ギャルゲー日記9910

ギャルゲー日記(仮)

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先月分


10月21日(木)

◆私信

 この日記が久しぶりに更新されたのも、某氏に便宜をはかることを約束してしまったからだ(富野調)。
 というわけで本田氏のレビューはここ。『マトリックス』関係は「しろはた他事争論」を。

◆永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)

 Pantser君に借りる。むろん『終の空』関係。
 発売当時パラパラと立ち読みしてこりゃあかんと思ってやめたのだが、最近はなんとなく読めそうな気がしてきたわけで。なんか知らんがサクッと読んだ。読めてるかどうかは知らない。「真理関数」ってなんかエヴァっぽくてカッチョエエなあ、とかそういう読みだし。あとは、竹田青嗣のフッサールを通してしか永井均のウィトゲンシュタインは理解していない。かも。
 まあ、面白かった。カントは流行りらしい。


10月14日(木)

 あ、ケロQのページってあったのね。とりあえず『終ノ空』修正ファイルを落とす。おお、画面切り替えがいきなり神速に。まあ、うちの環境では別に気になるほどじゃなかったんだけど。

 あとはシナリオライターのコメント読んだり。
 カンペキ予想通りのラインナップだなあ。

 哲学づいたアタマになったついでに10/1の日記を書き直す。「マトリックス」がらみのやつがひとつ増えてて、そいで理解が深まったわけで。
 「構造主義」とか「客観」とか「ありのままの現実」という言葉をどんな風に使っているかなかなか呑み込めていなかったらしい。あと、オレサマやぱし不勉強。


10月13日(水)

◆終ノ空(ネタバレ)

 思い出したモノ:ブギーポップ、小林泰三(「玩具修理者」「酔歩する男」「兆」しか知らないけど)、雫、トーマの心臓、永井均。

 ブギーなマルチビュー的な面白さは明らかに練り込み不足。なんか結局「統括的・超越的な視点に立つキャラ」を用意してしまってる所が、ブギーと比べれば明らかな退行といっていい。こういう見地を離れても、ちょっとこう、あからさまにシナリオライターの電波受けて喋ってるようなのはねえ。ほら『ブレンパワード』のクマゾーとか最近のブギーポップ氏とか。

 つーかまあ、借り物の言葉で他人を品評する彩名さんなんて嫌だ。やり直しを要求する、ってこと。いいキャラなのに。

 いや説明キャラだから駄目ってんじゃなくて。このテのライターの代弁者的なキャラとしては、たとえば『嬌烙の館』なんかだと格段にソツがないんだけど。最近やったんでつい比較しちゃうのよ。

 が細部の不満度が上がるにつれ何故かシナリオもノリが良くなる。第3と第4の視点は気に入った。なんかこう、アレだ、『好き好き大好き!』に魂もってかれたアナタにオススメ、ってやつ。
 それが偶然であるかそうでないかはそれ自体としては問題にはならない。事件をどう解釈し意味付けるかだけが人間には影響する。
 人間は意味を掴もうとするイキモノだ。それゆえ、些細でありえたかもしれない事件が重大になってしまう。といった点だけは一応どうにか表現されていたと思う。
 ここで世界だか事物だか事件だかにはもともと意味なんてない、とか言うと微妙にあやしくて、「意味」なくしてはいわゆる世界認識というやつがそもそも成り立たない、というハナシも出て来たような気が。

 あと行人くんがどうも永井均のウィトゲンシュタインと「超人」を接続してちょびっとアレンジしたような印象。まんまってわけでもなくて、永井均から少し先へ進もうとする気合は見えるので、その意気や良し、とは言っておこう。
 いや永井均は竹田青嗣との対談(海鳥社『竹田青嗣コレクション4 現代社会と「超越」』所収)くらいしか通読はしてないんだが。易しめの奴を何冊か立ち読みの拾い読みしたくらいで。


 この日は『終ノ空』関連のシンクロニシティが二個所で発生したもよう。えー、コンプして初めて読んだメールが例の2通だったわけです。
 あと、ひらしょー氏のサイトに13日付でレビューが上がってたり。


10月11日(月)

◆嬌烙の館

 思い出したモノ:昔のシーズウェア。剣乃でゆーと、EVEじゃなくてXENON。ゴルドラン。竹本健治。ウテナ。そういえば国際軽率機構レビューだと寺山修司っぽいとか。ああそうそう、ここのTHEガッツ!のレビューは絶対読むように。命令。さてここで、それはさておき、と言うことは許されるだろうか?

