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もどる


11/20

「そこまで悩むことはないさ」亜影王は、いかにも余裕があるように、笑みを浮かべた。
「彼はまだ、子どもだ。そのときは人生の一大事だったことも、あっという間に忘れてしまう。次から次へと、大事件が起こるからね、子どもには。いつか、ふと思い返して気が付く。自分が幼く、未熟だったからだ、とね。そして、笑い話になるのだ。アイスクリームを食べ過ぎて、腹をこわしたとか、そんなことのようにね。」
(早見裕司『世界線の上で一服』)


 「大人になること」は変化であるにしても必ずしも「成長」を(作品中で)意味するとは限らないし、また「いいこと」だとも限らない。ある作品が主人公の成長を描いたそれであるかどうかはつねに議論の余地があるし、また成長を描い(け)ていないとしても必ずしも欠点ではない。たとえ現実には人は成長しなくてはならないとしても。
 現実には平和が望ましいという理由であらゆる作品に「平和的解決」を求めることはばかげている。アリスソフトのOnly Youを「平和的に話し合いで解決する」ように改変した連中がいた。「これでは主人公が成長したとはいえない」(真に成長させるためにはこうあるべきだ)なんて言い方で作品を裁断するのは、それと似たようなものだ。いや日本の古典とか『星の王子さま』とかに向かってそういうこと言ってる連中がいるんですけどね。ましてやエロゲーで。もう、馬鹿かと

 「大人になるってのは、そういうことなんだよ」というのはなんだかWeb上ではよく引用されるONEのセリフであるけれど、肝心の作品中でそれがどういう意味なのかってのをまともに考えている文章には残念ながら今まで出会ったことがない。まあ、あまり見ていないけど。この言葉には当然前後もあれば文脈もあるのだが、せいぜいが「成長」というテーマを見出してあまり考え燃せず結びつけるとか、そういう例しか知らない。どうかすると他人に説教でもしてるんだろうかこの人はって調子で引用されたりするので一度コンテクストというやつを教えてやらねばなるまいと思うのだが。

 ともあれ問題の個所を引用してみよう。

また、ぼくはこんな場所にいる…。
悲しい場所だ…。
ちがう
もうぼくは知ってるんだ。
だから悲しいんだ。
(悲しい…?)
今さら、キャラメルのおまけなんか、いらなかったんだ。
(たくさんあそべるのに?)
うん。
いらなかったんだ、そんなもの。
(どうして?)
おとなになるってことは、そういうことなんだよ。
(わからないよ)
わからないさ。
だってずっと子供のままだったんだから…


 これから述べる内容にはぼく自身満足していないことを先に言っておく。もうちょっとマシなのを考えついたような覚えはあるのだが忘れてしまった。まあいい。あと以下はたぶん柄谷行人「言葉と悲劇」から持って来たんだと思うけど未確認。

 さて読むかぎりじゃ、大人になるってのはつまり今更キャラメルのおまけなんかいらなかったと知ることで、それは悲しいことだ。そう言っているように思える。

 えーとですねMOON.のMINMESに、花火を見に行くのが中止になって泣く子供の話があるんだけど、こういうとき子供に「また次がある」と言っても無駄なわけです。大人にとってはいくらでもうめあわせがきく、つまり相対的な喪失にすぎないけれども、子供にとってはとりかえしのつかない絶対的な喪失感なんですね。こういう話をしていて僕が思い出すのは「ときメモ2」のプロローグで、主人公が引っ越してゆく時のシーンだったりしますが。光のあれはもう世界が終わる悲しみですね。永の別れじゃあんめえし、と相対化できるような位置にはまだいないわけです。
 子供であるというのは、かげがえのなさ、とりかえしのつかなさ、そういう絶対的な感覚の中にたえずあることです。
 そしてまた、子供なら親に「犬を飼って」と頼むときは「絶対にずっと世話する」と誰でも誓う。いや実際どうだか知りませんけど。自分がこの犬をかわいいと思わなくなるということは絶対にないと思う。どうして? たくさんあそべるのに? いまほしいものがいつかはほしくなくなるかもしれない、ということが子どもにはわからない。おとなになるってことは、それを知ることであり、悲しいことなのです。あのとき絶対だと思ったことがそう思えなくなるのは悲しいことだと思います。「実は絶対じゃないことがわかった」のではなくて、たんに自分の心が変わってしまうということだから。それを知るということだから。じゃないかな知らんけど。

 まああのへんのセリフから読み取るとしたらだいたいそうしたことで、そこには知ることの痛みはあってもとくに主張めいたものは見つからないのですが。成長とは意志して獲得されるものではなく、いやおうなしに訪れる現実です。人は自分が成長する悲しみに耐えねばならない。僕としては、そんな風に言ったほうがまだしもしっくり来るんですよ。あの作品については。

 (また子供の感情は相対化されず、絶対的で、こじつけめくけど主観的には永遠です。時間の意味を知らない以上永遠はかれらのものです。もっとも、変化を知らないならその対比である永遠もまた知らないので、永遠と称するのは正確ではないけれど。後から思い返して初めて、それは永遠と称されるわけです。まあ今回は永遠はわりとどうでもいいか。)

 もひとつネタばらしとくと、吉本隆明がどっかで「(自身の)成熟に耐える」という言い方をしていた、という話を誰かがしていて。詩人だけあってうまいことをいう。


11/19

 だってもう私たちは 立派な中学生じゃないか!




