もどる


 大塚英志がどこかで(あちこちで)、少女マンガの大きな特徴は、フキダシの外にモノローグないしそれに準ずるものが多用されることだ、といっていた。最近だと、三浦建太郎や板垣恵介が「少女マンガ的な手法」と評されたことを記憶されている方もいるかもしれませんが。

 たとえばファンタジーでも少女マンガであるうちはこれはおおむね変わらなくて、紫堂恭子もやはり、ファンタジーというより少女マンガである。
 かつて(つまりドン・キホーテの昔には)小説とはキャラの「言動」を描くものであって「内面」を描くものではなかった。その意味でカフカは正しく小説家なのだが、これが特異に見えるとすれば、われわれの時代が、言動から独立した「内面」をすでに前提しているからで、少女マンガの表現はその上になりたっている。

 征矢友花『トッペンカムデンへようこそ』4。あいかわらず良い。ひきあいに出して申し訳ないけれど、紫堂恭子その他の自称他称「ファンタジー」の登場人物がどうしようもなく現代人に見えるのに比べて、随分と「らしい」感じがする。

 人物の描写も、ドラマの主体も、あくまでセリフと行動である。あの「モノローグによる内面描写」がはばをきかせる余地はほとんどない。特殊な場合(意識はあるが喋ることができないとか)にはやはり用いられるけれども。
 おそらくこのことは本作のファンタジー色を強めている。ようするに人物の心性と行動原理からして現代人とは(あくまで適度に)異質に感じさせねばならないが、それは具体的な描写態度によって可能となるわけだ。ここには、内面が実際の言動とは別の場所に確保されることが少ない。
 もちろん、これを少年マンガ的と言ってしまうことも可能だけれど。

 理屈っぽいねどうも。
 大事なことはちゃんと口で言う、というのがとりあえず気持ちいい。そゆこと。「だって私たちはもう立派な中学生じゃないか!」(成恵の世界)。


"トッペンカムデンへようこそ"(征矢友花) 16/Feb/2002


 バレンタインなのでここにリンクを貼っておく。


 14/Feb/2002


 猫山宮緒『今日もみんな元気です』(白泉社)。今木は白泉社に関しては10年ほどブランクがあったので、初めて読んだわけですが。なんで手を出したかというとたまたま読み返していたMK2氏の日記で触れられていたり、あとどっかでシスプリの世界に憧れる人にはおすすめとか、そんな風な言及が。どこだったっけなあ。でフラグが立ちまして。
 まだ1巻というか無印のようやく3話目まで読んだところなんですが。三日くらいかけて。
 声も出ない。
 いつものゴタクなんてなんにもなりゃしねえ。こんなときに絶句するためにこそ、僕は日々饒舌に語っていたのかもしれない、とさえ思う。なるほど、息をするのも忘れる、というのは誇張でもなんでもないのであるな。
 うれしさのあまり抱きついたり歩き方忘れたりしてえ。松波が。好きというかここから先に一歩も動きたくない。
 とかいいつつ4話目とか読んで。そろそろ、「おれはこのマンガ初めて読むんだぜ羨ましいかコノヤロ」とか考える余裕が多少出てきましたが。
 なるほど、これが「憧れ」という感情なのか。そして極限の憧れは極限のリアリティとして現前する。否、そこに吸い込まれてしまえば距離は不可能なのだ。
 これまでは観念としてしか把握していなかったし、どちらかというえばそのほうがリアルでさえあったのだけれど。おそらく今後もそなのだけれど。例外というのはあるものだなあ、と。
 なんての、女の子になりたい人も男の子になりたい人にもお勧め、ってヤツ?
 つまりその、なんだ。
 「見つけたんだ」「何を?」「永遠を」。

