ギャルゲー日記(仮)

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11月23日(火)

 きょうも11月祭上映会。「機動戦艦ナデシコ Prince of Darkness」「わが青春のアルカディア」。
 「アルカディア」はやはりイタい。気持ち悪いし。
 だいたいハーロックってぜんぜん大した奴じゃないんですけど。へっぽこな主人公に尽くしまくるサブキャラ。やたら主人公に甘い状況。駄目なギャルゲーだってここまでひどくないだろう。御都合主義で塗り固められた少女マンガとか、そんな感じ。
 冒頭は好きなんだけど。

11月21日(日)

 アニメ版「星界の紋章」全話一気上映鑑賞。ラフィールに存分に萌える。アニメスタッフはいい仕事をしている。どのくらいいい仕事をしているかというと、
 「出生の秘密」の話ありますよね。あの猫のやつ。あれ原作だとゴースロスに行く短艇中での会話なんだけど、アニメだとゴースロス艦内のジントの部屋でやってます。
 ここで次にようなシーンが可能になる。ああもうベッドに並んで寝そべって天井見上げるわ、ジントに笑われて激昂したラフィールがのしかかってくるわ、おにーさんクラクラ来ちゃうよ。
 ほかにも、葬儀ロケットの棺の中のやりとりなんざ、セリフは一緒なのにやけにクソ甘いんである。「きゅうに、そなたがいとわしくなってきた」なんかニュアンスが180度違う。むろんオッケーっすよ俺は。

11月20日(土)

 学祭初日。アニ同の上映会にてオネアミス完全版を観る。
 ぼくたちは連中が諦めないことを知っている。ロケットの打ち上げが成功することも知っている。音楽が盛り上がったときにしかるべく感動すればいいことも知っている。そういう感動を拒みはしないけれど、でもなー、という部分はあるわけで。
 シロツグがリイクニに「いってきます」としか言わなかったこと、最後の祈り、といったシーンについて感ずるところはないとですか?

 「おまえたちの真実は口から出れば偽りに変わり、おまえたちの善き心は手に伝われば災いをなす。人間にとって良いことが神にとって良いこととは限らない。」

 神と人間の関係はそのまま他人と自分の関係でもあり、たとえばリイクニとシロツグにおいても然りだろう。神とは一般化された他者であるわけだ。あるいはその逆。といった程度のことは普通考える。そういう風に強いられるはずの映画だ。
 なんか観るたびにリイクニの印象って変わるな。昔は苛立ってたんだけどね。なんつーか他人ってのは「どうあって欲しい」云々以前に、居てくれるだけで有難いものではないかなと。理解可能性とかとは関係なしにね。はは。

 オネアミス論といえば松田真輔氏を紹介しないわけにはいかない。作品についての言葉のあり方において、もっともマトモな感覚の持ち主のひとりである、というのは僕の感覚だけれど。
 この人が「4年前」に居た場所に、今いるように思う。勝手なことをいえば、初期の柄谷行人の吉本隆明論「心理を超えたものの影」「発語と沈黙」(『畏怖する人間』講談社文芸文庫)あたりの認識(これはそのまま「探求」におけるスピノザやウィトゲンシュタイン論につながっているように思う)が、個人的にはもっともこの映画の気分に近い。

11月17日(水)

