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 つまり、(少女)マンガにおいては、時間的継起の線上に配置される諸エピソードが、(美少女)ゲームにおいては空間的に布置されるわけ。フルバで透くん に次々と癒されていく十二支さんたち、あれはゲームなら個々のキャラへのシナリオ分岐上に配置されるだろう。というか、「複数のヒロインを攻略する」とい う形式(が要求する舞台)が、ひとりの男性キャラを中心とする“ホーム”という逆フルバ的状況を必然的に要請するわけ。もちろん「同級生2」みたいな形式 も可能だが。

 きのうの補足。

人間が抱く愛のかたちには二種類のものがある。男性的愛(父性原理)と女性的愛(母性原理)がそれである。『前略ミルクハウス』は題名からわかるよ うに、一人の少女を中心として愛が交流する。一方、『エイリアン通り』は一人の少年を中心として“ホーム”が動いていく。これらの漫画はいわば愛の教科書 になっているともいえる。(宮迫千鶴『ハイブリッドな子供たち』)

 もちろん中心になるのは、それが少女であれ少年であれ、どちらかといえば「癒す側」だ。フルバは典型的ですね。エロゲでもとらハ2なんかはそ う。みスをもこっちかな。少年つーのはアレか。まあ、主人公が癒されるのなんて一回で充分なので(フルバでも1巻は透君の話ですね)、どうしてもそうなる のだけれど。そうそう何種類も悩みなりトラウマを抱えるわけにゃいかない。
 ここで逆に、中心にいる少年が、どちらかといえば「癒される側」であるような作品を考えることができる。まあ「どちらかといえば」なので、現実の作品はそうはっきりと分類できるようなものじゃないんだが。
 たとえばONE。ヒロインへの分岐ごとに、毎度同じように主人公のトラウマがほじくりかえされ同じように癒される(ゆえにワンパターンと称される)。 Kanon。選んだヒロインに応じて、主人公の過去が設定される、という斬新な手法。センチメンタルグラフティなんてのもありましたが。これにより、一人 の少年が複数の少女によって癒される世界、が可能となる。次々と女性遍歴を繰り返すわけではなく、複数の少女たちとの共同性があらかじめ存在することが前 提。ONE型としてはむろんRainy BlueやMemories Offといった作品も挙げられる。
 決まってその世界に男は一人しかいない。そして決まって少女たちと、ある種の共同性なり「幸せな日常」なりを構成する。一応他にも男はいるが、それは「ライバル」でも「敵」でもない。競合は起きない。

   えー、MK2氏が以前書いていたのですが、

 まあ『ONE』にしろ『Kanon』にしろ、すごく女性原理の支配する世界っぽい感じはします。ここで「じゃあ女性原理ってなにさ」という話にな ると、なんかMK2の気力が尽きそうなので、ここでは「女性というジェンダーを作り上げてるいる原理」くらいで勘弁してください。なんも説明してないよう な気もしてちょっと爆笑もんですか。してねーよな……。人間関係から世界観からなにから女性原理で組み上げられている世界で、唯一の男性である主人公が癒 されるという、まあそういう構造で。なんか正解っぽくて気分悪いですね、これ。

 さて『家族計画』はどうか。思うに、どちらかといえば司は「癒す側」ですね。「いい人」かどうかが当人の意識とは無関係である、という話は先日やった ね。実際、司くんはずいぶんと板についたお兄ちゃんぶりだと思う。司の意識はどうあれ。また、真純さんや末莉は繰り返し、彼こそがこの疑似家族の要だ、と いう口をきく。それに彼は家族計画によってかえって疲労している。彼は癒される子供というより、むしろ守り手だ。  


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■家族計画(ディーオー)。
 山田一氏はドラマ『ひとつ屋根の下で』や『時間ですよ』にたとえているけれど(ピュアガール12月号)、 個人的にはたとえば『前略・ミルクハウス』のほうがしっくり来るわけで。あれは妙に人間関係や社会における不適格者の集団じみていたし。リアリティのレベ ルは白泉社あたりですが。まあ、なんだかんだ言ってわりと気持ち良くやってられるのは、あのへんの作品群と親和性が高いせいだろう。少女マンガとエロ ゲーってネタは更科修一郎氏あたりに任せておいたほうがいいかもしれないけれど。

