ギャルゲー日記9909

ギャルゲー日記(仮)

ダイジェストへ戻る

先月分


9月30日(木)

 今日は写経。

 小林秀雄によれば作品とは原因である。竹田青嗣はこれをテクスト論と結び付け次のように言う。

◆竹田青嗣「世界という背理 小林秀雄と吉本隆明」より

 読み手は必ず自分の感動から出発する(作品は原因である)。しかし彼は自分の感動を言い表すのに、ただ素晴しい、面白いと言っただけでは話にならないことを知っている。そこで彼は、ごく一般には、「作品」の背後に「作家」や「現実」の存在を仮構し、「作家」の人間やその信念を憶測し、その像を思い描くことを通じて、自分の感動をまずかたちに表わそうとする。

 このことは二重の意味を持っている。ひとつは、小林が見抜いていたように、「感動」を、「作品」そのものに即して「分析」することが決してできないため(これには原理的な理由がある)、ひとはまずたいていは「感動」の原因を、「作品」の意図、観念、構造、また「作家」の人間、時代、生き方等々といったものを動員して説明してみるほかないということだ。

 もうひとつは、〈自分〉の感動を他人のそれと交換しあって普遍化するためには、「作品」の感動それ自体(「作品」それ自体ではない、そういうものは「物自体」と全く同じ意味で存在しない)を、人間、現実、生、歴史といった、他の人間たちと交換し得るような問題のかたちに、ひとたび翻案しなければならない、ということである。

 要するに、「批評」はどういう「虚構」(たとえば「作家」、たとえば「作品の構造」)をその背後に置こうと勝手だが、とにかく自分の「感動」を、他人のそれと交換しうるようなかたちへと置き直す以外には成立しえない。そしてそのかたちがまた人を動かすのでなくてはならない、と小林ははっきり言っている。たとえば、「批評の方法が如何に精密に点検されようが、その批評が人を動かす動かさないという問題とは何の関係もない」(「様々なる意匠)」、というように。

 一般にひとが「作品」の背後に「作家」を見、「現実」を見ようとするのは、必ずしもそれを論証する必要のためではなく、むしろ作品から受けた固有の感動を交換しあうための補助線としてであって、そこで描かれる「作家」や「現実」なるものはどこまでもひとつの仮構にすぎないのである。

 通俗テクスト論は、テクストの背後に「作家」や「現実」を仮構(フィクション)することを禁じ手にして、その代りに言葉の戯れや運動関係等々を論じようとする。しかし「戯れ」「運動」等々は、テクスト「そのもの」でもなければそこに「内属」するものでもない。これらもまた、読み手の“感動”をあらわすための“仮構(フィクション)”にすぎないのだ。

 要するにわたしたちが「感動」というものをあるがままには表現できない限り、こういう「仮構」は不可避なのである。そうである限り、読み手がテクストの背後にどんなフィクションを置こうと自由であり、通俗テクスト論が強調する「作家」や「現実」へのタブーは、一種の強迫でしかありえない。

(略)

 「物語」(=形而上学、キリスト教、マルクス主義等々)はかつて客観的な〈真〉を所有しているという確信によって立っていた。しかし実際は、それらすべてはある観点から見られたそれぞれの「解釈」でしかあり得なかった。これがニーチェ的なヨーロッパの反=形而上学主義の考え方の基本である。

 たとえばフッサールが証明したのは、どんな世界像も信憑、思い描き(=超越)でしかあり得ないということであり、ニーチェの主張は、客観的視点なるものはそもそも存在し得ず、一切は「物語」=視点であるから、肝要なのは人間にとって「有用なフィクション」を「創造」することだ、というものである。

 つまり、彼らが主張したのは「物語」の不可避性ということであり、またそれへの強い自覚にほかならない。その呪縛からいかに逃れるかといった奇妙な考えはそこから出てくるはずがないし、そういう考え(=逃れ得る可能性を求めること)ははじめから背理なのである。


9月29日(水)

 人は恋文の修辞学を検討することによって己れの恋愛の実現を期するかもしれない。然しかくして実現した恋愛を彼の恋文研究の成果と信ずるなら彼は馬鹿である。或は、彼は何か別の事を実現してしまったに相違ない。(小林秀雄「様々なる意匠」)

 ルネでたまたまウパー氏と会って、ちょっと話につきあってもらう。小谷野敦(「もてない男」で有名な)について。

 なんで今更ンなものが出てくるかっつーと「好き好き大好き!」の主人公って要するに「もてない男」なんじゃないかというわけですが。まあ、昔の日記でも太宰治「カチカチ山」に言及してたりするので、わかる人にはわかるでしょうけど。
 ストーカーを救うことができるのは文学だけだ(「それでも言う「惚れたが悪いか!」」)、という小谷野氏に僕はひどく共感的なんですがね。

 あとは「コミュニケーションスキル」って言葉と恋愛の関係がどうもよくわからないこともあって、それで少々。まあ僕じしんの恋愛観というと二宮ひかるのマンガあたりになるんですが。

