美しいことのなかったぼくたちの時代の言葉で
祈祷や呪詛をとなえることをやめよう(吉本隆明「一九五二年五月の悲歌」)
ああ、この今木ともあろうものが、みスを買う金もないなんて!
しばらく読めない日記が多そうだ。まあ、念のため保存だけはしてるけど。
いい機会なのでフロレアール復習中。「ミリアのために」なんて書かれていたのであれば尚更。センスオフも1周しかしてないしな。矯烙の館は何周もしてるので今回はパス。あまり繰り返すと減る。ちなみに矯烙はげっちゅ屋でまだ扱ってるらしい。
で、フロレアール開始。
……。
みスを? ああ、僕とメルンの幸せな時間を邪魔しないでくれ。あるいは、わたしとご主人様の。
ああ、メルンは幸せに決まってるじゃないか。
とりあえず今日は初夏EDまで。「ずっとそうしていたかった。」のリフレインが効くこと。
些細な記憶のすれ違い。いただきますを言ったとか言わないとか。いつも「お腹ぺこぺこです」と言うとか言ったことありませんとか、そんなもので既に世界は分かれたり重なったりしている。もちろん、「これからどうするか」も。一緒に昼ご飯を食べる約束が果たせなかった時にも。
あるいは、パラレルワールドを遍歴するはめになったところで、その程度の記憶だの意志未来だのが他者と不一致を来している、という以上のものではない。
竹田青嗣『意味とエロス』には、私が「ここにコップがある」と言ったとき、他者が「そんなものはない」と言えば、コップは存在することができない、とかそんな話が載っていて、このときたんに言葉の不一致や意味共有の不成立だけでなく、存在資格が問題になるのだ、とかなんとか。竹田青嗣はいちおう現象学の人なので、ここで言語論的転回に媚を売っているとかそういうわけではなく、「我々がどのように言い争おうと客観的に事物は存在する」という考えを否定したいわけだろうけど。
どうでもいいが、元長氏は煙草吸わない人だったと思う。わりと意外なことに。
『Second Anopheles』(御茶ノ水電子製作所)終了。
時代遅れの現代の騎士には(よく喋る)押しかけ助手がつきものなんでしょうか。
要所に入るflashムービーがえらくかっこいい。一番気に入ってるのは屋上のやつ。風景の一枚絵がパンしつつ文字が並行して流れるだけなんだけど。
つうか、草原の果てに立つ少女の幻視ってのは卑怯だ。
山田正紀『地球・精神分析記録(エルド・アナリュシス)』(徳間デユアル文庫)読了。滅茶苦茶だが、面白かった。何も考えず読める怒濤のエンターテインメント。ネタ出しの気前の良さ。惜しげもなく振る舞われるコトバの数々。多少みてくれはアレだが、むしろこれも味だ。そして、良し悪しなどどうでもよろしい。
これに比べても『化石の歌』は古臭いと思う。『矯烙の館』でようやく追いつくくらいか。
つまり、外部の客観的な真実が最後に明かされるような謎解きと、あらゆる断片がそうした全体としての〈真〉に奉仕する部品として配されているありようをして僕は「古臭い」と称するのであるが。早い話、謎解きとか辻褄合わせとか最終的な真とかが好きじゃないんだ。これには、EVAの謎解きとONEの合理的解釈で心底ウンザリした、という個人的だが時代的だかわからん事情がからんでくるんだけど。
精神分析的な知見についてはつっこみどころ満載、というか、そもそも作品内で語られる範囲内でいかにも「ムリヤリすぎるわ」とツッコミ入れたくなる。ユング自体到底学問と呼べない代物であるのだけれど、そういうのを抜きにしても。
ともあれ、変奏・反復される種々のイメージと名辞が実にイイ感じ。
あと、書き出しから全力でツカミに来てるのがよい。ためしにそのへんのデュアルや電撃ゲーム文庫を適当にめくってみたが、書き出しでつかまれる、というのにはあまり出会わない。この点で秋山瑞人は「立ち読みしたら買わされる」レベルであり凄い。最初の一行から全力。
どうして『機神兵団』はあんなにつまらないんだ。
そういえば山川方夫『夏の葬列』(集英社文庫)は持ってなかったな、というわけで買う。てか「煙突」。屋上で弁当を半分こ。
孤立と断絶をひとつの倫理とするのは、なにも村上春樹に始まるわけではない。