 ああすいませんしばらく意識が。いや秋山瑞人『イリヤの空 UFOの夏 その2』がようやく店頭に並んでて(田舎だからってこれは遅すぎる気がするが)まあついでに迷っていた『成恵の世界』3巻を買って今頃読んだわけですが。ああ中学生コンボですとも。いや買うまでイリヤの方は中学だっけ高校だっけって感じだったんだけど。前巻の印象が薄くて。なんつうかエヴァで最終兵器彼女かよ、とかそのくらい。あと男のロマンとかまるきり理解しないから。とくに星とか宇宙にはカケラも心が動きません。そうだね、「星に憧れる気持ち」には憧れるけど。恋に恋するように。そんなことより俺は萌えるのに忙しい。イリヤの1はどうも萌えなかったんですが。たぶんキャラがもひとつ掴めてなかったせいです。


 つ…つむっ…イリヤのつむじが。ああああ。目の前に。萌死。晶穂のつむじは左巻きー。つむじ萌えについてはサンフェイスさんのこれに是非とも触れておきたくいただきたく。叫びたいこと叫んだのでおしまいです。


 つむじについては、書いていいことかどうかわからないんだけど、とある友人が姉持ちで、彼はその姉とけっこう身長差がありあまして弟のほうが高い。並んで歩いて隣を見ると姉貴のつむじが目に入る、と幸せそうに語っておりました。いた気がするな。つむじ見られてる当人に言うとたいそう怒るそうで、本人の前では言えないんだそうだ。言われてみれば確かに恥ずかしいかな。


 鋏が静かに髪を落としていくその音と感触がどれほど心地よいか、頭に触られるということがいかに幸せな感じをもたらすか、そんなことはよく知っている。頭に触られるってのは至福です。あるいは、触られてもいい相手がいることが。


 でもやはり萌死確定なのは150ページ第一段落のあれ。


11/18

 片山愁「回転パズル」は「“人生”という名の長いパズル」という一節で閉められていて、「人生」には「コメディ」とルビが振ってあるのだった。今の僕はそのセンスがかなり気に入っている。
 猫から人間に生まれ変わった少年は、自分はほんとうは猫だとずっと思っていて、というのも、猫だった自分を殺したのが人間だったからです。人間を見下せるような「優秀な人間」になることを最後の復讐としているのです。だからこれはそいつが人間のガキどもに混じってコメディを演じることができるようになるお話で、当然というか作品自体もコメディになっている。
 自分の作品の主人公たちを「せわしなく動く類似したガキども」なんて言ってのける視線はやはり優しいのだと思う。そして、パズルのどのピースがどこにはまるのか、なんてことはそれこそなかなかはっきりしなくて、回転させながらあっちこっち行ったりきたりするのだろう。

 つだみきよ『革命の日』『続・革命の日』は、15年間男をやってきた子が、女としてやり直す話で、だから15年間の男としての人生はまあ無駄になるっちゃあ無駄になるし、猫をやめて人間をやるのと似たような意味で大変なんだけど、コメディとして楽しく読めるのが幸せだった。「ねがぽじ」はやはりキツいので。

 あと最近フルバ読んで……まあいいや、ここにリンク張って終わりにしとこう。ウィングスコミックスなんてずいぶんと久しぶりに買ったから、ちょっと昔を思い出してしまった。

 掲示板だと色々書けるのはやはり、一過性であり参照されにくいものであるせいだろう。つまりアンジェリカちゃん。
 消したけど。


11/17

 あと、僕がたとえば「十歳ごろの世界のリアル」という言葉を使うとき、自分の子供時代は思い返してもみません。他人の発言を引くだけです。僕にとって重要なのはあの「別種のリアリティ」に言葉を与えることであり、現実の子供がどうだったかなんてまったくどうでもいい。

 夢の世界のリアルとか夢の論理についても、自分が実際に夢を見たときの経験なんていちいち思い出しませんから。

 ただこういう言い方には自身満足してなくて、可能な限り現実を(現実に人々が見る夢もこれに含みますが)参照しない形で、つまりフィクションに内在的にリアルについて語りうるのでなければいけないんですけど。更科論では、「言霊駆動」によるリアリティってのはどうもジャンルの形式とキャラクターの自律性の軋みのことらしい。こういう言い方はどうもastazapoteのONEレビューを思い出させる。