 「Knight in a strange land」「For splendid ruin」「Carnival of a revelation」「Wings with darkness」「Paradise Lost in the box」って章題にニヤリとすれ。つっても僕は「異邦の騎士」「天啓の宴」「翼ある闇」「匣の中の失楽」はいいとしてあとひとつ何だ。並びからいって「虚無への供物」か? しかしそう訳せるものやら。

本編中にもそのテのネタは事欠かない……って話はあんまりしてもアレか。

 えー女の子との会話がとにかく楽しい。どう楽しいかというとちょっと変わってるんで通常のギャルゲーマーにはひょっとしたら全然楽しくないかも。一言でいうと主人公に優しくないです(比較的)。そのへん『夢幻夜想曲』あたりに感じた違和感が無くてよろしい。なんかこー、富野アニメ的っつーか。どいつもこいつも人の話聞いちゃいねえ所が良し。
 登場人物全員に一切の記憶は無い。投げ込まれた状況は不条理そのもの。そんな中で、それぞれの流儀で自分を保ち続ける。というか、不自然なまでに役割が立っている。あたかも自意識を持ってしまったゲームの駒。

 ノリ的には、新本格ミステリのメタ的なやつが好きな人には薦めなくもないかな。まあ、謎解きは期待しないように。あと、ストーリーだのオチがどうこうって言うのは見当外れだと思うのであるが。なんかぐるぐるしたらそういう評ばっかしやなあ。

 ともあれ『フロレアール』の一つ前と言われて異様に納得ゆく。両者に共通する反復強迫的モチーフを確認。

 主人公の口吻がほとんど法月綸太郎か村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』じみててなかなか。まあ、口数の多い三枚目ハードボイルド探偵みたいな感じかのう。

 落ち着いたグラフィックが非常に快かったことを書きそえておこう。俺だってタマには目の小さい女の子と目に優しい色調が恋しくなるのよ。

 物欲が刺激されて『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』買ったり。笠井潔の矢吹駆シリーズがらみで読まねばならぬ代物のひとつだしねえ。『哲学者の密室』のせいで買ったハイデガーとレヴィナスもまだ読んでねえのに。
 ちなみに、『存在と時間』はちくま学芸文庫よりも、中央公論社『中公バックス 世界の名著74 ハイデガー』の方が700円ほど安上がりなので気を付けましょう。


10月10日(日)

◆『アル中』中

 『アルバムの中の微笑み』をだいたい終える。

 なんか桜木霞に尽きるなーってとこ。どう考えてもシナリオ屋に一番愛されとるし。
 えーメイド服着てるけど、ポジション的には執事みたいな感じかのう。坊ちゃまが幼いころからずっと面倒を見て参りました、とかそんな感じの。何かにつけ「霞、どう思う?」「今のは征一郎さまが悪いと思います」とかそんな感じだし。働かせないと落ち込むので迂闊に仕事を手伝えないし。

 ではここからどんな利点が可能だろうか。まずは、もはや半身と言っていいほど一緒にいることが自然であること。オレサマがちょっと危険なマネをするだけで困った顔が見れること。何でも話し合える相手であること。落ち込んだ時に泣き付ける相手。頭を撫でてくれる。膝枕。等々。
 結論:甘えさせれ。

 「私って、どうしても、お母さんか妹になってしまうみたいです」
 照れ臭そうに微笑みながら。寂しそうでもあり誇らしげでもあり。あ、私がこんなこと言ったなんて征一郎さんには内緒ですよ、とかなんとか。


 そんなわけで?メイド属性度判定。メイド属性萌え度は2100。メイド属性ダメ度は520。あなたは早速メイドさんを雇うべきですね、だそうだ。

   ちなみにこのゲーム、『東京九龍』みたく、ヒロインの求愛を受け入れた時点でそのキャラのエンディングと相成ります。順番は固定。よって、霞と添い遂げるためには残りのヒロイン全員を振らなきゃならんのじゃよ次から次へと。こういうのはちょっとなあ。

 ところで、「どうして人は自分を愛する異性を愛しかえすことができないのか」(『もてない男』、P87)っての読んだ時、2秒でこのテのギャルゲーを思い出したオレはやはりアレですか?


10月9日(土)

◆今やあなたは僕らの敵だ

 『もてない男』をどえらくお気に入りだった知人がもててしまったようだ。およそルサンチマンを語らせたら右に出る者はあんまりいなかったのだが。
 「で、今はアレについてどう思う?」「人間の屑だね」

 ……今やあなたは僕らの敵だ。


10月8日(金)

◆ダメなもの

 『川端や泉鏡花が好きだという私の感性の中に、「女」に対するイヤラシイ視線が潜んでいるというフェミニズム批評があるとすれば、事実として私はそれを認める。だが、批評のもたらす「正義」によって感性をつくりかえることはできない。私は長いこと、川端の小説に感動してしまう自分の感傷を嫌ってきた。だがもうやめた。もしこうした私の感性がフェミニズム批評にとっての「悪」ならば、私は甘んじて悪人となろう。』(小谷野敦『〈男の恋〉の文学史』)

