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らじさんとこに、アベノ橋で『「晴明」を「清明」と誤記』とあったのですが、誤記なんですか? なんかどっちもありだったような気が。昔の人名って複数の表記や読み方が存在することが多いし。たしか夢枕獏の平成講釈の最初のへんで、どっちの表記を採用するか語り手が悩む一幕があったような。あと『陰陽ノ京』の作者の人も悩まれたらしい
 現代でも例えばペンネームだと複数表記はありふれていますけど。
 そんなわけで当然杉崎ゆきるであるところのスギサキユキル『りぜるまいん』。アニメは見てませんが。なんか田丸浩志氏絶賛(?)らしいし。ああ、まいんって地雷だったのね。
 押しかけ幼な妻ラブストーリー。主人公は年上にしか興味がない。なにかと抱きついて来るのを掴んでは投げる。いや、だから投げるんだってば。これ考えたの誰ですか。なんか妙にいい感じなんですけど。あと、ふつつかものスキーな三千院くんは当然チェックしてるよね。

失恋したはずのこの日 正直な話 失恋したことさえ思い出しもしなかった
 そんなわけでこれは「いい話」である。僕はいい話を決して嫌いじゃない。ストレートにやられると苦手なだけでさ。奇妙なあるいは冗談のような話であってくれると助かる。予想を裏切られたときに人はリアルを感じるものだとすれば、いい話というのは設定からすればむしろ唐突に出て来るほうがシンクロはしやすい。それはそれでひとつのパターンであるが、冗談のように語られる話、のほうがたぶん親切でもあり誠実でもあるのだ。自分にとって重くシリアスなことが相手にとってもそうであるとは限らないから、ってのはむろん理論武装である。こういうのは押しかけた方が勝つものと相場は決まっていて安心して読める。

 (人間的な)欲望はひとつのストーリーであるから、むしろそこには欲望は存在せず、単なる要素(形式)への反応である(動物的)欲求が存在するだけである。押しかけ女房のパターンに萌えるのは、「俺も女の子に押しかけてきてもらいてえ」なんて欲望を持っているからではなく、認識されたパターンに神経が反応するからにすぎない。
 あるいはこう言ってもいい。これは祭礼のシキタリみたいなもので、べつに理由もなく存続しつづけるし、せいぜいが存在し続けることそのものが人々の欲望のめざすところになっているので、内実や意味や本質に関する議論は的外れである。むろんこのことは、新たな(本質的な)魅力がそのつど発見されることを妨げるものではないけれど。
 というのは『後宮小説』読みながらなんとなく考えたんだけどさ。お約束はお約束であるがゆえに愛されるので、その本質がオタクの欲望を反映しているから、などという説明は間違いではないにしろ不要である。もちろん選択は働いているのだが、これもせいぜい神経がそう反応しやすいよう訓練されているから、というだけのことでしかない。つうか何かといえば「オタクの心性」(さもなきゃ作り手のそれ)から説明しようとするのは素朴にすぎるのである。人の心のほかに自律的に動くものはないとでも思うてか。東浩紀はやはりマトモな頭をしている。というより、あまりに自明なのでわざわざ理論化する必要さえない、というのが現役のオタクのみなさんの実情であろうかと思うが。

(Wednesday, 10-Apr-2002)


東浩紀のeメール時評第2回
 実際のところ、家庭内暴力はともかく幼児虐待については腐るほど物語化されているとは思うけれど「物語化しにくく、語りにくい」ものを指向する点に好意的、という部分には共鳴。東浩紀としては複数性のほうが重要かもしれないけど。
 小さな複数の外傷をひとつひとつ処理する作業、とか読んでるとMINMES/ELPODみたいなのが浮かんできて非常にアレなのですが。MOON.については、わりと些細な傷/感情が主題化されている点がいっちゃあなんだが面白かった。もちろん麻枝准は親切に「母親の死」というわかりやすい中心にそれらの傷が集約されるように手配してくれているわけですが。ONEでも似たような手を使ってますね。「永遠の世界」の描写のいくつかは、妹の死という契機では説明しがたいのだが、さしあたって受け手としては安心する。Kanon/AIRでは近親の死という劇的な契機が抜けて、ややわかりにくくなる。舞シナリオだって、舞の母親の死よりは小さな嘘のほうだろう。
 まあToHeartがすでに、劇的なイヴェントよりは何気なく反復される日常の幸福と快楽((c)astazapote)をこそ主題化していたわけだけど。ちょっと前まで世界からの疎外だの父と子だのやってたとは思えぬ変わり身の速さはさすが高橋龍也ですね。