 「何事もなく繰り返される日常に幸福と快楽が潜んでおり、ギャルゲーはそれを表現しうるということ。それが『To Heart』の発見であり、またギャルゲーというジャンルが獲得しゲームの作品領域に付け加えた新たな地平でもあった。しかし間もなく、この事態が凡庸化し制度として流通し始めた時、その制度を独自に読み破った『ONE』は、「日常」を描き込むギャルゲーの形式自体を突き抜けるという道を提示した。『ONE』の衝撃とは詰まるところこの転倒力に起因するものであり、例の「永遠の世界」というおよそ理解しがたい観念が、理解しがたいままでありながら或る迫力とリアリティをもって立ち現れていたのも、そこにこの転倒が集約的に顕れていたからに他ならない。人はなぜかこれを「作品内に残された謎」と勘違いして「合理的」に解いて見せたりしてしまうのだが、無論そこに結実するのは最早や批評ではなく、やけに理屈っぽいサイドストーリーか、せいぜい「文学的想像力」に満ちた感想文に過ぎない。」

 全然違いますか。


11/16

 演繹的/帰納的とか裁断批評/印象批評とかいった区分を採用すれば更科氏は後者である、ということなんですが。余計わかりにくい?

 僕としては、某氏からのメールにあったんですが、作品というものを「オブジェクト指向プログラミングか何かで、逆コンパイル出来てしまいには制作者の真意すらも手に入れる事が出来ると思っている」かのように語る文章が非常に気に入らないわけで。

 更科氏の用語(精神分析的な)の使い方は実は非常にマズいと思っていて、なんとか脱色し抽象化する作業をしないと読めたもんじゃないってのが本音ではあるね。逆にいえばそういう作業を行う意欲を刺激するのは確かなんだけど。

 母性とか父性とかいう単語が納得いく使われ方をしてるのはONE評くらいで、なぜかといえばあの文章に限っては、はなから存在する原理とか実在物ではなく、学習され獲得されるものとして述べられているからだ。しかも獲得しそこなったものとして、ようするに、現にあるものでなく、希求されるものとしてようするに幻想としてあそこでは述べられている(ように僕には読める)。それこそ七瀬の「乙女」みたいなものとして。役割とか仮面(ペルソナ)とかせいぜい自我のレベルで語り得る範囲にとどまっている。もっとも母親がウロボロス的な母性をどーこーってあたりはアウトだけど。とまあこんな具合に翻訳してようやく僕に読めるものになる。

 あと僕には母性とか父性とか母胎回帰とかは単なる便宜上の分類で、ともかくも複数の形態を呼び分けるためのものにすぎない。それを単にAとかBとかaとか呼んでも僕は構わないし、それ以上のものを意味しうる言葉でもない。それこそ精神分析の理論の具体的な記述とそれについての筆者の立場がなされない限りはそう見なすことにしている。だって語の定義がされてないってことじゃん。更科氏本人が単なる暫定的な呼び分け以上のものだと思ってるかどうかは知らないしどうでもいい。

 それと昨日のは、他人の言説への言及で、実際のエロゲーとは一切関係ないですよ。僕は言説史を目論むことはあるにしても実際の歴史を考えることはないので。人々がああだこうだと言っていることの外に何かがあると考えるのは僕にはちょいとむずかしいので。


11/15

 8日になってようやくカラフルピュアガールが手に入ったので(これだから田舎は)、つうわけでN.C.P.について。まずは「男の子にとっての少女幻想」。更科氏はこれまでTRAFIC JAM(無記名原稿だが更科氏のサイトの記述からして更科氏の仕事だろう)で「ココロ図書館」(CPG7月号)や「マリア様がみてる」(8月)や白倉由美コtrクション(9月)を取り上げてきていて、その流れの話ということになる。むろん同列に扱ってきたわけではなくて、たとえば「ココロ」は男性向けに特化した新たな表現である、といった選別は行われている。「マリみて」は「参考になる」。そしてギャルゲーの文法の前例にして完成系としての白倉由美。
 こことかここ(7日)参照。

 近来のエロゲーの一部が何かエロゲーとは呼び難いものに(まあ正しくは「18禁ゲーム」であって「エロゲー」なる呼称は慣習上のものにすぎないって話もあるがどうなんだろう)特殊な進化を遂げているのはご存じの通り。だからエロゲーとは別にギャルゲーという呼称がコンシューマならざる18禁ゲーに対しても用いられるわけだ。俺とかによって。
 「男の子のための少女幻想」といっても、少女なんてそもそも男の視線の対象物じゃないかと思わず言いたくなるとしても、わざわざ男の子のためと断られているのは、つまり更科氏がかつての少女向けメディアの遺伝子をそこに見ているからで、だから麻枝准にはボーイズラブに似た雰囲気を感じる、と言ったりもする。以前のKeyスタッフへのインタビューで、女性にKanonをやらせると久弥サイドよりは麻枝サイドのほうがまだしも許容される、という発言を行ってもいた。