 ――探さないで下さい。






"今日もみんな元気です"(猫山宮緒) 13/Feb/2002


 望月花梨『緑の黒髪』(白泉社)。死エロの1/6とか1/28を読んでいて連想するのはこの作品だったりする。

 父親の連れ子と母親の連れ子。他人が家族として暮らしていくためにあれこれ工夫するのも、相手の存在が救いになったり意識することが可能なのも、また「家族として暮らせなくなる」なんて思い悩むためにこそ、そのための前提として家族という条件は個々人の恣意を超えて先行する必要がある。
 死エロのを読む限りでは(その影響下での僕の発言もだが)、家族というのはつまり「子供にとっての家族」じゃないかという気がしなくもない。大人にとっては「妻子」とか「夫と子供」というのが第一義で「家族」という非人称的な何かが先に来るのは、子供にとってだけじゃないかとか。換言すれば、家族を主体的に所有することができるのは大人だけであり、子供にとってそれはどうしようもなく「選べない条件」である。
 まあ結局は大人にとっても、結婚した相手がどんな奴かなんて(つまり家族の成員として)一緒に暮らしてみなきゃわからないし、子供を持つかどうかは選べてもそいつがどんな奴かは選べないかもしれませんけど。結婚してよかったとか子供持ってよかったとかこの家に生まれてよかったとか(あるいは最悪だったとか)思うためには、家族という条件が絶対的に先行する必要がむろんある。家族崩壊したりしなかったりするためには家族でなければならない。まさか地球の裏側の人間とわざわざ疎遠になったり他人同士になったりするわけにはいきませんからね。無関係だと言うためには関係が、関係といってわるければ、問題にしうる相手の存在が、相手の存在を問題にしうること、が先行する必要がある。 かれらは「本当の家族になろう」なんてたぐいの「本当」(あるいは「普通」とか)なんて一瞬たりとも求めないし、そもそも思いつきさえしない。たとえば、家族でいられるか、などと問うのは明らかに転倒しているので、単に「家族ってムズカシイよね」以外にべつだん何もありはしないのだ。
 意識とは意識された存在にすぎないという措定は存在は意識されねば存在たりえないという逆措定を生む。つまり家族であることが前提条件として存在するためには家族という条件と意識されねばならない。これはまったく一つのことだ。だから「血がつながってるんだから家族(べつに「一緒に住んでるんだから」等でもかまわない。血縁は必ずしも問題ではない。以下すべて同様に)」というのも「血がつながっているだけでは家族とはいえない」というのも(そして「血はつながっていないけど本当の家族」というのも)、同程度に馬鹿らしい。


 話は変わりますがAIRについては「内面化」が結局完成せずに挫折してるんじゃないかと思うがそのへんはどうか。観鈴は結局、晴子にとっては「内面化しえない他者」みたいな立場にとどまるわけで。「母と子」になりそうなところで記憶喪失になったりもするし、最後まで観鈴はどうも何か別のほうを向いている。僕は結局家族というネタがどう扱われようと知ったこっちゃないのでそっちを見ますが(本音)。





"緑の黒髪"(望月花梨) 12/Feb/2002


 おそらく「あたかも信じているかのようにふるまえ、そうすれば信仰はやってくる」、というときの「信仰」は「内的な実感」のことである。信じる者は救われる。信じることさえできれば既に救われているといっていいのだが。内的な実感が問題になるのはあくまで個々の魂の救いの次元であり、そして僕としてはあくまで個人的な話で、一般化はしたくない。ついでにいえば、魂の救いというのは比喩的な意味ではなく、純粋に宗教的な意味だ。

 その夏の京都で、僕は三ツ矢サイダークラシックばかり飲んでいた。「今木さんそれ好きですよね」「いや。別に好きではない。不味い。ただなぜか買ってしまうだけ」「それを好きというんです」そんな会話を交わしたけれど、僕が言われた言葉はむしろ僕が言いそうなことだった。

 たとえばCLAMP『東京BABYLON』には、あたかも好きなように振る舞うことによって、何か「内的な実感」を得ようとした男が出てくる。彼は結局、勝手に失望して、それまでの関係をぶちこわしにしてしまう。馬鹿だと思う。実感なんてなくてもどうということはないのに。ウィトゲンシュタインの入門書くらいは読んでおくべきだったね。

 『月姫』で志貴は琥珀さんに「無理して笑っていることはない」なんていうけれど、僕としては、もし楽しそうに振る舞えているのならあなたは端的に楽しいのだしそれが本当のあなたなんだ、といいたかった。でなければそうは振る舞えないはずだ、というのではなしに、それは単なる定義だ。

 あたかも好きなように振る舞うことと、実際に好きであることは同値でなければならない。

 逆にいえば志貴がしきりに「自分はほんとうは誰が好きなのか」と自問するのが僕にはいささか不可解で、「本当に好き」というものがあるとしたら、自分の内的な実感ではなく振る舞いの中にこそあるように思うけれども。もちろん、いわゆる無意識のことをいっているのではない。意図的とか無意識的とかそういった問題ではない。


