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12/19

 遅きに失した感はあるが。

 ぜんぜんふつう。平凡すぎるくらいだよ。(おやくそく)

 早乙女くんはわりと目標ですね。理想はさとり。

 「コーヒーを出してくれたの 私さっき せっかく出してくれた夕食を全然食べなかったのに」

 夕食を食べなかったのはマネキンだからなんですが。さとりはそういう説明を何度も聞いているくせにまるで覚えていなくて、コーヒーを差し出すのである。
 好きだった食べ物を覚えておいてくれて嬉しい、というのは常識であるらしいけれど、昔好きだったけれど今は口にするのも抵抗があるようなものはそれなりにあるわけで。他人の好物を覚えておくという思いやりは記憶と連続性の側にあるけれど、さとりときたら、忘れるわ人の話は聞かないわで、そうしたものに頓着のしようがない。と思ったら妙なところで「コーヒーは好きなんだ」と思い込んだりするから、本人としては、ちゃんと覚えていようとはしてるのだけれど。
 聞き上手な相手とはつまり話しやすい相手のことであるから、人の話を聞かない、ということと、聞き上手である、ということが矛盾しない。具体的に記憶しないことと実際に思いやることが矛盾しないのと同じで。

 「アンジェリカちゃん ちょっとのあいだにずいぶん違う人になっちゃったねぇ」
 それで済む問題らしい。だから一番好きな妹とか書いてしまうのですが。千寿院さとりのことは尊敬しています。


 何気なく、いやほんとうはちょっとした連想が働いたせいなんだけどその部分は推敲で消されてるので、何気なくとでも書くよりしかたないのだけど、何気なくそのへんに置いてあった「さんさんさん」2巻を開いて「その四」のトビラで鼻血噴きそうになった。お兄ちゃがもののたとえとして「すすき野原をそのまま突っ切ったら危ない」みたいな話をしてるんだけど、それを聞いた弥生子ときたら、いちめんのすすきのイメージにとっつかまってしまう。困ったもんである。あんな後先考えない子になっちゃったのは、そのせいなのかどうなのか。まああと、遥さん、とか、お兄ちゃ、とか、そういう響きだけであのマンガは充分にいい。あと、晴くんがかわいい、ということは何度でも言います。だからその「おらぁ」って一人称が出てくるたび頬が緩んでくるんだってば。萌え。
 まあ書いたけど「目隠しの国」はほとんどそういう買い方で、と思って今確認したら日記には残ってないのだけど掲示板には昔書いたか、あれはもう、あろう君、とか、かなでっちゃん、とか、そういうのだけで思わず単行本買ってしまうし、真っ先に思い出すのは「あろう君あろう君あろう君」とか、毎度毎度の「はい かなでっちゃん」であったり。



 ふと思い出して某アンケートを見に行った。投票は打ち切られたので、結局2票どまり。寂しい気はするんだけど、まあたいていの人には意味不明だろうが、正直ちょっと気恥ずかしい。あんなキャラに投票しそうな人は一人しか思いつかないが、項目を追加したのは別の人間だということを僕は知っていて、なんとなれば、それは僕のしたことだからである。コメントを考えつかなかったのでそのままボタンを押して、しばらくして覗いてみたら2票になっていて、あと、透子には悪いけれど、なんて言いそうな人は過去一人しか知らないとか。まあその。グランマには悪いけれど幸せっちゃあ幸せでした。ああ、黙ってるのつらかったのでちょっと。勘弁。僕は何か勘違いをしてるのかもしれないけれど。


12/16

 時無ゆたか『明日の夜明け』(角川スニーカー文庫)再読中。いや、もっぺん読みたくなるでしょやっぱ。帯にはホラーって書いてあるけどむしろミステリ風味で密室あり閉鎖空間での犯人探しあり。ただ、超常現象を含む世界のルールは最初には示されず、ずっと模索し続けなければならない。まあ、普通のミステリでも推理の前提なんてひっくり返るためにあるけど。