 コミュニケーションスキル。
 たとえば、ストーキングの果てに拉致監禁して強姦したのであれ、結果として「愛」という共通了解が成立すれば、前記の犯罪行為すべては「コミュニケーションスキル」である。
 恋愛において、正しいコミュニケーションのとり方なぞ事後的にしか見出しえない。


 「彼らが適応と呼ぶものを、それゆえ我々は制圧と呼ばねばならない。」(澤野雅樹「左利きの小さな戦い」、『エヴァンゲリオン快楽原則』所収)

 もてない男が、かりに彼らのいうコミュニケーション・スキル(=彼らのルール)を身につけて「もてる」ようになったとしても、それは「適応」ではなく「制圧」と呼ばれなければならない事態である。論理的にはむしろそういうことが言われていると思う。

 僕ですか? 小谷野氏の定義に従えば、モニターの中の彼女をどうしても諦められない限り、やはり究極の「もてない男」ということになろう。誰か以前に言ってたっけ? こういうこと。


9月28日(火)

 じゃいち君からアニメの骨壷を紹介される。T-Watanabe氏のサイト。メージュで「ヤカンの空炊き」連載してる人だよね?
 BBSの過去ログを漁る。「受け手」としてのアニメファンとか。
 とりあえずメモ。

 人は望んで消費者であり続けるのではなく、ある断念の結果として消費者の位置にとどまらざるを得ない。まさにそんな場所から、消費者としての倫理をどうにか築き上げられないものか。
 たとえば、受け手と作り手のあいだには越えがたい溝がある。ここを飛び越えてみること(仮想的に、あるいは同人創作などによって)によってなんらかの視野を得ることは、果して正しいだろうか。もてない男に「コミュニケーション・スキルを磨け」と言うのは正しいだろうか。なんちて。

 あーここでも触れられてるけど「ユリイカ」の短文(それでも言う「惚れたが悪いか!」)はむっちゃええです。
 もっとも、つねに強者的な態度を選択するのを趣味とするような人にはわっかんねえだろうなあ、って内容だけど。ならしゃーないか。僕が正反対の趣味なのはどうも疑えないし。


 グラップラー刃牙。地上最強を夢見たことのない男など一人もいない。だが、ある者は父親のゲンコツに敗れ、またある者は世界チャンピオンに敗れてそれを断念する。
 勝者と、敗者と、既に敗者である(あるいは敗者にさえなれなかった)観客との間に、それでも築き得る回路=倫理はあるか。格闘マンガの(というより格闘技大会の?)感動ってのは、けっこうそのへんにあったりするわけで。

 だれでも強くありたいと願う部分には変わりはない。結果的に強くあれるかどうかは、本人の内側に根拠を持つ条件ではない。作り手(言うまでもなく、一定以上の受け手を獲得した者のみのことを指す)と受け手が分かれるのは一種の宿命であり、選択の余地はない。誰も予測や責任を問うことはできない。
 だからルサンチマンを抱くこともなけりゃニヒリズムに陥ることもない。あるがままにあり他のようにはあらぬこの様を先ずは肯定する以外にどんな道がある?

 以上、竹田青嗣「陽水の快楽」を読みながら。ロマン的欲望が現実の前に敗れたとき、それでもなおロマンを求めずにいられないのが人間だとしたら、「現実を見ろ」なんて言い方が何になるだろう。むしろ挫折と断念の中から(現実を無視せずに)、それでもロマンを殺さずに掬い上げるための方法が要る、とかまあそんな話だったと思う。いや本当は違うんだが面倒なのでそういうことにしておく。


 小谷野敦で検索したら引っかかったページ。こういうのが出てくるとオイラの出る幕なくて楽は楽なんだが。どうしても紹介したかったのでとりあえず載せておく。このへんの話題は後日。


9月26日(日)

  村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」読了。フロレアールの方からなんとなくアタリを付けたのだが(フロレアールの結論がどうも「夢の外部」におけるポストモダン批判クサイなと思って、その前提として溯って読んだ「現代思想の冒険」に村上春樹が引用されていた、という事情による。なんて書いてもわかんないだろうけど)、やはりONEを思い出しますな。構成的にはONEだけど、世界論とテーマ的にはフロレアールか。まいいや。面白かった。ちなみに村上春樹は「ダンス・ダンス・ダンス」とこれしか読んだことはない。まあ村上龍だって「だいじょうぶ、マイ・フレンド」しか読んだことはないのだが。

 「ダンス〜」は一気呵成に最後まで読めたのだがこっちは少々つっかえた。なんでかね。内容的なものちうより文体的に。あとは萌えが不足。やはりホテルの精みたいな眼鏡っ娘とロリィなスモーカーのダブルヒロインに比べると。心を失った図書館の彼女は実に萌えるのですが。「世界の終り」だけで良かったよオレ。ってそれだと劇場版ウテナか? アレは自らが生み出した世界を灰燼に帰すわけだが。

 とりあえず「失われたものへの悔恨」を追っかけてもうちょっと初期作品に溯る予定。その前に、全財産が百円切ってる状況をなんとかせねば。


9月25日(土)

