ギャルゲー日記(仮)

ダイジェストへ戻る

先月分


7月31日(金)

 小説だろうとマンガだろうとアニメだろうと映画だろうとエロゲーだろうと、それが「ギャルゲー」にほかならぬ、と確信できる瞬間があります。
 しかし、それが何なのか上手く説明できません。
 これはおそらく例の「SFマインド」とか「センス・オヴ・ワンダー」に相当する感覚であろうと思うのですが。

 先日、フジタカシ君が「ギャルゲーの魅力は何ですか?」という話をしてたのに横から首を突っ込んだのだが、ろくな見解は出ずじまい。
 いちお、メモっとく。
 絵の存在は不可欠である。ただし、絵のレベル・クオリティはそんなに問題ではない。オンナノコが俺様に好意的に見えればだいたいオッケー。眼がデカけりゃいいんです、と最近ブレンパワードスパイラルムックの富野氏インタビューを読んだオレは答えたのであった。
 それはつまり「正しい世界」なのだから魅力もへったくれもない。
 舐めてかかっても平気。ギャルゲーなら誰にでも批評できる気がする。
 コミュニケーションツール。
 その存在が当り前になってしまえば理由はない。現代人に「テレビの魅力ってなんですか?」と訊くようなもん。
 ……と思い付くまま挙げていくと、ちょうど「SFの魅力」を説明してるときにSOWについて語り落としてるような気分(のように推測されるもの)になってきて。

「ハイエンドノベル振興会」ってページの「原理主義者の殿堂」にリンク貼ろうとしたのにつながらない。困った。
 高千穂遙みたいなSF者には神様が電波で教えてくれるので、ある作品がSFかそうでないかが区別できる、って話が載ってたんだけど。

 かわりにココを紹介しときます。高千穂発言の「SF」を「ギャルゲー」に置き換えると最近のオレになります。
 同「SF」を「ガンダム」に置き換えてしまったような人も後年では珍しくありませんね。「Zはガンダムじゃない」とか。

 世の中には「めぐりあい宇宙」はガンダムじゃない、と瞬時に判断なさる方もいらっしゃいそうな気がします。

 これって現象学の本質直観ってヤツですか?

 何が言いたいのかわかんなくなってきた。


7月30日(金)

 はるにゃー。

 たとえば計算能力がいまや人間の知性の本質から外されているように(機械によって再現可能であるというただそれだけの理由で)、「わけへだてない優しさ」ってのも人間性の本質から外されてしまうのだろうな。勤勉も忍耐もその他もろもろの美徳も、機械によって再現可能であるというただそれだけで「非人間的」と見なされうるわけだ。
 たとえば「いつも変わらぬ態度で接する」ってのは人間の美徳のうちに数えてもいいと思うわけで。
 ちうわけでオレが春菜に傾倒するのをなんぴともとどめることはできません。浴衣だし。

 そういえばアシモフの三原則なんか、現実に再現されてさえいないのに、はやばやと「非人間性」の領域に追いやられてる気がする。(理想的な家電の特徴だとかなんとか)。それはそれでヘンな気分だ。

 どうでもいいが「となりのアンドロイド」(黒崎政男)の三原則への言及はヒドい。「鋼鉄都市」しか読んでないだろー。「われはロボット」を読んでれば容易に避けられるはずの根本的な誤解がある。
 つうか、三原則への一般的認識って「われはロボット」の前半までで止まってるんだけどね、たいてい。スティーブン・バイアリイとマシンに至るからこそ面白いのにー。
 なにも「心にかけられられたる者」(創元文庫「聖者の行進」所収)とか「ロボットと帝国」まで読めとは言わないからさ、三原則について語るなら「われはロボット」一冊くらい最後まで読めよー。

 まあ、作家がどうタテマエを書こうが斟酌しない、ってえなら話は別だが。


7月29日(水)

