parapraxis

Aug/2002

もどる


 久しぶりに発掘した天沢退二郎『光車よ、まわれ!』(ちくま文庫)を再読した。ご多分にもれず、なのかどうか知らないがこの本に手を出したのは「摩由璃の本棚」で紹介されていたからで、たぶん中学のとき。その時の感想はといえば、「キャラの口調が古臭い」「こんな(幼い)小学生いねえ」「いかにもだなあ」ぐらいだった。水たまりに写る空、なんてものが出てきたのでもしやと思ったらやっぱりそれか、てなもんである。
 ひとつには、主人公たちの年齢が自分と近かったのがまずかった。ガキのころは自分を完全なおとなと同等かそれ以上の精神の持ち主と思うものであり、「子供らしさ」なんてものの存在は認めないのだ。あと、感性だの想像力だのは修行で手に入れるものだからね。少なくとも僕自身についていえば、若いときほど思考も感性も硬直してた気がする。たとえば「世界」という言葉にそれなりの実感が追いつくのは(つまり、ガキの俺には「世界」というのは単に物理的な地球とか国際社会とかいうのと同じ意味だったわけさ)、もう何年か待たなければならなかった。
 ともあれ以来、読み直そうと思ったのがたとえば99年の7月だが発掘に失敗、というわけで結局、15年ぶりくらいになる。水路は覚えてたけれどすのこは忘れてました。

 「しっかりしてよ。おとなって、だらしないわね!」龍子がその医者の蝶ネクタイをつかんでゆさぶった。

 ところで龍子さんは小学生なのである。そして小学生の女の子がおとなより凛々しくてかっこいいのは、かつての僕には当然のことだった。だから、このギャップに萌えるには、それなりに年をくっておく必要があるわけだ。
 あと、「あなたたちはこんなこと信じちゃだめよ。頭がおかしいと思われるから」「じゃ、君のおじいさんは?」「頭がおかしいの」と平然と言ってのけるあたりも萌え。事あるごとにスカート(当然、黒)をひるがえして立ち上がったりさっと歩き出したりする描写が出てくるので作者か僕が病気だと思った。なんかやたらと、すらりと長い脚とか書いてあった気がするし。いや、そら彼女がかっこよくないと話にならないんですが。

 今読み返してこの作品の世界(現実)感覚にリアリティを感じることができるのは、たとえば村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』を通過したからである気はする。あと、文芸批評だの哲学入門だのをつまみ食いしたこととか。何がいいたいかというと、最初は理屈でしかわからないことも、修行すれば自然にそう感じることができるようになるので、自分の感性ごときに作品鑑賞の幅を決めさせては損だということなのですが。

 あと、思い出したのがチェスタトン『木曜の男』で、そこには、ロンドンの地下鉄がチャリング・クロス駅を出ると決まってヴィクトリア駅に着く、ということに、奇跡のようなありがたみを感じる男が出てくる。世界とは、うっかり油断すればすぐにでも暴力的な無秩序で満たされてしまいかねないものだ、というのが彼のリアリティである。このあたりは佐藤亜紀『検察側の論告』の『木曜の男』評を参照されたい。

 とりあえずここにリンク。あれもこれも読んでないよう。

(Monday, 26-Aug-2002)


 娘惨状動物園。申し分なく楽しい。
 とりあえず、みんな自分勝手で実によろしい。

 そんなわけで、娘を拾った僕は、娘に拾われて家に帰るのでした。

(Tuesday, 20-Aug-2002)


 『白鯨』(田中西二郎訳・新潮文庫)読了。とにかく鯨、鯨、鯨! だった。
 古典というのは往々にして聞くのと読むのとは大違いで、これも粗筋を知っていただけでは何も知らないようなものである。僕の知る限りもっとも適切な評は小谷野敦『バカのための読書術』の「マニアックな人向け」という一節だった。
 鯨について、また捕鯨について、形而下形而上双方にわたり、悉く語り尽くさんとする情熱。いやはや!