 「好き好き大好き!」で検索をかけたら、こんなページがみつかった。戸川純の方で引っかかったのだが。甲南大学の教官らしい。

 直接に引っかかったのは「恋愛感情の系譜学」なんだけど、むしろ「新・共通感覚論」なんかフロレアールの参考にどうぞってトコ。

 引用されてる本、正確には「〈意識〉とは何だろうか」(下條信輔、講談社現代新書)だと思う。


9月24日(金)

 それは「キャメルトライ」では?
 友人がX68持っててそれで見せてもらったことが。僕は触った程度なんですが。なんかマウスをトラックボールに仕立て上げる仕掛けが印象に残ってる。


9月17日(金)

 「フロレアール」コンプ。やられた〜。


9月16日(木)

 SSDをほっぽって「フロレアール〜すきすきだいすき〜」中。いや交互にやってるだけなんだが。
 なんつーか、文章を読む行為の重要性が高い、あいかわらず。これはひとつにはCG枚数が少ない、ということなのだが。
 たとえば折戸伸治がらみの作品だと、音楽流れるのにあわせて文章を眺める、というアレになってしまって印象としては映画に近い。対してSSDは「音楽付きの本」ですな。
 まあ、程度の差だけど。

 財政難につき「封印」を立ち読みで済ます。いいなあ、富野監督(謎)。
 


9月14日(火)

 そんなこんなで「好き好き大好き!」中。穂乃菜に絡まないシナリオやるのはつれえかなと思っていたのだが、身勝手かつ甘ったれな人間失格思考の流れに身を委ねる(委ねるな)分にはかえっていいかも。
 こんな奴の相手してる暇あったら穂乃菜のためにそばにいてやらなくちゃいけないのに。
 なんての? 偽善的? 自己欺瞞? 幼児的? まあなんでもいいや。そういう思考な。

 ハタからは身勝手な思考だが、当人にとっては切羽詰まった実感であるわけで。ここで外側からの見方と内側の見方、どちらに立つかが嫌悪と共感を分ける。逆か。

 オレはむろん共感的で、この圧倒的に分の悪い主観的真実の側に入れ込んでしまうわけですが、なんか、要するに判官びいきみたいな気がしてきた。


9月13日(月)

 今日も今日とてONEネタバレ。もうやだ。

 たとえば僕は書き続けているわけですが、別に理由はないわけで。ある理由が否定されても別の理由を考え出す。書き続けているうちは。書かなくなったら理由は考え出されない。書き続けるから理由が発明されるのであって、「理由があるから書く」というのは仮説の域を永遠に出ない。
 実際はたんに書いたり書かなかったりするだけで、書いていれば理由があることになり、書かなければ書く理由はなかったことになる。理由の存在は書いてしまったかどうかに依存する。理由は任意。
 きっかけとなる体験というのはそりゃあるかもだけど、そもそもその体験がまったくの記憶違いであることもありうるわけで。そりゃ主観的には相応のリアリティのある理由を一応持ってはいるんですが。
 まあものごとのきっかけってのはそんなものじゃないかなと。これを遡行的な捏造だとか言いたいわけじゃなくて、捏造だろうが架空だろうが、当人が信じていればチカラを持つ、というあたりが面白いかなと。まあ錯覚なんだけど、当人が錯覚だと思うか思わないか、というのが決定的な差になるのがまた妙な話で。てっつがくう。

◆内側からみること

 朝食が用意されていない。その程度のことで自分が消え去るということの証拠だと思ってしまう。これは浩平自身が「その程度のことでそう感じるのはおかしい」という自覚はあるわけだから、よくわからないまま何かを実感=確信してしまう精神状態が描かれているということは明らかだろう。さすがにこのへんでつまづく人間はいないと思うが。
 これを外側から説明するなら、要するにまず「自分が消え去る」という(無意識の)オモイコミがあって、そういう目で物事を見ているからだ、ということになろう。
 だがとりあえずは、そう感じてしまう時はそう感じてしまうものだ、といったことをみればいい。

 「そんな子供の戯れ言のようなおぼつかない口約束が、現実にオレの存在を危うくしているというのか…?」「朝食が食卓の上に用意されていないだけで、そこまでのことを思うものだろうか。」というのは浩平自身のセリフ。
 朝食が無いことなんていくらでも説明がつく。そもそも自分の存在が消えるなんて馬鹿なことはない。そうキャラの側から述べられてはいる。

 自分の心がどうやってもそこに行き着いてしまう。というのは錯覚で、そこに行き着いてしまったということからすべては始まっている。だから、どんなささいな根拠でそこへ行き着いても驚くにはあたらない。
 たとえば恋愛が、すでに恋してしまっている自分から始まるように。きっかけがあり恋愛に行き着いたというのは錯覚で、実は行き着いたところから始まっている。何がきっかけになるかわからない。恋はいつも唐突だ。わからないのにはむろん理由がある。
 きっかけは任意であり、はたからはそんな意味はない。しかし、恋してしまった本人が思い出す限りにおいては(「ONE」においても、「夢」の中で、事態がしばしば回想的に語られる)、まったくの運命的な出来事である。この錯覚を暴き出すのではなく、錯覚の真実(というとアレだが要するに中身)を描くのが作品である。共感や感情移入といった行為もそれに準じよう。