川又千秋『反在士の指環』(徳間デュアル文庫)買う。
これ読んで以来「犯罪=反在」って単語がずっと頭にひっかかっててね。
絵は「フォー・ザ・バレル」の人。
オレンジ色の髪の美少年、着てるのは装備を剥ぎ取ったコンバット・スーツ、華奢な体躯にごついハンドキャノンをぶら下げ、というまことに萌えそうな主人公だがしゃべり始めると萎える。
読了。つまんなかった。センスも知性も刺激しない言葉遊び。『幻詩狩り』読んだときも思ったけど、机上の空論めいたリアリティのなさがつきまとう。この手のことをやるには、たとえば野阿梓や神林長平にくらべていかにも腕も立たない。早い時代にコンセプトを提出し得たということがおそらく凄かったのだろうけど、今読むには幻惑する手つきに物足りなさを感じるのである。言語感覚があまりよろしくない。まあ川又千秋の文体がそもそも会わないってのはあるけど。ファーストコンタクトが『アリオン異伝』で、原作のネームに比べて言葉として圧倒的に弱いと思ったころからこれは変わらない。
何か、リアリティが欠けている。理不尽を最初から理不尽と感じている人々ばかり出てくるのがよろしくないように思う。これでは最初から説明しすぎることになる。
アニメ「戦闘メカ ザブングル」の秀逸な点のひとつに、主人公が「一週間前に親を殺され、その仇を追っている」と語ったとたん、それまで親密になりかかっていた連中にいきなり笑い飛ばされる、というシーンがある。「一週間?」「そんな奴は、後ろから撃たれたって文句はいえねえな」。親の仇をうとうとすることが笑われるのではない。一週間も前のことを報復しようとしていることが異常であり罪なのだ。こうした点は上のシーンで初めて示され、それまで一切の説明はない。
答えてみた。100質と追加。ここ参照。
あと、ひさびさにエゴグラム。まあ、そうだろうな。
『さよならを教えて』(CRAFTWORK)について少し。ネタバレ風味。
主人公の狂気の描写がツマラナイ、という話をけっこう目にする。引き込まれるものがないとか。
僕はこれを失敗とは思わない。「何者でもあれない」ということが、あの作品の肝だと思うので。どういうことか。
まずゲームシステムというかシナリオ構造からいえば、どのような経路を選んでも世界に大して意味のある行為はなしえずたんに主人公の中で空回りするだけだ、ということがいえる。このことは、表現のレベルでも対応がみられる。ようするに、主人公は狂気においてさえ凡庸で、その精神世界はどこまで行っても他人には意味をもたない、他人を引き込む力を持たないものだ。彼のつくりだした妄想は、オカルトにかぶれた思春期のガキが思いつくレベルを超えない。ようするに、ひとりよがりの電波だ。そこにはただ他者に対する意識の欠落した自我がたれながされるだけで、ひとの心を動かすための切実さを感じさせることに成功しない。そんなものがあれば、彼は大槻ケンジになれたかもしれない。
誰にも見えない場所で狂ったように(というか実際狂って)かけずりまわって彼が見いだしたものは新たな閉塞でしかないことと、本人は必死なのだが他人にはいっこうに伝わらない、観客にさえ伝わらない、ということが、僕には切なくもあり悲しくもあり妙に安らぐものでもある。自分はこの程度でしかあれない、なんて悟りがあればかえって苛立とうというものだ。
狂気にロマンを求めるのもどうかと思うし。
妄想にすすんで逃げ込むだけの強さもなく、不覚悟にも「生身の……少女の肌……うう」なんて洩らしてしまうくらいだから。
暗黒式1024の「雑記」内の『さよならを教えて』についての文章が良い。二つとも。というか、きょうの今木の日記はここからのパクり気味。あとコレは言うまでもなく。
いやもちろん今木は「わかる、わかるよソレ! でも絶対にみんなにはわかんないんだよなあ」(みんなって誰だよ)、って調子でしたけど。
睦月に対してはもしかしたら、彼女には何事か意味のある瞬間をもたらしえたのかもしれないし、だとすれば彼女にとっての意味と人見広介の意図は内容的にかかわりのないものだとしても或はむしろそれゆえに僕はこれを祝福とか救いとか呼べるものがあるとすればまさにそれだと言いたい。観鈴ちんと翼人だって似たようなものだろ?