 「少女マンガ」「家族」と来れば宮迫千鶴先生。では、いきなりですがみもふたもなくまとめてもらいましょう。

 ……少年も少女も“家庭”から見捨てられ、傷ついた心で生きているのである。(略)
 とはいえ良質な少女マンガが明るいのは、それらのいわば現代の孤児たちを、ふたたび愛によって結びつけるところだ。『前略ミルクハウス』(川原由美子) や、『エイリアン通り』(成田美名子)はそれぞれある種の孤児たちの“ホーム”が舞台として描かれている。心に傷を負った少年少女、時には大人まで、その “ホーム”の住人である。その“ホーム”のなかで、彼らは少しずつ他人に対する不信感をいやし、さまざまな感情の交流を回復し始める。別の意味でいえば彼 らは“愛すること”を学ぶのである。
 人間が抱く愛のかたちには二種類のものがある。男性的愛(父性原理)と女性的愛(母性原理)がそれである。『前略ミルクハウス』は題名からわかるよう に、一人の少女を中心として愛が交流する。一方、『エイリアン通り』は一人の少年を中心として“ホーム”が動いていく。これらの漫画はいわば愛の教科書に なっているともいえる。(宮迫千鶴『ハイブリッドな子供たち』)


 後段のユング派じみた物言いはさっぱり意味不明だが、過去の少女マンガの一形態についての報告として読むことはできる。つうかあてはまりすぎ。いや家族 計画はまだ一度もエンディング見てないんですが、ドラマよりは少女マンガ寄りに見える理由はここに尽くされているように思う。

 現代の少女マンガにも、女性中心型の系譜として高屋奈月『フルーツバスケット』や、筑波さくら『目隠しの国』を挙げることができるだろう。
 いっぽう男性中心型の少女マンガはあまり思いつかない。男の子向けのラブひなや天地無用には「愛することを学ぶ」という要素は薄い(天地はけっこう微妙 だけど)。しかしいっぽう、桜野みねね『まもって守護月天!』は、文字通りヒロインが「愛することを学ぶ」話である。もちろん『月天』の中心にいるのは シャオじゃなくて太助である。キリュウ篇とか顕著ですが。
 そして男の子(?)向けのメディアたる美少女ゲームには、『とらいあんぐるハート2〜さざなみ女子寮〜』や『家族計画』があるわけだ。少年少女ときには 大人が、ある共同性のうちで、「他人に対する不信感をいやし、さまざまな感情の交流を回復しはじめる」といういいかたをすれば、ずいぶんとおおくの美少女 ゲームがそこに含まれることだろう。
 ただギャルゲーにおいては、「男性を中心とするコミュニティ」を描くかわりに、女の子ひとりずつに分岐したシナリオが用意される。というよりむしろ、 ギャルゲーの形式がかえって、「一人の少年を中心として“ホーム”が動いてゆく」ような形態を呼び寄せた、といえる。おそらくそれだけのことだ。という か、ある種のギャルゲーが複数の女の子にそれぞれ複数の感動的なストーリーを付随させ、かつ主人公が一人である限り、そうなるのは形式的必然だ。元長柾木 いうところの「愛すべきワンパターン」(ANABASIS)でしかない。
 もっともザンボット3の例もあるので、形式は自身が生み出したものによって自壊するものだ、とは付け加えておくべきだけれど。つまるところロボットの戦闘シーンを見せるためのストーリーが、かえってロボットアニメそのものを変えてしまった例、ということですが。

 脱線するけれど誤解を避けるために触れておくと、言うまでもなく、わかつきめぐみ『So What?』は決定的に異質だ。ついでにいえば、おなじ共同生活の場でも、『風と木の詩』『トーマの心臓』『小鳥の巣』といった作品の学園・寮は“ホー ム”ではなくそのまま“社会”であり、むきだしのわが身と心を“社会”にさらさねばならない。そこはだんじて癒しの場ではなく、鍛えられ、自己を確立する (場合によっては破滅する)ための場だ。