 ピュアガールのN.C.P(更科修一郎氏の連載)の今回のお題はKanon。更科氏は某ホットミルクでの「いちょうの舞う頃」評が気に入っていた。手許にないのでよく覚えていないが、たとえば、「イベントで盛り上げる」という手法をとらない、という点を評価をしていたように思う。ひらたくいえば、わが意を得たり、といったところだったわけで。
 当時の僕は「いちょう」が尋常ならざるほど気に入っていて(今でもだが)、しかし、「盛り上げて欲しい」だの「メリハリが足りない」だの果ては「文章に工夫が足りない」(しかも引き合いに出すのがTo Heartだの痕だのときたもんだ)なんて評をネットで見かけたり知人から聞いたりして、けっこうクサっていもした。そんなことをしたら何もかも台無しというものじゃないか。なぜ「そういうもの」として受け取れない。
 もっとも僕はそのころ、盛り上げること、狭義の「感動」、作為的でかえって素人臭い文章、等にちょっと疲れていて(勝手な話だ)、そういう個人的(というより時期的な)事情をどこまで超えているのか、不安といえば不安ではあったので。
 たとえば「タメ」が足りないとか、そういう感覚はわかる。しかしそれが技巧上の欠陥だなどと得々と語られるのにはと評されるのには我慢ならない。むろん技巧的に万全であると主張する気もないが、技巧的なものというより作品の性格上のものだ。少なくとも僕にはそう機能している。
 で更科氏のKanon評。構造とか記号とかをあらかじめ鬼退治しておいて、しかるのち「手触り」を持ち出すとか、そんな論法。さすがにプロは「人が死ねば泣けるのは当り前」とか「キャラが萌えやすい記号でどう」とか「野島伸司と見分けがつかない」なんて退屈なことで結論づけたりしないね。もう平井和正の言霊理論であり、計算を逸脱する感性であり、文章の自律的なリズムである。いや結局「物語のルネッサンス」とかそういう方向に行くんだろうけど。個人的には状況論より印象批評やってほしい人なんだけど。まあこの人の状況論ってのは自分自身の印象を深く掘り下げて行ったところに成立しているあたりが誠実でいいとは思うんだけどさ。僕のこの感触が当たっているかどうかは知らないけど。
 いや、皮肉に聞こえるかもしれないけど、誉めてるんです。

 追記:第10回に氏の状況論への傾斜についての説明がありますのでそちらも参照していただいたからといってどうということはないのですがきっと誰かが喜びます。親鸞とか。こちらに掲載されてます。

11月15日(月)

 それでは今日の、勝手に補う「フロレアール」事典。何を補うかっていうと兄貴の館やつ。あれはいいものだけど、取りこぼしか、または説明不要と判断され割愛されたのか、まあ僕の欲しい項目がなかったりするので。
 なお、当方の知識がありあまっているので教えるわけではなく、わかんなくて仕方ないから調べたのを公開するだけである。
 ヴィーナー・シュニッツエル。シュニッツエルってのはドイツ料理で、カツレツみたいなやつらしい。何の肉の? 調べた限りじゃ「牛か豚」と「トンカツ」の双方があるが。ヴィーナーは「ウィーンの」でいいのかな。東京ラーメン、みたいな。
 ハルキゲニア。クラマスが齧られなかったやつ。こんなの。先カンブリア紀のけったいな生き物。バージェス頁岩でワンダフル・ライフなやつ。名前は『現実でない』という意味である、ってのがなかなか。
 知解。よーするにアタマでわかること。概念的・分析的な客観的認識、でいいのかな。人間にはこれとは別に、「腑に落ちる」「納得する」といったわかり方があったり、認識に先立つものが必要だと言われたりする。
 ちなみにたとえばR・田中一郎にとって、「痛み」は「知解」することしかできないものである、といえばわかりやすいだろうか。
 ところで通常は「知解」に対するのは「了解」(納得)もしくは「信」であろうと思うのですが(大雑把)、ジャン君は「理解」って言ってますね。
 本編中でも名前の出て来るサルトルの『弁証法的理性批判』なんかも「知解と了解」がひとつのテーマになってるそうです。読んでませんけど。
 『ウィーンの辻音楽師』。ジャン君が読んでた本。ドイツ文学。グリルバルツァーとかいう人が書いたらしい。邦訳は岩波文庫(現在絶版)。見たことないです。
 マデイラマデイラワイン
 コンドミニアム。アパートメント。フランスでいうアパルトマン。だったと思う。
 ゾロアスター教のアルナ・ワルヤ呪については調べがつかず。
 あと「シュールレアリム」じゃなくて「シュールレアリム」。本文でもそうなってた。
 「ハイデガー」の項の「フッセル」は「フッサール」って書いた方が一般的じゃないかしらん。
 「僕だけのアール」。「技術」(アート)のフランス語。


11月2日(火)

 『スタープラチナ』の脚本陣に三角形の第四辺って名前が。はい、WHITE ALBUMの原田宇陀児氏ですね。

 「いきなり高尚っぽくなる文章」ってのはそういうことか。
 たぶん、詩乃(メガネ)とまりあ(お嬢)を担当したに違いない。眼鏡っ娘がいきなり堰を切ったように喋り出すシーンとか、好きなんだけどなあ。

 『三角形の第四辺』ってナニ? という方はこちらを参照

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