのおかげで癒されているという。患者が。いや、いきなり異次元のひきこもり少女を治療するはめになる女の子が主人公なんですけど。謎の組織にスカウトされて。わけわかんないですか。
 で、相手が何も聞いてないと思うとふっと言えてしまって楽になってしまうことって、あるじゃないですか。あの「人の話を聞かないやつ」ってのは悪口ですけど、そういう悪口言う人ってつまり「俺の言うことを聞け」って思ってるわけですよね。やっぱり。今木は日頃から考えなしにモノ言うくちなので、なんか真面目に聞かれる度に非常な重圧です。いや、たとえばセリオみたいにほんとうに全部マトモに聞くことしかできない存在がそばにいたりするとやっぱり敗北するしかないと思うんですけど(ここのセリオ話は必読)、なんか他人に影響与えるのってやっぱ恐いじゃないですかほら。まあ基本的には自分の言ったことが何者かでありうる、ということがぜんぜん実感ないので、それはいつまでたっても未知の恐怖のままでいっこうに馴れることがない。やけくそに開き直ったりたかをくくったりしなきゃモノなんて言えない。そこで冷静に対処できないあたりが恐怖症の恐怖症たる所以で。
 あと、その少女は、こっちのことをきちんと見てるわけじゃないから、何も要求しない。しようがない。相手の「人格」(性格)なんて問題にしない。ただいてくれることだけを望む。なんか楽しいらしい。
 すばらしいのは、全然、心とか通じ合ってないところ。相互理解もくそもない。こちらにとってもその少女は、ただ「いてくれる」だけでなんとなく気が楽になる、そういう相手で、あと話はあまり通じてないっぽいんだけど気にかけてはくれる、そういうのに今木はなんかゆさぶられる。というか萌え。
 ああ、MK2さんの影響うけまくりかも、この芸風。もっとあなたの色に染めて。

 でやはりというかAIR話になるわけですが。麻枝准というひとはなんでこんなに空回りというかすれ違いというか、そういうの描くかなって。物凄く感じるのは「共有できなさ」を執拗に描くなあってことで。
 典型はKanonの真琴シナリオかなと思うんですけど。想いがどうしようもなくすれ違うかたちでしか出会えなくて。出会ったときには決定的に重ならないことが約束されていて。真琴と呼ばれてたあの子にとっては、どっかの狐なんてのはおそらく、自分には預かり知らぬ存在にちがいなくて。ジゼルにとってのレティシアみたいな。沢渡真琴って名前さえも借り物で、だからオレはあの子の名前をほんとうには呼ぶことさえできないのかって。なんのために来たんだようこのばか。結婚しよう。
 どうやっても一方的で、自己陶酔にしかならないような、そんな場所しか残されていなくて。それとも、モノローグの果てに何かを見出すべきなのだろうか、それしか方法がないのだから。

 とか思ってたら、なんだ、互いにひとりごとしか言ってないのに何も問題なくやってるじゃんヒーリングプラネット、とか思うと非常にこう。
、  いや、こういうこと考えてるとsense offが混じってさらに頭ん中ぐじゃぐじゃなんですが。
 でAIRだAIR。
 観鈴と晴子さんが「親子」という想いと認識を共有したとたんに、一方が記憶喪失になってしまうじゃないですか。約束は残るけど、それを誰か第三者に向かって証明することもできないし、約束した本人も忘れている。一個人の頭の中にしか存在しないそれは、単なる妄想とかわりない。

 あと、トラウマゲーとか泣きゲーってそれなりに見たけど、ふつうはどうも、過去の傷とか悩みとかを共有するようなんですね。でも、浩平って自分の過去とか抱え込んでるモノって、最後までひとりでかかえこんだままじゃないですか、麻枝氏サイドでは。柳也は昔話をするが浩平はしない。観鈴と往人にとって「夢」を共有することはデッド・エンドか、一方の消滅をしか意味しない。

