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6月24日(日)

 本屋のハシゴ。目的は色々。
 ラブひな評のために「BUZZ」買う。わかりやすいし、うまくまとめてあるし、言うことなし。「謎」という言い方で神秘を残しているあたりは作品と現在の読者を尊重する意味で良心的だと思いました(皮肉)。
 小説トリッパーは見つからず。あ、山内さんどうもです。ちなみに25日になってから24日付けの日記を書き始めるなんて日常茶飯事です。
 保坂和志「プレーンソング」「草の上の朝食」「猫に時間の流れる」「この人の閾」。ねこーねこー。にゃーにゃー。ねこーねこー。わりとそんな感じだ。「プレーンソング」には「フニャ猫」(発音はフニャとフミャの中間)という表現を駆使する女が出て来て今坂唯笑(メモリーズオフ)かと思った。ギャルゲーにおける「日常」論に際し参照するとたぶん貿易差額が出る気はしますが(結構読まれてるという話だが)、どうでもいいか。読んでてヤバいくらい幸せになったのでどうしようかと思いました。ああ猫!
 乙一「失踪HOLIDAY」「きみにしか聞こえない」。二本ほど受け付けないのがあって。「痕」のオヤジの手紙読むシーンが吐くほど嫌いなオレには駄目です。血縁という自然性に解消するのはやってはならない神秘化のたぐいだと思う。ややズレるが、AIRが「母」って出してしまったのはやはり最悪だと感じる。そういうやりかたで客観的に保証しちゃいかんだろ。もっとも思想的にどうこうっていうよりは感じ方というか好き嫌いの問題で、僕がどう感じるかなんて、僕自身の好き嫌いなんて、それこそ僕の知ったことじゃないのですが。ストーリーの感想としては、なんというか古典的なストーリーだなあというか。こういうのって、ギャルゲー以外にも生き残ってたんですね。位置づけとしては新本格における古典的パズラーってとこか。こういうたとえに意味はあるんでしょうか?


6月17日(日)

 積んであったPowder Snowをちょっと起動してみる。正しくない日本語はやはり駄目だ。正しくないデッサンも正しくない音程もそれだけで好き嫌いを決定することはないが、正しくない日本語は辛い。なぜかというに、まず、日常的な言葉を間違える人間はあまりいない。するとすれば、誰でもやりそうな、許容することの容易な間違いである。したがって、間違った日本語は、時代がかった言い回しや、仰々しい言い回しや、そうしたものをやろうとしたときに目立ってしまう。つまり、背伸びしてかっこつけようとしてすっ転んでいる無様さが、どうにも耐え難いのである。早い話、ろくにわかってもいない小難しい言葉を振り回す姿は不快だ。そういう言葉使いを用いる必然性が見出せるならまだしも、ちょっとかっこつけたかった、とか、単なる自己陶酔とか、そういうものしか透けて見えない場合が多い気はする。できないならば、「現代語訳」風にしてしまえばいいのである。その方がもっともらしく見えるものだ。

 「まだ神代と呼ばれていた頃」ではなく、「今では神代と呼ばれているほどの昔」であるはずだ。当時の人間にとってはただの現代だろうに。あと幻想の超古代日本に「黒魔術」という単語は致命的に相性がわるい。なぜ「私利私欲のため」という意味で「我田引水のため」と言ってしまうのは流石にどうかと思った。誰か止めなかったんだろうか。


6月16日(土)

 「煩悩とはなんだ。ここに出してみよ」(センチメンタルジャーニー#6「莫煩悩」)

 手許にないので記憶に従い引くが、竹田青嗣の柄谷行人論(タイトル忘れた。「意味とエロス」に入ってたと思う)はこんな感じで締められたいたように思う。「彼はもはや世界が何であるのか、とは問わない。世界はいかに現れるのか、とも問わない。ただ、世界を支えるアトラスは誰か、と反語的に問うているのである。」。ヘラクレスって書いてあった気がするのだがアトラスの間違いだろう。竹田青嗣はほかにもどこかで「いわしのしっぽも信心から」みたいなミスをしていたが、誰か直してやれよと思う。こういうのは書き手じゃなくて編集者の責任。ゲームで頻出するアレな日本語も、シナリオライターではなく編集サイド(の不在)の問題である。「いやしくもプロの文章書きが日本語を間違えるなんて」などという言い方をよく目にするが、これは間違って書いた人間の責任というより、そのまま出してしまったことが問題で、ようはデバッグの不足だ。バグを発見するたび「いやしくもプロのプログラマーがバグの発生を許すなんて」などとは誰も言わないだろう? 話ってそれやすいな。