 14日の日記について一人ツッコミ。
 新たな表現技法が生まれると決まって旧来勢力の抵抗に会います。映画が出たころは「想像力を働かせるぶん小説の方が映画より高級だ」とか言われたそうです。
 オレがまだ義務教育についてたころは、マンガより小説の方が(絵が存在しないぶん)優れた表現方式だと思ってるセンセがいました。

 オレがそれに似たようなことを言っていると思われるとかなりダメージくいます。

 たとえば、あえて「画面を見せない」ということにこだわったエロゲとして「Esの方程式」を挙げることができます。LVNSなんかよりよっぽど小説っぽい。
 「絵が存在する」というだけで使えなくなる技法が、小説には山ほどありますからね。

 どんな種類の作品に対してであれ、ナマの手触りへの欲求はつねに存在するわけですが、たとえばテクストに(あるいはCD-DAに?)「ナマの手触り」を(充分に)感じ取ることができない人間が「声」を欲しがるんじゃないかな、と考えることがある。

 近年のF&Cのゲームだと、セリフが薄いぶん、声がついてちょうどよいバランスになる気はする。


7月28日(火)

サイボーグに生きがいはない

 そんなわけで(どんなわけや)平井和正「サイボーグ・ブルース」を古本屋でめっけて読んだり。ウルフガイ以外ほとんど読んでないのだが。

 そうか「ブラックロッド」って、90年代版「サイボーグ・ブルース」だったのカ! というよくわからない納得の仕方をする。詳しく書くとメンドいのでパス。
 まあ、時代に応じた華やかなガジェットといい、ちょっと特殊な構成といい、ちょっとリリカル入ってるトコといい、「生きがいはない」存在といい。
 あ、「スキャナーに生きがいはない」っていうコードウェイナー・スミスの短篇があるのです。「人類補完機構」(ハヤカワ文庫)のいっちゃん最初だったと思う。

 疎外と自己憐憫と女性による癒し、というネタは昨今のギャルゲーとかゲーム小説とかわんないのだが、なんか根本的にスピリチアレベルが違うねえ。洗練度は大幅に落ちるが。
 なんてことはサルでも書けるか。

   「メガロポリスの虎」は見つからず。
 ところで「」って「メガロポリスの虎」のことでいいの哀。

はて

 「SEに生きがいはない」ってフレーズを誰かの日記で見かけた気がするのだが。


7月27日(火)

 25日に続きONEと「永遠」の話。つうか補足。未プレイ者はネタバレ注意。

 えー、MOON.に下のようなセリフがありまして。範囲指定でヨロ。

  「不可視の力とは、邪な力」
「自分の正の意志とは、相対する意志を持った力」
「自分の願いに反し、作動する力」
「陽は陰を造り、正は邪を造る」
「そして互いはせめぎ合う」
「すなわち法則だよ」
「そしておまえは十六の歳になるまで、その力の目覚めを知らず生きてきた」
「だがその力をも目覚めさせる正の力がおまえの中で働いたのだな」
「母と暮らす穏やかな日々に、おまえはこう願った」
「この生活を失いたくない」
「違うか」
「それが不可視の力が放たれる引き金となった」
「穏やかな日々を大切に思う正の心」
「それに反す、おまえの中に潜む邪の意志がその穏やかな日々を壊したのだよ」

 上みたいな感覚はわかりますね。実はまるきり理屈になってねえんだけど、人の心のからくりとして、あるでしょ?
 ただ、上のセリフの「MOON.」内での位置付けはちょっとアレなんですが……
 でも、「ONE」もそういう感覚に基いているのではないかと僕は思ってる。単なる連想って話もあるが。まあ上のじゃシャドウと変わらないので、ONEはもうちっと高度ですけどね。

 茜に「この現実はあなたにとって意味のないものなんですか?」って言われたとき、かなり違和感があった。
 現実がヤだから(永遠の世界へ行きたいから)「あちらの世界へ行く」ってのはねえ。違うと思ったんすよ、この作品に関しては。