 とりあえず、学園だ。霧雨で薄暗い校庭。一面に、棒でひっかいた一つの巨大な渦巻き模様。その中心に傘もささずにたたずむ女生徒は当然のように黒髪で、やっぱり黒のセーラー服はじっとりと湿っている。八車文乃とか比良坂初音とかいう名前が頭をよぎる。特に前者。ああ、ぜひロングスカートを! そのような丈の短いスカートではなくロングスカートを! とか喚いたりは別にせずに、ああこれはこれで微妙に女の子らしくていい。雰囲気とアンバランスなところがむしろ萌え。
 あと幼なじみは当然のようにショートで気が強くて眼鏡っ娘なのですが。
 いや、そういう属性キャラの臭みみたいなものはあまり感じさせないのだけど。

 前半のいくつかの描写がわりと不満だったんですが、読み終わったらすべて解消されていたので、やられた、と思った。

 最近の角川については、"裏"日本工業新聞!!を参考にしてます。ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂとか。個人的には秋山瑞人がビートで古橋秀之が情で上遠野浩平が笑いの担当だったりしますが。


12/15


 ここ読んで気になったのでフジオカケンキ『メダロット・ナビ』。本当にその通りだった。何も付け加えることはない。いや、僕もメダロットについてはアニメをちょろっと見た程度なんですが。



 しいていえば、パンを焼く、という即物性にひかれて柳原望『さんさんさん』『さんさんさん2』を購入。大正時代の食文化の変化を背景に、パン屋の若夫婦の暮らしぶりを描く良作である。言ってはなんですが平安時代に比べてずいぶんとそれらしく見えます。つうかあのシリーズ嫌いだったりしますが。まるいちももうひとつ。つまり、柳原望の他のすべての作品が嫌いでも読んでみる価値はあると思う。
 パン屋の話であってパン職人の話ではないことに注意。
 理想主義とか純粋さとかいうより単に後先考えない連中なのだけれど、そういう連中だったからこそできたこともあれば、そういう連中にはできないことも、同じくらいあるだろうから。現実的に振る舞ったために失われたものも、そのために守ることができたものも、同じくらいあるだろうから。だから、純粋であることも「汚れて」いることも等価で、きっとどちらも「いい」ことでも「悪い」ことでもない。ただ単に選ばれた道であるだけだし、そうであるだけのことだ。結論? この現実に結論なんてあるのかい?

 純粋バカであり続けるためには、明日とか将来じゃなくて今幸せであるためには、いろいろと都合のいいことが起こったり、誰かが防波堤になってくれなければいけないけれど、それだって決して、悪いことじゃない。もちろん、野垂れ死にしたって、そう悪いことでもない。

 たとえば秋山瑞人にとってそれは「悲しいこと」なのだが、柳原望にとっては、多少寂しくはあるけれど根本的に語りは優しいし、こうしたことを優しく語れるのはやはり優れた資質と呼んでよいように思う。ほんとうにもうあたりまえの、ただそれだけのことですよ、という感じで。最初の単行本のタイトルが『お伽話を語ろう』だったりするのは、ちょっとできすぎてる気はする。

 「ユカシコノヨル。」や「テルルの木」ともども、「言葉」というモチーフを追いかけたい誘惑にもかられるけれど、むしろこういうのは反復されること自体が気持ちいい。
 僕には、気持ちってのは言葉を繰り返しているうちにようやく言葉に追いつくものでしかないんだけど(珠季や式子や浩平の言っていることはよくわかる)、彼らは彼らだろうし。

 たとえば髪を切って、「どう?」って訊いてみても、会う人会う人みな、似合ってるかどうか、なんてことは答えてくれなくて、言葉というのは基本的に通じない。「あたしのわからない言葉しゃべらないで」なんて言われて、ちゃんと、そうだな、なんて返す気になる相手というのも、そうそういるものじゃない。つうかそもそも、わけのわからんこと言うな、という悪口にならないのである。

 むしろ晴くんがかわいくてどうしようって感じなのですが。



 映画の欠点は、観ながら萌え転がるわけにはいかないということだ。そろそろ上映期間も終了するので、「千と千尋の神隠し」。ずっと足とか背中ばかり見てました。金太郎ルックが相当に「うわあ……」という感じで。
 佐藤亜紀「物語のゆくえ」によれば、作品の価値とは動きのつくる形の美しさである。なんとなれば、文章を頭から読んでいく、という動きが存在することが絶対の条件だから。物語とは動きを生み出すために必要であるにすぎない。
 物語さえ存在すれば説明は要らない。また物語の水準では魅力だの出来だのの話はできない。