 あーだからなんての、他人と「想い」の中身を共有しあえなくても、それでもやっぱり「ひとりじゃない」んだって、そういう風にもっていきたい。「想い合っている」というのは通じ合ってるってことじゃなくて、AはBのことをBはAのことを、それぞれまったく違った仕方で考えていることで。長森との絆ってのは「こいつもまったく同じ感覚でいるんだろうな。」(気の置けない幼なじみという感覚)というのを否定したところにしか存在しないわけで。
 晴子さんは一方的だし、観鈴は何も知らせない。観鈴の記憶喪失ってのはだから泣かせるためでもあるんだけど、それにしてはしつこいというか余計な気がする。僕としてはしかし、そこまでして、二人の人間が同じ世界を見ること許さないって所に、何かしら徹底したものを感じるわけです。
 まあ人生なんて自分だけのゴールをめざすしかないのさ、と言ってしまえば簡単だが、言うは易く行うは難し。そして「しかない」を「すべきだ」と混同してはならない。

 自分だけのゴールだと思っていても、自分にとってしか意味がないとは限らない、ってとこかな。それが気まぐれに定めた地点でも。自己陶酔しか許されていなくても、自己完結させてくれるようには世界はできていない。翼人をメタファーとして解釈したいならそういうのもありかと。というか、あの世界での単なる事実として。

 MOON.で、郁未と少年の物語が二人だけのものになろうとしたときに、少年が突如として「ぼくたちふたりではなく、ぼくたちの種族と、きみたちの種族の問題なんだ」と語り出す。あの感触によく似ていた。そのときは不快だった。二人だけの世界に行かせてくれないのが不満だった。AIRの観鈴の最後の笑顔のあとも、そういう感触をおぼえた。なんでキレイに終わらないのかなって。ただ一方で納得する面もあって、それは、個別な想いがそれだけでキレイに閉じることに、何かあやうさを感じるせいかもしれない。まあ、勝手な感想だが。

 そういえば昔「上弦の月を食べる獅子」(夢枕獏・ハヤカワ文庫)読んだときにこんなことを考えていたような。何年前かな。文庫化された直後にみみなちゃんの下宿で読んだんだっけ。懐かしいね。ちなみに「ONE」やった時は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は読んでなかったせいもあり「上弦〜」を先に連想したなあ、とか。

10月2日(月)

 ちぃ。

10月1日(日)

 Pantser氏おすすめの『お目出たき人』(武者小路実篤・新潮文庫)を読む。実篤って天才……! どうしてこんなの書けるんですカー、みたいなのが目白押しだ。
  なんつーか「好き好き大好き!」が面白い人にはおすすめ、ってとこ。思考パターンがよう似とる。というかこっちの方が凄い。

 で、主人公が書いた小説みたいなのが附録としてついている。ここまでやるか? しかもその内容がこう……ウウ。存在しない妹が出てきたりするのである。
 真面目な人にはわからないだろうなあ、こういうの。

 この日の晩は「ギャル/エロゲー版ドンキホーテ」というネタをえんえんと考えながら寝ました。サンチョ・パンサがメイドなの。最初は「旦那さまやめてくださいよう」って泣きながらついていくんだけど、旦那さま(当然のように美青年)の、以前は見せなかった溌剌たる笑顔に一瞬心を奪われたり、青臭い正義論につい感動してしまったりしていくうちにその気になってく。が、このままずっと旅を続けたいと願うようになった矢先、旦那さまは正気に戻る。で死ぬ。ドンキホーテが夢から覚める時は死ぬときだ。ラストシーンは「旦那さまあ一緒にまた冒険しましょうよう、えぐえぐ」とか泣くわけな。泣きゲー。あと「現実へ帰れ」というメッセージ。でも一度EDをみると「ふたたび二人は旅立つ」というハッピーエンドが可能になるのでユーザーも大満足だ。書いててどんどんなげやりになってくのがわかりますね。
 最初はドンキホーテを女にしようと思ったのだが、それだとKanonの舞シナリオになってしまうのだった。

 いや、読書猿のこれを読んでたら、なんとなくね。


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