 そりゃまあ深読みすれば結局はそういうことになっちゃうのかもしれないけど。

 最近ちょっとヤバいです。冗談にでも「永遠の世界に行きたい」って言われたら「そうしたいのならまず、この日常のかけがえのなさを認識することだ。それが永遠の世界へ消えるための第一歩」なんて答えて、「は?」って顔をされかねない。つうか昨日、ヤバかった。


7月26日(月)

幸せになるためには、アリバイが要る

 ほったらかしになっていた「月と貴女に花束を」をどうにか読了。もうやだ。
 あんまりにも稚拙なのはいいとして、いっちゃん肝心なトコで問題のすりかえやってる。そーこーは、恨まれてるかどうか、じゃなくて自分で自分を許せるかどうか、つーか実はやっぱり恨まれててもかわりに深雪ちゃんが許してくれたりするのがー、オレ的にはベターなわけでー。
 なぜ(幸せになるのに)アリバイが要るんです?

 口直しに「狼よ、故郷を見よ」を久々に読んじまった。失礼な使い方をしてすみません。

 エロゲーの主人公なんかでもよく、オヤジとの確執があったりして(剣乃ゆきひろのアレとかLeafのアレとか)、たいてい「実はオヤジはお前を愛していた」ってカタチで落ちが付くんですが、そういうのをして「幸せのためのアリバイ」と言ってるわけで。ナディアとか。
 「頼まれなくたって、生きてやる」くらいのコトは言えないのか?

 あと、惚れてくれる女の子がいるけどその子は「実は」その昔オレサマがナニカをしてやった、そういうアリバイがあるからオレは幸せになっていいんだ、とか。

 ……深雪ちゃんは悪くないよう。

 ギャルゲーにおける家族幻想の異様な強さには色々と思うところもあるのだがそれは置く。

 別にさあ、家族的な関係や「祝福された生」のヴィジョンを求めるのはいいよ。でもそれに実体的な基盤を与えてしまうと(血縁に基く絆とか過去の事実とか)、救われる人間はあらかじめ定められている、っていう予定調和的な救済論になっちまうんだ。

 あずみ椋の「ミステリオン」(ASUKA COMICS)と比べてるせいなんだけど。ONE/Kanonの某キャラのシナリオとか。
 ネタバレ書きたい。


7月25日(日)

 「夏街道−サマーロード−」「水路の夢」(早見裕司、AMjuju)を古本屋で購入。ようやくSDガンダムその他を取り上げた「G20」も買う。

 ガンダムとは結局何か? と聴かれれば、「SDガンダム」と答えるだろう。あれが現在に至る「ガンダム」の本質をあらわしているのだ、と。

 生き残ったのはモノアイじゃない。目が二つあってツノが生えてたあの「顔」だ。

 ガンダムと聞いてあの主役メカを思い出す人間とは、一生わかりあいたくない。
 「物語」も「テーマ」も「戦場のニオイ」も「世界観」も、それは生き残るためには不要だったのだ。新たなアニメ作品とファンの時代(アニメ新世紀)、なんてタワゴトだったね。ジャリ向けじゃないTVアニメなんていらなかたんだ。あの、顔ばかり強調された連中がもっとも「生き残りに適していた」。やつらのおかげでガンダムは滅びなかった。0083観喜んでる君も、ターンエー観て楽しんでる君も、SDガンダムには感謝しなきゃならない。

 スーパーロボット大戦にも。断片的なシチュエーションや、もはや「お約束」「情報」「知識」でしかない死んだセリフを、消費してる連中にも、感謝はしておくべきだろう。
 あとの全部は屁みたいなもんでね。

 

 いかにして「永遠」という概念がひとのアタマに棲みつくか。以下は「ONE」ネタバレじゃないけど先入観は植え付けるので未プレイ者は読まないこと。

 ウテナやONEでの「永遠」というのを、たとえば絶対的なもの無限のもの彼岸のもの、そういったものへの憧れとして語ることは、個人的には違和感がある。
 たとえば吸血鬼モノとか銀河鉄道999の「永遠のいのち」みたいなソレとは全然違うわけで。