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 最近のひらしょーさんのしっぽ話(これとか)を読んで、こっちを読み返したりなんかしてた。あとこれこれは無論。
 前々からひらしょーさんとソガさんには似たところがあると思っていて、たとえば言葉という伝達手段の情報量の少なさについて、ニュータイプだのマルチだのブロードバンドやら映像やらの話が、どうにもつながってしまう。
  「例えばもし人が互いに1ギガビット毎秒で通信できたとしたら、世界は全く違ったもの になるはずである。」「一日中テレビ電話がついてるような時代が来て、あたりまえのことがあたりまえに隣にあると感じられるようになるまで」とか。他にも いくつか似た感じのがあったと思うけど。
 リンクはそろそろ億劫になってきたので興味のあるかたはGoogleでも頼って下さい。

 オチはこれってことで。オチ? いや鍵っ子100質の答でリンクし忘れてたしほら。ある話題がここに登場するにあたっては重層的決定が働いておるのですよ。

 家族計画。どんな理由をこじつけようがかれらが本質的には何者であろうが、空間は共有され時間は暴力的に降り積もっていくのである。まこと存在は意識を規定し実存は本質に先行する。並べるのは激しく間違いです。
 ぼく地球のように「ゲーム」と見なし、森絵都「カラフル」のように「ホームステイ」するのは、つまり暴力性へ対抗するためのものであるわけですが。

 だが「ONE」においてこの降り積もる時間の暴力性は、かえって「絆」と呼ばれるだろう。「絆」はもともと「束縛」という意味で、望むと望まざるとにか かわらず存在するものだが、それを「求めるもの」としてしまったのは受け手の誤読とはいえない。絶対的に先行し暴力的にあってしまうはずのものが、意図的 に確証し希求する対象になってしまう転倒(これを「自明性の喪失」なんてオチをつけるといかにも過ぎて何だが)は、家族にかぎらず麻枝准の通例だし、もち ろん麻枝准に限った話でもない。

 25日のやつとともども、死エロの1/6とあわせてお読み下さい。つうかそれだけ書いておこうと思ったのになんでこんな。


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 かわいい少女たちとの恋愛、それとKeyの、つまり前田純の音楽。ほかのものは消え失せたっていい、醜いんだから。(ボリス・ヴィアン風に)
 たとえばKanon(全年齢対象版)のあとにはそのくらい呟くべきだろう。つうか久弥直樹マンセー。
 少女「たち」だもんナ。
 
 埒もない。今木は18禁のやつしかやってないしやる気もないのですが。

 家族計画は遅々として進まず。笑い話にしかなんないのなんて最初だけで、結局はアンタも、語るに値し話せば誰かが耳を傾けてくれるような話をしだすんだろう? それともそうじゃないのか? 毎晩チェーンソー男を追ってる、くらいのことは言えんのか。やさぐれモード。


 「この空の向こうには、翼を持った少女がいる」
 「…うわわっ、往人くんが奇怪なウワゴト言ったよぉ」

 ああ往人さん、そういう話をこそ僕は聞きたいのだ。そこで「熱でもあるのかなあ」と触れてくるかのりんは大好きなんですが。触ってくる子にはとても弱 い、ということにしておく。ほらHello Againの真沙魚とか。成瀬とか。ぺたぺた。観鈴ちんの何がいいって、いきなり人の上唇を指で拭って舐めるようなところで(牛乳の味)、その無防備さは どうにかしてくれ。距離の破壊。

 鍵っ子への100の質問の回答。書いてしまったことだし。

 22日からのやつを書き上げて(うちの日記の日付は書き始めた日付なので)アップしようとしたら、これに出会って少し驚く。まあ、こっちの話。


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■家族計画(ディーオー)

 彼らが正しく家族であるのは何より、かれらが望むと望まざるとにかかわらず一緒に住み、いやおうなしに顔を合わせ、対外的にも家族に見えるように振る舞 わなければならない、ということによる。ぼくがここで「正しさ」といいたいのは、家族についての種々の本質的あるいは理念的な議論よりも、現実的/物質的 /形而下的/唯物論的条件が先行することである。
 家族ごっことの差はすなわち、彼の意志によってやめるわけにはいかない、という一点による。もちろん、やめることは可能なのだが、さまざまにからみあっ た諸要因のため、そうかんたんにはいかない。というか、それをとりやめるためには意志が必要だが維持するためには特に意志を必要としない、という言い方が 正確かもしれない。
 ここで我々はまさに維持するためにこそ意志を必要とする(現実の血縁の有無にかかわらず)家族たちを、たとえば「AIR」において持っているわけだけれ ど、あれは血縁の有無にかかわらず家族ごっこでしかない。もっとも、かれらにはよって立つ「現実」そのものがすでにゆらいで(見えて)いるのだけれど。現 に一緒に暮らしているにもかかわらず、自分がそこにいて相手がそこにいるということがどうしても認識できないので、ごっこにしかならない。つまりAIRは 「家族」への到達しがたい距離を、克服しがたい断絶をこそ主題としているので、それを家族を描いた作品と述べるならば、「陰画的に」と付け加えるのを忘れ てはなるまい。もちろんこれは先ず製作者に対して言われねばなるまいが。
 あんたなんか家族なもんか、なんでおれとあんたが家族やねん、と言いうるのは、つまり前提としてすでに家族である(しかない)ことが疑われていないからだ。そんな幸福な文句はAIRのどこを探してもみつかるまい。まあこれは脱線。