 「つまり問題は「自分が話すのを聞く」ということにあってね。(自分が言っていることを自分が)聞いてしまわなければ、「意味」も「意図」も存在しないはずなんです。人はつねに「思いもよらぬこと」(これ修辞ではなく字義通り)を言ったり書いたりするので、それを聞いたあと読んだあとで意味や意図を発明するのだ。正常とはつまり言っちまったことを「意味」や「意図」の側に回収する能力のことで。能力というか、回収率が高い状態であって」
 「やっぱり言う前には「言いたいこと」があるような気がしますが、存在すると言い切れるのはせいぜい「何かを言いたい衝動」でしかなく、それは言った内容とはまた別で。何かを言って満足したからといって別に「言いたい何かを言った」といえるわけじゃなくて。衝動の満足と内容表現の実現は全然別の事態だし」
 「つまり、ひとは単にそうするのであって(言ったり書いたりすることも含めて)、その背後には何も隠されていない」
 原因なり意図なりは事後的なフィクションでしかありません。しかしこれは、人間が勝手にこしらえたもの、という意味ではありません。人間は自由にフィクションを作ることはできないし、またフィクションが生まれ出るのを止めることもできません。もちろん、「おまえ、それはただのフィクションなんだから、目を覚ませよ」なんて言ったって、無意味です」
 「それがただの「思いこみ」だとしても、たとえば木や石と同じくらいには厄介な実在物ではあります。木や石に「消えてくれ」と願っても消えてくれないように、幽霊もまた「消えてくれ」と願っただけでは消えてくれない」
 「要するに私は――」


 11/Feb/2002


 まあ僕が目論んでいるのはどちらかといえば分類であって評価は2の次なのですが。『このちゃ』なら桑田乃梨子やらSo What?のファンに薦めることもあるいは可能だけど、『家族計画』は少女マンガに散見される疑似家族的なモチーフとはどうやら異質でありむしろTVドラマに近い、ということが肝要なので、ことさらに肯定否定を言い立てることにさして興味はない。
 それはそうと、ついでだから言ってしまうと、
 加奈はともかく、AIRを「花王愛の劇場」と評するのは大いに疑問があるわけです。
 対抗上、むしろ小津である、といってみる。少なくとも同程度にはいえると思う。僕としては相手の主張を無効化したいだけであり、自分の主張が認められるかどうかはそんなに興味ないってことですが。

「小津作品の人物達は、どこか自足しています。外側の人間(環境)との葛藤関係と云うのではなく、彼ら自身の中にドラマを内包し、彼ら自身だけで充分美しいのです。
 (中略)
 やさしく、あたたかく扱われたいという彼らの願いを、息子や娘たちは無惨に裏切りますが、彼らは決してその不満を直接に相手にぶつけようとはしません。
 それによって相手を自分の思うように変えようとするほど不遜ではないのです。
 (中略)
 このために、小津映画では、しばしば主人公がスライドするような感じを受けます。
 主人公の耐えるドラマの質と、脇役の耐えるドラマの質が全く同じものであるために、脇役がしばしば主人公のように見えたりするのです」(川辺一外「シナリオ創作演習十二講」)

 晴子は勝手に出ていって勝手に母になったし、往人は勝手に消えてしまったし、観鈴は勝手に自分で決めたゴールへと消えます。また、晴子は第一に観鈴の実の母親でもないし、第二に「育ての親」としての愛情も意図的に遮断した状態で一緒に暮らしてきた人でもある。
 観鈴の自足ぶりについてはもはや何をか言わんやです。
 東浩紀は「母と子の心の交流が描かれる」なんて総括したけれど、フェイクとしての「母と子」の、むしろ断絶とモノローグばかりが目につくそれを、そんな風に総括するのは、あまりに粗雑ないいようです。
 観鈴が「ゴール」できたのは晴子がいたおかげだけれど、しかしそれは晴子の思いの内容とは関係がない。そこには相互理解も意志疎通もありはしない。「母よ子よ」という相互的な呼びあいは一瞬しか成立しないし、家族愛というならいったいその言葉が何を指しているのか僕には理解不能でさえある。そこにあるとしたら、理解や意志疎通などなくとも、そのひとが「いる」ということそのものが支えになる、という希望くらいしか思いつかない。これは「誤解をこえてわかりあう」という、あの馴染みの感動的なドラマともまた異質だ。
 僕は花王愛の劇場やらソープオペラやらについて何も知りませんけど、大衆娯楽である以上はたぶん、家族の欠如とその回復、という物語をなぞっていることであろう。多くはその「欠如」は、かつて家族に自然に存在したはずのものの回復であろう。AIRのように、ほぼ何もないところからすべてを意図的に構築し獲得するようなもの、あからさまにアータフィシャルな本質をちらつかせるものではないであろう。それではあまりお茶の間の共感は得られそうにない。
 また、観鈴は勝手にゴールしてしまい、残された晴子はただ、かけがえのないものの欠如に耐えて生きるほかない。
 物語の類型は家族の回復を志向するけれど、小津作品はむしろ「欠如に耐える」ことを志向する、という話がここに載ってたので。