 ぶっちゃけた話ぼくは「ウテナ」や「ONE」の永遠にはロマンティシズムのカケラも感じない。わかりやすい実感としてある。

 美しい思い出を持つ者だけが永遠を願うことを許される。デュエリストは過去の思い出というイリュージョンによって決闘の場に立つ。そう言ったのは御影草時だけれど。

 岸田秀なんかに言わせると「未来には無限の可能性がある」なんて人が言うのは、無限の悔恨を埋め合わせるためのものなんだけど。人間はアナクロニズムの動物であり、過去ありえた可能性をはてしなくうじうじと悩み、それゆえに未来は埋め合わせのために時間軸上に投影された過去(というより人間の悔恨から時間は「発明」されたのだ)にほかならない。

 きりのない悔恨を投影する軸を少し変えれば、それが「永遠」だ。ウテナについては、「永遠」というのが「きりのない悔恨」以外の何者でもないことは自明だと思うけど。

 逃がした魚は大きい。それが有限な大きさで済むのは、また釣りに行くことができるからで。二度と釣りに行けないとしたら、逃がした魚は無限の大きさを持ちかねない。
 思い出はとりかえしがつかない。とりかえしがつかない、という前提のもとで「思い出」が生成する。思い出とは、とりかえしのつかなさそのもののことだ。無限に美しくあるほかはない。
 追憶は美しい。美しいものは追憶だけである。

 もひとつ。ONEの「永遠」と「日常」はむしろ共犯関係であって、対立図式を立てることはできない、ということ。

 日常が大切に思えるのは、それがあらかじめ失われているからだ。現在をあたかも追憶のように眺める視線が、日常を価値として立ち上げるわけで。しかしそれは同時に、現在(日常)を過去(永遠)へと葬り去る原動力なわけで。

 かわりゆく現在をかけがえのない瞬間だと思ったからこそ、それを自ら失う破目になるのだ。日常を貴重だと思うから永遠なんてものにとらわれるのさ。

 勝つと思うな思わば負けよ。

 不可視の力?
 こういうことをどうにか筋道立てて述べたいものだが。

 参考:岸田秀「時間と空間の起源」(『ものぐさ精神分析』所収)、三浦雅士「自分が死ぬということ」前書き。

 あとはそうだね、 そんな子供の口約束程度のもののせいでおとぎ話レベルのもので現実が侵食されてイイノカ、という問題がありますが(そういうことを言うヒトがいるけど)、話し手(主人公)がソレを自覚してるってことは、現実ってのはその程度の脆いものである、という世界観として受け取るしかねえんじゃねえの? 最低でも。

 つーか村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」読んでも同ように文句言えよオマエラ?
 筒井康隆「死にかた」(角川ホラー文庫の自薦短篇集「鍵」が入手しやすいと思う)読んでもちゃんと、「オニという存在は理解不能でありこの短篇の欠点であるが、その一方で人物の描写は読ませる」って言えよ?

 ボクって権威主義的ですか? ちなみに権威主義的性格とは権威を振りかざすことではなく権威に弱い性格のコトだったと思う。


7月24日(土)

 なんとなく早見裕司「世界線の上で一服」(ファンタジーの森)を読む。オジサンのためのブギーポップ(「歪曲王」?)なんて風に誰か(大森望だったと思う)が紹介してたようなんだけど、ノリとしてはむしろ児童文学系かのう。作中でも言及のあった「光車よ! まわれ」(天沢退二郎・ちくま文庫)とか。主人公はオジサンで女子高生に振り回されてるけど。

 つーかブギーと比べちゃ駄目っす。
 ブギーは面白いのはあくまでお話の構造であって、そこで言われていることはかなりどうでもいいんだが、こちらはそういう風には面白くないからね。