 よく人は「ONEの世界では人の想いが現実に及ぼす」「個人の認識が世界を左右する」、そういう「ファンタジー」だと言う。そういう世界であることを受け入れなければ話にならない。そうだろうか。
 浩平はただそんな馬鹿なと思っているだけだ。キャラより先に納得することもあるまい。
 そんな馬鹿なことがと思うなら、要は馬鹿なことが起こってしまっているというだけだ。作品世界においても、馬鹿なことが起こっているのにかわりはない。「ファンタジー世界」の法則に基いて、起こるべきことが起こっているわけではない。

 どうして人は、「世界」などと言う前に、彼の主観的体験を充分に味わい尽くそうとしないのか。起こり得ないことが起こってしまったことへの戸惑いやそういったものを含めて。


9月12日(日)

 成瀬せりあの美少女ゲーム雑文記の「終の空」レビューを読んで、猛烈にやりたくなる。ちなみに同レビュー、ネタバレじゃないんだけど、オイシイとこかなりバラされてるので、スデに興味ある未プレイ者はは読まぬが吉。
 そのテのニオイをなんら嗅ぎ取れなかった。不覚。舐め切ってたし正直。まあ、やる前から言うのもなんですが。ってイキナリ買ったりはせえへんけど。

 え? 麻枝准さんトコの掲示板で既に話題になってますかそうですか。久しぶりに覗いたらなんて奇遇な。

 松田真輔さんがとうとうVガン論をっ!
 気付くの遅ェよ俺。まったく……!


9月11日(土)

 今日も今日とてONEとKanonのネタバレ。麻枝准について。この覚え書きという代物、なんとかならねえのか我ながら。
 一部ちょっと、昔書いた原稿の焼き直し。まああの本、持ってる人ほとんどいないし。

 たとえば太宰治のことを考えている。彼の演じていたのがまったくの甘ったれた一人相撲だったとして、彼の痛みにまったくの理も分もなかったとして、それでも痛みは不可避の実感としてある。作品とはこの分の悪い真実を描き出すことではないのか。正当化するわけでなく。

 「新世紀エヴァンゲリオン」第壱話。
 シンジが「逃げちゃダメだ」と言い出すのはいかにも唐突だ。「逃げちゃダメだ」という念仏は、正当な理由や客観的な必然性によるものではない。「危機に瀕した街」や「目の前の重傷の少女」といった客観的相関物への、普通の大きさの反応ではないことは、誰の目にも明らかだ。
 しかし、「逃げちゃダメだ」という強迫は、彼にとってはまぎれもなく真実の実感だ。その局面で「逃げちゃダメだ」と唱え出すことはオカシイ、そう言ってしまうのは簡単だが、しかし。

 キャラの一人相撲であるとか、作り手のひとりよがりであるとか、そう評するのは易い。あるいは、作り手の想いが作品内の与件からハミ出してしまっただけだ、と説明するのもまた、ごく正しいことだろう。巨大ロボットに乗せるという結論はあらかじめ決まっている。そこへどうしても持っていくための無理である。そう説明することも同じく簡単で、正しい。キャラの心理分析により説明し納得することもできる。

 そこに、人間とはもともと何かに強いられてあるものだ、といったことを読み取ることは許されてしかるべきだ。人は、どうしようもなく訪れてしまったリアルな実感(「逃げちゃダメだ」)を生きるほかない。はたから見て、そう感じることにまったく理も分もなくとも。いや本人にとってさえそうなのだ。だからといってどうすることもできない。
 たとえば恋愛とは、現実的な契機も客観的な(=外側の観客から)必然性もなく、しかし不可避の確信として訪れてしまった感情に強いられてある意識状態のことではないのか。なんであんな奴に惚れちゃったんだろう、と言われるのは普通だ。だがそれで恋が解けることはない。ここで観客が、納得できる理由や必然性を求めるとしたら彼は馬鹿だ。むろん、本人がいかにそれを不可避な運命として生きているのかは描かれなければならないが、どうして惚れちゃったんだろう、と言いさえすれば、理解や納得といった問題は残らない。共感だけが問題となる。不可解さや納得いかなさも含めて体験すればよい。キャラ自身にとってさえ、自分が納得できる理由や必然性など存在しない。

 自分が消えるという実感と確信が訪れるのは、そういう事態だ。

◆あるはずのないものがある

 麻枝准のシナリオの通奏低音として、次のようなものが挙げられるように思う。
 現実は脆い。ちょっとしたことで崩れ去る−−いや、とっくに非日常の世界に踏み込んでいたことに今更になって気付く。まず、そういう気分が先行してある。

 現実を侵食するのは、いつだって、そんなものがきっかけになるとはとうてい思えないようなシロモノだ。そうであるがゆえに、人はそれをそれと知ることが決してできない。予測不能であり、だから現実の崩壊はいつだって唐突なのだ。また、予測不能であったということは、必然的に不可避の気分をもたらす。