 自分の価値観と反したものに感動しちまう自分、ってのを長いこと嫌っていたことがある。むろん感性をつくりかえられない、なんてのは言い訳で、やはり無意識の部分では正当化しておるのだ。そう説明する人もいるだろう。反論はいくらでも可能だが、むしろ、そうしたことはどうでもいい。

 幾原邦彦が『セーラムーンR劇場版』のあとで、自分の嫌な部分に気付いた、と語っていたのを思い出す。早い話が、「心の傷」をネタにするのに嫌悪感を覚えるようになった、とかそんなことだったと思う。ニュータイプの増刊かなんかに。ぼく自身「心の傷」ネタのものに感動しちまう自分を長らく嫌っていた。
 しかし結局、幾原邦彦は『ウテナ』を作り、僕自身はエヴァもウテナもTac/Keyのゲームも、感動せずに済んだりはしなかった。

 あるいは、
 たとえばですな、ギャルゲーの道に入って多少知恵がついてくると、源内さんの「デフォルトとしてのロリ」(MAIN BOOKS)みたいなことは自己分析としていくらでも考えるわけです。しかし、自分の感性をいくら嫌悪したところで、萌えるのをやめられるかっちゅうとやめられんのだな。まあ萌えるって言い方は個人的には違うんだけど。
 自己嫌悪によって免罪されると思ったら大間違いだ? いや、別に罪でいいよ。

 そこでまあ誰かが「ダメ」って言葉を開発するわけですが。いや、ダメなものっていいよねえ。

 まあ自分が精神的に未成熟なのは認める。だが誰もが嗜好の面でさえ、等しく成熟しなければならないってもんでもあるまい。大人になっても甘い物が好きだからといって「子供っぽい」という非難を浴びせるのも、やっぱアレっしょ。えー、サイコドクターあばれ旅日記を読んで安心しましょう。

 そんなわけで今日は雪駄さん自分を感動させた物が、自分自身の正義に反していないとは限らない。といった言葉に深く賛同の意を表しつつ。まあ、僕も昔から何度か書いているようなことではあるが。恥ずかしいから自分の日記へはリンク貼らない。

◆雪駄さんへのレス

 真摯に聞かれてしまったようですが、こちらも随分と偉そうな書き方だったなあ、と思うので恐縮してます。
 僕個人に限れば、背伸びして買った本ってたいてい最後まで読まないし、苦労して最後まで読んでも、「いったい何が得られたんだろう」と絶望的な気分になったりするので。あとはまあ、色々と言葉を覚えるに従って、言葉を使ってどうとでも言える、という罠にはまった苦い経験から。今でも全然脱け出せた気がしないけど。
 でもまあ、誰もが同じ罠に填るとは限らないし、そうした経験も無駄にはならないっちゃあならないかもなので、ホントはいけないってこともない。
 ただ、雪駄さんの今のスタイルは好きなので、あんまりそういう世界へ行ってしまわれると嫌です、ってことですハイ。このへんは安心してますが。

 えーあと、実をいえば本田氏のレビューはあまり好きではないのです(バレてるかな)。あだち充関係とかは例外として。

 まあ、いかに面白く読んでみせるかだけが問題で、つまるところ言葉ではなんとでも言える。書き手のリアルにも読者のリアルにも突き当たっていない言葉、という奴が、どうも苦手でして。そりゃ「芸」として評価するのにやぶさかではないのですが、苦手なものは苦手です。
 そんなわけであれは過剰反応気味。

 作品論というものは、自分が作品から受けた感触を、他人と交換できるようなカタチに翻訳するためのものだと思ってます。「作家」にしろ「構造」にしろ「客観性」にしろ。作品の背後に何を想定しようが、どれも権利的には等しいと思ってますので。

 竹田青嗣がうまいことを言っているので、ちょっと引用

 作品についての言葉は自分を納得させることができなければいけないし、できれば他人の心を動かすようなものであった方がいい。
 ただ人の心を動かすか動かさないかが重要で、たとえば「客観的な正しさ」を巡って論争してたりするのを見ると、どうも悲しくなる。まあ余談ですが。

 その件につきましては、そもそもONEの感動と「そういう世界である」という意味での「ファンタジー」って言葉が、自分の中でうまくつながらなかった、ということに結局は尽きます。なにぶん「考察」という発想がそもそも無いもので。

 作品鑑賞においてだいたい人間は二種類にわかれる、という話があって、「世界」を気にする人間と「個人の心情」しか気にしない人間に分かれる。僕は後者で、キャラクターが受け取っている限りにおいてしか「世界」というものは気にしない。