 昔から悠樹はお荷物だった。パパと一緒にいたいのに邪魔をするし、学校が嫌でパニックになりそうなときにも、悠樹のぶんの献立を考えなければならない。(J・さいろー『SWEET SWEET SISTER』)

 11/4にも似たようなことを書いたくさいのですが。

 で本題に入ろうと思ったがやめ。どうせ曽我さんほどにテッテ的にゃならない。廊下の広さだもんなあ。迂闊に唯物論的条件なんて言ってしまって気付いて後悔するのはこういうときである。


1/22

■Kiss the Future<AFTER GENESIS> ANABASIS(Time passed me by)

 アナバシスといえばクセノポン。参考。霞がああなっちゃった後に残された式子の境遇に重ね合わせることはあるいは可能だろう。
 それが典拠だとすればその心は「進攻という名の退却戦」なのだけれど、さて何からの退却かといえば、89年に自身が思いついたビジョンからのそれである かもしれず。まあ、いちいち検証する気はまったくない。誰かが似たようなことをいっていたが、元長氏の作品は分析するには萌えすぎるのである。少なくとも 僕には。誰に萌えてるのかはともかく。
 メキシカン風味な衣装の式子にメロメロってこってす。
 主としてみさくらなんこつ氏の絵から漂ってくるオーラを分析するに、式子は霞が好きなんだとずっと思ってて、今も思ってるわけですが。ゲームやる前から途中までずっとそう信じこんでいて。

 しゃべり場読んだのでそれについて書こうか。あんたは式子か。以上。
 セイリョーインよりは麻耶雄高だろう、とは思う。というのはいま『メルカトルと美袋のための殺人』の文庫版を読んで、解説で「ミステリへの盲目的な恋 文」(「翼ある闇」を評して)とかいうフレーズにぶつかったせいだけれど。矯烙の館にもメルカトル氏は名前だけ出てきますね。あとはせいぜいワシ鼻のコカ 中くらいしか言及されないのに。いや、本質直観なんて言い出したりはそらするけど。もちろん矯烙の館の章題にThe Darkness with Wingsとかそういうのがあったことは書いておく。

 89年なのだから過去だということはわかっていたくせに、あの日々をもはや回顧的にしか体験できなくなってしまったことが、少し悲しい。
 そろって深呼吸したり、よってたかってハンバーグを食いすぎたりする日々が僕にどれほど幸福だったかなんて、まったく、すべてが愛すべき日々で「前半が 退屈」なんて抜かす奴には一片の同意もなしなのだが、あとGENESISは個人的にはどうでもいいのだが(元長氏にとってもそうに決まってる)。

 ともかくも、世界がどうなろうが何が語られようが、彼女はそこにい続ける、という極めて明白かつ単純な事実性に着目すべきだろう。これは単なるギャル ゲーのお約束とか形式として作品の本質から除外されるべきものではなく、それこそがまさに彼の表現したかったことなのである、というわけだ。

 だが「圧倒的な幸福」が「彼女(たち)にとっての幸福」であることに君は気付いたか。われわれはもう、ヒロインの幸福しか自分の幸福として認知できな い。なんつってな。これはギャルゲー以前にもっと昔から、男は女を幸せにするもんだ、というフィクションを刷り込まれてきたせいかもしれない。女の子は男 の子に幸せにしてもらうものだ。そして女の子を幸せにするのが男の子の幸せだ、ってなタイプの発想は、随分と馴染みがある。