 すばらしくやりすぎな匂いがプンプンするので、見てて大変に小気味よかった。

 あっさりと愛とか言っちゃうのが個人的にはたいそう気に入っているのですが。


12/10

 ドキドキしたあの日々は今更振り向けないけれど、というわけでSPARK!。今日のはネタバレっすオイシイとこバラしまくりっすでも昔のゲームだからいいよねまあ。さえこれはおそらくMOON.の一部や青い鳥L'Oiseau Bleuと共に、夢の論理を体現したゲームに数えられよう。つうかまあ、青い鳥の前作みたいなもんなんだけど。なんじゃこの制服は新選組かい、と思ってたら名前もそうだった。ドキドキしたあの日々はたぶん宿命的にセンスが悪くて、ノスタルジーでカバーしなきゃ到底耐えられないけれど、むしろノスタルジーとはイタいセンスのことであるかもしれない。ときメモとか。いや要するにそういう微妙にイタいセンスの採用によって受け手にノスタルジックな感興を与えうるのではないか、ということなんですが。
 そう、たとえば学園にはマッドサイエンティストか、さもなくば怪しい発明をする科学部が必須である。あるいはまた、幽霊の出ない学園に意味はあるでしょうか。

「なあ、幽霊」
「小夜子です」
「お前、天使って見たことある?」
「小夜子ですってば」
「天使、知ってる?」
「小夜子ですよぉ」
「うるさい、お前なんか幽霊で充分じゃ」
「ぶー」

 ああ至福。いやたぶんこれだけ取り出してもわからないんだけど。
 個々のネタはさして面白いわけでも笑えるわけでもないくせに、いやに楽しげな(というか幸せな)空気、というのはやはり、渡部節とか称したくなるところだ。
 そして町外れに夜な夜な現れる怪しい人影の主はやはり美少女で、月光の下、彼女は踊る。憑いてるだけあってちょっとこの世のものとは思えない。でやはりこの俺がただ一人の観客としているわけで。なんか呆然と見とれてしまう以外にこの場合なにがある。だってそれはあの日々で、あの日々ってのはそんな日々だ。
 で、これがイヅタみたいな黒髪美少女ならまあありがちで終わるんだけど、憑いてるのはなんか顔とか黒いコギャルな人で、なんつうかサイケっての? そんな色の服装だったりする。そのくせ妙に違和感がない。このへんの合わせ方が実は物凄くセンスいいんじゃないのかこのゲーム、という疑いを抱かせるのだがどうか。

 ともあれ天使を追いかけてきたあの娘はやっぱりいなくなってしまうのであり、よく言われるようにお祭りみたいな日々はやはり終わりがあるのである。幽霊? そういえば見かけなくなった。いいかげん成仏したのかもしれない。そういうものだ。これはそういうゲームだと思う。まだコンプしたわけじゃないから知らんけど。

 あと当然、ほとんど唐突にえっちなことにならなければならないのである。まあ、作品のコンセプト云々以前に、エロゲーに向かって唐突なんて言うべきじゃないね。というのはどげみっち先生があちこちの「矯烙の館」レビューを前におっしゃっておられたことであるのだが。

 つまり、気に入っているということを伝えたいのだが。あとコレと青い鳥のBGMはかなり完璧くさい。「夢の気分」みたいなのがあるとすれば半分くらいは音楽のせいじゃなかろうか。


12/8

 巡回してたらフラグが立ったので、猫山宮緒『エデンへおいで』を探しに出るもなかなか見つからず。結局ブックマートで1巻のみ発見。適当にめくってイイ感じだったので買う。ついでにフライング・ドラゴンと上海なんちゃらとなんか長めのシリーズも覗いてみたがもうひとつ電波が来ないので見送り。
 高屋奈月『幻影夢想』とかも覗いてみたが、フルバが僕に読めるのはやはり、例の特殊な事情が当人にとっては深刻であるにもかかわらず、それがどうにも見てて笑ってしまうようなものである点で、だから真面目に語られ受け取られることが前提されるようなストーリーとかましてやごく現実的な恋愛モノなんてのには手が出ないのだった。ええ、いつもの交換価値がどうたらです。