広介はつまり、SUMMER篇の援護射撃もなく(それが結局は援護射撃でしかないこともいずれ語ろう)、ごぉるってゆった後も生き延びてしまって「今度は永遠の世界が」とか言い出した観鈴ちんなわけで。「上弦の月を食べる獅子」の螺旋蒐集家も、生き延びてしまうわけにも「螺旋の次はまるいものを集めましょう!」と言うわけにもいかない、ということをいくらか考えてみる必要はある。「次」などない、固有の特権的なものである必要があるのだ。
泣きの定型だけを抽出したような『Kanon』や『Air』のシナリオは、物語の渇望を効率よく満たすことのみを主題として作られている。(東浩紀「過視的なものたち (4)」、「ユリイカ」2001年7月号)
こういう見地からはあれらのファンタジックな設定は、現実的な原因を設定したことからくるわずらわしさを省く、というぐらいの意味しか持たないだろう。当然あってしかるべき描写、という足枷がそこでは取り払われる。こうした見方は、ONEの「永遠の世界」が、別れと再会を都合良く演出するためのツールである、というのとおそらく同型のものだ。病気で死んじゃったら生き返らせるわけにはいきませんからね。
それは実際その通りである。が、このことが、他の「現実的な」泣きゲーといっぷう変わった趣をもたらしているのもたしかだ。他のほとんどすべての作品において、主人公のトラウマないし悩みごとは、ヒロインに語られ、心情的に共有されうるものだと自明に前提されている。また、一般的に「心の痛むこと」としてはじめから受け入れられるようなことだ。少なくとも、話せば確実に笑われる、といったものではない。現実的ってのはそういうことなんだけどさ。
少なくとも麻枝准サイドに限れば、永遠の世界については終に浩平ひとりの胸の内にとどまるし、翼を持った少女の話にしろ、どうも他人には話しづらい。それも、「話せば笑われるようなことだから」「どうも言葉にするとあまりにばかばかしいから」といった理由で。郁未のMINMESによって呼び出される過去は(久弥直樹のキャラである)由依のそれに比べてずいぶんとしょうもない。真琴と舞についてはちょっとややこしいが、共有できないもの、少なくとも一般的には共有されないものとして語る語り方は一貫している。
真琴に関するストーリーは水瀬家の面々には受け入れられるけれども真琴本人は知ったこっちゃないし、舞についてすべてがわかったと思ったら彼女は意図不明な行動に出る。橘敬介はおろか晴子さんにも観鈴ちんの死の意味は知られることがなく、それこそカラスの勝手でしょってなもんだ。まあKanonはそれでも比較的共有度が高くて、外部の他者はある程度忘れ去られた共同性が確立されるといっていいのだが、AIRになると、晴子さんにしろ橘氏にしろ、観鈴ちんの事情が「伝わらない」という事態が露骨に前景化してくる。まあ伝わらないのはお互い様なんだけど。難しげな言葉が増えてるのは眠いからです。
竹田青嗣の金鶴泳論の今日的(笑)ポイントは二つ。昨日から続いてるからね。
原因を解き明かしたところで解決しない、現実の努力では超えられない不遇性。他人と共有することができず、語り伝えることもできない、話せばせいぜい笑われるだけの苦しみ。これらを前に、人はどんな強さを持つことができるのか。
このあたりわりとAIRで、観鈴ちんだって、翼人の呪いとかいきなり言えばこういうことになるだけだし。もちろん国崎往人の「翼を持った少女」だって、他人に話したら笑われるようなことであってね。電波友達。うそつき透子。
現実の努力についてはい言うまでもなし。
竹田青嗣の答はコレ。
氏の文学は、不遇性をどう回復するかという問いの道すじではなく、それが超え難いものであるとき、ひとはそれに対してどういう態度をとり得るかという方位をとった。……人間は誰でも才能や力によって「強く」あることができるが、そういったものを奪われてなお“勁(つよ)さ”を失わずにいることは至難である。