 10/Feb/2002


 家族についての補遺。
 死エロの1/28

 僕が家族という言葉から思い浮かべるのは関係の絶対先行性というやつで、要するに関係のないところに苦悩はない。関係に思い悩むというのは関係があるということです。僕にとって家族とはそういうものであり、それを友人とよぼうと恋人とよぼうと別に構わない。ただまま友人や恋人というものが獲得の対象となり獲得の経緯が内面化されるに対して家族はそのへんを「相手を選べないという家族の偶発性」が寄せ付けないわけで、そこが家族モノの肝だと思うわけです。だからAIRなんかだと「DREAM」は家族ものとしてわりと普通に読める。双方ともにおっかなびっくり(あるいは腫れ物に触るようにという形容も可能か)、それでも同じ空間を共有する。これが「AIR」になるとちょっと厳しくなる。獲得の対象となっちゃうからね。

 これがわりと家族計画にもあてはまる気がするわけで。
 あと、左大臣某氏のコレに若干の影響を。言葉づかいとか(ぉ
 『家族計画』は「にせもの」からはじめてはいるけれど結局は「本来ならば血縁家族によって得られるはずのもの」が失われている、という言い方になってしまう。たまたま家庭環境に恵まれなかった、というだけの話で終わらせていて、家族が家族として在ることがすでに根源的な禍悪なのだ、といった視点はみあたらないように思う。いや、Kanonにそれがあるとも言い切れないけれど。核家族の弊害とかちょろっと出てくる程度ですかね。

 わりと象徴的なこととして、AIRではカラスは空に消えるけれど、家族計画では大地に葬られる、という対比があって、横山潤さんのコレを思い出したりなんかした。


 9/Feb/2002


 家族計画ぐる、の収穫その2。

雪駄さんとこの掲示板より、11番目の猫さんの投稿。

名作、と評価するべきなんだろうけど(多分反語的疑問形) 投稿者:11番目の猫 - 2001/12/28(Fri) 15:09:51

えーと、真純さんを残して4人クリアー。
ちなみに春花->準->茉利->青葉という順番だったり。
このゲームが妙に高評価な理由を考えてみたり。
一言でいえば凡、なんだろうかとか言ってみる。
愛された記憶をみつけることができました。
愛する人をみつけることができました。
――絆ができました。
なんの捻りもない、これはただそれだけの話。
多分、この国に住む人達の大部分にとってこれはひどく自然なプロセスなのだと思う。
あまりに自然過ぎて疑問を挿む余地も無いほど心地よい、それだけの話。
愛された記憶はたくさんあると思います。
愛した記憶はほとんどないような気がします。
愛された記憶が愛することの理由にならなかった人にとってこのお話は。
とてもひどい話、なんじゃないかと思うんです。
あんま、り、幸せそうな顔をされ、たから。
わたしまでそれがさも自然なことのような気がしてしまったじゃありませか――



 そういう「自然」さに疎外された場所から発言している、という意味では11番目の猫さんには共鳴しますね。ラスト4行はなんかもー萌えます。 僕はその「自然」さに包囲されて息苦しさを感じている人間である、ということにしておきます。まあ、憧れることも好きになることもたぶん僕には可能な作品なんだけど、素で共感はできない。
 たとえば宮迫千鶴が苦しんだのは、何より、そうあることが「自然」な「健全な家族」という観念によってであるわけで。多くの人々の「自然な」感じ方に包囲され追い詰められる、ということがありうるのだし、奇妙な「家族ならざる家族」という主題のフィクションが存在するとしたら、世の中に流通している価値観や正しいとされる感じ方やらに追い詰められつつある人々のためであったはずなのだけれど。
 それが「たまたまひどい家庭環境にあっただけ」であり、結局は「健全な家族」の模倣と再生産に終わるようであっては、どうも個人的に後味がよろしくないのです。
 少女マンガにしろ鍵ゲーにしろ、あまり健全な家族を模倣していないのが一つの特徴だと思うのです。よくいわれるように鍵ゲーには父性が欠如しているそうだし。しかしことさらに「欠如」を言い立てることは、「健全さ」を無条件に前提しすぎよう。


