[AD]

0110

もどる


10/26

 色々あって30日まで出かけます。飛行機なのでちょっぴり死を覚悟してます。まあ、自動車事故や自殺の危険に比べればどうってことはないのですが。同列です。  


10/20

 今更だが、100の萌え質問の回答を。書いたのは先月。アップし忘れてた。


10/19

 それはスピノザじゃないかと。柄谷行人『探究II』第三章「観念と表象」によれば、スピノザが初めて出版して彼が有名になった『デカルトの哲学原理』にあるらしい。ego sum cogitans。


10/18

 みスを2週目をだらだらと。霞はどうにも幸せそうだ。式子は可愛い。あと、なんかお母さんみたいな人だ。駄目な人とか言われたい。萌え。椎奈は面白い し、実はかっこいい。どうも「賢い子」という役回りになってしまうのが、ちょっと不憫な気がするけど。それと、別れ際に抱き付くのは実によくわかる話で、 身をもぎ離すのはとても大変だ。悠歌さんは声が可愛い。
 康介さんは、毎朝霞を起こして、朝食作って、時に膝枕までしてあげるのである。ある種のニーズに完璧に答えてると思うが。「こうやって霞の世話を焼くのはすごく楽しい。」というあたり、わかってるねえ、という感じ。あと、それとは別に悠歌さんには嫉妬する。

 今回、ヒロイン側への視点変更の大半が、康介に対しての自分語りという位置づけになっているのが、ちょっと面白いかもしれない。

 それはそれとして、自分語り。
 ある種の過剰さというのがあって。作品を好きになったときでもキャラや人を好きになったときでも。なんていうか、思い入れってのはどんどん出来てくる し、どうも、自分というものがアンバランスになる、という意味で過剰になる。過剰な思い入れがあって、それが過剰な感傷や感傷的な自分語り(この日記でも ときどきやるような)でどうにか相殺されている。相殺されているんじゃないな、単に思い入れの重量が外に出る言葉の重量とバランスをとるように要求するよ うになる。これは、ある程度で安定するってもんじゃなくて、どうも相互に助長するようになるらしい。相手が好意的な態度を示したりすると、何と言うか雪ダ ルマ式に増えてくる。
 自分が変わるのが嫌っていうのとは違うと思う。なんというか、一種の不誠実を働いている気になるのだ。何に対してか知らないけど。まあ、ようするに、た だの気分に流されて大げさなことを言ってるだけで、もう意図的に嘘をつくよりもなにか嘘な気がして、作品に対してなら不誠実な態度だし、人間に対してなら 相手を騙してるような気になる。なんかこう、決定的に何かが違う気がする。それを、自分の核を失うのが嫌とか語るのは、むしろ倫理的な決断で。そう言えば 相手はこちらを非難することができるから。そこまで言葉にするわけにはさすがにいかないんだけど。
 もちろん式子はそんなこと考えてないと思う。式子の意識は関係ない。ただ、僕はそんなふうに理解してしまうのでして。
 あの、何言ってるかわからないよね? 今は奇跡よりもさよならを下さい。

 事後的な仮構というやつなんだけど、言われてみればずっと、いろんな人に、目の閉じ方を習ってきたような気がします。なんてね、嘘さ。
 ひらしょーさんのこれは凄くいい。「実際にわかるかどうかは問題ではなく、 わかるということそのものに何か特別な意味を見ている。」とか。キャラの言っていることを額面通りに受け取らない見方が。悠歌さんをそれなりに人間扱いできてないと、こういう見方は出てきにくい気がする。

 何かに固有性を感じるためにはその何かは不透明に感じられなければならない。何かってのは作品でもいいし、他人でもいいし、自分でもいいけれど。たとえば、自分ならではのこだわり、とは、自分でもなぜこだわるのか不透明なものであろう。
 そしてまた。われわれは好きな作品を分析したりするけれども、そのためには先立って不透明に感じられなければ、そもそも分析しようという欲望を持つことさえできまい。

 何も特別な(固有な)ものに感じることができないとしたら、将来的にわたってずっとそうだとしたら、個人的には怖い。ちょっと考えただけで、寂しいを通り越してものすごく怖い。もちろん、何一つわからないのもやっぱり怖いけれども。
 キルケゴールによれば無限性の絶望は有限性を欠くことであり、有限性の絶望は無限性を欠くことであり、可能性の絶望は必然性を欠くことであり、必然性の 絶望は可能性を欠くことである。そしてまた、両極端を避ければ絶望していない、というわけでも無論ないのである。これら絶望の諸形態はやはり絶望という点 においては同じことである。
 まあ、こういうレトリックに馴れてると、なんての、驚き損ねるね。