 マトモな解説はファンタジーの森のページで飯田雪子がやってるからそっちに譲るとして、女の子に振り回されたりバカにされたりじれったがられたり足を踏まれたりしたい人はぜひ読んで癒されてください。不用意なことを言うと凄い目で睨んでくれます。迂闊にわかったような口をきくと「ちがーうー」ってじたばたするし。何よりいい奴だし。素晴らしい。


7月20日(水)

 なんとなく興が乗ったので「ブレンパワード」を観る。途中から始めて一周。
 今頃観たのは、「ブレンパワード スパイラルムック」(Gakken)をつい買っちゃったせいもあるんだけど。ええ、ハダカは好きですとも。

 なんつーか観てて「あちゃー」って気持ちでいっぱいな作品なんですが、じゃあ魅力が無いかというと決してそういうこともないわけで。

 ネリー・キム登場以降はもひとつ好きになれないんですけどね。面出明美の小賢しさがブレンという作品にとって非常にマイナスだった気はします。
 キャラがめいめい勝手なこと言ってわやくちゃになっとるような雰囲気が好きだったし、で、まあ要するにあんまり元気じゃなくなっちゃった気がするのね。

 バロンとジョナサンはヒットだったけど。つーか、ラストのメインはこいつらだよ絶対。
 どうもクインシィは中途半端にすぎるなあ。

 絵的に面白いシーンって意味じゃ、ターンエーよりよっぽどハジけてて面白いんですけどね。ぎこちないんだけど、それがマイナスになってないっていうか。

 ちなみに、個人的にイチオシのブレン談義はコレ


7月14日(水)

 音楽が控え目な映画は良い、そう言ったのは武満徹である。

 (ある種の)作曲家にとっては、音を沈黙と測り合える高みにまで引き上げることが、
 詩人にとっては、言葉を沈黙の高みにひきあげることが重要だという話。

 かくも言わぬまでも、そこに何らかの表現要素(絵とか音楽とか文章とか)が存在することと存在しないことは等価であろう。
 君だって誰かと話す時には、「何を言うか」という以上に「何を言わないか」ということに気を使うハズだ。
 文章にしたって推敲ってのはつまり「削る」ことだ。

 そこで音楽を流すことと流さないことは等価のはずだろう?
 あるいは、そこでグラフィックを見せるか見せないか。アニメなら、動くことと動かないことは本来は等価であるはずだ。
 キャラに声が付くことと付かないことは等価であろう?
 イメージが崩れるの崩れないのなんて問題じゃなくてさ。想像の余地云々でさえなくてさ。

 表現の豊かさだの進化だのを足し算的に発想するのはやめなよ。
 快感要素を足し算したところで快楽は増えないよ。

 どうしようもなく粗雑な表現を誤魔化すために、快感要素の物量でゴリ押しするようなマネはやめないか?

 声を欲しがったりグラフィックを欲しがったり果てはプレイ時間を量的に欲しがったり、そういうマネはやめたらどうだい?


 

7月7日(水)

 えー、PS版To Heartを音声ONでやってミニゲームもだいたい出したひとは、ヨーグルト氏のページのMP3のお部屋に行って即刻「BonusTrack −PSTH Mix−」をDLするように。川澄綾子に困った声出させて喜んでるような人は特に。聴いたらちゃんと感想送りましょう。もっとやれって。

 Leafのボーナストラック風のアレです。源平討魔伝とか播磨体操第一とか。

 まあソレ系のMIDIを集めてるような人で同氏を知らないことはよもやあるまいとは思いますが。あと、よりにもよって、こみパのOPのたまに流れる方(Tr.25)をMIDI化してらっしゃいます。うひゃあ。
 久遠の絆の「転生」(かなり気の狂った音の組み合わせらしい)とか「Tank!」(合作)とかそういうのもあるので凄いです。

 えーネットでCGを集めたり小説を集めたり感想を集めたり音楽を集めたりする時期が周期的に来るわけですが、現在は音楽期ってことで。ちなみにHDの残りが少ないので昔集めた絵をガンガン削ってます。移り気。