 ONEについて語るとき「永遠(の世界)とは何か」、と問うのはもうやめようじゃないか。最終的な答なんて出ないのはわかりきっている。たとえばX-GAME STATIONのKenさんが、世界観としては「どう解釈しても説明は不可能」と書いてらっしゃるのはまったく正当だ(そこから先の論の展開にはまったく同意できないが)。世界観(世界設定といった方が正確だが)もなにも、「永遠」という語ひとつとっても定義は不可能で、常に何かの言い換えであるような、決してそれそのものを指し示すことができないような(つうかそもそも実際に身体的に指さすのが不可能である)、実に煮えきらないほとんど脈絡のない多義的な用法で出て来ている。「日常」にしたところでそうだけど。

 決闘広場の上空、「永遠のある城」を指さしたところで、それが「永遠」そのものであるとは誰も思うまい。大海原に投げ出され手を伸ばそうにも触れるものなく足がかりもない、そんなときに「無限」ならまだしも「永遠」が出てくるのはどういうことなんだい? 「この語は、言語体系外の共通の指示物を指示するかわりに、再び言葉によってそれを言い換えてゆく可能性のみを伝達する。」「この言葉によって指示される、言語外の、「りんご」のような対象が、患者において事実として欠けているかどうかという問いの立て方は間違っている。」(新宮一成「無意識の病理学」金剛出版、108頁)。もちろん都合のよいように編集した引用だよ。いつもそうだが。
 まあこうした事態はさして言葉においては珍しいことではないにせよ、しばしば何らかの実体的定義を知らずに与えてしまうことは(そのように語を用いてしまうことは)避けられるなら避けるべきではあろう。

 ねえ、恋のカタチってどんなの? まるー? さんかくー? それとも、はぁと?

 むろん言語は差異の体系であり、言葉には他の言葉との差異しかない、とはいえ指さしこれがリンゴだと言って、他者がそれを否定しなければ、リンゴは存在することができる。他者があくまで「そんなものはそこにはない」とか、「それはリンゴではなくミカンだ」と言い張れば、そこにリンゴは存在することはできないかもしれないけれど。おまえがいなくなるのではない、博雅がいなくなるのだよ。

 とはいえ、リンゴを指さすことは可能だ。恋だって? 「これは恋なのだ」と実感することはできる。だが永遠は第一義として「ないもの」としていわれるのだ。「永遠」は多くは「永遠なんてなかったんだ」という呟きと共にある。「幸せな日常」もまた、「幸せな日常の喪失」のあとで現れる。失恋したあとで恋だったと気付くのもよくある話だが。

 永遠とは何か、ではなく、永遠はいかに現れるか、でもなく、繰り返しあらわれるなにものかを指示せんとする運動ないし衝迫に着目すべきだ。「ぼく」の「永遠」に対する述懐が、受け手には何のことかよくわからないままにも切実にリアルに迫ってくるとしたら、そうした部分をおいてありえない。
 それを「家族を失ったトラウマ」の結果に収めるのはたぶん不可能とはいわぬまでも不毛だし。もはや「永遠」という結実(あるいは発端の用意)もなくたんに家族という名辞への過剰な思い入れだけが空転する、という意味でAIRが失敗作であることを僕は否定しませんが、思うにこれはエリオットが「ハムレット」を「客観的相関物」を欠いているがゆえに失敗作だと述べたのに似た言い方になる。柄谷行人「意識と自然」のアレ。それはもう「どのように筋を仕組んでも表現しえぬ何か」としか言えないので、たとえば「永遠」と仮に名付けることさえかえってなまぬるい。それはそれとして「家族」という主題がそれ自体として重んじられる、という事態、というか家族愛とかそういうテーマがたんなる意匠以上のものにとらえられる事態は、僕としては何としても抗したくはあります。やってどうなるものでもありませんが。


