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5月30日(水)

 本屋で立ち読み。
 廣松渉の本を捜しては目次を見て遊ぶ。見事に文字数揃ってる。あ、熊野純彦「レヴィナス入門」(ちくま新書)の目次も文字数揃ってるぞ! 廣松渉「物象化論の構図」(岩波現代文庫)の解説書いてるしな。ファンなのか。「移ろいゆくものへの視線」もあたってみようかと思うが見つからず。

 結納唯脳論の文庫版解説はどうしてあんなにひどいのか。岸田秀がユングをベースに、ってのはあんまりだと思う。いや、「日本近代を精神分析する」なんかどっちかといえばユング臭い気もするんだけど。でもこの人の場合は「岸田秀はフロイト主義者を名乗ってるが実は隠れユング」なんてことを言いたいわけじゃなくて、単に記憶違いだろう。あと、ありがちなミスとしては岸田は「本能が壊れた」とは言ってるが「本能を喪失した」とは言ってない。と思う。岸田秀の用法では「本能」とは「種族ごとに統一的な行動形式」のことなので、たとえば成熟した異性(とその類似物)以外に大して性行動を行う時点で「本能が壊れている」ということに既になる。人間には対象がいまいち定まらないコマギレの性衝動があって、それが生殖可能な個体に必ずしも向かわない状態をして、本能が壊れたと称する。この言い方の真偽やこれが人間に固有の現象か否かはともかく、喪失したという言い方はしてないと思うが。唯幻論は唯脳論に負けず劣らず誤解が多い。
 動物がわれわれと同じように性衝動を「感じて」いるかどうかなんてわからんのだから(人間についてはわかるということにしておく)、本能なんて「行動形式」以外の意味はない。つうか衝動ってのは行動形式としてしか存在するとはいえないんじゃないかって気が既にしますか。

 なんつうか「脳」って言われても、「脳」という言葉の用法、以外に何も思いつかない。毎日解剖でもしてればまた違うのだろうけど。脳と呼ぼうがカテゴリーと呼ぼうがあまり違う気はしない。ただ、脳と呼んでしまうと脳科学による記述の体系を採用することになるので面倒。精神と言った方が手慣れた記述の体系(まあ体系かどうかしらないが)を採用できるし、あとたぶん文字数も少なくてすむ。精神とか人間とか作家とかいった言葉をだからつい使ってしまうし、まあそれでいいと思ってる。素人なんてそんなもんです。

 池田晶子が養老書における「脳」の用法について何か書いてた気もするが。個人的にはあまりおすすめできない書き手だが。


5月29日(火)

■みずいろ
 「われわれは、ある時は、銀のスプーンがアルミのスプーンより高価であるという理由によってそれを選び、別の時には、アルミのスプーンが銀のスプーンより安価であるという理由によってそちらを選択する。」(香西秀信「議論術速成法」ちくま新書)

 その作品が「普通」であるという理由で手を出さないこともあれば、その逆もあり、というわけで。以前に手を出さなかったのと同じ理由で今手を出している。
 いや何って「みずいろ」に。そりゃもう普通のギャルゲーである。毎晩クローゼットから幽霊が出て来るほどに。これが噂のポンコツでしか。
 「わ、わわわわ……」「おろおろ」「あたふた」「おろおろあたふた〜」でセリフの3割くらい食ってるんじゃなかろうか。おまけに気合を入れて力を込める時は「にゃ〜」なのか。その口がそんな声を出してる間、この頭は何か疑問を感じなかったのか。このヘッポコがっ!

 某所ではKanonのあゆシナリオとか書かれていたが、むしろ真琴か舞だと思う。発端の些細というか情けなさとか。ありふれた出来事の一つ。ちょっとした嘘。そんなものが後々効いてくるとすれば。「一体そこからどんな物語が発想できるだろう」的な。幼い日になんとなく言いそびれたこと、それだけ取り出せば誰にでも覚えがあるような忘れ去られた思い、それが今回の物語の主人公となる。バラしてしまうとそれは命にかかわる手術を控えたヒロインが思わず思い残したことはないかと振り返ってしまったために意味を持たされたので、過去はあくまで現在から要請されたものということができる。このへんも「幸せな日常」が溯行的に「過去のトラウマ」を要請する「ONE」を想起させますね。油断すると漢語が多くなる。