 7/Feb/2002


 家族計画の感想を探しているうちにMK2氏の「加奈」感想のことをふと思い出して探してリンク貼ったわけですが。読めば読むほど今木としては書くことがなくなる。個人的にこれは相当に幸せなことなんですが。
 つうか「加奈」の話なのに家族計画にもあんまりにもあてはまるので少し驚いたり。まあ同じ脚本家だから当り前っちゃあ当り前なんですが。


……主な傾向は二つ。
 ひとつ。感動。もう感動。泣く。今年のベストゲーム。
 もうひとつ。確かによくできてる。が、騙されないぞ。


 このへんからして既に、自分の反応が予言されてるみたいで。てかその総括のしかたはあまりにうまい。

 『家族計画』は感動モノとしてのパーツはともかく、構成とコンセプトにややばらつきがあって「よくできてる」とはいいにくいけど。まあ、そういう高度なケチのつけかたができるエロゲーがそもそも少ないですけどね。


 えーさて今木という人は同居モノとか疑似家族とかそういうのが相当に好きです。奇妙なめぐりあわせでなぜか一緒に暮らす羽目になって、ぎこちなく対人距離を測ったり、というか測らざるをえなくなったり、まあそんなのは大好きだ。望むと望まざるとにかかわらず同じ空間を共有し、おっかなびっくりに触れ合うあの感じ。あとお風呂でバッタリ。

 実際『家族計画』という作品は、そのへんに関しては相当にうまい。いちいち書きませんが、たとえば、家族を演じるようになるなりゆきは文句のつけようがない。(あくまでフィクション上の)説得力と娯楽性をハイレベルで兼ね備えている。とにかく、一人ずつ増えていくのも、そうなってしまう奇妙さも、読んでて楽しくてしょうがないわけです。で、一緒に暮らしてゆく上でのぎこちなさとか、そのへんもいい。安易に馴れ合わないし、馴染めない奴は馴染めない。キャラはあくまでそのキャラらしく、それぞれの事情がたまたま交差した結果であり、それぞれちゃんと別の思惑と感じ方を抱えている。これは当り前のことだけど、ちゃんとなされているのは気持ちいい。

 描写の文章も相当にまともで、せいぜい時たまおかしな日本語が出てくる程度である。ほんとうにたまに。


 で、今木は疑似家族モノが好きであり、とりわけ連中にとってのその場所が、あらかじめ失われた故郷=家庭の再現前として機能しはじめたりすると、これはもう相当に楽園なわけです。MOON.の少年との暮らしとかKanonでの舞と佐祐理さんと弁当とかAIRの遠野さんとの駅前とか。あのへんだけで今木はわりと壊れるわけですが。しかし家族計画はどうもそういうのではない。なんか、どうにかしてそういう部分を描写しようとはしてるらしいんだけど(夏祭とか停電とか)、どうも板についてない、ってのはまあ単なる印象論ですけど。


 6/Feb/2002


 家族計画コンプ。とりあえず前言は撤回したく。かくも凡庸で制度的で俗情と結託することしか知らず最大公約数的な価値観に迎合するばかりの内容を俗耳に入りやすい美辞麗句で飾り立てただけの代物を少女マンガにたとえてしまったことを激しく後悔中。
 あーもちろん娯楽としてよくできてるとか職人芸とかいった褒め方もできるわけですが。オリンピックやプロジェクトXに感動するような連中はやってろ。ついでに相田みつをでも読んでりゃいいんだ。やさぐれモード。
 「加奈」がつまるところ「妹モノでお涙頂戴」というニーズを忠実に満たすだけの職人芸であったのであれば(扱うネタに対して誠実と評してよいレベルではあるが)、この作品もまた、一般流通している感性と価値観に能う限り寄り添ってみせるばかりであったとしても、それは裏切りを意味しないのだ。

 MK2のひとの加奈の感想にリンク。言いたいことは既に言われてしまっている。加奈についての話なのにまんま家族計画にあてはまってしまうあたり、これが洞察力というものか、である。