 まあ、部分的にファンタジーである、くらいのことは思います。個人的には、どうあがいても強制的に向こうの世界へ消えてしまう、という部分。たとえば、正しい選択肢を選べば消えずに済む、といったゲームだったら、「ファンタジー」という気分は消えるかな、と。日記という奴には、自分が納得する言葉を模索する過程のことしか書いてないのでして。

 tatuyaさん「理不尽なまでの不思議。だけど、ふと魔がさして、それを受け入れてしまう」物語 といった意味での「ファンタジー」なら、そう称するのに異は唱えないんですが。

 かように自分の納得感だけを問題にしてモノを言っているので、正しいか正しくないかは読む人間が勝手に決めればいい、と思ってます、万事につけ。  


10月7日(木)

◆恋愛障害者

 さーて今日の『もてない男』は?
 てなわけで恋愛ゲームZEROからそれっぽい話題を。裏恋愛ゲーム学。第2講、4〜6講あたりにそれっぽい話題が。

 「弱者もまた望んでそこへ帰属する」というテーゼ。関連して、IZUMIさんのコレなんかどうだろう。

 どうも『もてない男』を読んでると、小谷野敦は「もててしまったら困る男」なのではないか、とまあ結構な人が思うと思われるが如何。「実はもててるんだろう」なんて言われるわけだし。それに対する答は、学生時代の、ほんとうにもてなかった体験の意味を今更変えられぬ、とかそんなの。そんなわけで彼が裏切ることはないと信じてよい(かもしれない)。
 おれとしては、うかつに補完されてしまうと面白いものが書けなくなるに違いないので、小谷野敦にもててもらっては困る。蓼食う虫がいたらピンチである。まあ望みはエベレストよりも高いから安心できそうだが、「惚れる」という体験はむしろ相手の条件を減ずるようなものなのではないか、とも書いてはいるし。どの道事前の「好みのタイプ」などあてにはなるまい。


10月6日(水)

 おおむね昨日の日記。

◆もてない男

 アエラの『もてない男』関係はコレコレコレ、ってことで。
 恋愛弱者を名乗ることによって、「弱者」として「聖化」されるあやうさを批判しよっかと思ってたんだけど、よく考えたら誰も「弱者」の存在を認めないのな。
 まあアレ、フェミニズムへの撹乱だし。フェミニズムがつまらん人にはつまらんだろう。あの本、撹乱って意味じゃ成功か。蟷螂の斧かと思ってたら意外と真面目に反感を買った、っつーか。


 昨日の話。
 いつまでも立ち読みで済ませるのも何だなと思い、『〈男の恋〉の文学史』(朝日選書)『もてない男』(ちくま新書)を買う。一冊でも売り上げに貢献して既成事実化を。印税も貢ぐ。というのは別になくて、面白いと思ったらやはり新品で買わねば。

 まあ、とりあえず世の中を撹乱できてる時点で小谷野敦は勝ってます。もうちょっとあっさり流される方が普通なんじゃないかと思えるのじゃが。

 アエラムック『恋愛学がわかる。』を立ち読み。がーん、小谷野敦が髭剃ってるよ! 全然駄目じゃん。2秒で忘れるような顔だ。つまらん。
 『もてない男』の著者近影があまりにイカスのでむっちゃ気に入ってたのにい。ちょっとキャラクター作りすぎじゃねえかと思うくらい。

 えー、小谷野敦の恋愛論、「片思いは恋である」と「反恋愛論」の二段構えなので、そこんとこ注意、か。両者が「もてない男」という概念だか実体だかで接続される(あるいは中心である)わけだが。

 定義からすれば「もてない男」は、イコール「片思い」なんだな。一般的には所謂(世間的な意味での)もてない男が陥りがちだが、原理的には誰にでもありうるところの。つーか、原理論(精神史・文学論)的には「片思い」で、(現代)社会論的には「恋愛不要論」になる。両者の位相の重なり方とズレ方をしっかりと把握しておくこと。なんてな。

 概念を腑分けするのが苦手な人は『もてない男』より『〈男の恋〉の文学史』の方を読むべきだと思った。絶対わかりやすいもん。いや、まだ途中だけど。

◆ブギーの映画(実写)

 聞いた話では、なんか新刻の身長が168cmもあるらしい。ちっちゃくない新刻なんて、ちっちゃくない新刻なんて……ハッ! これが「原作をふみにじる」ってコトか?
 末真が眼鏡じゃなかったらどうしよう。

◆世紀末心中

 とよさんの紹介でビジネスジャンプ増刊の「世紀末心中」立ち読み。なんと駄目な。
 作者忘れた。えー、ヤングサンデーかなんか「いのり」と「となえ」って女の子が出てくるサイコホラーみたいな奴、猫食わせるやつ、アレ書いてる人。いいかげんだなあ我ながら。

◆MOON.