 内田師の日記1/21前半。まあ、そういうことなんだけれど。
最初からこんな風に言えばよかった、と思わなくもない。今木の9/10あたりの話。

 そんなわけで、腰を痛めて剣道を辞めた少女にも王子様を夢見る権利はあるし、他人には言えない趣味(ゴムが好きとか)に悩む青少年にも、片思いに悩むくらいのことは許されてしかるべきだ。冬だというのに雨ばかりのときはONEを思う。

 たとえば小谷野敦を僕はそういう文脈で読んでいて、もてない男とか軟弱者の言い分とか男の恋とか、そういうタイトルの本を存在せしめただけで、僕は評価するにやぶさかではありません。
 もう一人あげるなら滝本竜彦。これは『NHKにようこそ!』を一読すれば説明不要だと思う。どうしようもなく絵にならなく、かっこわるく、まっとうな理由なんてない苦しみ、物語化されない、なんかそういうの。

 それとは裏腹に、といっていいのかどうか知らないけど、エロゲーはたぶん、物語化しやすく語りやすいものを語るか、さもなくば最初から物語化を放棄するか、という二極に流れているし、あるいは、わかりやすい物語をとりあえずの符丁のように提示することによってその場限りの牽引力を維持することを繰り返すかもしれない。まあ腐り姫の前半に感じたのはそういう匂いでもあるんですけど。
 CLANNADもたぶんわかりやすくユーザーを満足させる方向に行くんだろうな、と予測されるので(昔の電撃姫のインタビューとかみるに)、もひとつ興味が持てなかったりします。

(Tuesday, 9-Apr-2002)


ライアーソフト『腐り姫』の感想などを。なんか書けって電波が飛んできたので(妄想)。

 はじめにいっておけばライアーはあまり好きじゃない。それは、どうにも連中が80年代的に感じられるから、80年代のあまりに無邪気な反復に見えるからだ。といっても君にはわからないだろうけど。たとえばナデシコの屈折ぶりは平気というかまあ好きなのだが、トップをねらえ!の無邪気さは見るに耐えない、と言って、君に理解できるだろうか? いかにパロディや皮肉に満ちていても、無邪気であることにはかわりない。子供が教科書の似顔絵に落書きするようなものだ。どれほど手が込んでいようと。まあ、作品が批評的な自意識を備えてなければならないということはべつにないし、単なる好みの問題であるわけですが。

 で腐り姫。結論からいうと「このオールドタイプが」なので、読者諸兄におかれましては、以下読むかどうかはその、お察し下さい。実際は割とアンビバレントなんだけど、0か1かと訊かれたら0と答えます。

 前半。いかにも人間らしく悩んでみせる連中を見てると心底どうでもよくなってきて困る。現代人のリアルはむしろ、絵にならない話にもならない悩みであって、はっきりとした「理由」がないことであるはずだ。いいかげん絵になるトラウマはやめにしないか。妹がUFOにさらわれたってのがなんぼかマシじゃよ。
 後半。まあ『手天童子』とか『アンドロメダ・ストーリーズ』あたりと同時代の作品だと思ってプレイすればどうってこたない。いまどきこんなのバロン・ゴングくらいだろう。80年代のOVAはそこより退化するわけだけど。いちばん類似した設定はたぶん星野架名のどれかだと思う。これをSFなんて言ったらお母さん許しませんよ。
 全体に、日常的なシーンはうまいんだけど、多少幻想的になると途端にどうしようもなく陳腐かわざとらしくなる。あたしゃ冒頭の水面から浮いてたり爪がああだったりする絵ですでに引きまくりでした。中学生が書いた小説みたいだゾ!