6月9日(土)

 femme fatale買ってきました。にせEDENとそれから「此処には、男が求める女の姿が在る」ってのがたぶん最後の一押しをしたらしい。
 時は大正。といえば「女郎蜘蛛」とか「檸檬」とか「帝都奇譚」とか「百舌鳥の贄」とか色々あるわけですが(「アルバムの中の微笑み」っていつだっけ?)、こいつは極めつけだ。まあ、舞台となっている時期とか登場人物の所属階層とか、あと現代の受け手の嗜好への考慮とか、色々あるので単純比較はできないが。大正時代を忠実に再現しては萌える人間が限られすぎるし。とりあえず「メイド」ではなく「メード」であるあたり、やられた、と言っておこう。

 鏡花の女。夢二の女。栗本薫「黒船屋の女」「魔都」あたりの線かのう。姫宮アンシーとか深山奏子とか。自己を主張せず自立とは無縁な、ようするに現代では女性とかフェミニズムの人だけでなく男にも(むしろ男にこそ)眉をひそめられそうなタイプ。行動原理はたとえば太宰の「火の鳥」あたりの。

 あとdays innocentをようやく発見入手。とりあえず後回し。今コイツと死合ったら確実に死ぬ。マニュアルを2ページと読まぬうちにああもう心臓がえらいことに。なんかものすごいオーラが。出てるんですけど。ところで僕の友人に「恋ケ窪スケッチブック」を読み終えるのに2カ月かかった人間がいてね。嫌いとか不快とかそういう理由では決してなく。


6月8日(金)

■みずいろ
 ようやく清香を倒す。終盤になってようやく匂いの描写が出てくるので、してみると主人公にはちゃんと鼻はあったらしい。
 そろそろ、もう「普通」は勘弁してくれおれがわるかった、という気になってきた。「普通」つっても、たんねんな日常描写が売りとかそういうのじゃなくて、普通の(流行りの)トラウマ癒し系泣きゲーって意味での「普通」なんだよな。凡庸な物語をあえてなぞってみせているのか。
 作家性というノイズをこそぎおとし、極力「どこかで見たような」ものにする、という七面倒なことを本当にやってるかどうかは疑問だがやってるんじゃないかと疑う。

 今日もネタバレ。AIRのネタバレも入ってるよ。本編の内容に具体的に触れずに語れるか。世の中には本文の引用も具体的な個所の指摘もやらずに(つまり論拠がぼかされたまま結論だけの)考察だか評論だかを自称する文章が出回ってますが。自分の思いつきが大事なだけなら日記でやってくれって。
 えっと「すんませんネタバレですごめんなさい」の一言が言えずにこんなことを言ってしまうわけで。なんか知らないけどつい。清香のキャラクターに影響されてますか。本当は怒りたいんじゃないのに。なんてポツンと言われた日にゃあどうしていいかわからなくなります。

 怒りたくないのに怒ってしまったり、本当に言いたいことなんて言えずに。でも、悪いことばかりじゃなくて、たとえばお互いに、後ろ手に何かを隠したままで会話するのは、奇妙に心地よかったりもするのです。

 しかしマジでこいつら、極力いっしょにいやがる。自由な時間はぜんぶ一緒にいる。素晴らしい。なんか「砂絵を手伝え」ということらしいんですが。

 毎年、砂絵をつくる。しかし一度も完成したことはない。癇癪おこして、暴れて、部屋メチャメチャにして、破ってしまう。なぜなのかはわかってるし、どうにかしたいのだけれど、どうしてもそうしてしまう。わかってるけどしょうがないんだ、だって? 太一っちゃんか炎の魔女(ハートレス・レッドでの)の啖呵でも欲しいところだ。「一回ぐらい失くしただけで取り返しがつかなくなるようなものが人間の中心にあるなんて、オレは絶対に認めない!」とか。しかし主人公、「ひとりになるのがいやだったら頑張れ」と恫喝するだけ。ひとりじゃないって、そんなにいいことなんですか? 人間は理解しあうべきなんですか? 弱さを分かち合うべきなんですか? うかつにAIRを思い出させるようなモチーフ(勝手な連想といえばそれまでだが)を出すもんだからスイッチが入ってしまって頭ん中疑問符の山ですが。