 ウパー君が高槻を気に入ってくれたらしい。高槻専用のセーブデータ作って、これでいつでも高槻に会えるぜ!状態だとか。
 君なら気に入ってくれると信じてたよ。奴のセリフは凄すぎです。

◆小谷野敦『〈男の恋〉の文学史』(朝日選書)

 なんですと? 一般的には「片思いは恋じゃない」んですか?

 だって世の中一応「恋わずらい」って言葉が……こみパのEDにもなってるし……お医者様でも草津の湯でも……ブツブツ。

 若い者にちょっと訊いてみた。
「一歩間違えばストーカーじゃないですか」

 それが一般的な感覚なのか? 「ウテナ」の西園寺はどうなるよ。世の中間違っておる。
 とまあ、そんな感じで共鳴中。

 まあそういうのは置いといても、「(男の)片思い」という補助線を引いた瞬間、色んなモノがいきなり見えきてペキペキと再構築される。面白すぎるぞこの本は。

 ウパー氏とちょっと話して、高橋由典の「(社会的に馴致される以前の)恋愛」(感情の社会学)、と小谷野敦の「片思い」、竹田青嗣の「ロマン的欲望」(陽水の快楽)あたりの接続を試みたり。

◆ニューカマー

 掲示板に「百貨店のご婦人」さんからツッコミ。また新しい人だ。桑原桑原。ひょっとして『もてない男』を褒めると一気にメジャーサイト化しますか?(錯覚)
 なんかどっかの掲示板で見かけたお名前のような気がするが、はて。気のせいかな。

 しかし、たとえ話の会話だけのヘンな投稿だった。たとえ話こわい。パラフレーズこわい。って言っちゃいけないかな。


10月5日(火)

◆ふう……

 サイトウマサトクさんへのお返事を書く。なんか全然まとまってねえんだけど、どっかで妥協しなきゃ永遠に書き込めないのでして。コレってコミュニケーション・スキルですか? それともその不足ですか?
 どうも答になっている答というやつが、できたと思う試しがない。まあ、自分以外の誰かが自分より上手くやっているに違いない、なんてことを思ってしまったらオシマイなんである。つーか、どうせ他人の人生は生きられないのでありまして。

 やっぱ『もてない男』読んでると、他人は関係ねーだろ他人はよお!(中坊林太郎)、って怒り心頭に発することもあるわけです。

◆澤野雅樹「左利きの小さな戦い」

 第三書館『エヴァンゲリオン快楽原則』所収。オレ的にはプレ『もてない男』っていうか、まあそんな感じなわけですが。ちょっと紹介。

 「こういう時どんな顔をすればいいのかわからないの」。彼女の心情がとりわけ複雑なのではない。何か他に理由があって、それを表にあらわしにくいのでもない。ある感情とある表情の自明な対応関係をまるで知らない。実のところ、碇シンジにしても、よく分かっているわけではない。ただし、彼は知らないのではない。すでに知っているが、その運用をめぐって逡巡しているにすぎない。生きたことのない人と生きにくく感じている人との違いといえばいいだろうか。いずれにせよ、この世界は生きにくい。
 良識的な人々であれば、甘えているとでも言うだろう−−うまく社会に適応しきれない者たちの甘えだとか、あるいは自分本位の幼児的な者に特有の心理だとか−−(略)。良識的な人たち、マイノリティになったこともない人格者たち、なりゆきまかせに適応してきた民主主義者たち、あるいは左利きですらない人々……。左利きは例外なく知っている−−私たちは誰ひとりとして、なりゆきまかせに適応してきたわけではない。この左手は凍えた利き腕であり、絶え間ない制圧の証拠にほかならない。絶え間ない……駅の自動改札が右利き専用であることを自覚している右利きがどれほどいるだろう。社会の記憶術が右手に刻印されている以上、たしかにこの右手も制圧の証拠であるだろう。しかし、右利きの健康な日本男児は、少女や左利きのような記憶をもたないのである。なぜなら、彼らは生まれつき良識的な人々であり、申し分なく忘れた者たち、もしくは社会の記憶術と化した記憶の人にほかならないからである。彼らが適応と呼ぶものを、それゆえ我々は制圧と呼ばなければならない。ニーチェによれば、「有機界における一切の生起は一つの制圧、一つの支配であ」り、それらもまた一つの解釈にほかならない。
(略)
 力への意志は他の力を制圧するだけではない。そもそも制圧とは何なのか? それは一つのプロセスであり、誤って適応と呼ばれている過程にほかならない。それは他者に記憶を刻印する技法を弄することであり、それ自体が一つの「記憶術(Mnemotecnik)」である。そして我々もまた、ただ単に記憶術の所産であるだけでなく、我々自身が今やその記憶術そのものであるのだ。
 赤ん坊は人間であるから立ち上がるのではない。また立ち上がることで社会に適応するのでもない。彼らはみな人間として制圧されたから立ったにすぎない。
 立ちあがり、他人から褒められ、我々はひとつだけ有能になる。意味もわからぬ言葉を発し、右手で文字らしき何かを書き、他人から褒められ、我々はまた有能になる。