 更科氏のコラムをわかりやすくするために敵を考えよう。本当のところはどうか知らないけど。
 僕の個人的な座標軸を提示したい。自己拡大−自己抹消という軸を考えよう。あまり学問的とはいえない岸田秀の著作には「自己放棄と自己拡大」という言葉があって、後者は説明不要かと思うが前者は、仮想的に何か全能の権威に身を委ねることによる自己拡大的衝動の一種とみなせる。自己抹消とはこれに対して自己を預ける先を持たない。あるいはせいぜい、それこそ少女がささやかな自己解放を行う一瞬に仮託する、といいうる程度だ。これはどうも何を言っているかわからないかもしれないが、実は僕もそこで何が起こっているのかよくわからない。ただ、なんとなくそれで満足感じみたものが得られるという現象は起こっているんじゃないか。

 更科氏は「母胎回帰願望と殉死願望の結びついた形」という暫定的な結論を出している。とりあえずこれが、全能の母のもとで存在を全肯定され永遠に安住するのではないことに注意しよう。つまり自己抹消的だ。ただし、それなりに複雑なあるいは屈折した欲求であることにも注意しよう。先回りして結論を言っておくと、こうした屈折した欲望を見出したところに更科氏の優位性がある。僕だったら「女の子になりたい」の一言で総括しますが。もとより日常生活においては男でありヘテロであってもフィクションはわりと別だろう。このへんはヒマな方は東浩紀のサイトに言って網状言論をのぞいてみるのもいいかと。というか『戦闘美少女の精神分析』も読まずにこれ書くのってどうよ。

 ギャルゲーの構図やヒロイン像についての従来の論はだいたい3パターンくらいあって、一つは古くから自己愛=女性への(無意識の)支配願望に帰する論法だ。幻想の少女には「男性としての自分を脅かさず、自分にも支配可能な他者」という意味づけ=解釈がなされる。
 もうひとつは「自分を肯定してくれる(自分を好きになってくれることによって自己肯定の根拠となる)他者」で、自己肯定の道具という意味づけ。オタクは自分を好きになってくれるコが好きとか、オタクはキャラクターが好きなんじゃなくて、キャラクターを通して自分を好きになりたいだけだ、とか言いたい放題。わりとオタクに限った話かどうか気になるし、それ以前に、オタクとは誰のことか、という問題もあるのだがまあそれはいい。
 あとは、ギャルゲーという優しい世界(女の子はおおむね自分に好意的だし、対抗する男もいない)に母性のもとでのぬくぬくとした安住を見出すもの。これは別にいい。何を言ってるかよくわからないし。同一の構図から男根主義的な独裁的支配の構図を導き出すことも可能だ。両者が矛盾すると決まったものでもない。

 まあ具体的にいちいちあげないが、そういう論を目にしたことはあなたにもあるだろう。ないかもしれないけど。

 こうした論が、前提=結論として、男性主体の男性主体としての自己の権力欲・支配欲・存在(と)価値を拡大強化する欲望、を置いていることは留意されたい。いかにもお馴染みのパターンである。それを「隠された欲望」として(精神分析的/フェミニズム批評的な身振りで)指摘する点において一層に。
 自己肯定とか支配欲とか安住というのはわかりやすい欲求といえる。従来の論は、わかりやすい単純な欲望に作品(ギャルゲー)を帰着させることに力点があったし、そこに新たな形式の欲望を見出そうとはしなかった。わかりやすい欲求に帰着させるために作品を「解釈」し、「隠された欲望」を指摘する。別に間違っているとはいわないけど、目の前の事態をうまく言語化できていないもどかしさを個人的には禁じえない。

 更科氏は、自己の肯定や拡大という単純な欲望が複雑な衣をかぶっている、と述べるかわりに、(つまり、単純な欲望に帰着させるために作品をややこしく解釈するかわりに)、屈折した欲望をそこに見出す。つまり、より作品の表面的な形式に忠実な語りだといえる。
 それを優位性と呼ぶのは僕の好みの問題で、ONE/Kanonにおいて少なからず聞かれた(むしろヒロインの側に感情移入した)という声を掬うことのできない論にあまり存在価値を認めたくないからだ。そうした声を抜きに「AIR」は語れない。
 更科氏はたぶんONEについて「あなたは女の子の頑張ってる姿に感動してるつもりかもしれないけど、「実は」あなたのおかげで女の子が障害を克服するのが気持ちいいのだ」なんて言い換えを行わないし、あるいは「一般的にいってKey作品のキャラは子供っぽい、そして子供っぽいキャラを好むのは……」なんて順番で語ったりもしない。まあ、こんな褒め方は失礼だけど。
 個人的には、父性の不在を持ち出すのは微妙なところだけれど、それでも必然性ないし有用性は考慮されていると思う。ますます失礼か。

 前にも書いたかもしれないけど、僕が更科氏を信用するようになったのは、「いちょうの舞う頃」を「盛り上げるべきときに盛り上げない(盛り上げ損ねている、失敗している)」と評するのではなく、「イヴェントによる盛り上げに頼らぬ淡々とした展開」と評したのを目にして以来だ。「盛り上げることによる感動」という従来の(当時支配的だった?)観念の側から作品を裁断するのではなく、作品の印象に忠実に、別種の感動を述べ得たところになんというか安心したのである。

