忸怩たるループ 2002年10月
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 忘れるはずのないことを忘れる、ということはあって、例えば三浦雅士の処女評論集は「私という現象」というのですが、そのとき三浦氏は宮澤賢治の詩(「春と修羅」序)のことを忘れていたそうです。それを何度も読んでもいれば、多大な影響を自覚しさえしていたにもかかわらず。似たようなタイトルをいくつもひねった末、「これだ」と決めたあとで気付いたという。
 僕はといえば、ついでに今ごろ佐藤友哉「『世界』の終わり」が太宰の「道化の華」(あと「葉」)であることを思い出したり。をかしいか。なに、君だつて。

 25日のつづき。
 他人(他者といってもべつにかまわないが)を認識する、とはどういうことか、いかにして可能か。
 そういう問いがある。
 この問いにはふたつの意味合いがある。
 ひとつは、他人との絶望的な距離をどうやって埋めるか、ということ。もうひとつは、世界から「自分」や「他人」をどうやって分節するか、ということ。
 これを「距離」と「絶望」というコトバを使って整理すれば、「他人との距離が無限であることの絶望」と「他人との距離がゼロである(がゆえにそもそも「自分」も「他人」も存在しえない)ことの絶望」となる。「距離を作り出す」というのは僕のばあいそういうニュアンスです。位置付けるという言い方はだから正確でない。
 たとえば、自分の中にある矛盾や葛藤や二律背反の片方を誰かに投影/表象することによって、ようやく誰かとケンカしたりお話したり、そのう、手紙を書いたり、できるように思います。ちなみに、こういうことを書いている時にはおおむねシスプリのことを考えています。
 勝手な思い入れが否定されるべきだとすれば、たんに相手が拒否するからだし、あるいは幻想を愛するだけの度量がない(嬌烙の館)か、または当事者どうしの好き嫌いの問題、そんなもんです。



(Wednesday, 30-Oct-2002)

 25日の日記の最終段落というのはどうも式子の話くさい気がしてきた。書いていた当時は彼女のことは忘れていたのだけれど。



(Tuesday, 29-Oct-2002)

 26日から京都にいて、きょう戻ってきました。色々なものを観せてもらったのでしばらくは安眠できると思います。

・キングゲイナー#2〜#5
 #1先行放映を観てそれっきり、でした。つまり、「あの」OPを初めて観たのです。で、見た目のインパクトとは裏腹にむしろ「よくわかんないけど癖になる」タイプのフィルムかと。えらく気持いいです。癒されます。
 萌え所は、ゲイナー君(下の人)とサラの表情の差でしょうか。男の子はたいへん、本篇も概ねそんな感じで。ザブングルはとても好きですがいまどきザブングル程度だったら見限ろうとも思っていた、あにはからんや、復活した80年代トミノ、では済まされない突き抜けぶり。そして学園モノ。ゲイナー君はひきこもりゲーマーだそうですが、随分と正しい男の子しててよい。へなちょこだけどそこがまた。普通に女の子のことが気になったり、ちゃんと悔しがったりしてる。あと、べつにゲイナー君が操縦しなきゃいけない、という所までは追い込まれていないので、息苦しさがない。

・リピュア#1〜#4
 シスプリ分を補給しようと思ったらむしろ致死量だった、みたいな。ぴょん。
 センチメンタルジャーニーは「12都市12少女物語」でありそこには女の子の物語しか描かれないのですが、そのためにサンライズは脇役を用意しました。少女と思い出の少年の絆を直接に描くだけでなく(むしろそれよりも)、周囲の人間との関係によって描く。これは当り前の発想です。しかしシスプリにおいては、関係は兄とのそれに可能な限り純化しなければならない。かれらとは別種の思惑をぶつけてくる他者との偶然的な出会いもいなければ、思いもかけぬ外側からの視点による光学もはたらかない(意識されるかぎりでは)。そこでは偶然性が排除されている。プロミストアイランドのようないかにも人工的な、つまり誰かの意図に支配されたような世界が必要とされたのもそのためだ。これはむろん、どのような出来事が起きても兄との関係性に回収される、ということであり、起こり得る出来事そのものが支配される、というわけではない。むしろ、回収先さえ決定していれば、何が起こってもよいくらいだ。
 いや、亞里亞の話で無声映画風演出が出てきたので反射的にジャーニー#1を思い出したという。物語が少女の側にあるのは珍しくもありませんが。威力は先方が備えておればよい。