10月4日(月)

◆コ・コ・ロ…

 兄貴の館の愛読者としては、やらずにはいられないところでしょう。とかなんとか。

 おお、これがウワサの「まあ、ぼくとしては穴さえあれば、男も女も関係ない。」かー。って何か間違っておるな。
   


10月2日(土)

 昨日の日記のアンカーが軒並みまちがってました。どうもすみません。日付以下の単位でリンク貼って下さった方は修正お願いします。

◆上映会

 「マクロス7 銀河がオレを呼んでいる!」「マクロス ダイナマイト7」
 みんな自分勝手で実によろしい。どいつもこいつも人の話を聞いちゃいねえし。複数キャラがちゃんとマルチタスクで動いてる感じ?

 アキバの映画の影響で「レイ・ラヴロックはO型に違いない」などと言い出す。バカ。ミレーヌはA型でビヒーダはB型な。

 続いて「ももいろシスターズ」。ヒャッホウ!
 途中から音声のみ鑑賞モード。貧弱な映像に耐え切れず。
 いや、面白かったんだけどね……「もてない男」のおかげもあって。意外なところで効能が。
 
 飛ぶことを忘れた鳥だけが本当の空を知ってる、というフレーズがやけに胸に残る今日このごろ。

◆サイトウマサトクさんから反応が

 かの「月下工房」(いや僕は最近知ったんだけど)のサイトウマサトクさんから掲示板に反応が。えっと、誠実な反応どうも。

◆コミュニケーションスキルを磨け?

 ちうわけで「もてない男」の話。まあ、読解の一助として。

 問題はむしろ、「コミュニケーションスキルを磨け」という言い方無効性と、その程度で何か言ったようなつもりになっている思い上がり欺瞞性ではないかと。小谷野敦じしんの言葉を借りれば、ただ正しいばかりの「役立たずの空語」である、というわけ。小谷野敦にしたって誰だって欲しいのは確かなんです。少なくとも、そんな曖昧な言葉(曖昧だ)を気にするような人間は。

 竹田青嗣流に言えば、道徳的「要請」にしかなっていない。んじゃないかなー。

 最近、よく他者を理解せよ、とか他者を受け入れよ、というような言い方が流行っています。それは他文化理解とか、異質な他者を排斥しないという言い方と結びついている。ところが、そこには、人間が他者との関係を開いてゆく可能性の原理はまるで示されておらず、ただやみくもに他者を受け入れよと言う道徳的「要請」でしかない場合がとても多い。(竹田青嗣ホームページ 「哲学の始発点としての「自己了解」および「他者関係」」)

 ところで、「コミュニケーションスキルを磨け」って言葉の無効性を言ったのは誰より宮台真治のはずなんですが、宮台氏には反論しなくていいの?

 えー、参考

 「コミュニケーションスキルを俺(たち全員)の知らないどこかで磨いてきて下さい」っていうか。

 あとは、「コミュニケーションスキルを磨け」という言い方が、実際には「お前は人間として欠損がある」というメッセージとして機能しちまっとる、要はそういうことでしょうに。
 そんなことはない? いくら「そんなことはない」と論証しようが、実際には、他の感じ方をさせるのが不可能といわぬまでも難しい言い方ではないのか。

 これらに対して、そう感じる方が悪いってんなら、何故そう感じさせてしまうのか考えないのは馬鹿なんです。ったく。


10月1日(金)

 雪駄さんの雑記からここへ。哲学史概説に頭を抱える。まあ「価値」を軸に読み解く大筋は正解と言ってもいいんだけど、ちょいと杜撰な印象は否めない。我が田に水を引きすぎて田んぼを駄目にしてる印象がある。だいたいフッサールは、主観にすぎないから客観的な立場に立て、じゃなくて、客観? なんだそりゃ食えるのかって言った人じゃねえかと。構造主義なら色々あるかも知れないが、現象学のエポケーってのは何より「客観世界の存在」を前提するな、ってことなのは常識。構造主義はそれに反して、客観的な構造が存在する、という前提から始めるわけで。いや「端緒」だから別にいいんだけど、いちいち言い回しがなあ。
 つーかまあ「客観」とか「ありのままの現実」を「構造主義」が映し出しそれが「価値相対主義」である、って文脈と読むとえらく混乱する。言葉尻に引っかかってるかのう。