 そういえば中島梓が『タナトスの子供たち』という(現実社会の)少女についての評論を書いていたけれど。


 ONEについてちょっとだけ。それをオタクの自己肯定のためのツールとして読むばあい、いくつかの疑義がある。何よりあの視点変更だ。主人公の存在を形式上抹消した上で、その存在を完全に他者の語らいの中におく、というのは危険な方法だ。他者による肯定を必要とすることと、全面的に他者に頼ることは同じではない。ああ、危険ってのはつまり、自己の存在を他者に「騙り取らせ」る危険っていったらいいかな。
 自分を失って悲嘆にくれるヒロインを何らかの形で外から観察するとか、ヒロインの書いた手紙を読むとか、ヒロインの視点がテレパシー的に流れ込んでくるとか、もう少し安全で両義性を伴わない形式のほうが自己肯定のツールとしては優秀なのだ。
 ここに更科氏のいう「殉死願望」(僕の言い方では自己抹消的な)を見出すのもあるいは可能かもしれない。受け手としては少数派(だった)かもしれないけど。


 もっとも新宮一成『夢分析』(岩波新書)によれば、夢の論理では主体と対象(夢の場面における自己と他者)は容易に交換可能で、というのも人間はもともと見る自分と見られる自分の分裂を根本的に抱え込んでいるからだけれど。


11/5

 ずいぶん前に刑部真芯『禁断』を読んだのですが、これはひとつの不安をめぐる物語で、その不安は「自分が相手をどれだけ相手を好きか、ということが、相手に伝わってるかどうかわからない」というものだったと思う。どこまで行ってもこればかりは実感できない。実感できない不安は実感できる何かがあるから存在するので、自分が相手のことが好きであるということも、相手の自分に対する好意も、そんなには疑われていない。ずいぶん昔なので定かではないが。
 それと前後して読んだのが水森しずく『嫌いにならないでね』で、こっちはタイトル通り、不安は「相手の自分に対する好意」をどうしても実感することができない」ことによる。とか書くと小谷野敦の漱石論みたいですが。『行人』は「相手が本当に自分のことが好きか」ということばかり気にする男の話で、オタクは自分のことを好きになってくれる人が好き(他者を通しての自己肯定)、なんて言い方は何もオタクに限った話ではないのがわかるのですが(というか、「オタクの心性」なんて日本人男性の心性のバリエーションにすぎませんし)、それはともかく。

 まあどっちも何というか非常にオーソドックスな感情を描いていて悪くない。ところで『悪魔の論理学』がまだ手許にあるんですけど。
 この場合、「自分の気持ち」は明証的に与えられているわけです。

 「自分の気持ちがわからない」という状態ももちろんあって、最近ずっと読んでるのが桜野みねね『常習盗賊改め方ひなぎく見参!』だったりする。全3巻。ほぼ全篇にわたって、「好き」までの長い距離が描かれる、とか書くともうひとつ面白くなさそうであれなんですが。
 ひなぎくって子は考えるより先に勝手に口が動いたり頭が勝手に変なこと考えたりなんかため息いっぱい出ちゃったりする子で、彼女が剣くんではなく夢幻斎を好きになる理由なんてどうも見つからないんだけど、自身でもぜんぜん理不尽なんだけど、それこそ勝手に口をついて出ることや勝手に頭が考えたりして、自分の気持ちに近づいていくことになる。
 見ようによっては単に端からけしかけられてその気になってしまった、とか、母親に毎晩聞かされた話が変な方に行っちゃったとか、まあそういうことに過ぎないのだけれど、ともかくもこのマンガは「自分の気持ち」に辿り着くまで(「好き」という言葉に落ち着くまで)の物語で、とか言うとどうもユングくさくて困るのだけれど、誰が誰を好きなんて噂話をするのと、自分が誰を好きかなんてのは、そう違ったものでもない、なんて話をした人がいたので(全然文脈は違いますよ)、そういうことも考えながら読んでました。嘘。さっき思いついた。

 ひなぎくって子が可愛いというか面白くて、もう素で「さびしいよぉ……」なんて口をついて出たりするのね。母親の形見を月明かりにかざして眺めてる時なんか「お母さーん」とかやっぱり、これ頭で考えずに口動いてるんだろうなあ、って感じ。僕は人と話すときは頭の中に台本があって、何度もリハーサルして、で結局は違うことを言ってるけれど。素でモノ言うことなんてめったにないので、ちょっと見ててというかシンクロ取ってみるとわりと気持ちいいとか。安心したとたんふえええええんと泣き出したり。
 いや、もちろんいろいろちゃんと考えてる子なんですけど。バカだけど。ああもう可愛くて。