 構成に難ありとかいいたくなるのだが。冗長で盛り上がらないし、たいしたことないネタをひっぱりすぎるし。だがそんなことはどうでもよろしい。僕は完成度なんてモノサシは持ち合わせていません。

 どちらも本当に言いたいことを隠したまま会話しつづけるのだ。ときどき、ぎゅっと抱きしめてしまったり、つい本当のことを言ってしまったりするのだけれど、そして少しずつ、彼女は拗ねた子供の眼をすることが多くなるのだけれど、同じようにまた明日おやすみと眠りにつき、けたたましく起こされたりするのだ。彼女の家で。つうか「久しぶりに家に帰ったぜ」だもんなあ。あ、泊まり込みで手伝ってるんです砂絵。あとテスト勉強も一緒に。男はいちおう男なのでソファで寝たりしますが。

 細部において光るものはあるが、まあ良くも悪くも普通であり何者でもない。あまりに凡庸な物語がそこにある。あらゆる物語は欠如の回復であり、家族の回復である。らしい。というか欠如の回復として定式化できるものを物語と呼んでるだけなのだが昨今ではおそらく。

 あと、AIRってこのシナリオみたいな水準というか物語的水準でとらえてる人がいそうで恐い。つうか絶対いる。

 で、なぜか頂いたメール(AIRについてだ)を都合良く編集して公開する。よりにもよって「みずいろ」話でせんでも、という気はするが、まあライブ感覚ってことで。以下引用。

さて、観鈴ちんの話です。
観鈴ちんの過去は、一応語られます。が、それは、例えば「虐待の記憶」のような、 物語上で保証されたものと、夏篇で膨大に語られた「前世(?)」の二通りあるわけ です。
そしてAIR篇で語られる観鈴ちんの悲劇は、これはあきらかに後者に由来するもの である。
が、恐ろしい事に、それを保証する方法はなーんにもないわけです。観鈴ちんは 「なーんか夢見てるのー」としか言わない。橘の親父さんは平然と誤解するし、晴子 だって援助はするけど、彼女の悲劇に対する確信は、ない。あらゆる可能性は浮上し つつも、 それらは全て保証される事なく消えてゆく。そのうち観鈴は体の自由を失い、記憶さ えも奪われて、完全に「過去を語る能力」を奪われてしまう。

 引用終わり。「みずいろ」が「物語上で保証された記憶」にあまりに合致する気がするので、つい。こうした点に敏感かどうかが、AIR評価の分かれ目でしょうね。高い低いじゃなくて、方向性として。むろん、「周囲の無理解にけなげに耐える」的な「演出」としてとらえるような見方も可能だし、そうすればAIRはわりかし普通のお涙頂戴劇の範疇におさまってしまうのですが、そいつはなんというか間違ってはいないかもしれないが、あまりに不毛な批評というしかないわけで。

 それにしても、「みずいろ」のHシーンの入れ方はひどい。キャラの精神だか内面だか心理だかのドラマとタイミング合わせてそろそろ、ってのはあたしゃ嫌いだ。思春期なんだからもう少し心身ズレてなさいよ。別に思春期じゃなくても。
 どうでもいいが、麻枝准のそれはわりと好きだよ。痛々しくて少しも楽しそうじゃなかったりするところがさ。たしかにそんなときにそんな風にやっちまう連中(麻枝キャラ)は人としてアレではあるが、なんというか作品論的な視座(むう)からは悪いとは思わない。

 ところで件のメールはこう続きます。再び引用。

 で、そのように過去に完全に切り離されちゃった人間ってのは、孤独です。 もう、回復の可能性すら見込まれないほど孤独。だから、そこまで追い詰められ ちゃった人間がする事っていったら、セックスしかなくなるわけです。麻枝准のキャ ラのセックスが楽しそうじゃない。当たり前だ。彼らは他に出来る事がないからやっ てるだけなのだ。
 AIR最大の萌えポイントが、「よくわかんないや……」だったことに、最近気付 きました。