 循環モノというのはつまり脱出モノの一種で、どうしても外へ出なければという苛立ちと焦燥と徒労と閉塞感がモチベーションを支えるのだと思うのだが、当初はわりと漫然と繰り返されていく。主人公がどうしたいのか、何を感じているのか、という部分がいささかないがしろにされているように思う。つうかこれ、循環モノであるにもかかわらずそこから脱出することが目的じゃないんだわ。徐々に浮かび上がってくるのは、たとえば大切な人を失いたくない、という動機であって、これは「循環」というモチーフと微妙にリンクしそこねている気がするのな。どうも全体に、ネタ出しだけの詰め込みすぎ、な、要は散漫な作品なんだけどさ。
 あと、とりあえずセックスしとけば形がつく、みたいにオチがついてケリをつけていくのはどうかと。各シナリオ。

 それとこれ、あんまり腐ってない気が。甘い腐臭といくら書かれても。たとえば栗本薫『黒船屋の女』の腐りっぷりとかに比して。

 さんざ悪口を書いたが、必ずしも欠点とは言い難い面もある。たとえば前半の「人間的な」悩みはいかにも劇的に語られはするけれど、しかし結局、何者でもない。しいていえば何かのための道具にすぎない。どんな特権性も与えられていない。
 そしてまた、この世界に未来はない。「その先」はない。「脱出」なんてどこにもない。意志による選択は何にもなりはしない。そのことは僕は評価するし好意的でもある。なにもかもがすでに終わっているのだ。
 気に入らないのはトゥルーエンドで、ああいう連中のくせにああも「人間的」な感性を最後まで保護されたままだと、それでもどこか釈然としないのさな。かれらを待ち受ける運命がなんであろうと、そう感じ意志することが許されっぱなしってのは、いまいましくさえある。どうも前段と矛盾するようだけれど、結果の如何はともかく、意志そのものには地位を認めている気がするのでね。

 なんつうか『嬌烙の館』以前に出しておくべき作品だと思ったっス。あれはやりすぎなんですが。

(Monday, 8-Apr-2002)


小谷野敦『軟弱者の言い分』。ドストエフスキーについての文章を立ち読み。『罪と罰』と漱石の『行人』は煎じ詰めれば似たようなテーマを語っているのだが、リアリティを感じるのは漱石の方である、と。要するにラスコーリニコフは他人に何くれと気をかけてもらえるし、どういうわけか周囲の人間は彼の考えていることにやたらと興味ありげである。語れば耳を傾けてくれるだろう。どうもこれは都合が良すぎるのである。あと女の子も最後までついてくるし。
 暗夜行路にも似たような不満を抱いたそうで、中村光夫の批判(時任謙作まかりとおる)は正しいという。要するに主人公が甘やかされすぎている、という話なんだろう。

 で、ドストエフスキーが日本人に人気があるのは、男が悩んでいると女とか周囲の人間がやって来てなんとかしてくれる、とりあえず興味はもってくれる、という構図のせいなんじゃないかとか、そんな話。

 漱石の作品は読んでいて、なんつうかよそよそしい印象を受けることが多い。自分の感じたり考えたりしていることに他人はべつだん興味も関心も抱いていない、というのが基本的なリアリティである。あるいは、そうしようと思っても遅れる。「こころ」の先生とのあいだにさえ、交流よりも隔絶を感じることがきっと多いはずだ。遅れてきた手紙だけがそれを可能にする。坊ちゃんと清だって、坊ちゃんが気付くのはすでにどうしようもなく手遅れになってからだろう。じっさいあれはガキの頃読むと清は気味がわるいだけだった。まあそれはともかく。