・SEED#1〜#4
 つまんにゃい。とりあえず、仮面の人が、どうえらいのかわからない。「赤い彗星」とか「ルウム戦役」とか、あるいは「陸戦用量産機でガンダムを無力化する(しかも空中戦で)」といったわかりやすさがほしい。とにかくとっかかりがなくて困る。これはあれか。高松信司/川崎ヒロユキの二の舞か。他のロボットアニメでいい仕事をしてるとガンダムに食いつぶされるという。
 まあ、キングゲイナーの方があらゆる面で上を行っている、というのは、その逆よりはいいことに違いない。ターンエーのあとじゃ、やりにくいどころじゃない気はするしさ。
 「三度目は喜劇」、か。それはそうと、OPでちっちゃいハロを差し出すいかにも頭弱そうなコが萌えですが何か。

・地球光/月光蝶
 ディアナ様しあわせ計画。ユニバース!
 木原敏江の何かのマンガに「ただ、それだけのことでありました」というのがあって、中島梓がそれをどこかで引用していたんだけど(何もわからないのと同じ)、そういうのを思い出しました。ターンエーについては、ただそういう連中がいて、そういうことをやった、という以上のことを付け加えるのは(解釈し意味付けるのは)不要におもえます。そうあった、というだけで充分すぎる。
 何かの同人誌の裏表紙で、ディアナとロランがその後、初の大陸自動車横断自動車レースに参加した(そのレースは完走率がえらく低かったし、かれらの順位もどうということはなかった)、みたいな一幕があるのですが、なんかあれはいいなと思った。出てくるのは、そういう話ばかりです。
 あまり関係ないですが、『マクロス ダイナマイト7』が僕は好きで、あれも「ただ巡るもの」だった気はする。

・アベノ橋のギャルゲー話
 どうでもいい。まあ「こういうネタをやった」というだけの。何かの既成事実のひとつとしてはいいかもしれぬが。

・アレクサンダー戦記劇場版
 語り手がピタゴラスだった。インドに行かなかった。

・炎多留 魂
 OPムビがあった。Kanonっぽくひとりずつ印象的なセリフを吐いたり、「幸せな日常」のスケッチが挿入されたりと、いきなりせつなさ炸裂。つうかOPも内容も普通のエロゲーなんですが。いや、かなり真面目に作ってる。ボーイズラブは数あれど真正ホモゲーは他になし、という矜持と使命感とユーザーの幸福への配慮が十全に詰まった一品、そのテの方には損はさせません。「幸せな日常」プラス「燃える展開」で、「To Heart」プラス「GREEN」くらいはいってるんではないかと。絵柄は馴れます。どいつもこいつもまっとうに頑張ってるので、ギャルゲの駄目っぷりをかえって痛感してしまいましたよいやはや。肉体関係に行き着かなければ、こういうのはマガジン辺りで腐るほどありそうな気もしますが。そのへんが分水嶺かのう。言紡師の書齋の過去日記を読みつつそんなことを考えたり。


久々に最近のアニメ
(Monday, 28-Oct-2002)

 安藤宏『太宰治 弱さを演じるということ』(ちくま新書)。結論からいうとかなり使えそうな本であった。太宰の「語り口」を考察のメインとする本書は、この作家が「ことば」と「対人距離」に誰よりもこだわっていて、しかもいかにそれらの問題系に対し意識的かつ戦略的に処したか(そして挫折したか)、を示しえている。
 面白かったのは太宰が、作家としての(イコール実生活としての)危機に瀕するたび「悲惨な過去」を「思い出す」(これはむろん、事実を思い出すのではなく、おそらくは自覚的にフィクションを語るのだ)という戦略で処したってあたりですが。現在の自分を明確に位置付けるために、説明するために、そうしたストーリーは召還された。ふさわしい過去を「思い出す」という戦略については、近頃のうちのギャルゲー話みたいでアレなんですが。いや、せいぜいギャルゲーのヘタレ系主人公とか、そういう程度のネタになんないかと思って読んだんだけど、それどころではなかった。太宰治おそるべし。
 
 新書のオビの文句が「もはや無頼派ではない」なんだけど、これはいかにまずい。というか今更すぎる。いまどき、太宰と安吾(『終末の過し方』で敷島さんが読んでたやつ)がなんでまた一とくくりなのかわからない、そういう読者の方が多いのではないか。というかそもそも無頼派って何よサントリーのウイスキー? てなもんではないかと。
 僕(たち)にとって太宰といえば、上遠野浩平であり、小谷野敦であり、法月綸太郎であり、西尾維新であり、あるいは秋葉凪樹であり、エヴァであり、ギャルゲーのヘタレ系主人公であり、フルバだ。いや、最後の二つは直接に太宰に言及しているわけではないけれど、あまりに太宰を想起させる。



 ところで、内田樹氏の日記でたまに太宰について言及があるのだがそれがたいへん面白く、僕としてはそのへんが気にかかっていた、という事情もあるのでした。というわけでメモリンク。
 2000/10/242002/3/112002/07/05