 引用終わり。そういや雪駄さんとか萌え死んでませんでしたっけ。

 さて、よくいわれる意見、エロゲーだから仕方なくHシーンを入れた、というのは確かに間違いではないのかもしれないが、どうもこう、ちょっとヘンな味わいがある。というかよくある意見のほうは、「楽しそうじゃなさ」をそのまま感受すべきときに、間違えて「エロゲーだから仕方なく」或は「エロゲーのくせに」という理屈を脳が参照してしまうのではないかと思われるのです。
 じゃせっかくだから引用つづき。

 人は孤独では生きられない」とは昨今はやりのフレーズですが、「だから一緒に 生きていこう」というフレーズがセットになってついてくるのに、どうしても違和感 があるんですよ。
それって下手すりゃファシズムですよ。「一人になるのが嫌ならちったあ我慢しろ」 という発想は、俺が一番受け付けないものであってね。秋山瑞人はたまにヤバイと思 う。
 麻枝准のキャラクターは個人である事を徹底している。だからこそ他人を(平然と 自己を犠牲にしてしまうくらいに)思い入れることが可能なのである。


 というか今日の記述においてこのメールに触れないのはなんつうか不正確だと思った。受け取ったのはこの日のやつ書くより前です当然。


6月7日(木)

 およそ自分の行為の原因(動機)について述べることほど疲れることはないね。私のこれこれの行動の原因はこれこれです、という言明は正しくも間違ってもいない。端的に無意味なだけだ。

 自分の言ったことで誰かを変えうると思ったことはない。意図的に/意図に沿ってという意味ではね。善意が報われるべきだなどと考えるべきではないと思うよ。「おまえが困ってると言ってるから色々助言してやったのに、おまえは少しも変わらないじゃないか」なんて怒り方は、あまり美しくない。善意とか、相手のためを思う気持ちとか、苦労して紡ぎ出した言葉とか、そうしたものが、それゆえに(つまり、相手のためを思っていたり、苦労したりしたりしたって理由で)、何か効果があってしかるべきだと考えるのは、理屈に合わない。

■みずいろ
 「みずいろ」話。日和。ネタバレ。

 おれはこいつに好かれるようなことは何もしたおぼえがない。いつもいじめて泣かせてたし。最初に会ったときに道案内をしてやったけど、そうしないと妹のやつがうるさいから、という以外に特に何かあったわけじゃない。あとはただ一緒にいただけだし。

 アニメ「To Heart」冒頭には、あかりがなぜ浩之が好きなのか、という説明として、幼い日の浩之の優しさを表現する情景が描かれる。実の所は、好きだからこそ、そうした光景が特権的な意味をもってあかりの記憶のなかにあるのだろうけど。

 「みずいろ」日和シナリオの冒頭に置かれるのは、主人公が理不尽に日和をいじめるというか、ネタバレだけど言ってしまうと、自分にできないことが日和にできるのに主人公が腹を立てて、クローゼットの中に閉じ込めてしまうという、そういうエピソードだ。「なんでおれにできないことがおまえにできるんだ。そこでしばらく反省してろ」とか言って。恋とか好意の端緒としてはどうよ、といった。

 いや、単純に、視点が女か男か、って差かもしれないけどさこういうのは。浩之にしてみれば、あかりになんで好かれてるのか、なんてまるきり不可解だろうし。ただ受け手にとっては明瞭だ。とりあえず今日はここまで。というか「みずいろ」どうでもいいし。

 快/不快とか好き/嫌いって言葉はあまり信用してなくてね。行動の傾向としての「好む」はわかる。たとえば、たいていの植物は日光を好む、という言い方はわかる。だが、内的な気持ちとしての「好き」と、行動としての「好き」はまるきり次元が違う。
 僕はとある料理が嫌いだし不味いなあと思うのですが、つい食堂で注文して、「うむ、やはり不味い」と心中言いながら食べていることがよくある、といったことを、とある後輩が書いていたのだが、内的な「好き」は行動を特に決定しはしない、という意見に僕は賛成なのだ。
 こういうことを言うと必ず「いや、それは結局は好きってことだろう」とか「いや、それは実は不味いと思うことが快感なのだ」とか、そんなふうに突っ込む人がいるのだが。つまり、行動の形式において内面的真実が決定せられる、ということらしい。内面とは行動によって定義されるのである、とそのとき人は(無自覚に)述べているのだが、ならばそもそも内的状態としての「好き」や「快感」を持ち出す必要はないではないか。太宰治は、もし植物に意識があったら、「私は光が好きなのです」などとは言わず、「私が伸びてゆく方向になぜか日が当たるようです」と言うだろう、と言っている。どこでだったかは忘れた。たぶん「太宰治のことば」(野原一夫・ちくま文庫)に載ってたから覚えてるのだと思う。