まあ言ってしまえばルサンチマンの克服なのだが。
AIRの感想あさってても、観鈴ちんが「どうにかする」べきだ、ってのが割と目につくんだわ。「どうにかしたい」とか。どう回復するか、という道すじでやはり皆さん考えてしまうのね。
ぼくたちは、いや僕は、「どうにかする」という言葉は知っていても、どうしようもないときどうするかはあまり知らないし、わかってもらおうとがんばることは知っていても、わかってもらえない時にどうするかについては、あまりにも無知だという気がする。人間は誰にもわかられなくても生きていけるだけの強さをもともと持っていたはずだ、とペネトレはなにせ猫なもんだから気楽に言ってくれるけどさ。勢古莞爾に怒られるよ。
ああ、「ぴたテン」とか「Healng Planet」とか「戦後民主主義のリハビリテーション」あたりにも触れたかったんですが。わかってもらわなくてもいいじゃないか、とか。いやむしろそのほうが。人の話聞かない子は萌えます、とか。頭悪いのも好きです。僕の言っていることを理解しないから。
秋になるたびに似たような話になりますか。まあ、KanonとAIRとDC版AIRのせい。
およそ、不幸を伝え得ぬというほどの不幸はない。彼は貧しかったから不幸であった。野心に挫折したから、あるいは女に裏切られたから不幸であった。このような不幸には理由がある。つまり告白すれば他人が耳を傾けてくれるのである。だが理由のない不幸(略)をどうやって伝えられるか。しかもそれが日夜生理的に耐え難いほどに身と心を責めさいなむとすればどうしたらよいか。このようにいえば、人はおそらくそれは狂人の不幸、むしろ単なる狂気にすぎないというであろう。だが、私はそのような不幸の実在を信ずる。信じなければ、夏目漱石の作品にあらわれた仮構の秩序は理解できない、という理由によってである。(江藤淳「漱石像をめぐって」)
実は最近ようやく江藤淳「夏目漱石」を読んだので。新潮文庫のやつ。もちろん「このような不幸には理由がある。」というあたりでは加奈とかキミエソを連想するし、「むしろ単なる狂気にすぎないであろう」ってあたりでは、文字通り単なる 狂気として扱われたKanonという作品をわれわれは持っているわけだ。まだ知らない悲しみがるといって少女は泣き続けるんだけれども、そんな悲しみはどこにもないのだ。どうでもいいけど舞シナリオって藤田和日郎「連絡船奇譚」だよな。
横山潤さんのに反応したいなーとずっと思ってたのですが。
交換価値? たとえば郁未が母親が殺されたと口にすればそれだけで聞き手の沈黙を買うことができる。そういうことだ。「告白すれば他人が耳を傾けてくれる」という風に言っても別にかまわない。
最近、竹田青嗣の「苦しみの由来」(ちくま学芸文庫『<在日>という根拠』か講談社学術文庫『現代批評の遠近法』に載ってる)という金鶴泳への追悼文を読み返していたら、どうにも観鈴ちんのことを思い出して困った。いや別に困りはしないのですが。
交換価値という言葉を僕が使ったのはむろん竹田青嗣の影響で、竹田青嗣はこうした用法を小林秀雄からとってきたんじゃないかと思うけれど(たとえば「Xへの手紙」の新潮文庫66頁)、「苦しみの由来」には次のような個所がある。
……また、吃音の苦しみは、“特殊な事情”であって、そのため他人と分かちあうこともできず、ただ自分ひとりで耐えるほかないものだ。つまり、〈吃音〉とは本質的に他者とのあいだで“交換価値”をもたぬ不毛な苦しみである。
これは当時の金鶴泳にとっての吃音であり、現今の吃音者が必ずしもそうであるわけではないだろうけれど。僕に印象深かったのは、「凍える口」のなかの、自分がかくも苦しんでいる理由が吃音だと聞けば人は笑うかもしれない、そのことがいっそう苦しみを耐え難くする、といった言い回しだ。主人公は、いっそ他人に語るに値するだけの事情があればとかえって思う。
竹田青嗣によれば金鶴泳は漱石から学んだふしがあるそうで、実際江藤淳「夏目漱石」の道草を論じた章には次のような個所を発見することができる。