 ポスト構造主義。重要なのは、反社会(システム)的な動機は存在しつつ、しかし同時に社会変革の不可能性も語られたことか。むしろ闘争の不可能性しか出てこない。社会=システムに対抗するためには、逃走するか、システムに対し交換不能な贈与としての死をプレゼントする(ボードリヤール)か、狂気(分裂症=スキゾ)といったもひとつ景気のよくない手段しか残されていない。「フロレアール」のジャン・ロタール君のごとく。脱構築ってのは社会変革ではない。
 社会変革の可能性を語ったマルクス主義と通底するのは、それこそ反社会的心情の部分だけであって、論理としては全然反対か。

 アレ読んで「面白い」ではなくて感心したり、勉強して知識や語彙を増やそうなんて考えるのはいけません。絶対にいけません。本田氏だってそういうことは「やるな」ってむしろ言いたいわけでしょうに。いや、自分もああいう風に語りたいってだけなら止めませんが。どっちじゃい。

 科学的知見によってニーチェやフッサール−ハイデガーやフロイトや岸田秀あたりが言っていたことの権威付けを行う、といった基本モチーフは面白いのであの文章自体は良いです。
 いや、思想と科学が相互に権威付けしあっているだけでなんら根拠付けられておらんのだが。唯幻論の使徒なら科学による「説明」(科学的知見そのものではなく、科学的知見によって何かを説明してみせること)だって幻想だってことくらいはわからないかにゃー。

 ブ厚い哲学書に金と時間とアタマを割きすぎるのは無駄どころか有害だとデカルトも竹田青嗣も言ってるので、趣味と割り切るか、精神的に切羽詰まってワラにでもすがりたいとか、そういう時以外はやめといた方がいいのは確か。


 さてここで理系文系問わずにサクっと読めるそのテの本を紹介したい誘惑にかられる。

 現時点でのイチオシは「構造主義科学論の冒険」(池田清彦)。こんな 。  とにかく死ぬほど読みやすい。講談社学術文庫にあるまじき読みやすさだ。マジで立ち読みできる。

 オンラインだとやはり竹田青嗣ホームページがいっとーお得。これ(現在は掲載停止とかいいつつサーバーに残ってる)あたりが今回の話題に多少近い、か。

◆もてない男

 えー、とりあえずここのリンク集。完璧とりこぼされているものとしてここここ。あとこの日記
 当分ひまが潰れます。じゃなくって。そんなに論争になるような本かね。至極まっとうなことしか書かれておらん気がするのは、俺がヘンなんだろうか。「精神史」であり、「あまり触れられなかった心情を掬いとる」作業として読んだのだが。オビにそう書いてあるし。
 ルサンチマン? どうも単なる事実を述べているだけだとしか思えぬ。どのみち俺の目には見えにくいことがらだ。


 実際問題として、そうした作業が行われることの意味がまるきりわかってない人が批判するんだろうけど。違うかな。あと「私怨」だの「ルサンチマン」を真に受ける素朴な読者があまりにも多い。「これは私怨である」として語るのが、彼の物書きとしての倫理でなくて何だ。
 「戦略」って自分でほのめかしてるじゃねえか。だが選択しえたワンオブゼムの戦略ではなく、唯一不可避の宿命としてそういう書き方を生きようとしている、ほとんど小林秀雄にも似たのっぴきならぬ感じ。
 「私」の感覚など無いように語る、ということをしない、というのが彼の「心の義」(太宰治)だとぼくは思う。

 本人がどれほど否定しようが、「義憤」のようなものはたしかに感ずる。弱者に足場を置いた言葉をどうしても発するのだ、強者の立場などに立たぬ、という決意と覚悟が見えないのか。他人事のようには語らぬ、見下ろすようには語らぬ、そのようにも書けたと読者に思わせてはならぬ、そういう緊張感が見えないのか。見えないんだろうなあ。オレも言い過ぎたと思ってる。でもみなさん、いやしくもプロを甘く見過ぎてませんかね。編集者も含めて。

 恋愛不要論? あたりまえじゃん。恋愛は要不要といった問題ではない。価値があるから恋愛するだの人生に意味があるから恋愛するだの、そんなのはおかしい。
恋愛はくだらない、とは言っても、くだらないからといって恋愛せずに済むわけではないではないか。
 くだらないから恋愛するな、なんて言ってどうなるものでもない。ただ、何か価値があったり「人間に恋愛は必要だ」なんて観念に支えられて恋愛するのはおかしい。
 僕としてはむしろ「価値」だの「人生の意味」だ「必要」だのによる恋愛なんざ恋愛じゃねえ、惚れるってのはそういうことじゃねえだろ! って小谷野氏は言いたいんだと思う。彼は恋愛が、やってきてしまったら不可避であることなど痛いほど承知のはずだ。