 以下は安藤書の知見を借りつつ。
 さて、言葉というのは他人との距離を測るものである(そのために使う)、というぐらいのことは、誰しもいうだろう。だがむしろ言葉は距離を「作り出す」ためにこそ存在するのではないか。距離が存在しなければ「自分」と「他人」の位置付けはできないし、そのためには両者のあいだに「へだたり」を作り出さねばならない。言葉はむしろそのため使われる。フルバ10巻の話のつづきをすれば、由希くんだって「いまはまだ透君には理解できない言葉」を選択しているに違いないのである。自分を必要としてくれる相手てのは、自分とは別個の存在でなければ意味がない。


安藤宏『太宰治 弱さを演じるということ』
(Friday, 25-Oct-2002)

 『アニメバイク本』という何やらムックみたいなのがあったので立ち読み。やっぱりアドラステア(つうかバイク戦艦)載ってるよ……。
 作品ごとのコメントが、バイク好きの立場からのもので、例えばサイバーフォーミュラのランドルについて「バイクを捨てたバイク乗りは没落あるのみ」なんてのがあって面白かった。説明しておくと、カール・リヒター・フォン・ランドルはバイクでは負け知らずだったのですが、サイバーフォーミュラに転向してからは肝腎な所で勝てないわ女にはふられるわという散々な日々を送りました。バイクを捨てる者に呪いあれ。だそうです。
 ガンマックスが載ってたので僕は満足です。今度買おう。

 村上春樹『海辺のカフカ』が今ごろ気になってきた。で立ち読み。最初の一行を読んでしまうと止まらない。ページから目をもぎはなして立ち去るのに苦労した。それにしても、村上春樹は信じ難いほど読みやすい。ギャルゲーやライトノベルはもう少し見習ってほしい気がするくらいに。

 エロゲと村上春樹といえば、
 astazapoteの終末の過し方評
 ONEレビュー
 あと、自分がつい三週間前に村上春樹に言及(麻枝准とエロ)したことをすっかり忘れてました。まあ、言及つっても大したことじゃないけど。

 ギャルゲーのノベライズが村上春樹風になった例として、神山修一『NOeL』(ニュータイプノベルス)を挙げることができるだろう。



(Thursday, 24-Oct-2002)

本当のところ、近年のギャルゲー=ライトノベル的なもの(新海誠を含む)に共通するあの叙情性の起源は、村上春樹と吉本ばななにあるのかもしれない。

 ここでやはり、麻枝准がコンプティーク連載のコラムにおいて『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に言及していたことに触れておきたい義務感にかられる。『ONE〜輝く季節へ〜』は同作抜きにはたぶん考えられないだろう。
 ただ、麻枝氏本人の反応を除いては、世界観や物語類型はともかく、抒情性について、村上春樹や吉本ばななとギャルゲーの近親性に触れた論は僕の記憶にない。そういう意味では面白い着眼かなと。『ONE』に関して村上春樹の名を挙げた最初期の物件としては亜蘭氏の論評もあるが、あれは世界観の話だったように思うし。

 ところで東浩紀はなぜ、Keyのゲームは「Keyのゲーム」としか言わないのでしょうね。剣乃ゆきひろや庵野秀明の名は出すのに。認知度の差といってしまえばそれまでだが。


村上春樹とギャルゲー
(Wednesday, 23-Oct-2002)

 高屋奈月『フルーツバスケット』10巻。自分自身にしか通用しない言い方で、しかも聞いてくれる誰かが必要なことはよくあって、言わんとすることはまだよくわからないにしても、彼が真面目なことはむしろ聞いている方がよくわかる。ありがとういつも俺の話を聞いてくれて、と由希くんが言うときの「話」はもちろん、そういう、自分に語り聞かせるためのモノローグ、自分にしかわからない符牒(蓋をあけるとかあけないとか)、自分にしか意味のない他愛ないこと(ネクタイを結ぶ早さがマシになってきたとか)、であるわけだ。そして話を聞くというのは理解するということではない。いや、別に何か言いたいわけじゃないよ。事実の確認。

 でも今回はどっちかといえば、今さら反省してもしょうがないしだいいち誰も聞いてない、そんなところで落ち込んだりしている燈路くんに萌え。頭悪い。

 しかし何だ、成長期だねえ。身長とか表情とか。どいつもこいつも。


フルバ10巻
(Monday, 21-Oct-2002)

 『嬌烙の館』終了。何度目かは忘れた。一時期は事あるごとにこのゲームを立ち上げその勢いで一周する、ということを随分とやっていた。だいたい、エンディングを見たらもう一度最初からやりたくなるじゃないかあれは。
 『嬌烙の館』の用語辞典のようなものがどこかにないかと思うのだが、見つからず。いっそ自分で作るべきか。しかし、境界条件だのインフレーション期の原始宇宙だのルベーグ積分だのをどうすればよいのだ。