 他人がどれだけ自分をかまってくれるか、なんてのはまあ土地柄とかお国柄みたいなもので、必ずしも世界観とまでいかない。初めてギャルゲーの国に入ったときには、女の子に限らず随分と他人がかまってくれるのでひどく戸惑ったものだけれど。痕とかビ・ヨンドとかOnly Youとか。あと化石の歌もわりと決定的に違和感があったか。なんか妙に主人公、皆に気を使われてるげな雰囲気ないですか。
 まあギャルゲーのお約束といえばそうなので、意識的確信犯的にやってる分にはたとえ妹が12人いようと文句はないんですが。そもそも好意は視点人物からは唐突かつ理不尽でありうるし、である以上確率的には不可能にひとしくとも原理的な不可能性というわけではない。
 女の子のほうはまあギャルゲーのお約束として、やけに親切な男友達(Memories Offの唯笑シナリオとかやりすぎだと思う)については以前からフシギに思っていたのですが、これで少しはよってきたる所がわかったような気になりました。とさ。

 いや、久々の更新なのでうちらしい話題を。

(Sunday, 7-Apr-2002)


私はおかしな国に連れて行かれても、そこに可愛いちっちゃな女の子がいれば基本的に満足だという人間なんだ


 酒見賢一『語り手の事情』。ごめん実はまだ読んでなかった。元長柾木と区別がつきにくいので困る。メタフィクションではなく恋愛小説、とか。とりあえず語り手萌え。語り口とか。外見イメージはシャムハトになってしまう。
 酒見賢一で元長柾木といえばこのサイトですかね。

 otherwiseの新作が待ち切れない貴方に。

(Saturday, 6-Apr-2002)


私信たち。

 水路、と来れば早見裕司『夏の鬼 その他の鬼』。あと『水路の夢[ウォーターウェイ]』。小説としてどうかとかそもそも面白いかと訊かれると非常に困るのだが(公平に見れば単にイタい代物かもしれぬ)、全編に漂うホンモノのオーラに圧倒される。とりあえず、玉川上水と少女が好きすぎませんかこの作者。

 子供というのは裏道や抜け道を探すものである。さて、どぶ川というものはたいてい道に沿って流れているが、時としてただ建物と建物の間を流れ、道からは垂直の入り口というか交差口しか見えないことがある。どぶの片側は建物の背中で反対側は空き地の塀であったり。種々の事情によりそんな川の中を歩いてゆかねばならぬことがある。その時はどう見ても人が通るためとしか思えないような細長い板切れが続いていたせいだった。もちろん木道なんてものじゃなくて水没してはいるのだが、くるぶしを濡らさずに歩けそうならば歩いてしまうのが人情、そしてやがて導きの板は途切れしかし引き返すのもシャクで歩いてゆくと、やがて道の横っ腹に突き当たるわけだ。そこは思いもかけず見知った場所で、そのとき僕は、通常呼びならわす道のほかにもうひとつのネットワークを感じたものだ。いつもは何であんなに遠回りしてんだろ。見知らぬ経路で見知った場所に出るとへんな気がする。見知った場所なのにどこか違う気がする、というのではまったくなくて、そこが相変わらず見知った場所でしかないことに理不尽さを感じるのだ。そういえば子供のころは朝に目を覚ますたびに、そこが自分の家でしかないことにひどくがっかりしたものだけれど。居心地とかそういうのは関係なしに。

 松江市には堀川遊覧というのがある。堀川っつっても松江城の堀ばっかしではなく、町中至るところを流れている川である。水の都というのはえてして水は汚いので、実質はどぶ川に毛の生えた程度である。観光とか遊覧ではない。もう「探検」である。「たんけん」と平仮名で書くとだいぶノリが正確になる。当初は「こんな所に舟を通すのか」というノリであったらしい。橋の下とか大変。あと40メートルの暗渠ってどうよ。

 ところで携帯電話は持っていないのです。

 四月馬鹿という風習はすっかり失念していて、かなり焦った。むしろ妹に来てください((c)ひらしょーさん)、とかなんとか。この私が嘘をつくのに日を選ぶわけがなかろう。

(Friday, 5-Apr-2002)


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