 なんとなく思い出したので ほどリンク。特に意味はない。

 それはそうと、フロレアール復習。

ソリティア・トラップ

 どうも、まとまらない。

 独り遊びの罠。ソリティア・トラップの深淵を人は越えなければならぬ、みたいな英語が最後に出てくるんだけど、深淵はどこにあるのか、という話。
 自分と他人の間、ではない。自分と他人の間には原理的に越え難い溝があるが奇跡により超越が可能だ、などということが言われているのではないと思う。問 題になるのはあくまで「独り遊びの罠」であり、ようするに自意識である。いいかえれば、超越的・俯瞰的・第三者的な視点から見られた「人と人との間」では なく、あくまでジャン・ロタールの主観から見られた限りでの。
 他人はどこまでいっても「自分にとっての他人」であり、である以上、主観と自意識のほかに問題の場所はありえない。どこか超越的な場所から「自分と他人 の関係を判定する」立場はない。にもかかわらず超越的な視点(外部)を仮構し、断絶が実体として在ると信じてしまうこと、それこそが罠にほかならぬ。断絶 が客観的に存在すると言うためには、超越的な神の視点が要請されよう。ようするに、自意識における不全感が、(実体として存在する)「他人との断絶」とし て表象されるにすぎない。共通のプロトコル、なんてたわごとはそこから出てくる。

 ジャンの疑いを「自分は夢の中にいるのではないか」という疑いとしてみる。そして夢は外部によって規定され支配されている。自分は夢を見ているのではな いかと疑うなら、外部の現実こそが「ほんとう」であり、確かなものだと思える。夢はしょせん夢だ。彼は自分が本来的な生存を奪われ夢の内部に閉じ込められ ているとおもう。
 だが彼の最後の結論によれば、そのような外部とは彼が現にいる「夢」の「内部」からの思い描きにすぎず、外部とは内部における不全感が呼び寄せた想像物 でしかない。これを短く言うと、内部における不全感が「外部」として表象される、ということになります。たとえば、現代社会へのさまざまな不満が「昔 は良かった」的な感慨を生むにすぎないのに、「昔と比べて今の世の中は悪くなった」という客観的事実(が存在するかのように考えること)が「表象」です (あまり信じないように)。スピノザとか真面目に読んでないので知りませんけど。
 理想社会の構想が先にあるから現在の社会が間違っていることが「わかる」(客観的に判定できる)のではなく、いまの世の中に不満があるからこそ理想社会論が構想される(思い描かれる)。

 「夢」「内部」とカッコをつけたのは、もし夢の内部のほかにどこにも生存の場所がありえないのなら、それを夢と述べることも内部と述べることもできないからだ。絶対に出られない(出るべき場所をもたない)閉塞は閉塞ではない。端的にそこが世界だというにすぎない。

 煙草の煙の比喩と、神。
 スピノザが「この世の外に立つ神」を表象として批判したのを想起してもいい。この世の因果系列から切り離された自由意志をスピノザは認めない(自由に思 えるのは単に原因がわからないからそう思えるだけだ)し、この世の外(上)に立ち、この世の出来事をこの世から独立してしろしめす神とは、そのような誤っ た自由意志観の外部への投影にすぎない。というか「外部」も内部から投影された結果(表象)にすぎないし、ほんとうは内部しか存在しない。で内部しか存在 しないので「内部」と述べることももうできない。
 作中に、煙草の煙も自由ではない(周囲の因果系列から独立して振る舞うことはできない)、という述懐がある。
 この世界の外部に立ち、この世界の因果系列を超越し、何者にも影響されずにすべてを支配する神。この世のさまざまなしがらみやパースペクティヴ(=フィ クション。カトリシズムも貨幣経済もフィクションなんだ、と彼はさいごに言う)から切り離された、絶対的な真偽や善悪の判断を行う神。ジャンはつまり、自 由意志と、客観的な真偽の判断が可能であるような理性が、なければならぬと考える。だからそういう神がどうしても要る。この世の真実のすべてが煙草の煙の ようにさまざまに規定され影響された結果でしかない、と考えることに彼は耐えられないわけだ。
 煙草の煙は幸せだろう、という「初夏」のラストは、「閉幕」を予告するものに思える。

 客観世界という空虚な外的世界に頼るのを止めたのは、フロレアールからだと思うのですが。

 フィクション=物語=共同体=夢=制度、etc。

 「自己意識のメタレベルを積み重ねてゆく欲望は、それ自体がエロス的欲望なのだが、その根底にはなんらかの欠如や不安(不全感)が横たわっている。この 欠如や不全感に強く押されたとき[、わたしたちは自分の内属する世界を「夢」ではないかと疑い、「夢」の外部に本来的な〈世界〉を思い描く。」
 「そういう自己意識の運動を相対化するものがあったとすれば、それは共同体の内に見出される「他者」以外にはありえなかったのである。そういった経緯の 中で、わたしたちはどういう場所へ導かれただろうか。自己意識の“絶対”感情を無化され、“相対感情”のうちにとどまらざるを得ない自己というものを見出 すことになったのだ。そしてこのときに、「夢」の外側にじつはどんな本来的立場や現実もあり得ないこと、世界および生とは、この「夢」の場所以外に全く拠 りどころを持たないという痛みを伴った覚知が、すこしずつもたらされた。」(竹田青嗣「夢の外部」『現代批評の遠近法』講談社学術文庫)