 まあ、花狩人レキシコンみたいなものを作れたら、というのは夢ではある。およそ作品というのは、感想をいわれたり論じられたりするよりは、まず註釈がなされるべきであると思うのですが、こればっかりはある程度広い教養が要るからねえ。「評論」だの「考察」だのはモノ知らなくても(偏ってても)書けちゃいますけど。



(Sunday, 20-Oct-2002)

 『腐り姫』評が秀逸。くっそ、どうして思いつかなかったかなこれを(グレート巽)、な心境。つうかアレだ、こういう普通の解説が書きたいし必要だ。あと「メルンは可愛い」とか「特に尻」とか。ただ『嬌烙の館』については、ゲーム内で繰返されてきた「謎解き」のオチがどういう代物だったかを再考する必要があるだろう。それと「さよならを教えて」のアレはそもそもオチじゃないので、驚きを求めるのは間違い。単なる状況の呈示でしょう。終り方が全員同じってのは、どのように選択しようが結末にさしたる変化がないってのが作品のキモじゃないかなと。

 あと、「さよならを教えて」は、それこそ葉鍵系オタの萌え心性の正体を、主人公のモノローグとして身も蓋もなく語らせる、という代物だった気がするが。



(Friday, 18-Oct-2002)

 センチメンタルジャーニー#1! 少女のためのヴァイオリン・ソナタ!
 あとヴァイオリンといえば、ようこそようこ#41「雪のラビリンス」ですね。でもあの作品だとバイエルの方が印象的かなあ。
 Silver Moonの真琴シナリオとか。主人公はピアノ弾いてますが。
 『ハーメルンのバイオリン弾き』ではヴァイオリンはピアノに勝ってます。あれヴァイオリンって言うのは激しく間違っておるのですが。
 あとは小松由加子『機械の耳』(コバルト文庫)とか。
 そういえば『耳をすませば』観てない。
 『リトルモニカ物語』(RUNE)はどうなんだろうとか。
 海王みちるの名が即座に出てこなかったので鬱。あのレモンはないよなあ。中村明だし。


 ますたぁの日記から渡部雅弘氏の新作。ひゃっほう。
 ここで『SPARK!』における「海」と「戦争」のモチーフに言及したい誘惑にかられるのですが僕は『SPARK!』をまだ終わらせていないのでした。



(Monday, 14-Oct-2002)

 「こうした見方が最近では失効していること」の「こうした見方」というのは、「ギャルゲーで、主人公が主体的に物語を駆動していないことに、違和を覚えるような見方」のことです。「語り手と主人公が一致する常識」の方がむしろ特殊である、という点には同意します。他のメディアにおいては、いや、ギャルゲーの内部においてすら、こうした不一致はもともと最初から問題にならないはずです。にもかかわらずそれが『雫』という作品の欠点として問題にされたのは、まず作品によって当のその問題が立てられているからです。評家はただ作家のやったことを後追いしただけです。にもかかわらず『雫』という作品において(To Heartのマルチでもかまいませんが)、話者の立ち位置こそが面白い、という話は聞かないのが僕には不満だったわけです。『AIR』の国崎往人の立ち位置にはみんな注目するくせにさ。

 あと、『雫』も『密閉教室』も、話者=主人公は、事件に対し、主体的に参与する(進んで巻き込まれる)ことを決意しますが、ともに果たせずに終わります。まあ、それはそういう主題として受け取るべきで、作品としての欠点ではない、という以上のことは、とくに主張する気はありません。
 付け加えておくと、かれらがそうなるのは必然とはいわぬまでも当然で、そもそも物語が人間を動かし或は役割を振るので、人の意志に物語は従属しません。主人公とは物語にそのように選ばれた者のことで、主人公が物語を牽引したり駆動したりする、という言い方は逆なのですから。


 尾崎翠(おさきみどり)全集が市内の本屋に見つからずそこはかとなくしょんぼりしていたのですが、ちくま文庫の新刊に『尾崎翠集成(上)』があったので買って帰りました。神様ありがとう。同新刊にはマンスフィールド短篇集の帯にも惹かれたのですが、これは見送ることにする(後日、新潮文庫のやつを買った)。
 曽我さんとこの掲示板を参照。僕としては何も付け加えたくないのです。



(Sunday, 13-Oct-2002)