 実のところゲーム本編では、僕は式子の言うことはことごとく理解できてしまって、そのせいでちっともポエムにも鑑賞にもならずにいくらか不幸だったので すが、今回はちゃんとポエムとして鑑賞できました。これが7年の歳月は彼女にも僕にも等しく降り積もった結果だといいのですが。ハ、くだんねえ。
 僕が早々と眼の閉じ方を覚えたわけであるはずもなく、元長氏の書き分けのおかげに相違ないのですが。

 まあ、ほっといてもそのうち理解しはじめてしまう気はするけど。およそ理解とは望むと望まざるとにかかわらずもたらされるひとつの事物であるからして。


1/15

 で、「このちゃ」の感想を見て回ったりしたわけですが。どうも他人への勧め方まちがってるな、と思うことがたまに。「Lienをやって気に入ったら」な んてのは、間違っていないけど当たり前すぎる。どっちがマイナーかわからんものをそこで出してどうするよ。広めたければ、引き合いに出すのは、「この ちゃ」よりメジャーで、安価に入手でき、あまり受け手の層が重ならないものであるのが望ましい。要するにわかりやすいものでなければならない。
 つうわけで誰か、桑田乃梨子のファンにはお勧めです、とか、わかつきめぐみ「So What?」 のファンにはお勧めです、とか書いてくれないかな、と思ってるのですが。

 LienとSo What?については、しのぶさんの文章があるのですけれど。

 たぶん自分でやるしかないってのはわかってるんですが。

 ■このはちゃれんじ!(ルージュ)

 はじめに書いておくと、今木はLienのエンディングはひとつもみていない。このちゃにしたって苑生EDくらいしか見ていない。かといってこれは苑生シ ナリオについての感想でもない。だから(そうでなくともただでさえ、だけど)僕はけっこうな勘違いをしているのかもしれない。ともあれ始めよう。
 あと下の文章はこれのパクリというかパロディです。自分なりの理解の試み、というのがたぶんいちばん正しいのですが。ついでに終わってみればずいぶんと違ったものに、てか凡庸になっているであろうことも疑いがない。

 
 梶尾慎治は、白泉社文庫版のわかつきめぐみ「So What?」2巻の解説に次のように書いている。

 私のSFの中では、「時間の壁」とか「生と死」といった人間の手では、どうにも補いようがない事象によって“愛”が引き裂かれ、それ を人間の技術や智恵によって何とか解決してみようとする努力が描かれます。それが、ハッピーかアンハッピーかは別として、奇想で不可能な愛を成就させよう とする行為……に魅かれるのです。

 僕がLienを必ずしも気に入っていないくせに、「このちゃ」に魅かれるのは、ひとつにはこうした理由によるのかもしれない。「生と死」については、オ リジナルのこのははどうも生きてるくさいのですが。まあ苑生のモデルの人は死んでるのでいいでしょう。つっても「時間の壁」のほうはどのみち言えるやもし れぬ。それはむしろ、「あのときこうでなかったら」という、別の原因と結果を、現に目の前にある結果を改変しようとする情熱、という抽象化が可能かもしれ ぬ。
 ホムンクルス。錬金術師の夢。だが今回のそれは、神の御業をまねるためでもなく、また、おのが魂の真の完成(ほんらい「錬金術」はそのための手段にすぎ ない)のためでもなく、失われたあの人を、あの人との日常を再現するためのものだ。「やり直したい」という欲望に支えられたそれは、むしろタイムマシンに 似ている。

 ふふ、このは、中世において錬金術は、最先端の科学として医療の現場などで重んじられていた。つまり僕ら錬金術師はそんな科学の子ってわけだから、全然大丈夫だよ?(「このはちゃれんじ!」)

 日本人の錬金術師にふさわしく、といっていいのかどうかしらないが、その錬金術は思想的・宗教的な世界観を背景としていない。彼女の製作者はそれを単な るテクノロジーとしか見なしていない。だから梶尾SFに登場する「科学」(たとえばクローン技術)とそう違う位置を占めているわけではない。

 そしてタイムマシンは愛という名のエゴのためであり、その少女はタイムマシン製作者の意図とは関係なしの独立した存在だ。彼女は望んでやって来たわけではない。

 痴話ゲンカにまきこまれて一生だいなしにされたとしたら、どーゆー気分になると思います?(『SoWhat?』)