健三は孤独であるが、彼は無意味に孤独なのだ。この点で彼の孤独は、友人を裏切り、親族にあざむかれた、という確実な原因を有する「先生」の孤独より一層悲惨であるといわねばならぬ。
社会的、となぜ付けたのか僕にはわからないが、『現代批評の遠近法』のまえがきに次のような文を発見することはできる。
そこで、彼は、自分の苦しみに何か社会的な意味を与える言葉は注意深くみな捨てて、ただ、その苦しみの実質だけを深く描こうとした。
まとまんないね。本日冒頭引用文のつづきでお茶を濁そう。
仮構は一切の社会性――つまり他人と共有しうる可能性――を奪われている彼の不幸を、社会的なものにしようとする努力、つまり理解されたいという願望から生じる。願望はもちろん自らを狂人と認めて不幸の実在を撤回することの拒否から生ずるのである。……
……他人に伝えにくい気持ちを伝えようとするときの、あのもどかしさを思えばよい。……このようなとき、人は一瞬沈黙して言葉をさがす。だが、言葉がどれも片々と軽くて、何の役にも立たぬと知ると、今度は一転して何かのたとえ話をはじめる。たとえ話は原始的な仮構で、その故にてあたり次第の言葉を並べるよりも本来の伝え難い気持ちを正確に暗示するのである。
麻枝准のシナリオがしばしば寓話性や隠喩性やおとぎ話名のもとに語られるし、それに異をとなえるつもりもないけれど、当の主人公自身が、自身の投げ込まれてしまった状況をおとぎ話的だと痛みとともに認識するというのは、あまり尋常な事態ではない。むしろそうした性質(と見えるもの)は、他人への「伝え得なさ」の表象として読み解かれるべきである。浩平だって長森にさえ「小さなときに、お菓子の国のお姫様になりたいと強く思っていた女の子がいたんだ」としか言えないじゃないか。永遠の世界なんて誰にも言えないので、もし作品が寓話だとしたら二重の寓話を紡ぐほかない。茜は勝手に先回りしてくれるけど。
透子はほんとのことを言っちゃったけど。たとえ話ひとつ編み出す才覚だか神経だかがないのが彼女の不幸というかどうしようもなさで、まあ彼女については僕の出る幕じゃないか。
「たとえ話は原始的な仮構で、その故にてあたり次第の言葉を並べるよりも本来の伝え難い気持ちを正確に暗示するのである。」とあるけれども、たとえ話が、ではなく、たとえ話としてしか言い得ないということそのものが、であり、本来の気持ちの内容ではなく何よりその伝え難さこそが実質なのだ、と言いたい。
「ユリイカ」の小谷野敦の連載は今回は赤毛のアンについてだった。「アン」は読者たる少女たちにストレスを与えそうなものは徹底して排除した所に成立する作品である。マシュウとマリラが夫婦ではないことをはじめに周到に性的な要素は排されているし、農村っつっても泥臭い面は出てこないし、田舎の人間は余所者であるアンを深刻に排除しないし(「となりのトトロ」批判によくありますね)、同年の連中の悪意もかわいらしいものだ。
が特筆すべきなのは「自己実現」が排されていることである。アンにはせいぜい世間並みの上昇指向くらいしかない、それも評家によればマシュウが望むような姿をなぞった以上のものではない。自分の才能や個性を生かして何かやりとげる、というのではないのである。
これは批判されるべき点であろうか。そうかもしれない。フェミニズムの陣営には受けが悪いそうだし、文学的評価もあまり高くない。
だが、実のところ、自分の才能を生かして何かやりとげたい、と思ってる人はそんなにいない。少なくも皆が皆そうではあるまい。とりたてて実現されるべき自己などもともと持ち合わせていないのがむしろ当たり前である。多くの人間は、自分を嫌わないでほしい、存在を認めてほしい、という程度のものしか持ち合わせていないし必要としもしない。作家だって、最初は何か表現したいものもあったればこそ、書き続けるについちゃあ読者や編集者の欲望がむしろメインの駆動力だろう。