 『雫』のトゥルーエンドのラストに置かれるのは長瀬祐介の涙の「雫」なのですが、そのシーンの意味はあまり問われません。まさか現実に戻ってきて(というか現実が彼に戻ってきて)安堵の涙を流しているわけではありますまい。その直前には印象的なシーンがあって、彼は、藍原瑞穂が彼女の知り合いと笑いさざめきながら歩くのをまるで見知らぬ間柄のように見送ることになります。おそらく事件の終りは彼女たちとの関係の終りでもあるでしょう。世界は色を取り戻していて、それはいいことに違いないのだけれど、彼はもう治っているのだけれど、そのことが淋しい、ということはあると思います。もちろん直接的には瑠璃子さんを去らせてしまって彼はひとり取り残されている、ということですが。
 ひところは『雫』の作品的な欠点として、物語の主役がヒロインとその兄であって話者=主人公ではない、ということを挙げる意見をよく見かけました。現在でも参照できるテクストはこれくらいですが。厳密にはこいつはそういう言い方にはなっていないんだけど、適当なのが見つからなかったのです。実際のところ、話者とドラマの主役が別であることくらい当り前で(『新興宗教オモイデ教』だってそうなっています)、探偵が事件の当事者ではないという程度のことをことごとしく言い立てるのもどうかと思いますが、それはともかく、僕にはこうした見方が最近では失効していることの方が面白い。つまり、いまどき、ギャルゲーの主人公が物語を牽引していない、という程度のことは、あまりに当り前で、意識にさえのぼらない。かもしれない。さらにいえば、ギャルゲーを駆動するのが徹頭徹尾「女の欲望」である、というのも、もはや当り前でしょう。『鬼哭街』なんかはむしろその典型だと思います。あと、シスプリには妹の欲望しか描かれないといっていい。
 僕は、「傍観者でしかあれない」ということ「彼女の物語は自分のものではない」ということ、それを受け入れ「断念」する態度、をこそ主題として、あのトゥルーエンドは読み取かれるべきだと思います。なんだか大塚英志の「ほしのこえ」評みたいになってしまうのですが。そして、こうしたことが主題化されること、言い換えれば話者=主人公たる男の子が物語の異物として意識されること、というのは、たぶんもうないんじゃないでしょうか。


雫と語り手2
(Saturday, 12-Oct-2002)

 単なる字面からの連想でいわせてもらえば、真琴シナリオは意地悪である、という気は確かにする。いやつまりプレイヤーに対してね。真琴には感情移入すべき内面がないわけです(だからかわりに美汐さんが感情移入すべき女の子として補充されるわけです。ギャルゲーですからね)。存在できる言葉が祐一のモノローグしかない。あと、なぜ祐一がその物語に巻き込まれたか、ということには、真琴シナリオに入ってからでさえ、とくに満足すべき理由はないわけです。そんな経験が発端になるとは誰しも思わない、何か自分だけ特別なことをしたというわけではないのに、そんなことが原因になってしまう。それは事後的にしか決してみつからないような原因だし、そんなものが原因になるなら、自分だけがそんな目にあうのはおかしいわけです。主人公にはなんと言うか固有な理由とか動機とかいうものがない。偶然的というか、確率論的に物語が存在してしまうし、いちどそうなったらとりかえしがつかない。どうもこのへん(ソルジェニーツィン試論のあたりまで)を思い出すわけですが。あと「写生文的認識と恋愛」がどうも「フラグが立っちゃったか」みたいな話に見えてしょうがない。それにしても「確率の手触り」ってのはえらい言霊ですな。こういう感想は書いた当人は嫌がるだろうけど。

 確率論的とかそういう言葉を覚える前は、死エロの「ある出来事の、その当事者にとっては知る由もない因果関係が、不意に浮かび上がることに快感を覚えるから。ちょっと違うか。えーっと、いい悪いに関係なく、ある事象は振り返ってみると何らかの意味を「帯びてしまう」ことは避けられない、ってスタンスでものを考えたがる…と言った方がいいか。《認識-意図-行為-結果の連続性》がモロ見えなのは凄い嫌だけど、なんでこれが繋がっちゃったんだよぉって理不尽が、ある《連続性》の中で再現されるのは好きというか。」というのがまるきり真琴シナリオの話にしか見えなかったのですが。あとソフォクレス『オイディプス王』とか。ただ後者は予言が存在するがゆえに固有性を帯びている。


真琴率
(Friday, 11-Oct-2002)

 『まもって守護月天!!』ってのはまるきり女の子の側の物語ばっかりなんですね。いや作者が女なんだけど。「物語がなければ間がもたない」といったのは確か小谷野敦だったと思うが、男の子のための願望充足として始まろうが、女の子ばかり描いていれば女の子の物語になるわけであるが、それは単に一定の長さを持ってしまえばそうでもしなければ間が持たない、というだけのことではある。



(Thursday, 10-Oct-2002)

 88本でした。



(Wednesday, 9-Oct-2002)

 あなたは今日の事件で自分こそ主役みたいなつもりでいるんでしょうね。それが馬鹿だというのよ。あなたは最初から最後まで舞台の縁をうろつくだけの脇役にすぎなかった。狂言回しの道化なのよ。もしかしたらあなたは今日という一日から何か貴重なものを学び取ったと思い込んでいるかもしれない。たぶんそうにちがいないわ。でもそれは大きな誤解なのよ。道化は何ひとつ学ぶことはないわ。ただ傍観するだけ── 
──法月綸太郎『密閉教室』