 この対談にリンク。

 ところで、阿部知二訳は読んではいけない。この作品に限った話ではないが。

(Sunday, 18-Aug-2002)


 で、ようやくBUNGLE BUNGLEをのぞいて見たわけですが。つってもまだ「Work」しか目を通してないんだけど。

 ところで「Work」内の「雫」の解説で、「以前小説化のお話をいただいたときに、僕らは、各章ごとに視点が変わる一人称形式ではどうかと提示させてもらいました。(略) 結局、小説版は原作に沿ったものになった」と述べられているが、金月龍之介による小説版は、プロローグが香奈子の一人称、本編が祐介と沙織の一人称が各章ごとに入れ替わる形式になっていたはずである。いや「各章ごとに視点が変わる」というのが「同じ視点は二度と登場しない」とか、でなくともメインキャラの視点はひととおり入れるとか要するに終ノ空みたいな形式を指していうことを意味しているのならそうはなっていないんだけど、「原作に沿ったもの」というと祐介視点オンリーみたいに聞こえるのでマズい気はする。


 もひとつ引用。

あの独特の会話形式、

『えっ? 今日はいい天気ですね、って?」
……こくん。

は、ゴン太くん形式と呼んでいます(昔々、できるかなという教育番組で……)
アニメ版では小声というので表現されていましたが、これは結構意外でした。
なんというか、たしかに芹香の声は小さいとは思うのですが、実際に声が小さくて聞き取りにくいわけじゃなくて、あれ は以心伝心というか、ふたりだけの世界というか、一種独特のコミュニケーションのつもりだったんですけど(笑)

 衝撃の事実発覚。ああ待て、そういえば、以前、ちゃんと科白を(小声で)喋ってたことに驚いた覚えがあるか。つうかボリューム上げてみると本当に喋ってるってのはネタとかファンサービスの次元の話だと当時はたぶん思ってたはずだ。まあ、どのみち浩之には聞こえていないはずなのだけれど。
 まあ、考えてみればわれわれの日常会話にもそういう面はあって、自分のいいたいことを言語化してくれるのは、多くは話し相手のほうである、と感じられることは多いはずだ。他人の言葉のほうが自分にとってリアルに感じられる、そんな経験はないかね? まあ、はたからみれば「後宮小説」の幻影達と渾沌、みたいなことになっている可能性は否定できないが。

 ちなみにこれが瑠璃子さんだのエルクゥ(というかエディフェル)の「信号」だのになると、自分の言いたいことは、或いは自分の気持は、自分自身よりも先に、相手に届く(そして相手の言葉を通して自分に伝えられる)わけだ。まあ誰しも自分のことはわからぬものだといってもいいし、自分の心とは相手に伝わった後で決定されるようなものであるといってもいい。ああ、以前も似たようなこと書いてますね。
 ただし、相手は誰でもいいというわけにはいかない。相手が瑠璃子さんでもなきゃさー、「あなたは本当はずっと泣いてた」なんて言われても正直困るのである。アリストテレスの弁論術にも「話者が誰か」ということは話の内容と同等かそれ以上に重要な要素として挙げられている(香西秀信『議論術速成法』、ちくま新書)。

 どうも話がそれているようだ。まあ確かに、相手の声が小さかったからわざわざ復唱する、なんてのはいかにも嫌らしくて浩之ちゃんらしくない。とその程度で終わらせるはずだったのだが。

(Tuesday, 13-Aug-2002)


 昨日の続き。というより、断片的なメモにしかなっていない。ほとんどは6〜7月の日記の草稿から適当にコピペしたものである。

 何かについて語るとき、重要なのは、語られる何かであって、それについての語りの内容ではない。それについての個人の見解の内容など吹けば飛ぶような幻でしかないが、そのとき登場した作品名と、それについて語る人間が存在したということは、確かな実在としての権利を主張できるだろう。つまり僕としては作品名を出した時点でやるべきことは終わっているわけだが、それで済ませると流石に短くなりすぎるので、あとはそれなりの量さえあればいい。

 いいかげん作品の中身に触れよう。昭和三十八年、夏。舞台は田舎で、イメージとしては岩手県。まだ子供が自転車を持つのは珍しい、たとえばそんな時代と場所だ。時間の流れはあくまで遅く、しかし歳月の重みが残酷でないわけではない。コミックス巻末に置かれた作者自身の言葉は「昭和三十年代、郷愁、夏、少年、恋のような恋でない感情、別離、水あるいは湖・川、切ないということ」「きっとこれを描くために漫画を描いていたのだと思いました。それは受け手の為でなく私自身のために」。