アンの世界には闇がない。が「闇」やどぎつい描写や正視しがたい何者かを抉り出す(「リアル」だとか何だとかいって)ことが、文学的価値として称揚され続けるかぎり、ついていくのは疲れる人々によって、アンという作品は支持され続けるだろう、云々。
とか読んでるあいだにも頭の中はギャル/エロゲーです。つまるところ「アン」は、あたかも「癒し系」のようにえらいさんには蔑まれてきたわけだ。がいくら蔑まれようが批判されようが、現にそういうついていけない・疲れた人々は、作品評価の秩序が存在する限りは存在し続けるのだし、批判し従って作品を序列化しようとする試みは何も変えはしないどころか状況を再生産し続けるのだろうといったことを考えていた。
あのほら、Kanonとかのキャラには人間のダークサイドが欠けている、とのたまう御仁がよくいるでしょ。僕はこうした意見については何も思わないけれど。ようするに作家はひとつの作品で一度にそうたんとのことをするわけにはいかなかっただけのことだ。また、人間らしい人間を描く(キャラを人間らしく見せる)ためにキャラを描いているわけではあるまい。それが自己目的化し作家の資質と反するようになっては本末転倒だ。何も人は小説らしい小説を書こうと思って小説を書くわけではないだろう、それと同じことだ。
また僕は「人間には皆闇の部分があり悪意がある」という前提を疑う。むしろ、誰も彼もが、悪意も闇も備えた(豊かな?)人間でありうる、と考えること、他人の悪意を感じ取ることが自明に可能だと信じることが、かえって楽天的で、人間を信じ過ぎたものの見方なのだ。
たとえば観鈴ちんを見てて思うのは、人が他人に悪意を持つためにはどれほど多くのものが必要なのか、ということだったりするし。そこへ至る絶望的な距離とかさ。
アンと同じく主人公の移動により始まるKanonもやはり、人間関係に関する日常的な軋轢は徹底的に排除されている。あるとしても、プレイヤーをより大きな快楽(感動)に導くためのものでしかない。もっとも、ゲームであれば大抵そんなものだが。「あなたの好みの心の痛みを提供します」という以外の何者でもありえない。この点においてはKanonだろうが加奈だろうがキミエソだろうがそう変わるものでもあるまい。いかなる快楽にもつながらないストレス(たとえば操作性の悪さ)があんまりに自明に絶対的に悪とされるゲームの世界においては、こういう事態の奇妙さは見えにくいだろうけれども。
もっとも、キャラクターはともかく、Kanonの世界、というか真琴シナリオのそれは、残酷な悪意に満ちているといえる。それは、人間は予測も回避も不可能な、もはやとりかえしのつかない悲劇に投げ込まれることがある、という世界観以外の何者でもない(そこからどんな物語が発想できるだろう)からだ。発端の些細さには意図と結果のアイロニカルな断絶が読み込まれてしかるべきだろう。こうした世界観は、人間の悪意を話にからませてしまえば描くことができない。ソフォクレスの悲劇の特徴は、誰もが善意で行為しているという点にある。「オイディプス王」にだって、人間の悪意も闇もありゃしないのである。闇は人間の内側にばかり存在するわけでもなければ描かれなければならないわけでもない。人々の悪意がきちんと交換される世界は、ずいぶんと優しく人と人とをつなぎあわせるものだと思うばかりだ。
まして心理が人間を超えぬとあってはね。人間はいつだって心理よりは大きいのだ。人はたんにやっちまうだけだ。また単に思ってしまうだけである。心理なる統一的実在物が人間の行動を背後から統括するなんて随分とありそうにない話じゃないか。内面描写によってキャラの振る舞いが説得性を増すなどという言辞が何を意味するのか(または何かを意味しているのか)、僕にはわからないのであるが。内面も外面もただ等しく同一平面上にて読み取られるべきテクストでしかあるまい。まして全部同じように文字で書いてあるとあっては尚更だ。
高槻は好きです。