 個人的には、脚本家の抱えているもの、というよりは、アンテナの向きと感度の差であるような気がしますが。



 登場人物はなんつうか健全である。健全ってのはたとえばトラウマ持ちであろうとそうでなかろうと、彼らの抱えているモノが、現実に基盤を持ち現実的な条件に回収可能である、ということですが。つまり因果が説明できてしまう。そしてこれは、話せばひとが耳を傾けてくれる、ということでもある。絵になる悲劇と受難の構図。誰にも了解可能な、公共的な感情と正義感のバックアップを受け、私的なもの、つまり交換価値に乏しいものは消されてしまう。

 フェイクでしかない、あるはずのない家族のなかで、いやおうなく重ねられる時間が、望むと望まざるとにかかわらずかれらを変えてゆくのを期待していた。けれど、多くのシナリオにおいては、愛することを「学ぶ」かわりに、過去の原因に遡って「解決」してしまう。その日々から何かを得るのではなく、ただ問題を「解消」してしまう。

 2chで「ラストだけで帳尻合わせてる」って意見を見かけたが、そう言われても仕方ないだろう。まあユーザーってのは各キャラ専用ルートの最後のへんだけリプレイする傾向にあるから、そういうやりかたで正解っちゃあそうなんだが、それで済んでしまう作品とは何なのか、といいたくもなる。

 序盤から中盤は、奇妙さと緊張感にあふれる非常に面白い代物であっただけに、ラストは残念といっていい。まあ、落とすべき所に落とす、というだけで、決してこの作品の「結論」じみたものとして受け取らなければいいだけの話だが。

 しかし、どいつもこいつも無自覚無批判無思考なヤカラに堕してゆくのは、どうもつらい。美しくない。じゃあどういうのが美しくないといった手前、どういうのが美しいのかいわなきゃならんわけですが、例えば小津。これは某氏のメールからの孫引きですが、

「小津作品の人物達は、どこか自足しています。外側の人間(環境)との葛藤関係と云うのではなく、彼ら自身の中にドラマを内包し、彼ら自身だけで充分美しいのです。
 (中略)
 やさしく、あたたかく扱われたいという彼らの願いを、息子や娘たちは無惨に裏切りますが、彼らは決してその不満を直接に相手にぶつけようとはしません。
 それによって相手を自分の思うように変えようとするほど不遜ではないのです。
 (中略)
 このために、小津映画では、しばしば主人公がスライドするような感じを受けます。
 主人公の耐えるドラマの質と、脇役の耐えるドラマの質が全く同じものであるために、脇役がしばしば主人公のように見えたりするのです」(川辺一外「シナリオ創作演習十二講」)

 「AIR」(SUMMER篇は忘れた)とか、あと「このちゃ」(苑生さんしか知らないけど)には、何かそういうところがあったように思う。

 某氏のメールつづき。

> 「人は孤独では生きられない」とは昨今はやりのフレーズですが、「だから一緒に
>生きていこう」というフレーズがセットになってついてくるのに、どうしても違和感
>があるんですよ。
>それって下手すりゃファシズムですよ。「一人になるのが嫌ならちったあ我慢しろ」
>という発想は、俺が一番受け付けないものであってね。秋山瑞人はたまにヤバイと思
>う。
> 麻枝准のキャラクターは個人である事を徹底している。だからこそ他人を(平然と
>自己を犠牲にしてしまうくらいに)思い入れることが可能なのである。

 まあ春花は最後までそういうキャラではあるが。真純もかな。
 だけれどもキャラはともかく、個人であることを徹底していることと、他人に思い入れることが、あたかも矛盾するかのように語られてしまう。司は凄い勢いで干渉するし、ドラマはそういう風にしか仕立てられていない。

 司が「所詮は他人同士か」とか言ってるとき、僕は逆に、そうあるべきだし、そうである上にしか人と人との関わりなんて築くべきではないと思ってしまうのであるが。他人に求めるより先に自分に向き合ってみてくれ頼むから、というか。端的に自分を見失ってるだけじゃないか。もちろん、自分よりは他人や現実の側に変化を求めるのは健全なのかもしれないけれど。同じことだが、不幸に原因があり取り除かれれば幸せになる、というのは前向きであるかもしれないけれど。しかしそれはつまるところ、悪いのは自分じゃなくて周りだ、と主張してばかりいるような気まずさがある。
 かれらはつまるところ罪も責任もないイノセンスであるのだ。