 僕としてはここで『雫』の話をしておきたい。詳しい議論は省くがギャルゲーにおいて物語を所有するのは(あるいはどういう物語かを決定するのは)ヒロインである。主人公の内面は「どのヒロインを選んだか」によって形成される。ただ、この場合は、「もし彼が物語に参入するならば」という留保をつけねばならない。
 ようするにギャルゲーで物語が語られるとき、それは当然、複数のヒロインがそれぞれ固有の/に物語の主人公になる、という事態になる。つまり、ふつうギャルゲーの「主人公」とよばれる、形式上プレイヤーが同化すべき位置にある視点人物たる男性キャラはむしろ「語り手」(狂言回し)である。そしてこれを単なる語り手に終わらせないための詐術が、たとえば主人公の過去をヒロインを選んでから決定する、という方法だ。ではこうしたトリックを用いず(なんか語り手=犯人みたいなミステリに似てないかこれ)に、しかもギャルゲーである、とすれば、どういうことになるだろうか。

 当然だが語り手と主人公は往々にして別の人物である。往々にしてというかむしろその方が普通かもしれない。ワトスンとホームズとか。
 例えば『白鯨』だと当然、物語はエイハブ船長のものであってイシュメイルは語り手にすぎないわけだ。というかイシュメイルは語り伝えるために生き延びさせられるので、エイハブ以下乗組員のすべては悲劇のカタストロフの成員であれるのだが、彼だけは最後に物語から占め出される。こういう見方がどの程度一般的なのかは心許ないのだけれど。
 ここで一応、語り手と語り部を区別しておく。語り手は語られる出来事の登場人物の一人であるが、語り部は外部にいる。例えば宮澤賢治『オツベルと象』の「ある牛飼い」は語り部である。もちろんひとは、自分自身の昔話でさえ、透明な語り部として語ることはある(もちろん、これはたとえばなしです。といったふうに)。だからこれは語り方のスタンスの差だ。まあこのへんは今のところどうでもいい。

 えーと、それで『雫』の話になるのですが。長瀬ちゃん=語り手、瑠璃子さん=主人公ね。あるいは『To Heart』だと、マルチが主人公で浩之ちゃん語り手。ヒロインとの別れのシーンを思い出すとこの両者はとてもよく似ていると僕は思います。こうして人は作家を発見した気になるわけです。
 『雫』のヒロインは実質的には瑠璃子さんひとりといっていいし、ストーリーも、一つの事件の全体像をめぐって終始する。しかし『雫』は、物語がつまり少女(たち)の物語としてしか語られない、という点ですぐれてギャルゲー的です。もちろん、長瀬ちゃんはやや特異な個性の持ち主といっていいように思うけれど、これは特殊であっても固有ではない。一般的形質に入ると思う。妄想癖があって電波の力があって疎外感を持ってさえいれば、まあ誰だっていい。例えば、それまでどこでどんな風に生きてきたのかは問われないわけです。『白鯨』は田中西二郎訳だと「まかりいでたのはイシュメールと申す風来坊だ」と始まっていて、語り手の来歴というのは問題にならないわけです。一方で、エイハブ船長や瑠璃子さんの来歴を問わない、というわけにはいかない。なんだか凄い名前の並び方ですが。

 通常の学園恋愛の範囲内ならかまわないのですが、マルチだの瑠璃子さんだのといったレベルの話になると、長瀬ちゃんだの浩之ちゃんだのはもう、傍観者の域を出られない。『雫』の長瀬ちゃんが「探偵」であるのはもうできすぎている。探偵は事件の当事者ではない。

 ちょっとここで中断。そのうち続きを書きます。


雫と語り手
(Tuesday, 8-Oct-2002)

つーか、ゲームシステムが父性の役割を果たしてるって話は死エロでやってたじゃんか。

 ああなるほど、そうつながるのか。

 あと付け加えておくと(というか僕としたことが引用し忘れていた)、astazapoteの00/02/16に次のような記述がある。

……このように言えば、僕がギャルゲーという語で指し示しているのが、そこそこ良質の恋愛「SLG」に仕上がった『ときめきメモリアル』ではなく、東西南北どこから見ても「ギャルゲー」としか呼称しようのない『センチメンタルグラフティ』である事は明らかだろう。……
……第二に、主人公が女の子との思い出を最初はすっかり忘れていて、デートを重ねるごとにそれを思い出してゆくという展開。これも子供時代の記憶を呼び出して「せつなさ」を演出することが主眼なのでは決してなくて、ギャルゲーの主人公(プレイヤーキャラクター)が初めは誰にも惚れておらず、プレイヤーの選択を反映して徐々に内面を形成してゆかねばならないというシステム上の制約を受けて導入された物語だと言うべきだろう(なお、そのうち論じようと思う『Kanon』はこの点に関するもっとすごい徹底化の事例だ)。