 ちぐはぐさというか滑稽さというかそのへん麻枝准互換かも。主人公以外には見えない幽霊とデエトして笑われたりするんだぜ? 舞の「魔物」ですね。「主人公の妄想」で片付けるような人が出るんじゃないかと心配です。
 あと、服だけ子供のころのまま、という、ファッションセンス以前の無残な格好を久弥直樹はヒロインにはさせまい。麻枝准以外にこういうひどいことをする奴がいるとわ。あと小道具が安っぽい(値段的・絵的にね)所も。久弥直樹だったらもうちょっと綺麗に絵になるものをつかうし、まちがっても違和感を武器にしたりしない。例外はみさき先輩だが、盲目という言い訳なしには、見栄えの悪い(綺麗じゃない)絵って久弥氏はたぶん避けるんじゃないかな。えと、クリスマスのアレとかね。

 肝心のでどう感じたかですが、「効かぬ……効かぬのだ!」(ラオウ)、というか。なんかこう、攻撃が通らない。ダメージない。なんでこうも、悪くないんだけど何も動かされない。まあ「普通」を標榜してるからにはそれは欠点ってわけじゃないんだろうけど。あと構成よかったです。「そろそろこういう変化が欲しいな」ってときにちょうどそういうのが来る。

 まあ、なんだかんだ言って、学校が終わるのも待ち遠しくクローゼットの前で待ち構える毎日ではあった。

 やっぱいたる絵じゃなきゃ駄目かなあ俺。



 じゃあ以下「判断」と「理由」について。書いてしまったので。たぶん元ネタはコレ

 われわれは、ある時はデッサンが整っていないという理由で嫌い、ある時はデッサンが整っていないという理由で魅力を感ずる。「デッサンが狂ってるからあの絵は嫌い」「デッサンはたしかに正しくないかもしれないがそれゆえにあの絵は人を引きつける」という事態はともに成立可能だ。
 さてこのときデッサン云々は本当に「理由」と呼べるだろうか。いや理由は理由にちがいないのだけど、それは好き/嫌いという選択結果をもたらす原因だろうか。人はいかにもたしかに「私は」「デッサンが狂っている」「から」「嫌い」だと確信しているかもしれぬ。だが、よくよく考えてみるがいい。「から」という因果関係は君の心中に観察できるか。「私はこの絵を嫌いである」という独立した印象と、「私はこの絵のデッサンは狂ってると感じる」というまた別の印象が、単に並列的に存在するだけではないか。両者はほんとうに関係があるのか。
 君が判断とその理由と信じているものは実は、君の精神のある状態を、二カ所ほど取り出して単に並べて述べたものにすぎない。「判断」と「理由」ではなく、単に2つの「判断」(「私はこの絵が嫌いだ」「私はこの絵はデッサンが狂っている感ずる」)が、ただ時間的に近接して生起しているに過ぎない。なるほど両者は高確率に共に生起するように見えるかもしれないが、ただそう見えるだけかもしれないではないか。いくら高確率で当たってい(るように思え)ても占いは占いだ、ということを忘れてはなるまい。

 むろん事実としては人がそれを好きになったりならなかったりする前から「デッサンの狂い」は存在するから、それを原因とみなしてもよさそうな気はする。だが、それがその人の主張する理由として見出されるためには、まずその人がその絵を好きになったり嫌いになったりしなければならない。権利上は後者が先行する。ところで権利上ってなんですか。


5月25日(金)

 面白いように会話は立ち消えた。
 だいたい質問しといて、「やっぱ答えなくてええです。どうせあなたがここで何を言おうと、あなたが以前書いたものこれから書くものに従って僕は勝手に解釈するわけだから」はないだろう、俺。

 思ったより性格悪そうでした。思ったより俗物っぽかった。って言われたら嬉しい?
 無駄に歩き回らせてごめんなさい。

 どっかの目玉とはちがって、何かを話すためには言葉でなければいけないのだった。もしもぼくらの言葉がウイスキーであったなら、と言ったのは村上春樹だったか。

 クラスの嫌いな奴の話題で盛り上がったりもした。佐祐理さんとか。

「あんな奴がクラスの人気者なわけないじゃないですか。見てて痛いし。あれはもう妖怪ですよ屋上の闇に潜む暗黒の。子供をさらってく妖怪」
「やまんばですね」
「そうですとも」

 そんな感じで。

 人の顔覚えるのは苦手だから、とは言った。ほんとうに忘れるとは思わなかった。思うに、パスケースに写真入れたり毎朝写真立てを拝んだりするのは、つまるところ顔を忘れないためじゃなかろうか。ほらクラスメートでもなきゃ見かける機会ってあんまりないしさ。んなわけないっしょ。そんなことを思いつくくらい、人の顔って忘れます。


5月24日(木)

 contextless redの人と会う前に泥縄式に「ハートレス・レッド」読む。ちゅーがくせー。ピュアメールから中学生とったら骨しか残らん。

 彼はたしかに悪役だし、どうしようもない奴なんだけど、彼女が彼をみるときに、出来の悪い弟を見るような気がしたんじゃないかとか、そんなことを考えなくもないです。


5月22日(火)