 『まもって守護月天!』が最終的には「好き」という感情をヒロインにどうにかして教えることを主題とするに至った作品なのですが、これはどの程度関係あるのかしらん。

 剣くんは母親が嫌いらしいんだけど。あと椿の「お父さん」って結局何だったのとか。


11/4

 「鈴凛は好きかね、という質問はある意味 ソのシャープは好きかね、という質問と同じくらい意味がない。」というのはひらしょーさんの言であるが、実のところ、(意識的な)好き嫌いというものがさして重要だとは思えない。行動によって定義される好き嫌い(植物は光を好む)はまったく妥当だけれど。2001年夏限定三ツ矢サイダー復刻版を不味いなあと思いつつコンビニに育たび買って飲んでいた僕はやはり好きなわけで、何回飲んだかが好きということなのだ、という定義には口を差し挟む余地はない。好きと思ったり嫌いと思ったりするのはあまり重要とは思えないのだけれど。

 たとえば僕は女が中学生で男が小学生のカップリングが実は好きである、と告白した場合、これはわかりやすく言うと嘘だ。嘘というのはつまり「自分がこれまでそうであったところのもの」ではないってことで、あるけれども、事実(証明も反証も不可能な)どうだったか、よりは、好きな誰かや自分の言葉に規定されたいと思うのは、当たり前だと思うし。
 それはそれとして今日の場合、「何々が好き」というのは、そういう話題をしたい、という枕の意味を持つ。
 フィクションにおける好みというのはわりに意識的に作られるものだ。東浩紀もいっているように、それは単純な神経の訓練の問題にすぎない。
 とか書きつつも思いつくのは『ぴたテン』くらい、あれ厳密には植松とだからどっちも小学生か、というていたらくなんですが。

 逆年齢差といえば山田南平『130センチのダンディ』に一時期ハマっていたものですが、なんというか、例えば小学生の目には中学生はじゅうぶんに大人びて見えたはずなので、そういう背丈のリアルを山田作品はあまり映し出していない。
 『ぴたテン』4巻で美紗さんの裸みちゃったコタローくんがえらいことになるのはだから正しいし、一方では小学生はやはり世界と戦ってもいるわけです。むしろああいう年齢のときだけ世界はリアルに存在する。

(たとえば今の僕は、世界が終わっても「世界が終わる悲しみ」なんて実感することはできないし、たぶん好きな人が死んでもどっかテレビドラマみたいに感じたりしている部分もあればこの日記に書きさえするのだろうけれど、たとえば十歳のときに好きな子が引っ越しちゃったりしたときの喪失感は、まぎれもないリアルであり究極の実感だったんじゃないかと思う。今でも失恋でもすればまた違うのかもしれないが、そんなときも、駄目だった場合をさんざんシミュレートし尽くして、ほんとうにはじめての感情に出会う余地はないかもしれない。なってみなきゃわからんけど。
 柄谷行人がしばしば阿部昭『千年』を引いて「十歳の子供はもう感じるべきことはすべて感じている」(たぶん言い回しは違う)みたいなことを言っていて、ソフォクレスの悲劇はだいたい十歳ごろの世界のリアルに(シェイクスピアの悲劇は十二歳くらい)どうしようもなく訴えかけてくる、みたいな話をするんだけど(「言葉と悲劇」とかにあったと思う。講談社学術文庫『言葉と悲劇』)、僕にとって麻枝准/樋上いたるのリアリティってのもそのへんにあって、だから。ひとつには世界に対するリアルが何というか距離を許さない(夢の世界のように)こと。もうひとつは、当人には意識されないけれど、どこかイビツなこと。ようするにギャルゲーの快楽原則に従って都合の悪い要素を排除したがゆえのイビツさといっていいんだけど、それにしては、長森を襲う役の誰かとか、舞シナリオの生徒会だか何だかの誰かとか、存在感が異様に希薄で、異様によそよそしい印象を与える。本来の意味でグロテスクといっていい。そういうリアルのことだ。デッサン整った絵じゃあの世界の登場人物たりえません。つまりデッサンとか全体のバランスといった通常のリアルの統辞法ではなく、つまり「印象」を基調とした別種のリアルが必要なのです。これは「雫」「痕」の悪夢の雰囲気には水無月絵が不可欠、というのと同じことですが。とくに「痕」の立ち絵の一種あやうい感じが非常に好きです)


 『SWEET SWEET SISTER』読了というか再読中というか。手を出したのは、巡回先で2か所ほど言及があったせいなんだけど、どこだったっけ。SISTERっつっても妹じゃなくてお姉ちゃんです。お姉ちゃん中学生で弟は小学生です。でエロエロ。弟の視点だと、「中学生だけあって大人びている」というフレーズが出てくるのがポイント高い。

 弟にとって、お姉ちゃんとは第一義的に何か? それは「一番身近な敵」だ。
 姉弟という括りでこの作品を見ると、好きとか嫌いとかいった言い方が意味をなさないような関係を見てとることができる。中学生であり小学生である、ということは、望むと望まざるとにかかわらず一緒にいなきゃいけないし、奴がいる場所にお互い帰らなければならないということだ。ようやく今日の冒頭につながった。べつに好きだから姉で嫌いだったら姉じゃなくなるとか、そういうもんじゃない。
 コップを投げつけられて何針か縫った傷痕が額に残っている。それ以来考え込む性格になった。怖いけど心配。支配されてるけど守ってやりたい。実のところ「けど」とつなぐのは小賢しいので単に併置されるべきなのだが。何も矛盾しない。