 それにしても、ついうっかり「誰が言ったかとかいちいち言及しなくてもいい常識」に思わず登録したくなるような名調子だ、そうは思わないか?(言い訳) これが失錯行為ってヤツか。
 あと、上に引用してない個所もastazapoteは必読だから、うちの読者におかれましてはみんな読むように。お願いだから。

 もちろん、『フォークソング』のようなオムニバス形式が、ギャルを複数出しつつ不自然さを避ける意味では、いちばん普通のやりくちなのですが、これは難しい。単純計算でキャラが倍になってしまう。

 コレも。
 ややずれるがこんなのもあったなあ……。



(Monday, 7-Oct-2002)

 その昔イースRPG(テーブルトーク)というのがあって、このなかには「ヒロイン」とかそういう職業があったように思う。凄いのはレベルがあがると「出生の秘密」を獲得できる(実はどこそこのお嬢様だった、とか)ことであり、さらにレベルが上がると「第二の出生の秘密」(実はどこそこのお姫様だった)を得ることができるのである。いいかえればそこでは、キャラにとっての「成長」「変化」とは「思い出す」ことにほかならない。

 少し前にDALさんがご自身の掲示板に、ギャルゲーの主人公(男)は「成長」も「変化」も不可能でただ「思い出す」ことしかできない、それはギャルゲーの、ヒロインごとのシナリオに分岐せねばならぬ構造に起因する、だからたとえば「父性の欠如」なんてのも、シナリオ内部(テクスト)の水準ではなく、ゲームの構造の問題としてとらえるべきだ、みたいな話を書いてまして。たとえば「成長」を多少でも描こうとするとONEみたいな「同じ話が6つ」になってしまう、とか。このへん読者のみなさまが自身で同掲示板を参照していただかないとちょっとアレなんですが。

 かといって一本道で主人公の成長を描きつつ、複数のヒロインを配す、となると、ヒロイン一人あたまの相対的な重さが減るわけです。王道勇者とか。だいたいいまどきウィルヘルム・マイスターでもなかろうし。ミニヨンは萌えですが。

 ギャルゲーにもっともふさう主人公は、「選んだヒロインによって自身の過去が決定する」のでなければならない。一方では、物語の冒頭でプレイヤーとの情報格差をなくし、他方では、他ならぬそのヒロインとの固有の物語に参入したと信じさせなければならない。
 これをわかりやすくやったのがKanonのいくつかのシナリオである(そこにはほとんど、現在によって過去が決定される、という因果律の逆転を物語内部にとりこむ姿勢さえ見られる)。先駆として「センチメンタルグラフティ」を挙げることもできるだろう。あと「夏祭」(ディスクドリーム)には、思い出を選択できるシステムが搭載されていたような気が。また転生モノのたぐいでは、「ヒロインによってそれぞれ異なる前世を思い出す」という方法もありうる(『sense off』?)。『みずいろ』が、幼年期からいきなり分岐してしまう構造を採用したのは、こうした奇妙さを回避したためだろう。
 これはもちろん、マルチヒロインでマルチシナリオでかつ一ヒロインにつき一物語、という形式のギャルゲーに話は限られますが。

 そういう文脈で、水月はそのうちやらなければならないのですが。セングラのとき、ヒロインごとに色々な過去を思い出してみせる彼にぼくらは笑ったけれど、今やそのコンセプトはとんでもない怪物を生み出した! みたいなレビューはどっかに落ちてませんかね。


「思い出す」
(Sunday, 6-Oct-2002)

 『退屈論』(弘文堂)読了。なんでも「シリーズ生きる思想」とやらの第一巻であるそうだ。
 小谷野敦がこんどは「退屈」を発見した。男の恋とかもてない男とか片思いとか軟弱者とか、いろいろなものを発見する人である。この人の書くものはいつだって「不当に無視ないし軽視されているもの」をとりあげる。
 「われわれは何を知ろうとしていないか」ということ。あるいは「自分たちの解釈に逆らうもの」の存在。こうしたものを教えてくれないなら、他人の書いた物を読む理由などないのである。

 さてこの本は人間にとって、とりわけ現代の人間にとって、退屈がいかに根源的か、退屈はいかに避け難いか、退屈はどんなことをしでかすか、ということを教えてくれる。それだけでなく「文学者はなぜ政治的な発言をするようになるのか(なったのか)」「古代において神聖娼婦が存在したのはなぜか」といったこともわかるしくみになっている。というか、面白い仮説を提供している。とりわけ後者はやはり「人々が何から目を背けていたか」という話で、いい意味で身もふたもない。