 これは人から聞いた話なんだが、「笑う哲学者」土屋賢二がTVで「私は夢の中で見知らぬ裸の看護婦と会った」といったカンジの例文を挙げていたそうでね。なぜ看護婦とわかったのか? この話のオチをその人は話してくれなかった。さすがに「ナースキャップを付けていたから」というオチではなかろう。

 「成恵の世界」のなかに、「ある朝見知らぬ妹がいたのを見てもあまり驚かなかった」というシチュエーションがあるのは周知の通りだが、なぜ妹とわかったのかといえば彼女が自分を「お兄ちゃん」と呼んだからである。約言するに(してません)「お兄ちゃん」及びそれに類する呼称である特定の誰かを名指す、という機能こそが妹の存在本質であると言って大過なかろう。さればこそアニメ「シスター・プリンセス」の第1話において「僕のことをお兄ちゃんと呼ぶということは、彼女たちは僕の妹であり僕は彼女たちの兄なのだろう」という納得が成立するのである。
 なぜ彼女が妹だとわかったのか、ということは、なぜ自分がお兄ちゃんとわかったのか、とイコール同じことだから、これはもう同語反復というか恒真命題というか、そこから先にはさかのぼれない間違えようのない定義と申してよかろう。過去における事実関係はさして問題ではない。よし妹とは兄の妹であるにのみならず姉の妹でもある、という事実をわれわれがしばしば忘れるにせよ。もっとも、多くのギャルゲーマーにとっては、妹とはお兄ちゃんという二人称を特定人物にというかようは俺様に行使する人間である、などと述べても、あまりに当然すぎて、今更ことあたらしく云々すべきことでさえないだろう。

「はじめまして、お姉さま。私はイクサー2。あなたの妹」
「イクサー2? 妹?」
「私はビッグゴールドの娘。だから、お姉さまの妹」
「ビッグゴールド? それは違う!」(「戦え!イクサー1」)

 たとえばイクサー2のあからさまな原形であるところのハカイダーとキカイダーの関係には「同じ人物に作られた」という現実的基盤がある。あった気がします。だが、ここでまずビッグゴールドとイクサー1の関係だが、ようするにゲドと影であり一種の双生児である。したがって、イクサー1と2の関係は姉妹などと呼べるものでは本来はない。まあ、じっちゃんの作ったマジンガーZとじっちゃんの息子が作ったグレートマジンガーが兄弟機であるとか言われてしまえば結構反論に困るのだが、その場合は「兄」「弟」と名指すのは外部の観察者であって決してZとグレートの相互関係という内部の系においてそうした呼称が用いられるわけではないのでいささか話が異なる。あと連中喋れないしな。
 イクサー2には自身を1と姉妹と呼ぶべき現実的基盤は存在しない。であるがゆえに、執拗に相手を「お姉さま」と名指し自分を「妹」として規定する必要があるのだ。ハカイダーはほとんどキカイダーのことを兄さんなどと呼ばない。しかしながらファンに「イクサー2とは誰か?」と聞けば、まず間違いなく「イクサー1の妹」という答が返ってくるはずだし、「実はそうじゃないんだ」と答える者もいないはずだ。

 余談だがこれがイクサー3になると、3の製作者はイクサー1でありしたがって両者は娘と母に類比されるのだが、にもかかわらず2は3にとって姉であったりする。まあさすがに叔母さんと呼ばせるのもどうかと思っただけだろうけど、イクサー2はどうしたって恐いお姉様でなければならないのである。というか整理すると単にイクサー1がイクサー2の叔母さんなわけであるがこれもいささか承認しがたい。

 ともあれここでは「どう呼ばれるか」が事実関係に優先するのだ、といった程度の結論を胸にとどめていただければ幸いである。要は言い続けた者の勝ちである。そうであっては困る問題は多々あるが、少なくとも家族関係だけはそうであってはいけない最後の問題であろう。英文直訳調。

 まあこういうことを書いてるとAIR話が日記系で盛んだったころ、Fayさんが「家族ごっこはもう飽きた」みたいなことを言ってて、それに直接言及しての反応ではないが横山潤さんが、最初の人間関係が既にオリジナルではなくコピー(ニセモノ)である、とかそんな意味の(使ってる言葉が全然違った気もするが)ことを書いてらしたのを思い出すわけですが。

 づしの森掲示板からたどったここKanon話がそんなんでしたっけ。複製芸術とからめてみたい気もしますね。<適当

 で、何か妹が松江に来てるらしいんですけど。つまり僕のことをお兄ちゃんと呼ぶからには以下略。ええ、ノロケですよつまり。


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