 現実がすでに脆いものなら、契機はほとんど任意でさえありうる。
 この現実はすでに、いくつもの違った貌を隠している。あとは気付くだけだ。任意の原因で、たしかな現実なんてものは崩れ去る。不可避。そして、物語は始まる。否、気が付けば既に始まっていたことになっている。何か異常なことが起こったわけではなく、すでにそうであったというだけだ。なんの力も要りはしない。

 「永遠の盟約」などありはしない。あったのはただ、子供のおぼつかない口約束のようなものだ。
 あるいはまた、ただひとつの嘘。魔物など居はしない。
 ただそれだけだ。一体そこからどんな物語が発想できるだろう。
 そもそも、永遠なんてなかったはずだ。
 にもかかわらずそこから何かが始まってしまう。気が付けば、そこからすでに始まってしまっていたものとしての姿を見せる。

 「えいえんはあるよ」
 その言葉はまさしく盟約のように響いた。むろんそう響いたというだけだ。しかし、それを錯覚であるとか思い込みであると言ったとして、いまさら体験の意味は変えられない。
 そしてそれは忘れられていた。思い出され検証されることがなければ、盟約は盟約であり続けるほかない。ずっと子供のままだったキミ、みずか、そしてぼくにとっては。

まだ知らない悲しみがあると言って、
        少女は泣き続けた

そんな悲しみ、どこにもないのに(anemoscope)


 泣き続ける少女の(どこにもない)「悲しみ」の側にひとたびは立つこと。永遠の盟約は存在し、少女の嘘は嘘ではなく。それは優しい世界かもしれない。都合のいい話ではある。

 少女は嘘などつかなければよかったのだ。気まぐれに狐と暮らしたりしなければ良かったのだ。盟約だなどと思い込まなければ良かったのだ。そもそも、そんな出来事はなかったのかもしれない。彼女はほんとうに「えいえんはあるよ」と言ったのだろうか?

 どれも論理的には避けられた選択だ。それどころかひょっとしたら無かったはずのことだ。だが、すでにある現在は避けることはできない。そんなもののためにこんな目に会うことがどれほど理屈に合わなくとも。理屈に合わない。したがって、現在がこうであることは予測不能かつ不可避。

 ありもしないものがあり、避けられたはずのものが避けられない。任意であり運命。

 たとえば客観的な立場に立ってしまえば、事態は簡単になる。盟約などなく嘘は嘘。自己欺瞞。錯覚。便利な言葉はあったもので、たいていのことはそれで説明がつく。ついでにいえば、真琴はちょっと話が違う。まあ、そんなところだ。


付記:
 ささいなことで崩れ去る現実、といった認識は「それがつくりものである」という認識にもつながる。
 総じて麻枝准のキャラは、たとえば家族の役割を演じることに意識的である。久弥直樹のシナリオが、あらかじめ存在する「家族の絆」が壊れるのであって、もともと存在したことは疑われているわけではないことと、対照的でさえあるだろう。というのは明らかに言いすぎなんだけど。
 恋愛関係においてもまた、役割をつくることが問題となる。王子様。乙女希望。恋人宣言。幼なじみから恋人への役割変更にまつわる度し難いトラブル。


9月9日(木)

◆加賀屋

 そ、それは羨ましい……(9/8)。いや、ひらしょー氏の知人が鶴来屋加賀屋に泊ったならば、仲居さんの名前が「かえで」で、さらに美人の見本みたいな人だったらしい。そんだけ。

 あまつさえプードル関西の絵を持っている(9/9)とは……。

 ちなみにその知人に言わせるとひらしょー氏は七瀬でひらしょー氏に言わせるとその人は折原らしい。これ読むと。

◆長森

 ONEの長森シナリオを終える。2回目だと思う。
 なにかと語り急いでいる感は否めず。ま、そのぶんやりたいことはわかりやすいんだが。

 たとえば、粗い仕上がりで、やりたいことはわかるがいまいち上手くない(ひとりよがりだって言われたり)のと、なめらかに仕上がって結果誰もが好きなところを取ってしまえるのと、どちらが幸せなんだろう。受け手にとってさえ。

 最初の告白イベントの後の選択肢はどちらを選んでも長森に優しくないのか、なるほど。
 昔は瑞佳って恐かった(ちなみにTo Heartのあかりは今でも恐い。アニメ版なんか特に。ま、そこがいいんだけど)んだけど、なんか恐くなかったな、今回は。

 瑞佳も不安だったってこと、全然わかってなかったよオレ。いや、アタマではわかってたんだけど、見れども見えずっていうか。すまん。

 やっぱり浩平って、目ェ離すとフッと消えちゃいそうなとこ、あるしなあ。バカやってても、なんか他人との触れ合いを過度に確認したがってるわけだし。本人も意識してはいないだろうけど、そういうこと、気付かれずに済むもんでもないし。「心配だよ」って、そういうのもあるよなあ、とか。誰かこう、ぐいぐい引っ張ってくれるような人がいいんじゃないのかなって、そういう意味か。まあ、長森本人もどこまで意識的に知っているのかはあやしいけど。