 HD買えよって話もありますが、昔好きだったものをフルイにかけるのがけっこう好きだったりするので。
 自分が自分であるために、捨ててきたものの数をかぞえる−−とかなんとか。

 あと、言うまでもなくというか、音楽収集の基点はげ〜む音楽図書館


7月5日(月)

 持ち金がアレなのでピュアガールを立ち読みで済ます。かかし朝浩のマンガを読んでDragonAshが「DTエイトロン」の主題歌だけの存在ではないことを初めて知りました。

 lainのOPとDTエイトロンのOPと雨のちスペシャルを連続で聞くのが日課です。たまにWhiteAlbumとTellMeWhyも混ぜます。だらだらと。たいていはネットで拾ってきたMIDIデータですが。


7月4日(日)

 [Ti]さんコレ(981212)を読んで以来気になっていた、SJV普及委員会の“Leaf”と“leaves”をようやくDLし終わる。近日削除告知が出てから慌てて行ったわけです。

 内容については、えーわざわざオレが誉める必要はないですね。

 エロゲのアレンジCDについてもうひとつ。
 最近、ハイべる新作試聴してどっひゃーってなってます。マジすかこれ? ONEの曲のアレンジCDらしいんだけど、とにかく尋常じゃないです。
 つうか、もしかして知らなかったのオレだけ?   夏コミはどうせ行けないのでせいぜいここで騒いでおこう。


7月3日(土)

 七夕コンパは来週だというのに何か怒涛の終末だった。この日のことは後日こっそり追加するかも。

 >倉田さん
 えー栗山千明11歳がお気に入りでしたら、「Namaiki」(新潮社)の方にも数枚載ってますわよん。同書はページ数の半分が中森明夫の文章というアレな所が気に入って買ってしまってたりもするわけですが、「神話少女」好評だったんなら持っていきゃよかったすね。

 「愛人」につきましては、女の子の頭をなでなでするのとされるのとどちらがいいか、という非常に難しい問題がありまして。(あれは、ぽんぽん、だったけど)

 オレは女の子に守られたいので「紺碧塔組合」(アウトロー)なんて買ってたりするわけですが。

 膝枕をしてくれるならむしろ幼い感じのコの方が良いとか、なでなでするならむしろかっこいいおねーさんの方が良い、といった問題について思索中です。


7月2日(金)

 「少女少年」と「少女少年II」の主人公。オレが無印派なのは、んー、男の子度が高いからですね、一言でいえば。素で少年に見えなきゃだめっす。個人的に。
  


7月1日(木)

 なにーっ。やはり、時代はセリオなのか?
 どうせナゾベームくんあたりががチェックしてくれるだろうしCDも出たら買ってくれるだろう。任せた。

 セリオ主役のラジオドラマ、と聞いて2秒で出てきたのがDELTA_WAVEさんの『喫茶「三角波」へようこそ』だったりオレはします。全篇一人称の語りのみのアレ。まあ、間違ってもあんな風には語らないだろうけど。

 桜木さんといえば無限夜桜なわけですが、あそこにおいてあるSSだと久々野彰さんの「どうしようもない僕に降りてきた天使」が個人的にツボ入ってます。あまりに楽しい「長瀬源五郎観察日記」もとうぜん必読ではありますが。

 いいんちょSSの「5分間では長すぎる。」を読んで、うめえなあ、と思った覚えもあったり。
 これでオレもちょびっとだけ情報の発信者ですか? いや何やっても信号出してることだけは変わりないのだが。

 今日みつけたMOON./ONE/Kanon系ページはここ。日記は6/23あたりをどうぞ。ただし、ONE>>Kanonなトコなのでそのつもりで。


 あと今日は、みんさん妹さんのKanonレポート(リンク先ネタバレ注意)読んだり。いい妹さんをお持ちだ。


先月分

ダイジェストへ戻る