 「この、ち×かす野郎ーっ」という気分かも。ともあれ日々は送らなければならない。たとえ幽霊だろうと学校に行ったりする。そこで始まるのはやはりお馴染みの「日常」というやつだ。

 「日常」はきまって、家族、というか両親が何かの理由で舞台から追い払われていることが条件となる。理由は何でもいい。もし登場しても、それはあの呪う べき「親」とはずいぶんと感触を異とする、幼なじみやクラスメートや転校生と同列の存在だ。親というものはしばしば「日常」の「外部」にいて、ボクたちの 「日常」を相対化するのだが。親の転勤で転校、というのが典型的なパターン。親によって引き裂かれた友達。フルバでいうと慊人さんみたいなのが「親」であ るはずだが、そういう「親」は出てこない。このへん若干脱線してます。

 「このちゃ」の「日常」には(So What?同様に)一筋縄でいかないところがある。これはひとつには「Lien」の、「すでに死んでしまって、本来ならこの世にいないはずの主人公」によ る、いずれ終わることが決まっている、本当はもうとっくに終わってしまっている、そのくせいつ終わるかはわからなければ決められもしない日常が、それでも 送られる、という事態の反復なのだけれど。まあこのへんはイレギュラーな存在がひとりふたりだからいいので、「本来ならここにいないはずで、今はムリだけ どいつかは帰る人」が何人もいたら、これは天地無用になってしまうわけだけれど。

 日常はつまり、いつ始まっていつ終わるともしれないからこそ日常であるはずだし、それはほんとうにあたりまえのもので、だから大切だなんて思わなくて、 大切だと思うならそれは日常の終わりをあらかじめ意識することであり、そうなれば日常ではもはやない。意味不明ですか。永遠に片足突っ込むわけですね。

 だが、この日常は終わりから見られるより先に明確な始点がある。ホムンクルス=タイムマシンの(誤)作動した瞬間、それはゲーム開始時と正確に一致する。
 だからこの日常には、あの「永遠」という倒錯、「終わりから見る意識」をあらかじめ回避されたかたちで、つまりみもふたもなく唯物論的に、終わりがあ る。比喩的にいえば6年前の世界から呼ばれた彼女が、もともとこの世界にいなかったはずの彼女が、本来の場所に帰るまでの時間。
 僕が最初に魅かれたのは、記憶の中では6歳下だった女の子が、同い年でいっしょに学校に通っている、というシチュエーションだ。それはどうにも「巻き戻 された時間」というフレーズを想起させる。6年前までの記憶で生きるホムンクルスの彼女はずっと「6年前からの客」だ。そして、巻き戻されたゼンマイが伸 びきるまでの時間が、彼女の人生であるのかもしれない。
 こうした言い回しは感傷的にすぎるか。むしろ、この「終わり」は、たんなる現実性が支配すること大であり抽象的な議論の入る余地がないし、感傷の発生をかえって拒む。たとえば生き物がやがて死ぬのは当たり前だろうし。

 それに彼女(たち)は何より現にここにいるし、さらに重要なことには、自分がまずここにこうしている、ということをどんな本質的な議論よりも先行させ る。いないはずだろーが幽霊だろーが何かのためだろーが、ともあれ日々は送らなければならないのでありその間なるたけ幸せを追及するのはアタリマエなので ある。その日常がたとえば「何かのためのもの」でしかないとしても、「終わり」をあらかじめ告知されたものだとしても、絶えず自分がこの世のつねの人間 じゃない、いないはずの存在だということを思い知らされようとも、たとえば痴話ゲンカに巻き込まれた結果にすぎなくとも、「かりそめ」でもなければ「にせ もの」でもないのは、いちいち確認したり主張する以前の、あたりまえのことでしかないのだ。だってここにこうしているじゃないか。

 タイムマシンというのは誤作動するようにできていて、決して望みの結果をもたらさない。あの時をやり直すのには挫折するだろう。けれどもそれは決して悪 いことではないだろう。彼女は決してあの彼女ではなく、彼は新たな何者かを手にしてしまうだろう。望むと望まざるとにかかわらず。そしてそのことを受け入 れるだろう。望むと望まざるとにかかわらずやってくる「終わり」とともに。
 連中はかくも健全で、現実的で、賢明だ。望み通りの結果を得ることに挫折する無能さを、かれらの賢明さに含めるのは、いささか言い過ぎというものだろう けれど。かれらが出会うのはつまり「どうしようもなさ」であるけれども、それに対して、無力感と敗北と感傷に逃げ込む(鍵ゲーみたいに)ことのない強さ は、強さとは能力ではないのだなあと、思う次第です。