 この程度のことに気付かなかったのかオレ。何か自分が浩平と同レベルだったことを確認してちょっと得した気分。
 
 よく、ハッピーエンドに行くためにはプレイヤーの意に染まぬ選択肢を選ばなきゃならない、なんて文句が来るわけですが、オレとしてはまったく逆で。
 普通に文章読んでシンクロしてれば、ナチュラルに長森を鬱陶しがることはできるはずなんですけどね。個人的には、長森に優しくする選択肢の方こそ「攻略」を意識しなければ選べない違和感バリバリの代物だし。(まあ、「瑞佳シナリオを読もう」と思ってではなく「瑞佳を攻略しよう」思って瑞佳ルートに入る人間が大半だろうから、そのへんで既に浩平とはズレがあるか)

 いや単に、オレが浩平と同レベルなだけって話もあるんだが。


9月8日(水)

◆Keyのシナリオライター

 久弥氏のページに行ってFourRainを読む。がいーん、茜、そうだったのかー。
 いつも思うのは、久弥氏的にはヒロインの一人称の方が本来の語り口なんじゃないかってことで。ぶっちゃけた話、どうも女の子への思い入れをメインに物を書いてるような気がするのね、ONEにしろKanonにしろ。

 Kanonは逆ONE−−かんたんに言うと、ONEは他者を求める話でKanonは他者に応える話、っていえるわけですが、このへん麻枝氏と久弥氏の資質の差が露骨に出てないかなとか。麻枝氏においては主人公の、久弥氏においてはヒロインの、内面がそれぞれより問題となる。実際の作品全体は両氏の、ほとんど正反対の方向性の複合したものになってるあたりが、上手いというか卑怯というか。
 主人公の問題とヒロインの物語、好きな方をメインに作品全体の印象が構築できるわけで。

 端的に言えば、麻枝氏のシナリオで描かれるのはどこまでも主人公の自意識の形であり、久弥氏の場合はヒロインが独自性をもって読者へはたらきかける。
 久弥氏のシナリオは、クライマックスになると、ヒロインの昔話的語りそのものがメインとなる(ことがある)。
 (たとえば麻枝氏の七瀬シナリオなら、七瀬自身の昔語りはすぐさま主人公に「王子様」としての自意識的な規定をさせる)

 麻枝氏のシナリオによるヒロインは、どこまで行っても「浩平の主観による認識」。久弥氏だと「ヒロイン自体」の正しい認識に最終的に到達する。
 麻枝氏パートでは他者の存在は浩平の自意識の形に翻訳された後に語られ、久弥氏パートでは透明な浩平を通じてヒロインの物語が語られる。
 要するに麻枝氏は伝統的な一人称小説の文法(ほとんど私小説的な。また「エヴァ」においても他人とは自意識の問題であった)で書いてるけど、久弥氏はギャルゲーの文法で書いてるわけ。

 Kanonの真琴シナリオなんかはある意味極致で、真琴に記憶が無い故に、真琴の自己そのものさえもが祐一の自意識に背負い込まれる。

 後日追記:
 なるほど。「永遠」ってのは僕に言わせれば浩平の(自)意識上の問題なわけだから、まあ似てなくもない……かな。ちうか、おおむね納得できる意見です。

 麻枝氏のシナリオだと一貫して浩平の立場でものを聞けるけど、久弥氏のシナリオだと、なんかこー、ヒロインの立場を優先して行動したり、果てはヒロインの立場になりきったりすることを要求される気がするわけで。ヒロインが独立した人格を主張している、というだけのことかもしれませんが。

 麻枝氏のシナリオが主人公の自意識とか都合を主張しすぎるのか、久弥氏のシナリオがヒロインの人格と物語を独自に主張しすぎるのか−−となると、まあ好みの問題 ですが。いや、どうせみんな女の子に優しくしてあげたいんだろうけどさ。

 つーか自分が、麻枝氏の方が妙にしっくり来る(キャラの好き嫌いはともかくテクストが)理由を考えていると、俺は他人を思いやる余裕のない人間なのかとか、他者の独立した人格を認めるモチベーションが弱いとか、そういうことを色々発見してちょっとヘコんでたり。今にも消えそうな人間は余裕なくてもいいじゃんよー。みさき先輩の物語自体などどうでもよくて、とりあえず勘違いに乗じて抱き付いてたりするところが激しくツボなんじゃよー。先輩にすべてを受け入れてもらって甘えたいんじゃよー。頭なでられたいんじゃよー(←先輩違い)。コンチクショウ、男なら!