 エデンへおいで。中学生! ショートカット! 萌え! 男の子にしか見えないんだぜ?
 ともかくもこいつらはバカみたいに真っ直であり、その真っ直さってのはかえって、「自分の気持ち」だけではどうにもならないような世界、であることにより照射される。つまり演劇とか映画とかそういう世界なんですが。どんな想いがあろうが、容赦ない他者の評定にすべてを委ねなければならない。また才能は残酷な現実で、しかし一方では作品はつくれないし観客もついてこない。まあ、あたりまえの現実なんだけど、僕はコドモなのでそういうのに感じ入ってしまうのだ。こういう作品内に登場する言葉じたいは、いやしくも映画なり演劇なりを扱った作品なら出てきて当たり前のレベルというか、まあ常識的なことだと思うのだけれど、なればこそ、自分の知らなかった(認め難かった)ものを「あたりまえ」としてつきつけられ納得せざるをえないってのは、なんつうか、子どもが初めて世の中の「あたりまえ」にぶつかる、そういうぶつかりかたである、ということなのだろう。あと、言葉そのものはまあ今更感じ入るような代物でないにしろ、それは言ってみればボクシング漫画に登場するパンチの描き方にいちいち感心しないようなもので、そんな風にネームを肉体のテンポに変換しながら読む。要はやたらとセリフをまくしたてる種類のアニメのつもりで。
 つうか直前に読んでたのが『拳闘暗黒伝セスタス』なんでそんな感想になっちゃうのかもだけど。まあ更科修一郎氏もボクシングっつってるし。
 僕としては例によって、だからそこで必要ない子とか居場所とか好きなんて怖くて言えないよとか言い出すのはちょっと、という感じなのですが。まあトラウマも使いようだけど。むしろ、

 だからっ……心臓の音がっ……。自然に抱き寄せるなんてマネはできなくて、覚えてる経験と聞きかじりの知識で、というのがこう……。「心臓の音を聞かせると安心するって」。
 つうか、女子中学生の心音を聴くようなシチュエーションってどうよ? ララァは私の母に(略)





 フルバとかと違ってすぐ感想が書けるあたり、その程度の作品ではある。続きもわりと興味ない。ようは『こどものおもちゃ』で紗南がなんだか自然に羽山を抱き寄せるシーン(二つくらいあったか)がひどく疎遠に感じられたのが、未だに尾をひいているように思う。いや最初のやつ(膝枕)は大好きなんやけど。相変わらず、意図的に何かの型をなぞる、というのばかり贔屓しているのは、判官贔屓の一種だろうか。埒もないとはこういうことさ。



 昨日は別に実際に何かあったわけじゃなくてね。


12/7

 まあ僕は基本的に無神経だし好きな人にもひどいこと言っちゃうから、やはりお読みになられる皆様におかれましても、好きなだけ僕を嫌ったり軽蔑したり傷つけたりして下さって構わないのだけれども。つうかHoneyの悪口なんて書くんじゃなかった。わかってたけど。いや、僕の主義としては悪口そのものはかまわないんですが、短くて実質無内容の否定的言辞なんて、呪いの言葉とかわらんじゃないか。やはり具体的な反駁が可能なカタチにしておかなくては、こっちも気分が悪い。
 つうわけでもう少し詳しく。結局自分語りみたいになるが、まあいつものことだ。


 橘裕『Honey』の許し難い部分というのは、たとえば久我くんを陥れようとする男子生徒の家庭のあんまりな図式的な描写とかです。あと、なんか久我の理解者みたいな男性教師とか。あれは久我くんを持ち上げるためだけのキャラです。Silver Moonの音楽教師とかといっしょで。コマにすぎないのな。
 で、キャラの背景もちょっと図式的つうか陳腐というか小賢しいというか、そういう印象を免れません。つうか久我くんの設定ってどうよ。たとえば手塚忍あたりに比べてちょっとあからさまにわかりやすすぎないか。
 あと、ハンパに精神分析的なギミックがえらく嫌いなので。家の灯をつけっぱなしとか、男に体を触られたらビクッとするとか、水が怖いとか、そんな陳腐にもほどがある代物を今日び平気で持ち出せるセンスはちょっとこう。まあ僕の基本として、そういう大仰なトラウマ(語れば他人が耳を傾けてくれるような傷)に興味がない、ってのはあるんですけど。
 あとは、ああ。盛り上がるシーンでどうしようもなくわざとらしい言葉使いをしてしまうセンスとか、まあそこらへんであるわけですが。足踏みしてたって靴底は減る、とか、近寄ったら殺すわ、なんて、どうしたって笑うところだ。メインキャラ関係はそれでも本来なら気になるほどじゃなくて、ただメイン連中を描くのだけで力尽きて、残りのキャラ及びその背景がどうにも画き割りじみている、という悪印象が、足を引っ張ってるわけで。ほら僕デアボリカ嫌いだし。久遠の絆の言語感覚は最悪だと思うし。
 個人的な嗜好としては、#10みたいなオチがもう物凄く嫌いでしょうがないのですが。なんか理由とか考えたくないくらい。こどちゃにも似たようなのあったけど、それが「ごっこ」なら許せるしむしろ感動するんだけど(「こどちゃ」1巻)、真実として語られる(わりと後のほう。いちいち調べたくもない)ともう耐えられないのです。まあ、そう信じることにしてる、くらいのことは言ってましたか。あの描き方でそう言われてもな。