 僕が実はどう思ってるかなんて重要じゃないんだよ。あるいは、同じことだが行動と関係なしに重要なんだよ。


6月6日(水)

 自分がとりつかれた思考の内容について責任を持とうとするのは、森の中で出会った動物の種類について責任を持とうとするようなものだ。われわれは考えを何か自分で生み出したかのように扱うが、考えとは森の中で出会う動物のようなものだ、とユングはいっていた。この場合はフィレモンが。こんなときユングを持ち出すのは最悪かもしれない。そう、あなたのせいじゃない。
 何かを言わなきゃって気はするんだけど言わない方がマシなことしか思いつかない気がしてさ。そういえばまだ私の方からは好きって言ってなかったけど。自分にとってあまりに当然なことは言い忘れる。頭ではわかってても実際にこれを防ぐのはむずかしい。
 ねえ、振り向いてくれて嬉しかったんですよほんとうに。あのとき更新したのはあなたのおかげです、とか。妄想完結篇でもなんでもなくて。こんなことを今更言ってもなんつうかクワスが実は最初からプラスを意味していた、と主張するのと似たようなもんだと思って言わずじまいだったんだけど、そんな議論とは別に言っておくべきだったかもしれない、と今言うことの意味はもう知らねえ。

 たぶんこんなものを読んでも不快に思うだけだと思うけど、って相手の反応を先取りしたことを書いてしまうところが既にさ。僕の意志じゃない。僕の弱さがしたことだ。別に受け入れる必要も退治する必要も耐える必要もない。ただ流されるだけで。どっかのエロゲーのセリフを若干アレンジ。

 Not foundになってた時にはマジで血の気が引きました。

 「メランコリーと故郷喪失の幻想」が涙なしに読めないってのには賛成です。

 何書いてるんだろうね。


6月3日(日)


 ルイス・C・ティファニー庭園美術館へ行く。庭園の美術館、ではなく、庭園があって美術館もある、というやつ。庭園はイングリッシュ・ガーデン。美術館は美術館。つっても純粋な美術品はほとんどなく、多くはアール・デコの家具とか、ステンドグラスとか、ジュエリーとか、テーブルランプとか、そのへん。ガラス製品が主体。個々のガラス片それ自体に色がついてたりすごい色がついてたり多様な色彩光沢を放ったり乱反射したり透過光と反射光ではまるで色が違ったりである。むちゃだ。ルイス・C・ティファニーさんは周囲の科学者や職人が「無理だ」と言ったのにもきかずそういうのを実現してしまったらしい。ターニャ・リピンスキーである。
 で今木は美術とかそういうのまるでだめな人なのですが、なんつうか圧倒的な物量に圧倒されました。なんての、「空とぶゆうれい船」の破片とか「オネアミスの翼」の氷片とか、宮崎アニメの群衆とか、ああいうのに感じるすごさに似ている。いや別に劇場版マクロスでもガイナックスでも劇場版ナデシコでもいいんだけど。ガラスの枚数と色数数えてるだけで死ねる。
 ああ、なんて文化的なんでしょう!とはエルチ・カーゴ@ザブングルの言だが、飲み水にも事欠くシビリアンにとって、イノセントの「文化」はなにより、噴水と水洗トイレである。要するに(水の)量だ。いや、わりとこう、イノセントのドームに入ったエルチの気分なんですが。
 圧巻はヘレン・グールド(鉄道王の娘)に捧げられたステンドグラスで、ガラス片4千枚、最大4層の重ね合わせという代物である。現代ではロスト・テクノロジーらしい。
 でイングリッシュ・ガーデン。以前は日本庭園の方が馴染んだものだが、今では幾何学的な線の支配がかえって安らぎをもたらすように思う。鬱かね。
 サンクン・ガーデンは本来は階段であるべき部分がスロープになっていた。バリアフリー。これで将来発掘されても公共施設だったことがわかる。