 そういう健全さが気に食わないっちゃあそうなんですが(だいなし)。

 それはそうと、Lienと「お迎えです。」をからめて何か書きませんかねやまうちさん(私信)。

 構図が違いますか。


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■このちゃ/So What?

 京都を去りがてらに旭屋でわかつきめぐみ『So What?』(白泉社文庫)購入。
 電車の中で読んでたらこのちゃと混ざって結構えらいことに。あと、感覚が遮断されても聞こえるよ、とか。

 とか考えているときに念頭にあるのはこれだったりしますが。

 「ぱられるはぁもに〜」の身もふたもないご都合主義ハッピーエンドのほうがあたしゃ好きですが。桑田乃梨子「いつか夢で逢おうね」(『月刊1年2組』1 巻)の、綺麗になりそこねた終わり方とか。ちなみに同巻所収「漂泊の貴公子」は今木の最も好きなマンガのひとつです。ロマンティッシュ・イロニー?

1/3

■このはちゃれんじ!

 ますたぁ邸にて「このちゃ」。苑生ED(たぶん)と何も起こらないED×2を確認し力尽きる。

 「いい人」と「善意の人」はまったく異なる概念である。かんたんにいえば善意は主観的、「いい人」は客観的。善意は主観的なものであるから、これは善意 だと思いさえすれば何をやってどんな結果をもたらし周囲をことごとく苦しめようが、自分は善意の人だと認識し主張することは可能だ。善意だけならみんなに も認めてもらえるかもしれない。
 さて「いい人」というのはこれとは逆である。主観的には悪意のカタマリであるにもかかわらず、また他人を苦しめようと意図しているにもかかわらず、いっ こうに意図した結果が得られない。かえって墓穴ばかり掘っていて、生来の気の弱さなんてものが付け加わった日には、当の敵の身内を思わず茶菓子でもてなし てしまったりする。しかも毎回。

 「いい人」というのは悪をなす際の無能である。あるいは、悪意と結果が結びつく割合の低い人のことである。そもそも「悪いこと」を想像したり認識したり する能力に制限がある。主観的には「この上ない悪意」であるのに、他人にはちっともそうは見えないのである。ようするに、どうやっても悪いことができない 人のことを、われわれは「いい人」と呼ぶのであって、悪意の有無は関係ない。悪意もまた主観的なものにすぎない。

 それを性格と呼んでも運命と呼んでも同じことだ。とにかく、どういうわけかそういう風になっちまうのである。現にそうなっちまう、ということの前では、そのように運命付けられているのかそれとも性格付けられているのかはどうでもいいことだろう。

 織人さんは実に「いい人」である。目的は復讐である。行動原理は悪意であり、なさんとするは詭計である。そしてことごとく挫折する。彼には他人を幸せに することしかできない。そもそもが彼に可能な悪意の上限は実にかわいらしいものだし、いやしかし、やりようによっては相当に深刻になるはずなのだが、深刻 な事態をもたらす能力を決定的に欠いている。おまけにたぶん、「客観的な」動機・行動原理は、自分で信じ込んでいたような悪意でさえない。彼の悪意は、は たからは照れ隠しの言い訳にしか見えない。

 性格や運命はしばしば当人にとって「わかっていても、どうしようもないもの」である。そして、どうしようもないのだけれど、抗うこともやめられないもの だ。そんなとき、道はふたつあって、「悲劇」か「コメディ」だ。この作品は幸いにしてコメディであり、それは当人にとって悲劇的であってもコメディなの だ。そして人は、わかってはいても、どうにもならない自分を、しばしばどうすることもできない。笑うこともできない。しかし、自分を笑うこともできないそ の人がコメディを生きているとしたらどうか。

 もろにこれに影響されてますか。桑田乃梨子と荒川工、というのは個人的にそう違和感がない組み合わせなのですが。

 それはそれとして、織人さんは実にかわいい。萌え。


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