 あずみ椋『ミステリオン』の主人公は最後に、自身が祝福のうちに生誕した光景を見る。けれどもそれは、現実には存在しなかった光景である。それを主人公は知っていて、いや要は羽山みたいな経歴の人なんですが彼は、だから「これは嘘だ」と叫ぶ。けれども結局、その嘘を嘘だと意識したまま許容し、自身が望んでやまなかったと同時にどうしても不可能だった自己の肯定を可能とする。おまえはもう救われていい、と言ってくれる誰かがいてくれたからでもあるのですが。まあフルバの「嘘でもいいから支えになる」みたいな感じですかね。

 大昔に「月と貴方に花束を」の悪口を書いたことがあって、そこにも「本当は祝福されて生まれた自分」という物語が登場したので、まあそのころから何か嫌いだったらしいんですけど。何故に本当でなきゃいけない?

 一見マリア様だけど実は色々あって、なんて物語はたしかに凡庸だけど、物語の凡庸さは作品の凡庸さとは必ずしも結びつきませんから。

 キャラの過去や背景設定はともかく、メインキャラ自体はちゃんと立ってるとは思う。間違ったお茶の入れ方とか、スープまでちゃんと飲んでる、とか、ああいう部分に存在感はあるけれど。正直物足りないってのも本当のところですが。


12/6

 そんなわけでフルバの話。昨日のはちょっと修正したけど、余計わかりにくくなったかも。まあ、僕にだってわかっちゃあいない。


 Hello Againに、積み重なった誤解に業を煮やしたヒロインが肉体言語に訴える、好きと伝えようと色々と方策を練ってみたが、ことごとく理解されず、結局シンプルに抱きついてみる、というシチュエーションがありまして。それでなるほどと思った記憶が。あとは書いたけど丸川トモヒロ「成恵の世界」1巻の149〜164頁。ああいう自然で自明な触れ合いが機能しないところで語られるってのが僕には面白いっていうか萌え。

 由希くんなんかは、「オレはやることなすことすべてがわざとらしい」とか悩んでるに違いないんです。つうか夾君みたいに自然に振る舞いたい。しかし一方で、王子様を演じることを武器にしたり、そういうしたたかさはあるので、安心して見ててやれるんですけど。

 言語化能力については、「癒し」云々の議論への不満があって。たとえば「癒し」を、「自己の存在を他者が(全)肯定してくれること」なんて定義するのは実質何も言っていないようなもので、実際に「肯定」が具体的にはどのような行為によってなされるのか、どうすれば肯定といえるのか、肯定できるのか、という疑問があるわけです。また、作品内において実際にそれはどのような表現をとっているか、といった。まあ皆さん読めばわかるのかもしれないけれど、たとえば、透君の無垢な魂(笑)に触れることで癒されている、なんて言い方はどうも何を言っているか僕にはサッパリなんで。あと「許される」とかいう言葉の意味も僕にはよくわからない。少なくとも、無言かつ絶対的な肯定ないし受容、なんてものはそこには見つからなくて、大事なのは言葉なんですね。それも、何気ない一言とかじゃなくて、ちゃんと意識的に構築された。ようするに、透君のイノセンスに癒しの理由を帰着させるくらいなら、彼女の言語化能力の高さに帰したほうがなんぼかましだと思うわけで。
 あと、作品内で、言葉というものがそうとうに重要な地位を閉めているように思う。杞紗ちゃん篇にしか通用しないかもしれないんだけど、あの、「心が 言葉が死んでいく」という順番でしょう。言葉のほうが重要度が高いんですね。それともうひとつ「嘘でもいいから」なんです。べつに本当に絶対的な肯定なり受容なりが存在する必要はなくて、言葉の上だけの「嘘でもいいから」、支えになる、という。言葉というのは実際の状態を伝達するのではなく、それだけですでにひとつの何者かであるわけなんですね。たとえば、好きって言葉を発するのは、好きである状態の表明や伝達ではなく、すでにしてひとつの行為であるわけです。まあそんな感じで。