 麻生俊平「運がよければ事件解決」(角川スニーカー文庫)。トレンチコートを脱いだ山田くん(意外と童顔)が新鮮でした。可愛かったです。女性陣どうでもいいです。ラブコメ論が自己言及になってるのは意識的なんですか。個人的には「ライムサワー〜」の最後のへんとか探偵さんに惚れるところだと思うのでそういう方向で行ってくれるとうれしいのですが。


6月2日(土)

■みずいろ
 「ガンダムXは渡しませんから」「は?」
 「みずいろ」を最初に見せてもらったとき、そんなことをとある後輩に言われたのだ。清香。さやかって読んでしまいそうになるのですが、きよか、らしい。巨大なリボン。リボンなのだが、可愛らしいとか媚びているとかいう印象のまるでない。誇らしげに風になびかせ。白いリボンもキリリッと。とかそんな感じ。単に変ともいう。俺の日照権を返せ。

 ところでフロイトは「快感原則の彼岸」において、快/不快よりももっと根源的な有機体の傾向を設定しました。それは「退行」と「反復」です。最初に誕生した生命は、なるたけすみやかに無生物に戻り以前の平衡を回復しようとしたにちがいない。また変化と発展については、現状維持と過去の状態の回復への努力が環境とぶつかって、あたかも進歩の様相を呈するのだ。

 おいおい、そんな顔をするなよ。ああもう、わかったよあんたん家に行ってやるよだからそんな顔するんじゃない。だから、いつもみたいに憎まれ口たたいてくれよ。そんな感じです。なんかもうどうしていいかわっかんなくて思わずぎゅっとしてしまったり、という。

 まあ主人公、ポンコツに対しても「いつまでも俺の側で困ってたり泣いていたりしてくれればいい」なんて言ってますから。それはおそらくそんなに心地よい状態ではないと思われるにもかかわらず。人間にとって、快と幸福よりもさらに、たんに「反復すること」がより根源的な欲望であることを僕は疑いません。

 肝心のシナリオの内容については、いつも憎まれ口をたたきあってる相手に弱みを握られて無理矢理なんか手伝わされて、とか言えばあとはわかるでしょう。しかし長い。長く感じさせる。なんでそこでガーッと行かんかなあ。構成に難ありってやつだ。おわらん。

 女の子と同じ部屋にいて、あまつさえ風呂上がりとかで、何の反応も見せぬとは、主人公オマエ鼻ついてんのか、って気になりますね。匂いフェチとしては。

 それにしても「みずいろ」のこととなると筆が進みますな。Hello Againとちがってすぐ書ける。睡眠時間も減らない。読みたい本があったら後回し。付き合いやすい、いいゲームですよ。別に皮肉でなしに。こういうのもありだわな。つうか、そういうのが欲しくてやってるわけだし今。


6月1日(金)

■みずいろ
 麻生俊平「無理は承知で私立探偵」(角川スニーカー文庫)風に。
「当然のように出張中の両親。血のつながらない妹との二人暮らし。うるさい後輩。挨拶のように憎まれ口をたたき合う同級生。巨大なリボン。突飛なデザインの制服。毎晩クローゼットの中から現れる幽霊。幼い日のささいなすれちがい、忘れ物のように残された思い。どうしようもなくちぐはぐなコミュニケーション。愚かしくも悲しい結末。そしてひとすじの曙光。だが、俺は負けない!」

 そんなわけで「みずいろ」。二人目は誰にすっかな。何かけたたましい後輩がいい感じだったのでそういう方向で。ちっちゃいこ同士のキスシーンは燃えますね。そっから先はデアボリカでもやるしかないですか。

 時は流れ現代。誰やこのおとなしいコは。幼いころの呪いが効いてしまったようです。がーん。というわけでやめやめ。


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