 姉に対する弟というのは時に複雑なポジションで、たとえばお姉ちゃんが同級生の男子にいじめられてて、自分がそれと同じ男である、ということになったりする。年齢あるいは家族における序列と男女の肉体的な力関係が少しばかりややこしい。お姉ちゃんはクラスの男子よりは弱いけれど、弟が全力で抵抗してもかなわない。

 同じ相手なのに呼び方は固定しなくて、「カメ」ってあだ名(昔からそう呼んでた)で呼び捨てたり、「姉貴」って呼んだり「お姉ちゃん」って呼んだりする(いちばん最初は「奴」だ)。というのは理屈としてわかる話で、キャラを書き分けなきゃならない立場じゃないんだから、どう呼んだって自分の中で間違える心配はない。世界のほとんどを占めているとすれば、どう呼んでもそこに行き着く。

 季節は夏で、終わってしまう関係があって、でもやっぱり姉弟は姉弟で、とか、まあそんなの。

 お姉ちゃんの名前が可奈子ってのはなんとなく反則だと思う。あだ名はカメで、可奈子だからカメ子でカメ、というのは理由になっていないが、そういうものだろう。姉を呼び捨てにする弟ってのにはけっこう萌えますが。

 性が特権的であれる時期というのは限られていて、だからピュアメールが中学生なのはふさわしく思えるし、あとだからONEは18禁なんかにするより思春期にやっておくべきだ、という話を 誰かがしていたように思うのだけれど。ONEについちゃあ、高校生でさらに高熱のさなかの思考のリアリティに乗る必要があるのですが、現在の自分と違う年齢とか状態とか性別とかカラスとかに没入するのは、僕はわりと好きです。小説の読み手だったら当り前だけど、ゲームの受け手にとっては案外当り前じゃないのかな、とか言ってみたり。いやどうでもいいんですけどね。


11/3

 自分について語り、語られた自分がそのまま受け入れられる。麻枝准という人はそうしたリアリティを持っていないと思います。そしてそれは、がんばって理解しようと努めたり、わかってもらうために説明したりすることによって克服されるべきものではなく、原理的な不可能性なのです。

 不可能性は絶望を意味しない。絶望は、原理的に不可能なものを克服しようとし挫折したときに生ずるものです。それが克服されるべきものでないなら、絶望はない。
 あらかじめ不可能な理想を立てたときだけ、われわれは絶望し、ニヒリズムに陥ります。たとえばわれわれは、客観的な真に到達しえない、という絶望を時に語ります。しかし、客観的な真に到達しえない、ということを絶望やニヒリズムの身振りで語る者は、客観の存在も、それが到達すべき価値・目標であることも、微塵も疑っていないということになるのです。「コミュニケーションの不可能性」も同じことです。

 桜野みねね『常習盗賊改め方ひなぎく見参!』と、こげどんぼ『ぴたテン』ばかり読んでます。どちらも最近新刊が出たので、そのついでに最初から読み返してみたりしたらこれがズブはまり、と。それにしてもぴたテンは異様に暗いというか鬱な気分にしっくり来ますね。桜野みねねが鬱系なのは言うまでもありませんが。個人的にはマンガのうまい片山愁といったところ。

 個人的にこの一年くらいはずっと『ぴたテン』と桜野みねね『Healing Planet』がずっと頭にあったように思う。というか、今に至るまで残っている。ちょびっツとかHAPPY WORLD!はどっちも1巻しか買ってないので。
 これは個人的な事情があって、コミュニケーションとか人と人の関係とかを、理解や共感や伝達とは別の仕方で考えたい、というモチーフが僕にあったからだと思う。意図(努力)−実現という回路も断ち切りたかった。最近はこういうことはわりとどうでもよくなっています。わざわざ言うほどのことに感じられなくなってきた。理解するとは別の仕方で、あるいは伝達することの彼方で、ぼくらはとっくに語り合ったり触り合ったりただ単に一緒にいたり一緒にいられなくて寂しがったり埒もないこと考えたりしてるじゃないか馬鹿馬鹿しい。それで幸せになったり不幸せになったりするけれど、それこそ単にそうなってるだけで。

 引用させて下さい。
 「あるいは、まひるという子がいて、百の態度と千の言葉でもって愛や理解を伝えても、その子はますます不幸な状況に陥ってゆく。逆に、美奈萌という子は勘違いばかりでまひるのこと全然わかってない様子なんだけど、美奈萌とまひるの最後が一番しあわせそうに見えた。そんなさかさまにも私たちは慣れっこで、だから本当か嘘かよく分かるのだ。」