 まあ、フルバはそこまで単純な作品ではないので、あてはまらない部分はいくらでもある。

 あ、革命の日については激しく同意。>GENさん

 「続」の巻末四コマの「4人は4人でひとつだし それに恋愛話描きたいわけじゃないんだし」という正確な自己の作品の把握ぶりがわりとシビれます。「自分で読み返してハンパだったから」続編を作り、描くべきことを描いてしまえば終わりにする、という態度も。なんつうか、ちゃんとおもしろい作品をつくろうとしてる作家で、自分のキャラへの思い入れで作品をつくったりするタイプとは明らかに異なる。

 じゃ背景保護色で気に入ったところなど。「365歩のマーチ」で、  「あのさぁ 実琴がオレと付き合う理由は何? ただオレを守りたいだけ? それともアイツらに対抗したいから?」
 こういうセリフがサクっと出るあたり、うめえなあ、と思う。でもお気に入りはむしろ、
 「一丁チュウしようじゃないか」
 だったりして。
 それと、二年たっても、恵の一人称が「オレ」のままでいられたりするのが、実琴くん偉い! って感じです。いいやつだ。惚れる相手まちがってない。
 彼女は今でも少年のように笑う。守る守らないでいえば、そういう笑顔を守ってきたのはやっぱり、実琴くんだと思うけれど。


12/5

 先月はえらく久しぶりに少女マンガを買った月だった。色々あって年単位で白泉社とか新書館とかあのへんから遠ざかっていたので。だから下はすべて先月初めて読んだ。まあ、桜野みねねもぴたテンも僕には少女マンガではあったのだけれども。てなわけで以下感想。読み飛ばし推奨。うちのサイトのマニアな方専用。いつものことだけれど。

 高屋奈月『フルーツバスケット』。「抱き付く」というのは誤解の余地なく好意と肯定の表現である(少なくともマンガの世界で女の子の方からする場合はそういうコードだといえる)。つまり、非・前・超言語的な自然な自明なコミュニケーション(「成恵の世界」をみよ)。この回路を断たれたらどうなるだろうか。肯定も「癒し」も、言葉によらざるを得ない。楽羅は夾に抱き付くことはできるが、彼女の試みは常に挫折する。また言語以前の自明で確実な伝達は「電波」と呼ばれるだろう。

 マンガ表現としては記号的な表現の多用がみられる。しばしば挟まれるギャグは、過去の記号的なマンガ表現の極端化としてのパロディだ。つまり、表現の依拠するコードに過剰に意識的なのだ。こうして作品表現/作品内部の双方において、理解とはつまり頑張って言葉を積み重ねてゆくことによる達成であり、伝達とはコードに意図的に依拠することだ、という印象が二重に強化される。不自然で意識的でわざとらしい。がおよそ自然な理解などというものはありえない。余計なわだかまりや小賢しさを捨てれば自然に理解しあえるのではなく、あくまで人知による構築物としてしかありえない。人はたとえば、子供だったときの気持ちを意識的に忘れない/思い出すことによって、時に親子であるにもかかわらず理解しあえるだろう。親子ならわかりあえる、なんて今日子さんは間違っても言わない。
 だが、コードに従う認識のうちにあるなら、たとえば他人の優しさを認識することは難しくなる。欲望(悪い意味での)は自然的なものであり従って誰でも形式は似ているから、理解されやすい。ここに落とし穴がある。だから、必要なのは感じる(それは結局無自覚にコードに従って認識するということにほかならない)ことではなく信じることだ。「信じる」とは「にもかかわらず信じる」ということで、自身の実感に反してでも信じることだ。なんとなれば、今日子さんによれば欲望(私見では悪意とニアリーイコール。以下勝手に言い換え)は自然的なものであり従って理解されやすい(=他人の悪意は自分にとって実感も理解も容易である)が、優しさ(「良心」に「やさしさ」とルビが振ってあるが、「善意」ないし「好意」ととらえても大過なかろう)は個人個人ハンドメイドの構築物であり、形もそれぞれ異なるがゆえ、自明に安定した交換価値を望みえないからだ。
 つまり、他人の優しさは感じ取りにくいし、自然に感じるのではなく意志的に「信じる」ことが重要だ。もし自分や他人の「悪意」が、「善意」よりもリアルに感じられるとしても、それはそう感じられるというだけのことであり、われわれの認識のシステムがそうなっているというだけのことだ。
 コードは意志によって超えられるとして(すくなくとも意識化し、別種のコードを採用することが可能だとして)、そこにあるコミュニケーションとは何か? 所詮伝達はコードに従ってなされるのだから「有用なコード」(共通のプロトコル)を選択するのが肝要だ、とでも言うのか? 竹田青嗣やジャン・ロタールのように? 作品を読むかぎり、そうではないのは確からしく思われる。むしろ「鑑賞」という言葉を導入しよう。一人一人形が違うとしたら、どんな形をしているのか楽しみです、と透君は言う。由希くんの優しさはこんな風に見えるのです。そしてまた、どこが素敵か、なんて内容を伝達するくらいなら、梅ぼし、とかわけわかんないことを口走っちゃう。