 付け加えて言うなら、これは幼なじみとの再会によって動き出す物語であり、ひとつの、取るに足らない約束をめぐる物語だ。そして再会した幼なじみはといえばやはり主人公のことを「ちゃん」付けで呼んだりする。と書くとまるで昨今のギャルゲーみたいだが単行本の奥付は1994年、サウスに掲載されたのはそれより更に何年か遡る。そして現在ではギャルゲーくらいにしか生き残っていないシチュエーションは、しかし当時もすでに新しいものではなかったはずだ。
 そして又、そこに恋愛と快楽はない。ちゃん付けで呼ばれたとて単に気まずい以上のものではないし、忘れてしまっていた幼い頃の約束は、ただ痛みと後悔とやるせなさをもたらすだけである。
 これは、片山愁がここでは恋愛を描いていないためともいえるし、また、本来ならば多様な意味を持つはずの経験が、ギャルゲーにおいては、恋愛とプレイヤーの快楽に結び付けられねばならない、ということでもあろう。いくら似たようなアイテムが登場しようが異質なものは異質だ。

 ギャルゲーとの共通性が見出されるとしたら、むしろ透(ゆき)という少年の造型で、静かで控え目で強情で、大事なことをいつもぎりぎりまで言わない(まるでそれを口にしたら死んじゃうみたいにして)、なんていう女の子は結構いるように思う。恋愛というシチュエーションと価値観に縛られる一方で、キャラの造型というのは自由度が効く。
 

 たとえば、幼い頃から毎日のように目にしていたくせに、そして行きたくてたまらなかったくせに、結局は行かずじまいの場所、というのがある。蒼太にとってそれは「川の向こう」で、橋までは随分と遠く、また子供は危ないから遠出は禁じられていて、そういう理由で幼い頃は行けなかった。そして、一人で出歩ける程度に大きくなってからはもう、そんな場所への興味は失せている。だから彼が初めて川を渡ったのは、初めて「行きたい」と思ってから随分と歳月の経ったあとで、理由もまた、単に行きたいから、ではない。かつて望んだ行為をなぞることは、それがかつてと同じ行為であるがゆえに一層、あのままでいられなかったことを告げ知らせるものではないだろうか。

 ハック・フィンは川を下るけれども、いっこうに川を渡ることはない。彼の一応の目的は黒人奴隷ジムの逃亡を助けることであり、そのためにカイロ目指して下ってゆくのだが、結局ゆきすぎる。だが川を越えるだけで自由州であるなら、ほんとうは適当な場所で単に川を渡るだけでいい。グリーン・レクイエムでもリバーズ・エンドでも、川を下るということは、逃走すること、現状を保留すること、終りをひきのばすことだ。かれらは決して川を渡らない。

 川については二つの対立するモチーフを提出することができる。ひとつは「遡る/下る」、もうひとつは「渡る」。前者の意味するところは継続。あるいは、保留、回帰、逃避。ミシシッピを逃走するハック・フィン。海へ向かって逃げ続ける少年少女。後者はたぶん、切断。成長、そして取り返しのつかないこと。三途の川がいい例ですが。怪物を退治し女(お姫様)を手に入れるためには川を渡らねばならないのが通例です。この辺りは小谷野敦『八犬伝綺想』を参照のこと。

 こういうことを書くとまるで大塚英志みたいだけれど、「あの夏」を致命的に終わらせそこなっているような気分がずっとある。たとえばAIR。むしろ、その夏は完膚無きまでに終わってしまっている、どうしようもなく取り返しのつかないほどに終わってしまっているのだけれど。つまりは、ある種のとりかえしのつかなさというのは、却って人をそこに繋ぎ留めてしまうものである、ということなんだろう。ありそうな話だ。そういう夏のひとつとして(one of themであることが若干うしろめたい)、「君がいた夏」という作品は僕にとってある。やはりどうしようもなく終わってしまう夏の話で、その夏のうちにもう、想い出されるべきものは想い出されてしまい、川は渡られてしまう。語られるべきものはもう何も残っていない。そのことこそが、どうしようもなくせつないのだけれど、無いものはしょうがない。

(Sunday, 11-Aug-2002)


 たぶん『銀河鉄道の夜』のせい違いないのだが、川と少年の死は僕にとっては極めて近しいものであって、だから透(ゆき)は別に水死したわけではないのだけれど、久しぶりに読み返した『君がいた夏』(片山愁)のラストは、どういうわけか『銀河鉄道の夜』を強く連想させた。