 本当は馴れっこのはずなので、単にいつもやっていることを思い出すだけでよかった。

 もとはといえばONEとMemores Offの差異化を図ったことから来てたと思う。  過去日記を漁れば正確な日付がわかるだろうけれど、面倒。ようするに、ONEあるいは麻枝准と、それ以外のいわゆる「泣きゲー」を差別化する戦略としてでっちあげたものだ。ONEとそれ以外の泣きゲーの与える印象は決定的に異質だった、とか描きつつも、実のところ、自分自身の実感などひとかけらも混じらない形式的な考察と知的な作業であり、結論は先に用意していた。心理的な動機はといえば、Memories OffとかSilver Moonのレビューを見て回ってて「ONEよりも主人公が前向きでいい」とかわけのわからない言い草をいくつか見つけてたいそう不愉快だったことに尽きる。前向きってのはつまり、自分の過去をヒロインに語って、それから意志的に乗り越えようとする、という形式のことらしいと見当を付けた。


 以下は以前語ったことの繰り返しになる。
 いわゆるトラウマを癒す物語の泣きゲーにおいては(あるいは通常の恋愛物語においても)、主人公やヒロインが抱えているトラウマなり事情なりが、恋愛相手に知らされないということはあまりないように思う。つまり、「相手の事情を知り、共感し、分かち合う」という回路が、そこではつねに前提されている。
 だがONEはそうではない。「永遠の世界」は浩平のみの特殊な事情で、他人に知らされることはない。ONEにかぎらず、麻枝准の主人公はつねに「特殊な事情」を抱え込んでいるし、それについて他人にあまり語らない。語りうるとしたら、たとえ話としてだけだ。時には、事実をそのまま語っているだけなのに、たとえ話のようにしか聞こえない内容だったりする。これはつまり作品中の扱いが既にそうなので、たとえばSilver Moonの設定はONEに劣らず荒唐無稽だが、作品中ではあくまで真面目に受け取られている。
 自分について語り、語られた自分がそのまま受け入れられる。麻枝准の作品にそうした発想はない。そしてそれは、聞く側と話す側の努力(がんばって理解しようと努めたり、わかってもらうために説明したり)によって克服される性質のものではなく、原理的な不可能性である。通例に従いこれをコミュニケーションの不可能性と呼ぼう。たとえば更科修一郎はHealing Planetの最終回についてこの言葉を使っている。

 これは「過去」の扱いにも一種通底するものがある。過去は忘れ去られるものだ。MOON.の郁未はMINMESの記憶を失うし、AIRにおいてもSUMMER篇の出来事は忘れ去られ後の展開において参照されることはない。
 また、記憶が語られる場合、記憶はつねに現在を起点として呼び出される。おそらく凡庸な語り手なら、過去のトラウマを基軸にした因果関係で現在のそのキャラを規定し語ってしまうところだろうけれども、麻枝准においては、なんつうかアレだ、構造論的因果性として描かれている。

「病の原因というのは、それが現実に症候としてあったときに、そのときにのみ、遡及的に見出されるのであって、一定の原因があれば同じ結果が出てくるというようなものではない。だから、原因が分かったところで、必ずしもその認識を有効に利用することはできない。」 「普通、自然科学における「因果性」というのは、AであればBということですね。フロイトが考えている原因というのは、Bという結果があったときにのみAという原因が見出されるということです。これはAはBを規定しない。L・アルチュセールはこれを「構造論的因果性」と呼びました。ある症例があったときにAという原因が見つかったとしても、AであるならばBになるということには決してならないのです。だから、原因が見つかっても、その責任は問えない。何をやっても結果的にうまくいく場合もあるし、いくら適切になっても裏目に出る場合がある。」(柄谷行人『倫理21』)

 ONEなら、Aには「妹の死」、Bには「永遠の世界」と入れます。Kanonなら、Aは「キツネを拾って育てた」「ちょっとした嘘をついた」ですね。いずれも「AであればB」には到底なりそうにないわけです。

 人と人とのコミュニケーションのばあい、意図と(努力による)伝達・理解、という図式はむろん因果関係を前提している。わかってもらおうと努力したからわかってもらえたとか、頑張ったから伝わったとか。あるいは、意図があるから伝達がある(AであればB)と考えているわけです。これは、トラウマ(過去の事件)を基軸にキャラの現在を考えるのと同じことです。

 時間の相と空間の相の双方において、孤立や断絶や(意識や内容といった局面での)非連続を見出すこと。郁未がMINMESの内容を覚えておらず、SUMMER篇は想起されることがないことと、tatuyaさんや曽我(夏町)さんや雪駄さんや2.14さんがどっかで言ってた「自分勝手さ」を同じ問題としてつまり形式的な問題として扱いたいわけで。というかそういう形式化の後でようやく欲情する変態なんですが俺は。

 もちろんいかなるものもこの世界に内属しているという条件を超えることはなく、ようするによそから影響を受けるし、他に影響を与えないわけにもいかない。断絶だの非連続だのといっても関係はやはりある。だがそれは当人の意識内容とはまた別のことである。

 なんか昨年の10/3あたりに戻ってる。むしろどんどんレベル落ちてるじゃん! せめてループしたい。


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