 「退屈(の本質)とは何か」ということにはあまり触れていない(と思う)ので、たとえばレヴィナス『実存から実存者へ』の最初の疲労と怠惰についての考察、のような思弁を期待してはいけません。近年の小谷野敦は実証と論理の人ですから。大胆な仮説を恐れない人でもありますが。

 でもやっぱり、文学を主題とした作品の方がずっと面白いと思った。いいかげん『聖母のいない国』買わなきゃなあ。以前日記で言及した「赤毛のアン」論とかが入ってるやつです。タイトルについて説明しておくと、これはユリイカでの北米文学についての連載の単行本化で、プロテスタントでは聖母マリア信仰は少ないことからこの題名になったと思われます。というか毎日新聞の三浦雅士の書評にそう書いてありました。


退屈論
(Friday, 4-Oct-2002)

 むしろ麻枝准はエロに頼りすぎなのだ。あるいは、(フィクションにおいて)性行為は何かしら決定的なものである、という通念(たとえば「復活の日」の原作と映画を見比べてみたまえ)に。18禁シーンを削った(だけ)のコンシューマー移植が、それゆえにいくつかのシナリオにおいて強度を欠いている、というのは当然である。
 CLANNADが最初から全年齢対象として作られるとしたら、期待してます。
 以上短いバージョン。長いバージョンは下。


 以前にはONE/Kanon/AIRについて、エロ抜きでは面白くない、みたいなことを書いた気もするのですが、僕としては、単に削るには惜しい(これはつまるところ、麻枝准の書いたものなら何でも好き、という程度のことですが)のと、いちど出来上がった作品に対して、種々の要素を足したり引いたりしてしまえるのが当然のように論じられることがどうにも嫌だった。それがエロゲーという市場に強制されたもので、作品に本来的なものではない、という言い方も、だからなんだ、と思う。どのみち麻枝准は第一に客受けを考えているはずだ。ただ受け手の要求を過度に高く見積もっているせいで作家性じみたものが滲み出てしまうように思う。客を喜ばせるために自分の全てを注ぎ込んだ結果そうなるのである。彼の作品のあらゆるパーツはただひたすら受け手へのサーヴィスであり、エロシーンだけが特別にそうであるなわけではない。エロが不要というなら、ついでにあの口癖も不要なら、そもそも神尾観鈴が少女である必要もないではないか。どうせならそこまで言うべきなのだ。だがかれらは、エロは要らないといいつつも、少女のかわりに中年オヤジ(夢枕獏『上弦の月を食べる獅子』の螺旋蒐集家)や、さえない教育実習生(『さよならを教えて』)であってもかまわない、とは言わないだろう。やってることは大して変わらないはずなのだが。言っておくけど僕も言わない。僕は女の子の言うことじゃないと信じないよ?
 だから、既に出来上がった作品に対し、おそろしく恣意的に「このへんは不要」と言ってのける態度には否定的ですが、CLANNADがどのように製作されるか、に関しては、「こういう(18禁というかエロ)要素がなければいけない」と言うつもりはない。むしろ期待している。
 私見では、これまでの麻枝准のシナリオは、むしろエロつうかセックスに頼りすぎている。それは決定的なシーンを演出するのにあまりに便利だし、「このへんが決定的な重要なシーンですよ」という指標としても便利だ。でなくとも、なんとなくメリハリがついちまう。実際、真琴シナリオのそれなんて、エロゲーでもなきゃ陳腐とさえいっていい(山田太一『飛ぶ夢をしばらく見ない』とか)。ああ、やっぱりこのへんでこうなるのか、ってなもんだ。AIRはほとんど村上春樹的な「他にどうすればいいのかわからないからセックスする」(「ノルウェイの森」の最初のへんにそんなのが。原型となった何とかという短編にもありますが)に近いっちゃあ近い(かのりんは別)。まあそれは別にかまわないのだが、「死」や「性」がいつもセットで出てきて何やら下手にブンガクっぽく見えてしまうのが気に入らなかったりもする。最後のへんは考えすぎなんですが。


麻枝准とエロ
(Thursday, 3-Oct-2002)

 いきなりですが『娘^3動物園』リンク集などを作成してみました。あんまり気合入れて作ってないんですが。いや、ここになかったもんだから。
 リンク先が日記の場合、言及はリンク先以外にもあるので、適当に前後もあたってみることをおすすめします。ご利用なされるなら。

ますたぁの日記。いいこと言うなあ。
ばるさんの日記。いい意味で標準的なのではないかと。総評はこっち
JAGARLさん
曽我さん
・検索エンジンで見つけたcoatyさん日々の備忘録に『青い鳥』『SPARK!』『微熱情熱』への言及もあり。ぱんだはうすファンのポータルサイト?
エロゲー批評空間。少なっ。
・2chぱんだはうすスレ。


『娘^3動物園』リンク集
(Wednesday, 2-Oct-2002)


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