 市場原理が支配的になると、そしてなおかつ不況で苦しかったりすると、共同体的なものに人はすがろうとしますよね。利益追及以外の規範でなんとかならないかなーと思うわけです。
てか経済的に困窮して人と人とのつながりを、つまりはそれによる無償の労働を求める、というのはまんま「家族計画」ですが。準が金を請求するとこれはいけないことになるわけです。家族のためだから無償奉仕が当り前だと司は怒るわけです。いや、こういう相対化をやっておかないと落ち着かなくて。感動は危険だ。とりわけ、あまりに自然で疑問を差し挟むことを許さないたぐいのそれは。

 たぶん不可避的に「AIR」と比較されると思うんだけれど、現にされてるつうか僕が今してるんだけど、メッセージとしては正反対だと思うんです。AIRはほとんど「孤立せよ」だけれど、「家族計画」は「人は一人では生きられない」なので。本編中では、「一人でも生きてゆくことはできるけれど、それでは生きてゆくことしかできない」、といったフレーズになってるけれど、結局は、ただ生きているだけではほんとうに生きているとはいえない、ということにすぎない。同じことです。一人では生きられない、とはもともとそういう意味だろうに。小細工を弄しおって。
 まあこれに限らず余りに異質なので、ネタしか共通するものがないっつーか。だからこそ比較してみる、というのも手でしょうけど。


 5/Feb/2002


 家族計画春花。
 今はただ、ありがとう、と。いいお話でした。
 今回はあまり気持ち悪くならなかった。たぶん春花が終始「家族」なんて概念を見ていなくて、司という具体的な相手だけを見ていたせいだろう。
 彼女は「自分の居場所」なんて求めない。家族なんて言葉は彼女には無意味だ。高屋敷家を自分の家だなんて少しも思ってない。いつかは自分の国に帰るのが当り前、そういう笑顔で、だから見ていて淋しくなる。
 だから彼女には、自分のために何かを欲することを教えなきゃならない。まったく、手のかかる子だ。

 最後、たしかセーラームーンR劇場版で、「家族」という言葉がこんな意味で使われていたと思うのだけれど、そのせいで家族という言葉は今はそこまで嫌いじゃないのだけれど、まあだからどうってわけでもないですが、思い出したので書いておく。


 4/Feb/2002


 家族計画末莉。こいつは危険だ。細胞が察した。貴様のようなことを言うやつがもっとも危険だ、私は決して気をゆるめない(抵抗)。ああダメだこいつほっといたらぜってー死ぬ!(陥落)
 たしかにこいつは魔性の女でありファムファタルでありリトル・シャンブロオだ。青葉お姉様のおっしゃることはお姉様だけに正しい。
 ニセ本田透、という話を聞いていたが、この作品の本田透はむしろ司か春花だと見切っていたので、そういう気はしない。つうか、透君はそんな風に主張してくれないので困る。
 実のところ終わり方は少し気持ち悪いのだけれど。

 青葉。「お姉様でもいいわよ」「お姉様命令」。実は弟欲しかったとか? どうも年長者のくせにかわいすぎる。おなかすいたから何か作って、の一言がどうしても言えず、なにやら不機嫌そうに物をぶつけたり足を引っかけたりする。
 噛っ……噛むしよォ……

 過去は裏切らない、彼女はそう言う。未来よりも現在よりも、確かに幸せだった過去がはるかに大事だと。現在と未来に幸せを求めない限りにおいて、あの永遠の罠をまぬかれている。
過去の幸せが終わったものであると認識しており、現在や未来において再現する意志もないから。彼女は健全で、正しい。
 家族計画崩壊途上の彼女の行動は実に共感できるし、司や末莉は僕にはむしろ理解できない嫌悪の対象であった、とは言っておく。青葉の言っていることはいちいちもっともだし、そもそも説明している点で必要以上に律義でさえある。まあ、いいやつなので。
 ひとつ、彼女が忘れていることがある。人は記録ではなく記憶でできている、ということだ。
 彼女は幼い、ということにしたい。
 とある新聞の投書だかなんだかのネタなのだが、自分の血液型を勘違いしていた人がいて、本当の血液型を知ってから性格が変わった、という笑い話がある。客観的な事実にもとづいて自己を決定する滑稽さはこのへんに出ている。『炎の転校生』の伊吹三郎において、この滑稽さは十全に描かれている。
 だが、重要なのは司のストーリーテラーとしての有能さであって(ほかにも無数の可能な結論があったはずだ)、事実としての裏付けは後から得られたものにすぎない、ということは言っておかなくてはならない。彼はその証拠を捏造してもよかったはずだ。そう考えなくては、ぼくはこれを受け入れられない、というだけの話だが。
 まあ、たとえば、あずみ椋『ミステリオン』とか、柳原望「ひまわりの記憶<>録」のほうが、ぼくの好みには合う、というだけの話なんだけど。
 客観的な事実の裏付けがなければ人が幸せになれないとしたら、そのほうが間違っていると思うさ。人が幸せになる根拠なんて、ウソや口から出まかせや受け売りの言葉(『水素』の先輩シナリオとか)で充分なはずだ。
 だが、仕方ないとも思う。大切な記憶がほんとうにそれしかないとしたら、どうしても絶対的に確かなものでなくちゃならない。
 どのみちケースバイケースなんだけど。
 