9月6日(月)

◆ゲームの文章、または文章以前

 問題になっていたのは「ゲームの文章」ではなかったかもしれない。日本語になってない日本語というものだったかもしれない。しかし、日本語になってない日本語が多いというのでは話にならぬので、議論好きな連中が、ゲームにおける文章の特質や制作体制云々という話を始めるわけではないかと。いや意図的に建設的な議論に持ってくっちゅうのはわかるんですが。

 やはりビジュアルアーツは、いいかげんメッセージ部分にルビ機能をつけなければ。麻枝准氏のために。MOON.のスタッフコメントは泣きました。
 ゲームのノベライズに対する文句って要は「小説になってない小説」とか「文章になってない文章」である、というだけなんですけど……という話をこのへんで見掛けたので、連想。問題になってる小説は読んでないけど。

 ギャルゲーの小説っていうと、神山修一「NOёL」(ニュータイプノベルズ)と金月龍之介「ファーストKiss☆物語」が双璧ですかね。金月氏は「雫」のさおりん一人称も好き。

 あと、「悦楽の学園」の小説版が凄くお買い得だったにゃー。やさまたしやみ氏の書き下ろしも満載で。まるきり別物だったけど。松乃……俺の幼な妻になってくれるんじゃなかったのか?
 そういえば小説版、まつのの髪がピンクだったような。今はどっかに埋もれてるので確認不能。

◆流行りもの?

 何かと 話題なって いたので、JIUJING創作を覗いてみる。こういうのを眼高手低と言うのだろうか?

 つーか、ド下手クソじゃん。「マスター・神我人」なんてタイトルからしてアレだ。いかにも二次創作的……って二次創作なのか。
 本文? 陳腐な形容を重ねすぎです。これじゃ新聞の見出しだ。およそ慣用句ナミに読者の意識を立ち止まらせない。「ランドセル悲し小2プールで水死」とかそういうレベルっす。「人間の卑小な営みを嘲笑うがごとく峻厳とそびえ立つ岩山」みたいな手垢にまみれた表現は乱用しない。

 あと、いちいち形容詞付けると鬱陶しい。その、名詞だのなんだのが出てくるたびに感情判断混ぜるのはやめなさい。一文の中の重複表現も多い。誤用もちらほら。
 「きびきびした報告に、女性の知性の高さが垣間見られる」って日本語はどうだろう。

 会話含め説明的にすぎる。下手なアニメだな。
 視点、よくわかんないっすよ。誰の語りなのか判然としない部分多し。

 阿主沙は憤怒で顔色を猿の尻のように変え、感情のままに突進した。
 大振りした脇をすり抜けた神我人は、すれ違いざま阿主沙の脇腹を死にいたらない程度にえぐった。
 塵ひとつない床にどす黒い赤の絵の具をまき散らしながら転げ回る阿主沙の非音楽的な叫び声は、肉食獣の断末魔を思わせる。神我人は小うるさげに見下ろした。
「己の力を過信してはならない。己の力と衆の力を混同してはならない」

 ネェ何コレ久遠の絆? どす黒い赤い絵の具はあんまりでござるよ。しっかし贅肉のカタマリみたいな文章やな。あと、どうにもセリフが「現代人がちょっとカッコ付けた」ってカンジの中途半端さで、不徹底。
 「衆の力」って「衆の力を恃みに」くらいしか使わないんじゃないでしょうか。

 つーか、自身の失敗から学んでるちうか自戒のコトバを「書き方」に書いているという可能性もあるわけで。
 では最近作「分かれ道・別れ道」を読んでみる。
 ……気になる表現多すぎ。どこがアレかみんなで考えましょう。宿題。

 日本語は正しく実感をこめて使いましょう。安易でゾンザイな言葉使いはよろしくありません。思い付きレベルの言葉を書いてはいけません。

 書いてる人は「技巧」と思ってるかもだけどそれは「安易」のマチガイでは。よくある話なんだけどさ。

9月5日(日)

 長いので封印。


9月4日(土)

 よしなに。

 なんか↓は、8/9の焼き直し臭い。

◆何もかもがまっすぐにはいかないものだ

 今頃になって「ペパーミントの魔術師」が効いてきやがる。読んだ時はそんなに気にもとめなかったのに。
 たかがアイスクリーム。砂糖菓子のように甘い感傷。あるいは、たかがアニメ。絵空事。たかがエロゲー。まあ色々、考えることもあってさ。

 つまるところ感動の端緒ってのは、思うようにならないこと、というのに尽きる。ヤルセナイとかセツナイとかドウニモナラヌとか。恋、別れ、死。
 喜びもまた、それが解かれたがゆえのもので。
 まあ、感動そのもののナカミについてはやはり色々ではあろうから、そういう次元の違いはわきまえているが。
 何もかもがまっすぐにはいかぬ姿にモノノアハレを覚えるのは人間しょうがないからね。あれは普通感動するね宣長だってそう言うよ。すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故。云々。

 ペパミンは美しい悲劇を演じることができたからそれが救いではあります、つまりヤルセナサはいくらか「悲劇」とか「美」という居場所を得て落ち着くわけですナ。
 じゃあさ、はじめから叶わぬはずの想いがまずあって、それが正当化も美化もそして悲劇を演じることさえも禁じられた場合ってのは、わりと究極クサイんじゃねーかなとか。

 つーか「好き好き大好き!」ってのがまさにそういう作品でして。美化されることはおろかワルモノとしての劇を完成させることもない。歪んだ愛だの愚かながら狂おしいほど純粋な愛だのと言うよりは、主人公は幼児性自己愛患者であり「そんなのは本当の愛じゃない」。他者の独立した人格を認めることこそが本当の愛だとおっしゃる方には切り捨てられて当然の、まあそういう代物でしてハイ。