 ある時期、この作品のことを僕は暫く忘れ去っていて(つまり自分がコミックスを所有していたことも)、二十歳かそこらの頃には一番好きなマンガとして挙げていたりしたのだから、これはずいぶんな話である。
 想い出したきっかけは「Kanon」だったりする。ある時、「残光」という曲のイメージにどうしても既視感めいたものが引っかかって頭から離れず、「硝子のシャロム」(『PROUD OF YOU』)や「プレイバック・ブルー」(『回転パズル』)を追いかけて、しかし何か極めつけがまだあったはずだ、と考えているうちに。
 ちなみにそのときの「残光」のイメージというのは、何かこう、ざあっと風が吹いて過去の情景が目の前にオーヴァーラップしてくる、あるいは他人の記憶が映像として流れ込んできて、届かないはずの声を僕は聴く、とかそういう感じです。これはKanonでもそのままそういうシーンのBGMになっているし、片山愁もここ一番の演出に用いる。片山愁はとくに、他者の記憶や声を、本来なら届かないはずの相手に届ける点が特徴的である※。

 マンガでもギャルゲーでも小説でも視点の移動はもちろん行われる。しかし、視点が変わり今までとは異なった誰かの内面的語り(モノローグ)が始まったとて、モノローグを語る/聞く主体は明確であるのが常だし、テレパシーみたく他人のモノローグを直接に経験する、ということも普通ない。だが例えばKanonの舞シナリオでは、ヒロインのモノローグに感情移入しているのか、それとも主人公として恰も他人の記憶を自分のものとして体験しているような状態にあるのか、あるいは単に神の視点に自分が置かれているのか判別しがたい。実のところONEの「オレ」と「ぼく」の関係も実のところ曖昧である。ちなみに、主体の位置が空間的にも時間的にも多重化されるのは、麻枝准のシナリオや歌詞によくあるパターンである。というか、前述のONEのばあい、それが空間的(共時的)なことなのか時間的(系時的)なことなのかもそもそも示されない。

 という言い方には元ネタがあって、ウパー君からのメールに、

簡単に概要だけ説明させていただきますと、「鳥の歌」の詩の中では、
ひとつのセンテンス中にいくつもの時間が交錯していることがある。そこでは
「現在から未来を思い、そこから過去を回想する」とか「いまだ犯されていない罪を
未来において償わされている」といったような、非常に複雑な状態が現出する。
いくつも例は挙げられるのですが、ここではソガさんの百質かなんかであった
「そのとき僕は海岸で観鈴を待っていたのだが、なぜか観鈴がくることがわかって
ほっとしていた」とかいうの、あれを示してみたい。麻枝准よりも麻枝准的な
文章だと思います。

 というのがあったので。
 ちなみに時間的(系時的)なことは空間的(共時的)なことにも応用が効く、というのは麻枝准マニアなら常識である。ホントか。「過去と現在」(系時的)が交錯するなら「自分と他人」(空間的・共時的)も交錯する。たとえば、自分の現在と他人の記憶。あるいは逆に、過去と現在が断絶するなら自分と他人も断絶する。MINMESやSUMMER篇のできごとは忘れ去られ意識の舞台に出ることはなく、ONEのヒロインに浩平の事情は知らされず(麻枝准シナリオなら)観鈴と晴子は情報を共有しない。このへんは脱線ですが。



※厳密にいえば、片山愁の世界ではそれが何ら特別な現象ではない点こそが特徴的である。なるほど小花美穂『こどものおもちゃ』には、出血多量で意識不明の羽山が死んだ母親を幻視し、知りえないはずの過去の声を聞くシーンがあるが、これはずいぶんと臨死体験じみた特殊なイヴェントだし、事実そのように扱われる。また筑波さくら『目隠しの国』だと、「人や物に触れると過去や未来が見える」のは、特別な人間の特別な能力である。だが片山愁の世界では誰も驚かず、どこか当然のこととして受けとめているようにみえる。これは麻枝准についてもいえることだろう。

(Saturday, 10-Aug-2002)


 ……僕は今までのような生意気な気持はなくなり、なんとなく自分が浅ましく、卑しい人間に感じられ、なんとなく気がとがめるのを覚えた──もっともなんにもしたわけではないのだが。だが、いつでもそうなのだ。正しいことをしようと、悪いことをしようと、少しも違いはないのだ。人の良心というものは物の道理がわからず、なんでもかんでも人を責めるだけだ。もし、人の良心くらい物の分らない野良犬がいたら、僕はそいつを毒殺してやるだろう。良心は人間の内臓全部が占めているよりももっと大きな場所を占有しているくせして、なんの役にも立たないのだ。トム・ソーヤーもそう言っている。