  「「物語」(=形而上学、キリスト教、マルクス主義等々)はかつて客観的な〈真〉を所有しているという確信によって立っていた。しかし実際は、それら すべてはある観点から見られたそれぞれの「解釈」でしかあり得なかった。これがニーチェ的なヨーロッパの反=形而上学主義の考え方の基本である。
 たとえばフッサールが証明したのは、どんな世界像も信憑、思い描き(=超越)でしかあり得ないということであり、ニーチェの主張は、客観的視点なるもの はそもそも存在し得ず、一切は「物語」=視点であるから、肝要なのは人間にとって「有用なフィクション」を「創造」することだ、というものである。
 つまり、彼らが主張したのは「物語」の不可避性ということであり、またそれへの強い自覚にほかならない。その呪縛からいかに逃れるかといった奇妙な考え はそこから出てくるはずがないし、そういう考え(=逃れ得る可能性を求めること)ははじめから背理なのである。」(竹田青嗣『世界という背理』講談社学術 文庫)

 結論的な部分のみ引用しても何のことやらわからないだろうけど。「有用なフィクション」って言い方がちょっとね。ジャン・ロタールは貨幣経済やカトリシズムもフィクションだといっているし。
 だが、こんなのは元長柾木にとっては、人間(HUMAN)の問題でしかないだろう。


10/9

 ちょっとした記憶違いがあって、実は『未来にキスを』を買う金があったことが発覚。だもんで買う。買った店では売り上げ一位らしかった。みんなダマされてる?


 霞。照れてるときくねくねするのがちょっとメルンくさい。なでられた時の反応とか。あと、手の仕草の描写がわりといい。実際に触れてもいないのにむにむにしてうっとりしてたり、何もない宙空を言うべき言葉をそこからつかみ取ろうとするかのように手をさまよわせたり。
 椎奈。「〜です。」連呼がメルンくさい。わけのわからない主張するところも。
 式子。世話焼きさんというか、お守役というか、「馬鹿」が割といい感じである。ちょっと透子みたいな口のききかたが混じるけど、感情回路は珠季ですか。どうでもいいが、エリカは案外頭痛持ちかもしれない。
 悠歌さん。悠歌さんは悠歌さんのこと悠歌さんって呼ぶ(康介さんの前でだけ)。声がやたら可愛い。
 はみゅとかくきゅーとかは耳で聞くとそう違和感がない。まあ、実際に書かれた通りに発声されるわけではないからね。逆にいえば「くすくす」と実際に発音 すれば非常に違和感がある(OVA「冒険!イクサー3」vol.1を参照)。「くきゅきゅ」なんて「くくく」と表記すれば誰も何とも思うまい。
 ……それで済まないこともあるが。  


10/6

 センスオフ開始。

 どちらかといえば小さい手がー! 手がー!
 ぺたぺたとー!

 萌死。
 怒ったときに顎のラインが襟に隠れるのがポイント高いのです。

 あっという間に幸せゲージが振り切れてしまうのである。

 序盤、珠季の笑顔のレア度の高さはなかなか効く。
 あと、ズルいぞお前。色々と。やりすぎ。ああもう。

 Hello Againに泉本真沙魚って子がいて、無意識のうちに人の手を握ってたり、なんかいっぱい触ってくる子なんだけど。ああいうのは割と好きです。てか弱い。


10/5

 知佳ぼーの夢を見た。らっき。
 なんかちょっとしたことでタイミングがずれて尻餅つかせちゃって――ぱんちゅも見えました。ごめん。

 カナート洛北の知佳、なんてのを目にしたのが効いてるのかも。

 ましろ、という名前のうさぎは、北の国に住んでいて、サンタクロースは北の国から順番にプレゼントを配るので、したがって真っ先にプレゼントをもらうの だけれど、小さい子におかしなんかあげるもんだからすぐにたべちゃって、またほしくなる。でも、プレゼントはいっこずつってのがきまりだ。さあどうする?  「すみをからだにぬって、べつのこのふりをしよう」。
 ところがすみは洗っても落ちず、ましろはましろに戻れない。

 というおはなしをバイト先で読むはめになってて、タイトルはたしか「子うさぎ ましろの お話」、作者は忘れたのだが、「ましろ」という文字列を見るたびに、Rainy Blueを思い出して困る、とかなんとか。
 オチなんてないですよ。読んだもののあらすじをまとめる練習。
 省略の練習でもあって、たとえば「ましろは小さい子供である」という記述は省けるかどうか。「おかしをあげる」の主語「サンタは」を省いても意味は通じ るかどうか、いちいち気になるのですがどうでしょう。サンタが北の国からプレゼントを配るのは、彼が北の国に住んでいるからである、というのは省略してい い部分か、など。あと、ましろがもいっこプレゼントをゲットできたかどうか、とか。

 ましろ、という名前は非常に印象に残るので、「ましろ」という文字列を出す口実さえあればなんだっていいんだけど。ましろ、ましろ、ましろとだけずっと書くのもなんだから。 


もどる

[AD-IMG][AD-IMG]