 どう考えても否定されるべき感情をソレデモ抱え込んでしまった場合、ヤルセナサちうかモノノアハレはMAX値になります。もはや太宰治でも持ってこなければ太刀打ちできないレベルっすよ。
 感情移入できれば、という大前提が要りますが。まあ太宰だって「ひたすら嫌度を味わう」という状態に陥る人は多い。

 SSDについて語りはじめると文学づいてしまう、というのは本当らしい。

◆もののあはれ

 えー宣長の名前が出たついでに。本居宣長くらいは知ってるよね? 何でも江戸時代、道徳的文学観に対して戦った人で(もあって)、「もののあはれ(を知る)」はその中心思想、らしい。オレも実はよく知らない。教科書程度の理解と、あとは小林秀雄のやつしか読んでないし。しかも途中。

 源氏物語。恋愛至上主義の現代のように正当化されてなかった時代に、不道徳な恋愛に感動するということの意味を考えてみたまえ。宣長以前には、「源氏」はタテマエ道徳書として読まれていたのは周知の通り。「これは一見不道徳な行為ですが、表層の恋愛物語とは裏腹にその奥には儒教仏教のありがたい教えというテーマが存在するのですよ」って(まあ詳しくはちょっと違うが)。

 たとえば源内氏の「Kanonは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスなドラマ(現実受容を描いた)である」とかそれに類した話を聞くにつけ、つまるところ「儒仏の道徳」が現代の道徳に変わっただけである気がしてならない。あるいは、文学を政治に解消するが如き(まあ状況論が目的であるならばこれは必然なのですけど、作品論はまた別なんじゃないかなーと思う)。
 寧ろディテールに拘る方がまだしも普遍的(文学的)な態度ではないかと私は思う。これは立脚点の差というものかもしれませぬが。

 「現実の受容」にしろ「シリアスなドラマ」にしろ或は「よくできた作品(よくできた構造とかまっとうなメッセージとか)に感動する」ということさえ、畢竟時代の正義というに過ぎません。江戸期において儒仏の道徳が人々にとってリアルであったようにそれらは今げんざいリアルではありますが、やはり人の感じ方は時代のさ中にあってさえ、時の正義とぴったり重なりはしないでしょう(そうでなきゃこんな話は出て来ない)。むろん、ことさらに時代の正義から離れるのも、また不自由な見方というものではありますが。

 たとえば次の文。
「感ずる心は、自然と、しのびぬところよりいづる物なれば、わが心ながら、わが心にもまかせぬ物にて、悪しく邪なる事にても、感ずる事ある也、是は悪しき事なれば、感ずまじとは思ひても、自然としのびぬ所より感ずる也」(紫文要領、巻上)

 まあ昔から似たようなことは言われていたわけでして。しかしこれは現代的に変奏しなければ意味がない。たとえば現代人が、源氏に出てくるような心の動きや行為を「悪しき邪なる事」と思うことはほんとうの意味では不可能だからね。

 たとえば、他者の独立した人格を認めた上で対等の立場で愛しあう、というのが現代の「正しい」恋愛ですね。「依存」や「自己愛」や「ストーカー」は駄目。マルチはご主人様って言っちゃ駄目。ロボットには心がなきゃ駄目。でなきゃ本当の愛じゃない。それらはおしなべて「悪しく邪なる事」ですナ。しかしそういうものにも人は心を動かされる。

 えーナニが言いたいかというと、そういうものに感動してもええじゃないかってことで。よくなくっても感動するもんは仕方ないんだから、作品も感動もそういうものとして論ずるべきであるってことで。
 昔のエラい人が言っているんだから仕方がないんです。

 あとはそうですね、是はクソゲーなれば、感ずまじとは思ひても……っていう経験ありません?
 「久遠の絆」がどれほどヘッポコでも(名作でも)、感動するのは(しないのは)仕方ないんです。そう思えば争いもおのずと建設的な方向へ向うのではないかと。おおむね、誉め方が間違っていたり貶し方が間違っていたりするだけです。「あの文章で感動するのは日本人として間違っている」とか「その程度の障害で感情移入できないのは共感能力に障害がある」なんてイヤな言葉投げ付け合うのはよしましょうって。もうやってないけど、どこも。


9月2日(木)

 けっこう以前だけど、板垣恵介版「餓狼伝」(ヤンマガUppers連載)の泣き虫サクラってキャラが「体液を排泄するのはすべからく気持ちいい」ってコトを言ってまして。涙も精液も。
 泣きゲー(感動系ってのはどうもそういうことらしい)って抜きゲーとかわんねえよなあ。泣けたかどうかを問題にし、泣くための盛り上げ方を問題にしているうちは。
 やはりこー、泣けた(感動できた)かどうか、つーよりは、感動の種類や中身を問題にすべきじゃないかと思う今日このごろ。
 泣けたかどうか(快感を得られたかどうか)で測るのも別にいいんですが、高い金払って単に気持ち良いだけじゃ割にあわねえっす個人的に。


先月分

ダイジェストへ戻る