 小さい子にこそ、無言で抱きしめるよりは言葉が必要で、たとえば子供ってのは、誰かに「おお、かわいそうに」と言われて初めて泣き出す。感情はまず正当化されなければ、いいかえれば誰か他人によって認められなければ感情として存在できない。まあ、それが現実の他人である必要はまったくないけれど。君はいま、さびしい、って思ったんだよ(友永勇太)、と誰かが言わなければならないってことはあるもので。透君の言語化能力の高さというのは他人を必要としてなくて、綾女さんあたりに褒められてるのを見るとなんとなく安心するのは、どうもそういうことらしい。透君はイノセンスよりは経験と蓄積と才能と努力と意志の人である。少なくとも、自然に信じてるわけじゃないし、自然に受け入れているわけでもなく意識的だ。まあ、素体レベルでの差は大きいけどさ。
 あと、いつのマンガだコレって絵ではたしかにあるんだけど、同時に、昨今の少女マンガにあるまじき面白さ(複数世代の思惑の錯綜とか、人物配置の妙味とかの)である。それこそ風木じみた感じで。


 筑波さくら『目隠しの国』。あまり記号的な表現もないし(まあマンガなんだから結局は記号なんだけど、程度ってものはあって)、しばしばネームなしに絵の運びだけで表現する。言葉の量が少ない。これをもって記号/言語以前の自然的な伝達を信じてる、と見なすのはいかにも早計だけれども、読んでて人間への素朴な信頼ばかりが感じられ、いいなあ、と思ったり、時にどうしようもなく苛立ったりする、そんな作品ではある。いや好きなんですけどね。
 内容的には見るべき点はない。個人的には、何らかの主張なりテーマなりにこの作品を帰着させることは、この作品の美質を見損なうことになると思う。「触れること」「傷つける/傷つくこと」が何やらテーマじみて見えるとしても、かれらは触れること本当は怖がってはいない(というより、なんとうか健康的な怖がりかたで、すこしも病的な感じがしない)し、傷つける/傷つくことを「恐れない」という否定形でなしに、ただただ人の手や頭や体に触ったり触られたりすることが、ものすごく幸せな、それだけで肯定できることとして描かれている。なんですかこの圧倒的なシアワセぶりは。萌え。
 セリフもほんとうに自然で、ふと口をついて出るとか、そんな感じで、リアルタイムで目の前でしゃべってるみたいな感覚が物凄くある。なんつうか、ほんとうにキャラが喋ったり考えたりしてることそのまんまって感じで、説明とか描写とかいう邪念が感じられないのね。ほとんど意味の伝達なんてどうでもよくてさ。
 言葉はたいてい実際の会話以外の脈絡から出て帰ってゆくので、それだけとりだしても何の変哲も工夫もない。まあ、思わず口をついて出る言葉ってのはそういうものなんだけれど。いちいち論理立てて構築的に喋ることはない。言葉はだから伝達内容ではなくその効果によって測られるだろう。とまれ、かなでっちゃん、とか、あろう君、とか、そういう響きをくりかえし聞いているだけでそうとうに幸せではある。
 あろう君が見ている過去はなんつうか「ただの過去」で、誰の記憶でもない。だからと尊い記憶にも思い出にも昇華されようがなくて、見ることしかできない。あんたはそんなものをずっと見てきたのか、厳然たる事実であると同時に誰の眼にも映らないし、人の体験と記憶がけっこう違うことがあたりまえにわかってしまうようなそんなものをさ。そんで何も言わずに笑ってんじゃねえ、この馬鹿! ぜひ彼女に根性を叩き直していただきたく。