 3/Feb/2002


 家族計画、準ED。

 「愛すべきワンパターン」(元長柾木)。ストーリーなぞ存在すればよいので、要は女の子が幸せになればいいのです。過去のトラウマが云々なぞ飾りですそんなものなくても準の魅力は100パーセント発揮できます偉い人にはそれがわからんのです。

 つうか、ダメだこいつ可愛い。

 どっかのサイトで見かけた話なのだが、たとえば本当の負けず嫌いというのは、そもそも滅多に勝負をしない。負けることが何より嫌だから、負ける可能性がわずかでもある局面をあらかじめ避ける。見かけは平和的な人間に見えるだろう。
 鉄面皮というのは、だから感情をおもてに表さない術にたけているわけでもなきゃ、感情そのものを抑えるのがうまいわけでもない。自分の感情が動かされそうな局面をあたうかぎり避けるためにそう見える、というわけ。だから、予想外のできごとに会うとけっこう脆い。司が準を一方で鉄面皮と評しつつ他方では「本当は気が弱いくせに」なんて言うのはそういうことだ。
 そして彼女はいまや、継続的な状況そのものが予想外、という状態にある。可愛いところ見せまくりである。ずるいよそれ。

 だからあなたはなぜそこで取り残された子供のような顔をしますか。今にも泣きだしそうな、なんて書かれたら嫌でも気になるじゃないですか。

 人と話すの苦手。人と一緒にいるのも苦手。割り当てられた部屋を一瞬で自分の色に染めて(ようするに散らかして)しまう、という防衛反応はよくわかる。でも、人間ぎらいというのとはちょっと違う。他人が苦手というか、なんでもないことにいちいち面食らってしまう。らしい。妙なところで義理堅い。「猫背直せよ」と言われると思わず素直に背筋を伸ばしてしまう(でもすぐ元にもどる)。とにかく不意打ちに弱い。何も期待しないことに馴れすぎているせいだろうか。

 木っ……木に登るしよォ……。

「わたし……」
「食事……ずれてるし……話すの、あまり得意じゃないし……」
「ドライかもしれないし……みんなと同じところで笑えないし……」
「何か、人として大切なものが欠けてるって……言われたことあるし……」

 そういうことを真面目に気にするあたり、涙が出るほどいいやつだと思う。過去のトラウマ云々よりは、そういう日常的で些細な傷のほうが余程、彼女を規定していて重要だ。


"家族計画"(D.O.) 2/Feb/2002


 たとえばMOON.で僕が最初につかまれたのは、特製クリームシチューのくだりだった。そこには作為があったから。意図があり意識があり、つまり不自然だった。
 思い出すのは押上美猫『伝説の国王をさがせ!』の母親で、彼女はコロッケばかりつくる。息子はコロッケは嫌いである。彼女もそれを知っている。べつに嫌がらせではなく。そしてもちろん、いわゆる本当の母親ではない。物語上の因果を説明するのは省く。
 その母親は、子供がいつかいなくなることを知っているので、「コロッケばっかり作っている母親」として記憶されることを企図しているのだ。いつも息子の嫌いなコロッケをつくって、いつも息子に文句を言われる母親。そんな反復を積み重ねることで、記憶という呪いをかけていく。
 むろん彼女が「自然な絆」を信じていないせいである。血がつながっているかどうかという事実はあまり関係ないし、「いっしょに暮らしている」ということも、それだけでは何の保証にもならない。だが息子のほうは望むと望まざるとにかかわらず記憶してしまうだろう。それこそ自然に。

 何が書きたいのか忘れてしまった。霞ちゃん特製血の池地獄シチュー。


 1/Feb/2002


もどる