 また、「恋愛至上主義」のゆえに、言い換えれば、「恋愛だから」(どうも世間で言うところの恋愛らしいから)という理由で、恋を他のいかなるものにも優先するのは間違っている。あらゆる理由にもかかわらずどうしても恋愛を優先することしかできない、そんな時はある。しかし人はまさにどうしてものっぴきならないからそうするのであって、恋愛を優先すべきだなんて理由でそんなことをするのではない。

 一見どれほどかけはなれて見えようと、恋愛不要論ってのはそういうことだ。でもなきゃ「もてない男」の苦しみを書きつらねるような動機も又ない。

 「もてなくていいんだ」ではなくて「惚れた相手に振り向いてもらえない、それ以外の理由で苦しむ必要はない。また苦しんでもいいんだ」、ということではなかろうか。

 たとえば「恋愛」の欠損が人間的欠損であると思われる社会においては、もてない男は、実際にもててないにもかかわらず、自分がもてないということをひた隠しにして生きざるをえないわけです。俺はもてないんだ、と口にすることさえできない。
 悩んでいるということでさらに悩むということになるわけです。もてないということそれ自体の苦しみと、もてないという(社会に押し付けられた)罪障感の苦しみが二重にあります。惚れたあのコに振り向いてもらえない、という以外のことで悩むべきではありません。もし「もてない男」の存在が認められなければ(正当化ではありません。「もてない男」など存在してはならない、従ってあたかも存在しないように人々は振る舞う。病や死やさまざまの「ケガレ」のように)、自分には人間的欠陥があり社会不適応なのではないか、そうした視線にさらされるのではないか、という悩み苦しみが上乗せされる。

 「俺がもてないのは社会のせいだ」じゃなくて、「もてない男が余計な苦しみを背負い込むハメになるのは社会のせいだ」。
 「惚れた相手が振り向いてくれない」という以外の苦しみを背負い込むことはない。
 小谷野氏としては、人間が恋愛感情を避けることができない、ということくらいは承知でしょう。

 人前で口にすることができない悩みとして悩むのと、普通に悩むのとでは大違いです。これに比べれば、もてない苦しみが苦しみとして権利を得るだけでもなんぼかましです。

 いいですか、100人に通用するコミュニケーションスキルとやらが101人めの「この人」に通用しないことは常にありうる。どんなイイ奴だって運が悪けりゃ一生もてない。どんな相手に惚れるかわからないからです。恋は理屈じゃないし蓼食う虫も好きずきだからです。にもかかわらず「惚れた相手に振り向いてもらえないのはお前の罪だ」という声を社会は発している。むろんもてない奴には人間的欠陥があるっちゃあある(誰だってあるわい)、欠陥だらけの奴だって運がよければ相思相愛になれる、だから恋愛と欠陥を結び付けるのはおかしい。にもかかわらず恋愛と人間的欠陥を結び付ける馬鹿がいる。恋愛の不条理に耐え切れない臆病な精神がそういう馬鹿を生む。

 結論をいえば、この本を読んでももてるようになるわけではない。でも、この本によってもてない男は正しく苦しむことができる。

 「俺がもてないのは社会のせいだ」とか「俺はもてなくてもいいんだ」とか「行動しなくてもいいんだ」なんてテーゼをこの本から引き出すのは悉くミスリーディングだと断じさせて頂く。肯定否定含めて。ただ恋愛の不条理への認識を徹底することによって、それが社会的にもいくらか認められていると感じることによって、人ははじめて正しく恋に苦しむことができるのではないだろうか。

 オレが批判するとしたら、こうしたことを充分に言い得ていないとか、「戦略」によって墓穴を掘っている、とかそういう言い方で批判しますが。

◆ルサンチマン

 俺たちが「もてない男」をやっている(あるいは、やっていた)おかげで、ここでこうして地べたを這いずってるおかげで、もてない=人間的欠陥であると暗に前提しているおかげで、てめえはそこで「普通の人間」「成長した人間」って奴を気取ってられるんじゃねえか!

 というフェミニズム論法。

 負け犬の遠吠えで何が悪い。それでも言う、惚れたが悪いか!

◆「もてない男」誤読を撃つ!

 という企画を考えたのですがどうしましょう。とりあえず月下工房レビューは文脈がわかってないだけだと思うのですが如何。つーか、この人、物凄くアタマ悪いと思うんですけど、言い過ぎですか?

◆私信

>ウパー
 こないだルネで話したことの大半は「情熱恋愛と「他者」」『男であることの困難』に書いてあるのを発見(帰りしなに立ち読みした)。
 チクショーせっかく柄谷行人「探求T」を久々に引っ張り出したりしたのに既にやられてやんの……

 あ、それと笠井潔『テロルの現象学』(ちくま学芸文庫)、高野の丸山書店に置いてあったよん。

先月分

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