 橘裕『Honey』。凡庸とかTVドラマとか小賢しいとかなんかたとえば「自由からの逃走」読んで世界のことわかった気になってる厨房レベルの人間理解とかまったく橘裕にはいつもがっかりさせられるとか、最初はそんなことっを書いていたように思うのだが、12/7に書き直したのでそっちをどうぞ。


 小花美穂『こどものおもちゃ』。ああ、これは「加奈〜いもうと〜」とかそのへんですね。いちおう読んでて感動したり泣いたりはするんだけど。きわめて制度的な感情jをなぞらせるためだけに筋を仕組んで「読みごたえ」なんてさ、冗談もたいがいに。あと、コマ数に比して内容詰め込み過ぎの、なんつうか学習マンガじみた野暮さを終始感じた。なんての、「わかりやすく説明するためにマンガにしてる」的な表現の域を出てないので、これをマンガ表現って呼びたくない。無駄が存在しないわけじゃないけど、なんかもう狭い土地でむりやり遊んでるような貧乏臭さが。
 作者が自分を「イヤになるほど冷静」と評していたのはよくわかる話で(いや正確には「他の作品では我ながらイヤになるほど冷静だがこどちゃは少し違う」といったことを書いていたのだが)、筋を仕組んでみせる作者の手が意識されすぎるし、何より決定的なシーンがどうしても嘘に見える。まあ印象論だけどさ。要は嫌いだこれ。なにより感じるとのは、ちゃんとした大人の世界観で描かれているなってことで、これに出てくる連中は、フルバのキャラが(麻枝准のキャラでも可)一生かかっても辿り着けそうにない境地にはじめからいるのだ。何らかの感情を認識するより以前にそもそも抱くこと存在させることに躓いている、なんて不健全さとは無縁なのだ。何にせよ羽山ラブ。


 征矢友花『トッペンカムデンへようこそ』。至福。この作品については手持ちの言葉ではちょっと足りなくて。というか勿体ないので形容したくないのだけれど、たとえば『辺境警備』より御伽噺寄りで、『グラン・ローヴァ物語』より現実的つうか現世的。魔法も精霊も戦争も役人の苦労も同レベルの現実で。


 津田雅美『彼氏彼女の事情』。過剰なまでに饒舌なモノローグ。沈黙や言い淀みを欠いている。どうも図式的というか平面的に見えるのはそのためで、ずいぶんと整然と悩むもんだと思う。ただこれはいい意味での露骨さや無神経さ(どんな意味だよ)であり、繊細を気取る不健全さとは無縁だ。心情の動きもいかにも現実に即していて、なんつうか実存的な陰影を欠いている。いや、いいことだと思うけどね。でもなんか、チャート式の例題を次々と読んでる気分。色々なキャラの話へと広がっていくんで尚更。


 つだみきよ『革命の日』『続・革命の日』。コメディなので当然作為的な筋なわけだが、いっぽうでメインキャラの心情の推移に嘘を感じさせない。まあ、コメディってそういうもんなんだけどさ。以下ネタバレ部分は隠す。かつての親友がことごとく求婚してきたとしたら、つまりそれは「友達がいなくなってしまう」ということだ、というのにはやっぱり少しどきんとするし、そりゃ女の子に抱きついてた方が安心するだろう。女として生きる決心してはみても、言葉使いなんてそうそう変わるもんじゃないし、自己認識だってそう変わるわけじゃない。あっさり適応した周囲に残され気分で、だから、一緒にゆっくり歩ける相手がいれば、それは有難い。365歩のマーチ。なんて理屈はやっぱり後からで、安心できるとか、あーもーコイツ可愛い一匹ほしいとか、その時はそんな風にしか思わない。なんかもう必要にして十分。


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