 『ハック・フィン』読了。これは自然主義文学ですか? 気が滅入るような糞リアルな(景気悪いし下らない)事件の羅列は、やはり気が滅入るような茶番で幕を閉じる。「嬌烙の館」のようだ。みもふたもない。
 話には聞いていたが、トムが再登場してからは本当にひどい。まあ、隠れた茶番を明瞭な茶番にしてみせるのが彼の役目なわけだけれど。トムが救出劇を劇的に仕立てようといらぬ手間をかけるのと、川ひとつ向こうは自由州なのに何故かカイロに拘り「よし、地獄へ行こう」なんて呟いてみせるのと、どれほど違うというのかね? もちろん自覚的に茶番を演じている者とそうでない者の差はある。つまり、ロマンを信じている者と、いまここにはロマンなど有得ないと知るからそれを作ろうとする者の差が。

 ついでにトム・ソーヤーを少し読み返して、トムが、「自分がミシシッピで水死したら」という想像を楽しんだり、病で今にも死にそうなふりをしてシッドをだまくらかしたりするシーンにでくわすと、トムが想像やごっこ遊びでやっていたものを、ハックは生きるための実際の必要として、自身が死んだようにみせかけたり(彼は父親から逃げ出さねばならなかった)するわけだな、くらいは思う。よく言われてるらしい。然し、ならば、トムは極めて真剣に想像上の役になりきっているけれど、ハックは始終「トムだったらもっと見事にやってのけるだろう」なんて考えて、どこかリアルじゃない、ということも言っておかなくてはいけないだろう。

(Saturday, 3-Aug-2002)


 この物語に主題を見出さんとする者は告訴さるべし。そこに教訓を見出さんとする者は追放さるべし。そこに筋書きを見出さんとする者は射殺さるべし。

 というのはマーク・トウェイン『ハックルベリィ・フィンの冒険』の巻頭に記された「警告」である。ちなみに岩波文庫の西田実訳。
 ところで新潮文庫版だと前説のたぐいがごっそりなく、いきなり本文である。底本が異なるせいかもしれぬが、記されていない。今木は新潮文庫(改版前の)を基本に、不明なところは岩波文庫を参照しつつ読んだ。

 テーマ(主題)やメッセージ(教訓)よりも、ストーリー(筋書き)を見出すことこそが、(作家に対する)最も重い罪でありうる。まったくもって正しい。
 テーマは作品全体の代表を僭称し、メッセージの読み取りは作品をねじまげるかもしれない。だが「この作品のストーリーは」などと述べることに比べれば、まだしも罪は軽いといわねばならない。
 それは要約することの罪であり、自らを中立であると信じることの罪だ。「それ、どんな話?」と訊かれ、いとも気軽に「まあだいたいこんな話」と答えることほど、罪深いことはあるまい。テーマやメッセージについてなら、幾許かの羞恥心と気後れを、つまりは作品への敬意を忘れぬ人々が、どういうわけかストーリーを見出す段になると、とんだ厚顔無恥の徒と化す。ロラン・バルトだって、詩を要約することは作品の本質を致命的に損なうが、ストーリーなんざ、要約前も後もない世にも大味な代物でしかないじゃないか、といっている、もとい、とまではいっていないが思っていたはずだ。

 べつに僕はここで、ディテールや個々の出来事こそが大事だ、などと言いたいわけではない。ただ、筋道をつけるなら現にミシシッピが流れてるじゃないか、という程度のことは思う。

 小谷野敦も書いている(『八犬伝綺想』で)とおり、実際に読んでみると、ごっつ暗い話である。小谷野書では「川と少年の物語」と題する章で取り上げられていて、まあそういう文脈で手を出したわけですが。実際読んでみるとこれは暗いというより淋しく、途方もなく感傷的でさえあって、なんというか片山愁がマンガ化してもいいくらいの代物だ。『銀河鉄道の夜』みたいに。
 例によって本文を何個所か引用してみたんだけど、どうも淋しいシーンばかり選んでしまうのでやめにした。まあ、夜、カヌーの底に寝転がって月をみていると、ほんとうに遠くの音までよく聞こえて、それは船着場で話している人声なんだけど、それがすべて聞き取れるとか、ひたすら川縁の水音を聞きながら、筏や流木や星の数をかぞえて、淋しいときは寝るに限るといって寝てしまうとか、そういうの。「時刻もおそいようだった。遅いような匂いがした。僕の言っている意味は分って頂けるだろう──何と言いあらわしていいか分らないのだ」。
 ハックというのは、自分が死んだように偽装して家出してきた少年である、というくらいの注釈はしておきたい。

(Friday, 2-Aug-2002)


もどる